映画「ノマドランド」

こんなに寒々とした映画だったのか。

Hさんがレビューを書いていたので、興味を持ち、Amazon Prime Videoで視聴。米国では2008年のリーマンショックにより多くの高齢者が自宅を失ったという。その多くが自家用車で寝泊まりしながら、仕事を求めて全米各地を漂流している。余暇やリタイヤ後の楽しみとしてのオートキャンプなどではなく、職や家を失って、車上生活に追い込まれた人々。この映画は、そんな彼らの生活を描いたジェシカ・ブルーダーのノンフィクション「ノマド:漂流する高齢労働者たち」を原作に製作された。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第93回アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞を受賞した。

主人公のファーンは、夫を亡くした後、ネバダ州のエンパイアという町で臨時教員として働いていたが、町の工場の閉鎖により、仕事と家を失ってしまう。彼女は自分のバンに最低限の家財道具を積み込み、仕事を求めて放浪する旅に出る・・・。

息を呑むほど美しいけれど。

主人公がめぐる全米各地の風景が息を呑むほど美しい。映画館の大画面で観たかったな。その大部分は荒野や砂漠で、美しいのだけれど、荒涼としていて、彼女の心象を映し出しているかのようだ。描かれているのは様々な季節だが、映像は全体に寒々としていて、この映画の硬質なトーンを作り上げている。彼女は、アマゾンの配送センター、ファストフードの厨房、工場などの日雇い労働者として働きながら各地を移動してゆく。宿泊するのはオートキャンプ場や駐車場など。仕事は過酷で賃金は安く、不安定な日々の連続だ。キャンプ場の料金が払えなくて、値引き交渉をしたり、工場の駐車場で無断で車中泊をして追い出されたり、車が故障して、修理代が払えなくて、長く会っていない姉にお金を借りに行ったり、車上生活にも様々な苦労がある。ファーンは行く先々で同じような境遇の「ノマド」たちと出会い、彼らと助け合いながらも、孤独な放浪を続けていく。姉や出会った仲間の一人に一緒に住もうと誘われるが、彼女はそれを振り切って旅に帰ってゆく。スーパーで出会ったかつての教え子に「あなたはホームレスなの?」と聞かれると、ファーンは「いいえ、私はホームレスではなく、ハウスレスよ」と答える。家は失ったが、ホーム(故郷?旅?)はちゃんとあると言いたかったのか?

過酷だが、救いもある。

僕はこの映画を観ている間じゅう、居心地が悪い気分にとらわれたままだった。60代と思われる主人公が、夫とも死別し、仕事も家も失い、流転の労働者となって生きていく姿は、あまりに生々しくて、見たくないものを無理矢理見せられているような感覚だ。唯一の救いは、主人公も、他のノマドたちも、希望とプライドを持ち、懸命に生きていることだろうか。それと彼女が行く先々で出会う大自然の美しさ・・・。さらに、そこが米国らしいのだが、ノマドたちの間に自然にコミュニティが生まれ、リーダーらしき人物もいて、互助の仕組みが機能していることだろうか。米国特有の「モーターホーム文化」の伝統がノマドたちの受け皿になっているのかもしれない。日本でもコロナ禍で仕事や家を失い、車上生活をする人が増えていると聞くが、米国のようなモーターホーム文化や、コミュニティは存在しないから、実態はもっと悲惨だろう。

日本のノマド文化?西行芭蕉山頭火・・・。

映画の中で、主人公が一人でどこまで続く一本道をドライブしている時や、誰もいない大自然の中にポツンと佇んでいる時、どういうわけか、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」と尾崎放哉の「咳をしてもひとり」の句が浮かんできた。ノマドって、日本でいうと、ひょっとして西行芭蕉円空、新しくは山頭火、尾崎放哉なんかの「漂泊」?あるいは四国遍路のような巡礼の旅?上野千鶴子先生によると山頭火に憧れる団塊オヤジの「野垂れ死に願望」は自分の老後に向き合うことができない男たちの甘えに過ぎないという。定年になって、山頭火の全集を買ったり、円空仏ツアーを目論んでいる僕には耳が痛い。年老いて一人になり、さらに仕事や住む場所まで失ったら、僕は、ファーンのように生きていけるだろうか。

