「春よ、来い」1995・2011

以前に井上陽水の「傘がない」のことを書いた。もう1曲、僕にとって特別な曲がある。松任谷由実の「春よ、来い」。この歌について書いてみたい。

1995年の阪神大震災だった。

時間が、1月17日の、あの瞬間で止まってしまったようだった。色彩が消え、音が消え、灰色の冬が延々と続いていた。永遠に春が来ないような気がしていた。地震から何週間か経ったある朝、あの「歌」がテレビから流れてきた。

1995年1月17日5時46分。

前日の夜、猪名川周辺で小さな地震があった。テレビの画面に地震速報が出るだけで揺れは感じなかった。前年の暮れに群発地震があったエリアである。寝室にしていた和室の壁の2面を天井まで覆っている重い本棚を見ながら「今、大きな地震が来たら。俺たち死ぬな」「本棚、壁に固定しなきゃ」と語りあった、その翌日だった。

「やっぱり!」

その瞬間、寝床から飛び起きて「やっぱり」「これで死ぬ」と思った。隣で家人がこれまで聞いたことがないような野太い声で叫んでいた。前後2列でぎっしり本を並べていた6本の本棚がガッサガッサと揺れ、一斉に倒れてきた。手で支えようとしたが、支えられず、そのまま下敷きになった。真っ暗な家の中のどこかで水の流れる音がしている…。「足が動けへん」と家人の声。なんとか本棚の下から抜け出し、家人を助け出そうとするが、暗闇の中で、何がどうなっているのか分からず、本棚を起こすことができない。洗面所に懐中電灯があったことを思い出して、取りに行こうと廊下に出ようとした。しかし部屋を埋め尽くした本で襖が開かず、足で蹴破って廊下に出た。洗面所は棚から落ちた物が散乱し、懐中電灯は見つからなかった。水の音は落ちてきた物が水栓のレバーを押し下げて、水道が流れていたのだ。仕方なく、部屋に戻って暗闇の中で家人を本棚の下から掘り出した。二人とも若干の打身以外は怪我もなかった。本棚が倒れてくる前に本が降り注ぎ、本に埋もれた上に本棚が倒れてきたため、怪我を免れていたのだ。懐中電灯が見つかり、部屋の中を恐る恐る照らしてみた。食器棚がダイニングテーブルに倒れかかり、中身は全滅。冷蔵庫は倒れずに、数十センチ飛び出し、上に載せていた電子レンジは2m以上飛んでいた。リビングのテレビは台から落ちて、画面を下にして転がっていた。寝室にしていた6畳の和室は床から30〜40cmの高さまで本で埋まっていた。「とりあえず水を確保」と、バスタブいっぱいに水を貯めた。しかし、しばらくすると水が止まった。屋上の給水タンクが空になったのだろう。電気は止まったままだ。パジャマの上にコートを羽織って、外の廊下に出た。扉の外はガスの臭いが漂っていて、どこかでガス漏れが発生しているのだと思った。ガスの元栓を閉め、玄関ドアは開いたままにして、外に出た。

マンションの壁面には✖️形のヒビがあちこちに見られた。階段を使って下に降り、建物の外に出ると、マンションの住民たちが数家族、建物が少し離れた場所に固まっていた。住民の一人が「烈震らしいですよ」と言った。「ちょっと怖くて部屋に戻れないですね」「この辺の避難場所は、そこの小学校ですよね。」などと話しながら、なんとなく小学校の方に向かう。途中、携帯電話を持っている住人から電話を借りて、夫婦両方の実家に電話をかけて無事を確かめ合うことができた。(当時、携帯電話を持ってる人の方が少なかった)小学校は、当然ながら門が閉まっていて、中に入ることはできなかった。周囲が明るくなってきて、誰からともなく「戻りましょうか」ということになって、マンションに引き返した。部屋に戻って、あらためて家の中を見回してみると、どこから手をつけていいか、わからないほど、モノが壊れ、散乱していた。しかし、こういう時になると、なぜか冷静になって、片付けの手順を考えている自分がいる。「まず、安全な場所をつくろう」「ガラス類を先に片付けて、ケガをしないようにしよう」などと片付けを始めた。午前の早い時間に電気が回復し、テレビをつけた。最初は、名神高速豊中だったか吹田だったかのゲートの施設が壊れたという周辺の情報しか報道されなかった。神戸の映像が出てきたのは、しばらく経ってからだ。ヘリから撮影した、横倒しになった阪神高速神戸線、あちこちで発生している火災。画面の中と家の周囲の両方でサイレンがひっきりなしに鳴っていた。すべてのチャンネルが地震だけを伝えていた。テレビCMが消え、ドラマも、バラエティ番組も消え、神戸の映像だけが流れていた。

世界から色が消え、音が消えた。

その日の夜は、隣の小学校に避難し、近所の人たちと一夜を明かした。寒さと恐怖でほとんど眠れなかった。翌日は、三田市の妻の実家に疎開した。戻ってからは、後片付けと不眠の日々。小さな余震でも目が覚めた。眠っている背中を突き上げる激しい地震の夢を何度も見た。我が家は、心地よい安息の場ではなくなり、不穏で危険に満ちた異境になった。時間が、1月17日の、あの瞬間で止まってしまったようだった。色彩が消え、音が消え、灰色の冬が延々と続いていた。永遠に春が来ないような気がしていた。

朝、あの歌が聴こえてきた。

地震から何週間か経ったある朝、あの「歌」がテレビから流れてきた。その瞬間、「そうか、地震からこっち、ずっと音楽がなかったんだ」と気づいた。NHKの朝ドラのの主題歌だった。乾ききった大地に雨が吸い込まれるように、身体の細胞一つひとつに音楽がしみ込んでいくような感覚。後にも先にも、音楽がそんな風に聴こえてきたことはない。その瞬間から、その曲は、僕にとって特別な歌になった。

聴こえてきたのは、NHK の朝の連続テレビ小説「春よ、来い」の主題歌「春よ、来い」。松任谷由実の歌である。ドラマは橋田壽賀子の自伝的なストーリーだった。この歌の何があのような体験をもたらしたんだろう。歌詞の言葉は、ドラマに合わせてレトロなイメージを醸し出すように文語調で書かれている。恋の歌である。地震とは何の関連もない。唯一関連があるとすれば、「春よ、遠き春よ」という一節。地震の後、僕の中には、「この寒々とした灰色の季節が早く終って、春が来て欲しい」という切実な思いがあった。歌はそこにぴったりとはまったのかもしれない。今でも、この歌を聴くと、地震のあとに聴いた時の感覚が蘇ってくる。まだ寒い早春に、陽だまりの中でまどろんでいるような気分になる。しかも他のアーティストのカバーで聴いても、ほぼ同じような感覚になるのが不思議だ。お気に入りは槇原敬之と森山良子。オリジナルのユーミンの曲では、歌が終わったあと、しばらくして童謡の「春よ来い」の一節が、とても小さな声で歌われている。

あの時、「春よ、来い」を、僕と同じような思いでこの歌を聴いた人がいたのかもしれない。東日本大震災のあと、ユーミンNHKと共同で、この曲を使った「みんなの「春よ、来い」プロジェクトを実行した。曲の最後の童謡版の「春よ来い」の部分のコーラスの動画を一般募集し、その部分を重ね合わせた新バージョンをインターネットで配信し、その収益を被災地支援に全額寄付するというもの。

毎年、年が明け、しばらくすると、この曲が聴きたくなる。そして4月の半ばまで、この曲を含むプレイリスト「サクラ」を聴くことにしている。