都内のバス停で撲殺された60代女性を思い出した。

この映画を観ていると、いろんな連想が浮かんでくる。昨年、都内のバス停で殺された60代のホームレスの女性。スーパーなどの試食販売で暮らしていた彼女は、コロナ禍で仕事がほとんどなくなり、路上で生活していた。深夜、渋谷区のバス停で休んでいるところを暴漢に襲われ亡くなった。数日後、近所に住む46歳の男が出頭し「邪魔だった。痛い思いをさせればいなくなると思った」と供述している。彼女が亡くなった時の所持金は、わずか8円だったという。彼女には、寝泊まりするクルマすらなかったのだ。一人暮らしの高齢者が職も家も失ってホームレスになることは現在の日本では珍しくない。彼らの置かれている状況は、米国よりもさらに厳しいかもしれない。原作になったジェシカ・ブルーダーのノンフィクション「ノマド:漂流する高齢労働者たち」も読んでみようと思った。

岸 政彦「ビニール傘」

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前回エントリーのエッセイ集「大阪」は、今までにない切口の大阪が描かれていて新鮮だった。著者のひとりであり、社会学者でもある岸氏の小説も読んでみることにした。「ビニール傘」とは思い切ったタイトル。本書にはもう一編、「背中の月」という中編が収められている。

舞台は、「大阪」で描かれたような、港区、此花区大正区といった、都心に近いが、どこか殺伐とした街。導入部は、タクシー運転手の「俺」が、ユニバで客を降ろした帰りに、若い女を乗せるところから始まる。しかし、そのままストーリーが展開していくのではなく「俺」が、タクシー運転手の「俺」から清掃作業員の「俺」、コンビニ店員の「俺」へと変化していく。女を見つめる「視点のリレー」とでも言ったらいいか。さらに日雇い労働者の「俺」、派遣社員の「俺」へと次々に変化しながら、女と関わっていく。女の方も、同じ人物とは言えないようだ。コンビニ店員の「俺」は、女の様子から、地方から出てきて、酉島(とりしま)あたりのワンルームマンションに住んで、最近増えているガールズバーか、居酒屋のチェーンか、安いサービス業のアルバイトをしているのだろう、と想像する。想像はさらに膨らみ、女の部屋の様子や投げやりな生活のディテールにまで広がっていく。日雇い労働者の「俺」は近所のマクドで女と出会い、派遣社員の「俺」は女と暮らし始める。「俺」も「女」も一人ではなく複数の存在として表現されている。しかも名前すら与えられていない。大阪ならどこにでもいそうな「ありふれた人物」として描こうとしたためだろうか。しかし、コンビニ店員の「俺」が想像する女の部屋の描写はディテールを極めている。以下引用「部屋の真ん中には小さな汚いテーブルがあった。その上には吸い殻が山になった灰皿と、携帯の充電器と、食べかけのジャンクフードの袋と、なにかわからないドロドロした液体が入っているパステル色のコスメの瓶で溢れかえっていた。」引用終わり。このような描写がさらに数行にわたって続くのだ。男が想像する女の部屋の描写としては克明すぎないか。そして、この描写は、そっくりそのまま、後半部分の語り手である女性の数少ない話し相手で自殺する女性の部屋の描写としてコピペされているのだ。都会ならどこにでもいそうな無名のありふれた若者たちの荒涼とした生のかたち。ストーリーではなく、シーンの断片のような文章を重ねていく、ある種の詩のような手法がよけいにそう感じさせるのかもしれない。

テーマは「孤独」と「終末」。そして、あの歌。

本書のテーマは孤独なのだと思う。故郷とのつながりも切れ、都会に出てきて、誰と繋がることもなく、牢獄のような小さなワンルームマンションで暮らす若者たち。彼らが暮らす大阪という街も、かつての賑わいや勢いが失われ、壊れていこうとしている。そして登場人物たちの世界のディテールは、コンビニやマクドユニクロや回転寿司など、チェーン店や大量生産の安い商品や安いサービスで成り立っている。「食べ残しのカップ麺」は、本書のキーアイテムの一つである。さらに、およそ文学的な素材になりえないような「ビニール傘」が、この作品では二人の関係を鮮やかに象徴するアイテムになっている。どのように出会ったかも思い出せない二人は、普段のデートのように「またね」と別れることで、その関係を終わらせてしまう。恋愛関係すらも希薄化し、人々のつながりが失われていく時代。最後の方で、雨の淀川を散歩する二人を包む透明な「ビニール傘」の美しさが愛おしい。本書を読み終えて、井上陽水の「傘がない」という歌を思い出した。ありふれた何の変哲もない「傘」を題材に、社会や親しい人から切り離された若者の閉塞感と孤独を表現した初期の傑作である。

もっと小説の方へ。

もう一つの作品「背中の月」は、より小説らしくなってきている。「ビニール傘」と違い、主人公である「俺」は独りの人物に集約され、女性の方も美希という名前が与えられ、二人は結婚もしている。「俺」はIT系の会社に勤め、美希はデザイン会社で働いている。二人は環状線大正駅近くの2DKのマンションを借りて慎ましく暮らしていた。しかし、読者は、小説の冒頭から、美希がこの世にいないことを知らされる。美希がいなくなって「俺」の生活は、少しずつ壊れていく。いや、美希が生きていた時から、崩壊は始まっていた。俺の会社は、東京の大手との競合に敗れ、リストラの話が持ち上がっていた。美希の働くデザイン会社も業績が悪くなり、彼女の手取りも少なくなっていた。大阪の経済の崩壊とともに「俺」も美希も徐々に生きる力を奪われていく。印象的なイメージの断片を重ねて行く、著者独特の文章は変わらないが、より小説らしい構成になったぶん、「ビニール傘」で感じた新しさやインパクトが感じられなかったのはちょっと残念。

この本を読んだ直後に「リリアン」という小説が出た。「断片的なものの社会学」という本も面白そうだ。しばらく、岸氏の作品を読んで見ようかな。

 

 

岸 政彦・柴崎友香「大阪」

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NHKEテレで「ネコメンタリー 猫も、杓子も」という番組があって、作家や学者が猫と暮らす日常を記録したドキュメンタリーだが、この番組を見て、本書の著者のひとりである岸政彦氏を初めて知った。番組の中で描かれた、著者が散歩する街の風景が、大阪の港区あたりの、都会だけどちょっと外れたというか、ちょっと寂れた場所だったのが印象に残っていた。著者は社会学者で、小説も書いているという。書店で、本書を見つけた時、この番組のことを思い出して、購入することにした。もうひとりの柴崎友香という作家も初めて読む人だ。

今までにない視点の大阪。

本書の特色は、これまで読んだことがない「大阪」が描かれていることだ。柴崎氏は、大阪の南西部のの大正区に生まれ、育ち、2005年に大阪を出て東京に移り住んでいる。大正区は、大阪市の中では交通のアクセスがよくないこともあって、大阪市民でもあまり行かない街である。また沖縄出身者が多いことでも知られている。岸氏の方は30年ほど前に学生として大阪にやってきて、この街で働き、結婚し、家を建ててずっとこの街に住んでいる。本書によると北部の上新庄住吉区などに暮らしてきたという。この二人の著者が大阪についてのエッセイを交互に書くというスタイル。大阪と言えば、普通、ミナミかキタが描かれることが多いが、本書は、そういう大阪をほとんど描かない。

地元、淀川の河川敷、再開発、マイノリティ、散歩。

岸氏が描く大阪は「観光」の対極にある大阪である。大阪の地元で子供を産み育てたかったという話。淀川の河川敷が宇宙で一番好きな場所だと言う話。大阪市南部の駅前商店街で起きた再開発騒動の話。在日や被差別部落などのマイノリティの話。そして5時間かけて20kmも歩く散歩の話。岸氏が大阪を見つめる視点は一般的な大阪人の感覚とはかなり違っている。大阪の人々が淀川の河川敷に出かけるのは「淀川の花火大会」ぐらいだし、普通の住宅街を数時間もかけて20kmも散歩したりしない。本書を読み進めるうちに、読み手の中に今までと異なる大阪のイメージが像を結んでいく。岸氏は街を散歩しながら、ありふれた街並みの裏側や、ふとすれ違う人々の人生に過剰なほど想像力を働かせる。ふだん僕らが街を歩く時のデファクトモードは「無関心」である。なぜ著者はこれほど、大阪の人々のありふれた生活に関心を寄せるのだろう。NHKの「ネコメンタリー」で著者が散歩していた街並みも、港区と思われる、どちらかというと「殺風景」な風景だった。その殺風景を著者の視点で見ると、どこか懐かしくある種の抒情さえ感じられてくるのが不思議だ。

「よそ者」の大阪。

本書における岸氏の視点は、大阪の地元に育った人間の視点ではないと思う。大阪に憧れを抱き、外部からやってきて、大阪に溶け込もうとして、溶け込めなかった人間の視点ではないか。「それにバブル当時の大阪は、みんな我儘で、金を持っていて、かっこいい街だった。女の子たちも派手で、ノリがよく、とにかくたくさん酒を飲んだ。そしてその大阪、自由で、反抗的で、自分勝手で、無駄遣いが好きで、見栄っ張りな大阪は、この三十年で完全に没落してしまった。」と書くのは、かつて憧れ、入り込もうとした「大阪」が失われてしまったことを嘆く「よそ者」の思いではないか。僕自身も、大阪は仕事その他で40年以上も通い続けている街だが、地元の人間だと思ったことは一度もない。自分がよそ者であるという自覚は、これからもずっと変わらないだろうと思う。

 大正区から始まる物語。

岸氏が「ネコメンタリー」の中で散歩していた港区あたりの殺風景な街の一つである「大正区」から、柴崎氏の物語は始まる。隈研吾が言っていたライトインダストリーエリア、小さな町工場が点在し、加工機械の音が響き、鉄や油の匂いが漂っている下町の記憶にはじまり、母親が美容室を開いた商店街の記憶へ。さらに成長するにしたがって、著者の世界は、大正区の外へ、難波や梅田へと広がっいった。まだビッグステップがなかったアメリカ村楽天食堂、カンテグランテ、蕎麦の凡愚、小劇場ブーム、バナナホール扇町ミュージアム、アセンス、花形通信…。それと同時に漫画やテレビ、音楽、映画、演劇など、メディアの世界にも広がっていく。著者は、バブル時代に生まれた様々なカルチャーを体験しながら、小説家を志してゆく。著者が体験した80年代〜90年代のパワフルで活気に満ちた大阪は、僕も同時代で体験している。本書を読むと、あの頃の記憶が次々に甦ってくる。毎日、仕事が死ぬほど忙しくて、帰宅するのはほぼ午前様。ほんとによく働いた。遊んだ記憶はあまり無かったが、本書を読むと、けっこう色々な場所に出かけていたようだ。ほんとに懐かしい。勤めていた会社が西区の西の端にあったこともあって隣の大正区へはよく出かけていた。沖縄料理の店もよく利用していた。スタッフの中には、三線を習いに行っていた人もいた。

 感想。

本書を読んでいると、なぜか甦ってくる記憶がある。遠い昔、20代前半に大阪でバイトを見つけ、住む場所を探していた頃、住みたかった街のことだ。実際に住んだのは、尼崎市の南部の杭瀬という街で、母の実家も近かったので土地勘もあったのでこの街に決めたのだが、あまり治安がよくなくて、空き巣に入られたりしたので、引っ越しを考えていた。その候補にあげたのが大阪市の西部の此花区や港区だった。都会に住みたかった。しかし梅田や難波と言った賑やかな場所ではなく、かといって豊中や池田や枚方のような郊外でもない。近くに工場や倉庫などがあり、できれば大きな河のそばがいいな、と思っていた。住む場所を探して、西淀川区に始まり、此花区、港区あたりを歩きまわった記憶がある。いまから思うと、5歳まで住んでいた尼崎の記憶のせいではないかと思う。近所に小さな工場がたくさんあり、騒音と鉄や油の匂いが漂っていた。此花区、港区、大正区あたりには同じ匂いがあったせいだろうか。著者が「宇宙で一番好きな場所」だという淀川は、著者ほどではないが、僕も、大阪で最も好きな場所のひとつだ。特に梅田の高層ビル群を割と近くから眺められる中津あたりの土手や河川敷を歩くのは大好きだ。都心にこんなに近いのに、人とあまり出会わない閑散とした空間が存在していることが嬉しくなる。岸氏の小説「ビニール傘」も読んでみたい。

 

港区や大正区あたりの風景が描かれた本書の装画は、本書の中でも触れられている楽天食堂の小川雅章氏の絵だという。湾岸エリアの、ある意味「荒涼とした」と言えないこともない風景が、なぜか懐かしく、心地よく感じられるのが不思議だ。

 

「春よ、来い」1995・2011

以前に井上陽水の「傘がない」のことを書いた。もう1曲、僕にとって特別な曲がある。松任谷由実の「春よ、来い」。この歌について書いてみたい。

1995年の阪神大震災だった。

時間が、1月17日の、あの瞬間で止まってしまったようだった。色彩が消え、音が消え、灰色の冬が延々と続いていた。永遠に春が来ないような気がしていた。地震から何週間か経ったある朝、あの「歌」がテレビから流れてきた。

1995年1月17日5時46分。

前日の夜、猪名川周辺で小さな地震があった。テレビの画面に地震速報が出るだけで揺れは感じなかった。前年の暮れに群発地震があったエリアである。寝室にしていた和室の壁の2面を天井まで覆っている重い本棚を見ながら「今、大きな地震が来たら。俺たち死ぬな」「本棚、壁に固定しなきゃ」と語りあった、その翌日だった。

「やっぱり!」

その瞬間、寝床から飛び起きて「やっぱり」「これで死ぬ」と思った。隣で家人がこれまで聞いたことがないような野太い声で叫んでいた。前後2列でぎっしり本を並べていた6本の本棚がガッサガッサと揺れ、一斉に倒れてきた。手で支えようとしたが、支えられず、そのまま下敷きになった。真っ暗な家の中のどこかで水の流れる音がしている…。「足が動けへん」と家人の声。なんとか本棚の下から抜け出し、家人を助け出そうとするが、暗闇の中で、何がどうなっているのか分からず、本棚を起こすことができない。洗面所に懐中電灯があったことを思い出して、取りに行こうと廊下に出ようとした。しかし部屋を埋め尽くした本で襖が開かず、足で蹴破って廊下に出た。洗面所は棚から落ちた物が散乱し、懐中電灯は見つからなかった。水の音は落ちてきた物が水栓のレバーを押し下げて、水道が流れていたのだ。仕方なく、部屋に戻って暗闇の中で家人を本棚の下から掘り出した。二人とも若干の打身以外は怪我もなかった。本棚が倒れてくる前に本が降り注ぎ、本に埋もれた上に本棚が倒れてきたため、怪我を免れていたのだ。懐中電灯が見つかり、部屋の中を恐る恐る照らしてみた。食器棚がダイニングテーブルに倒れかかり、中身は全滅。冷蔵庫は倒れずに、数十センチ飛び出し、上に載せていた電子レンジは2m以上飛んでいた。リビングのテレビは台から落ちて、画面を下にして転がっていた。寝室にしていた6畳の和室は床から30〜40cmの高さまで本で埋まっていた。「とりあえず水を確保」と、バスタブいっぱいに水を貯めた。しかし、しばらくすると水が止まった。屋上の給水タンクが空になったのだろう。電気は止まったままだ。パジャマの上にコートを羽織って、外の廊下に出た。扉の外はガスの臭いが漂っていて、どこかでガス漏れが発生しているのだと思った。ガスの元栓を閉め、玄関ドアは開いたままにして、外に出た。

マンションの壁面には✖️形のヒビがあちこちに見られた。階段を使って下に降り、建物の外に出ると、マンションの住民たちが数家族、建物が少し離れた場所に固まっていた。住民の一人が「烈震らしいですよ」と言った。「ちょっと怖くて部屋に戻れないですね」「この辺の避難場所は、そこの小学校ですよね。」などと話しながら、なんとなく小学校の方に向かう。途中、携帯電話を持っている住人から電話を借りて、夫婦両方の実家に電話をかけて無事を確かめ合うことができた。(当時、携帯電話を持ってる人の方が少なかった)小学校は、当然ながら門が閉まっていて、中に入ることはできなかった。周囲が明るくなってきて、誰からともなく「戻りましょうか」ということになって、マンションに引き返した。部屋に戻って、あらためて家の中を見回してみると、どこから手をつけていいか、わからないほど、モノが壊れ、散乱していた。しかし、こういう時になると、なぜか冷静になって、片付けの手順を考えている自分がいる。「まず、安全な場所をつくろう」「ガラス類を先に片付けて、ケガをしないようにしよう」などと片付けを始めた。午前の早い時間に電気が回復し、テレビをつけた。最初は、名神高速豊中だったか吹田だったかのゲートの施設が壊れたという周辺の情報しか報道されなかった。神戸の映像が出てきたのは、しばらく経ってからだ。ヘリから撮影した、横倒しになった阪神高速神戸線、あちこちで発生している火災。画面の中と家の周囲の両方でサイレンがひっきりなしに鳴っていた。すべてのチャンネルが地震だけを伝えていた。テレビCMが消え、ドラマも、バラエティ番組も消え、神戸の映像だけが流れていた。

世界から色が消え、音が消えた。

その日の夜は、隣の小学校に避難し、近所の人たちと一夜を明かした。寒さと恐怖でほとんど眠れなかった。翌日は、三田市の妻の実家に疎開した。戻ってからは、後片付けと不眠の日々。小さな余震でも目が覚めた。眠っている背中を突き上げる激しい地震の夢を何度も見た。我が家は、心地よい安息の場ではなくなり、不穏で危険に満ちた異境になった。時間が、1月17日の、あの瞬間で止まってしまったようだった。色彩が消え、音が消え、灰色の冬が延々と続いていた。永遠に春が来ないような気がしていた。

朝、あの歌が聴こえてきた。

地震から何週間か経ったある朝、あの「歌」がテレビから流れてきた。その瞬間、「そうか、地震からこっち、ずっと音楽がなかったんだ」と気づいた。NHKの朝ドラのの主題歌だった。乾ききった大地に雨が吸い込まれるように、身体の細胞一つひとつに音楽がしみ込んでいくような感覚。後にも先にも、音楽がそんな風に聴こえてきたことはない。その瞬間から、その曲は、僕にとって特別な歌になった。

聴こえてきたのは、NHK の朝の連続テレビ小説「春よ、来い」の主題歌「春よ、来い」。松任谷由実の歌である。ドラマは橋田壽賀子の自伝的なストーリーだった。この歌の何があのような体験をもたらしたんだろう。歌詞の言葉は、ドラマに合わせてレトロなイメージを醸し出すように文語調で書かれている。恋の歌である。地震とは何の関連もない。唯一関連があるとすれば、「春よ、遠き春よ」という一節。地震の後、僕の中には、「この寒々とした灰色の季節が早く終って、春が来て欲しい」という切実な思いがあった。歌はそこにぴったりとはまったのかもしれない。今でも、この歌を聴くと、地震のあとに聴いた時の感覚が蘇ってくる。まだ寒い早春に、陽だまりの中でまどろんでいるような気分になる。しかも他のアーティストのカバーで聴いても、ほぼ同じような感覚になるのが不思議だ。お気に入りは槇原敬之と森山良子。オリジナルのユーミンの曲では、歌が終わったあと、しばらくして童謡の「春よ来い」の一節が、とても小さな声で歌われている。

あの時、「春よ、来い」を、僕と同じような思いでこの歌を聴いた人がいたのかもしれない。東日本大震災のあと、ユーミンNHKと共同で、この曲を使った「みんなの「春よ、来い」プロジェクトを実行した。曲の最後の童謡版の「春よ来い」の部分のコーラスの動画を一般募集し、その部分を重ね合わせた新バージョンをインターネットで配信し、その収益を被災地支援に全額寄付するというもの。

毎年、年が明け、しばらくすると、この曲が聴きたくなる。そして4月の半ばまで、この曲を含むプレイリスト「サクラ」を聴くことにしている。

 

桐野夏生「日没」

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本書は割と早く購入していたが、今の僕には、内容が辛そうなので、ふた月近く手をつけなかった。読み始めたのは購入から2ヶ月ほど経ってから。主人公はエンタメ系の女性小説家。時代は現在からそう遠くない近未来だ。著者は、冒頭近くで「市民が国民と呼ばれるようになり、すべてがお国優先で、人は自由をどんどん明け渡している。ニュースはネットで見ているが、時の政権に慮る書きっぷりにうんざりして、読むのをやめてしまった。もちろんテレビは捨てたし、新聞は取るのをやめた」という短い文章だけで、読者を少し先の未来へと連れていく。ほとんど現在と違わない、いわば地続きの世界だ。ある日、彼女宛に総務省文化局の文化文芸倫理向上委員会と名乗る組織から召喚状が送られてくる。不審に思った彼女は、googleで検索してみるがヒットせず、知り合いの編集者や同業の作家に尋ねてみるが、情報が得られない。ただ舞台美術の仕事をしている弟から、最近、作家の自殺が増えているらしいと聞かされる。演劇や映画の世界でも訃報が多いという。漠然と不安をいだきながらも、指示された場所に出頭してみると、そこは海辺の崖の上に建つ療養所だった。

中間が飛んでる。

オイオイ、もう収容所に入ってしまうのかよ!と早すぎる展開に、つっこみを入れたくなる。権力側が作家や学者などの文化人に対して弾圧を加えるには、本当はもう少し段階があるだろうと思う。作家自身に対する弾圧の前に、出版社に圧力を加えたり、作家に対する炎上や抗議、不買運動、出版差し止めの訴訟などがあって、最後に作家が逮捕され、思想犯として収容所に送られる…。そのようなステップを経ずに、いきなり召喚され、収容所に放り込まれるのは、リアリティがなさすぎではと思ったが、有無を言わさずストーリーは展開していく。主人公が書いている作品に問題があり、それを更生するために入所するのだという。いわれのない告発に彼女は反発し、帰ろうとするが、反抗的な態度をとると減点され、入所期間が延びるといわれ、大人しく入所を受け入れる。ここからは、ある意味典型的ともいえる収容所体験がはじまる。携帯電話は圏外で、ネットもつながらない。敷地内の散歩はできるが、つねに監視されている。ひどい食事、決められた入浴時間など、いわゆる軟禁がはじまる。そのディテールがこわいほどリアル。たぶん著者自身か近親者の入院体験がベースになっていると思われる。本書で描かれる「収容所体験」を読んでいると、有名な「スタンフォード大学監獄実験」のことを思い出した。以前、このブログで書いた投稿を引用する。

スタンフォード大学監獄実験。

1971年、心理学者のフィリップ・ジンバルドーは、大学の地下実験室を改造し、刑務所を作った。そこに新聞広告で集められた、互いに面識のない大学生など、21人の被験者によって実験が行われた。被験者は「看守」役と「受刑者」役の2つのグループに分けられ、それぞれの役を演じさせた。一見、お遊びのように思えるが、翌日になると、受刑者には受刑者らしさが現れ、看守は、看守らしく振舞うようになった。恐ろしいことに、受刑者は従順に、看守は強権的になり、その行動はどんどんエスカレートしていったという。看守役は、命令に従わない受刑者役に対して、腕立て伏せなどの罰を与えたり、食事を与えないなど、役割を越えて、虐待を加えるようになっていった。監獄の様子はモニターされ、ジンバルドーは状況をすべて把握していたにも関わらず、実験を止めることができなかった。実験6日目にジンバルドーの恋人であった心理学者が見学に来て、あまりにひどい状況にショックを受けて、実験を中止させたという。」

本書が描く「収容所」でも、囚人たちを追い詰める様々な人物が登場する。主人公を閉じ込める看守たち。そのトップに立つ所長。不機嫌で意地の悪い職員たち。収容者から「メンゲレ」と呼ばれる精神科医。主人公と同業でありながら職員として働く作家は、アウシュビッツなどで、ユダヤ人でありながらナチスに協力し、ホロコーストに関わったとされる「ゾンダーコマンド」を思わせる。「収容所」という暴力装置が主人公を蝕んでいくのだ。

 主人公は、所長から言われるままに大人しく振る舞って収容所を出ていこうとするが、しだいに追い詰められ、救いのない状況に陥っていく。読者も、読み進むほど、憂鬱に、絶望的な気分になっていく。そして最後は、日没のような夜明けの断崖で終わる。

感想。

著者は、読者を、現在の日本から、いきなり「収容所」という異世界に引きずり込む。それは唐突でリアリティに欠けると思ったが、考えてみると「収容所」はどこにでも存在しうる。学校、病院、介護施設、企業や様々な団体…。閉鎖的な集団や組織、施設は、たやすく「収容所」になりうる。そして、いじめやハラスメントが起こりやすい「場」でもある。新型コロナウィルスに感染して入院や自宅療養を強いられるのも、ある意味「収容所体験」といえるかもしれない。僕の父が入所していた老人ホームや特養も、本人からすると、望まない空間に閉じ込められる、辛い体験だったかもしれない。メディアに圧力をかける政権。政権に擦り寄っていくメディア。言葉を本来の意味からねじ曲げて使う政治家。日常から一歩踏み出しただけで、そこはもう「収容所」の中にいる。そんな時代が、もうすぐそこにあることを著者は書きたかったのではないか。新しい時代が来て、日本が沈んでいこうとしている。「日没」というタイトルは秀逸だ。

 

隈研吾・清野由美「変われ!東京 自由で、ゆるくて、閉じない都市」

世の中、あっちもこっちもクマ、クマ、クマ!なんで?

2007年のサントリーミュージアムあたりからだろうか。根津美術館歌舞伎座の改修、国立競技場、高輪ゲートウェイ駅、渋谷スクランブルスクエアなどなど・・・。東京における話題の建築は、隈研吾の一人勝ちみたいな感じ。建築はまるきり素人の僕が彼の作品を語ることはできないけれど、彼の著作は面白いのでわりと読んでいる。本書は、以前に読んだ同じコンビによる「新・都市論TOKYO」、「新・ムラ論TOKYO」に続く3冊目。前の2冊は痛快な本だった。建築家と辛口ジャーナリストが東京の注目スポットを訪ね歩きながら会話していくという企画である。建築家にジャーナリストがインタビューする、というより、もっと、ゆるくて、お互いにタメ口をきくような掛け合いが絶妙。この感じ、別の本でもあったな、と思ったら、村上春樹と川上未央子の対談「みみずくは黄昏に飛びたつ」が少し近いかも・・・。前の二作でも、二人が、時には辛辣に、時にはユーモラスに、東京の今を批評していった。清野氏の的確なトレンド総括も小気味よかった。どうでもいいことだけど、隈研吾氏と僕は1954年生まれの同い年。そのせいか、なんとなく同時代の匂いみたいものを感じる。ちなみに同年生まれの著名人は、安倍晋三ユーミン麻原彰晃ゴジラなど。なので、勝手に親しみをこめて、以後、隈さんと呼ばせてもらおう。本書を読んで、隈さんが多くの建築に起用される理由が少しだけわかった気がした。

「これ、誰が書いたんですか?」冒頭からツッコミ。笑えるほど面白い本。

本書の「はじめに」の文章は、隈さん自身が書いている。ちょっと生真面目な都市論だ。都市は、疫病などの災厄に見舞われた時、変わるという話。ふんふんと読み終えて、第1章の対談へ進む。すると、いきなり清野さんが隈さんにツッコむ。「『はじめに』を読んでびっくりしました。これ、誰が書いたんですか」隈さん「僕です」清野さん「不遇で、ナイーブな建築青年の筆じゃないですか。国立競技場、高輪ゲートウエイ駅、渋谷スクランブルスクエアにも携わり、(中略)そんなプロジェクトを手がける円熟の建築家とは程遠い感じです」とタメ口で畳みかける。こんな二人の距離感が本書を面白くしている。第1章では、まず清野さんが前作、前々作からの総括を行う。ゼロ年代当初は、六本木ヒルズ、汐留再開発、ミッドタウンなど、東京が超高層都市に変貌する節目となった。名だたる企業が都心に超高層の自社ビルを建てることがステイタスとブランドバリューの上昇に直結していた。ジャン・ヌーヴェルが設計した電通本社ビルは美しかった、と。その後、リーマンショックがあり、東日本大震災が起きた。IT革命がどんどん深化し、GAFAなど、超高層本社ビルにこだわらない企業が増加。今では大企業でさえもシェアオフィスを積極的に利用するようになっている。隈さんは「コロナ禍を経て、超高層ビルで朝から深夜までバリバリと働くことは、ますます時代遅れになっている」という。「かつて建築設計事務所は、知的だけれど、ブラック労働の筆頭だった」と清野さん。隈さんも「残業しても、過労死しそうになっても、いい建築を作れ!なんていうのは、武士道そのままじゃないですか」「都市にも、建築にも、会社にも、いよいよ武士の時代の終焉が来ている。」そして「武士よ、さらば」「おサムライさん、さよなら」の時代なんですよ。と隈さん。ここから隈さんの最近の建築に話題が移っていく。清野氏によると、前作、前々作から一番変わったのは、「外部の批評者であった隈研吾が、今では、内部の当事者になっている」ことだという。

中目黒スタバロースタリー。

清野さんが隈さんの建築でいちばん注目しているのは中目黒の「スターバックス リザーブ ロースタリー」。その空間には、今までの隈研吾にはなかった女性性が感じられるという。これはスタバ内部のデザインチームとのコラボレーション(協働)によるのではないかと分析する。清野さんは、隈さんと似ている小説家として村上春樹をあげ、「騎士団長殺し」は素晴らしい物語、素晴らしい言語感覚、素晴らしい出来上がりで、文句なく面白いが、そのモチーフは全部、自己模倣になってしまっている。世界中で60以上のプロジェクトが同時進行しているという隈さんの建築にもそういう嫌いがないとは言えないという。それを救っているのが他者とのコラボではないかと考察する。前作からの総括と隈さんの近況を軽く語ったあと、対談は大きなテーマに移っていく。

「なぜ東京は世界中心都市のチャンスを逃したか」

清野さんは、このテーマを語るための補助線としてジャック・アタリの「21世紀の歴史」を持ち出してくる。この本の中では、13世紀に資本主義が現れた時から、「世界中心都市」の移り変わりについて、歴史を俯瞰している。ベルギーのブルージェにはじまり、ヴェネツィアアントワープジェノバと続き、18世紀にはロンドン、19世紀には、ボストン、20世紀のニューヨーク、ロサンジェルスと続いてきた。アタリによる「世界中心都市」の定義とは「クリエイター階級が新しさ、発見への情熱を燃やす場所」だという。「クリエイター階級」とは、歴史的にいうと海運業者、起業家、商人、技術者、金融業者、芸術家、知識人など、都市が発展する原理を牽引する人たちのことを指す。都市の成長原理が変化すれば、その活力を担うクリエイター階級も交代する。残念ながら、この変遷の中には東京は入っていない。アタリによれば、東京は、1980年代後半、ニューヨークとロサンジェルスの間の時期に、世界の中心になるチャンスがあったという。日本はそのチャンスを逃した。そしてロスの次は、日本を素通りして、中国、東南アジア方面に行ってしまったという。その理由を、アタリは3つあげている。1つめは「並外れた技術のダイナミズムを持つにもかかわらず既存の産業・不動産から生じる超過利得、官僚周辺の利得を過剰に保護した」。2つめは「将来性のある産業、イノベーション、人間工学に関する産業を犠牲にして来た。特に情報工学の分野」。3つめは「『近代』に対する強い憧れがあったにもかかわらず、官僚の排他的な特権階級制度を粘り強く修復し、その権力に畏怖しながら、過去の栄華に対するノスタルジーに浸ってきた」。隈さんにも「80年代に東京が持っていたある種のエネルギーと財力を駆使したならば、もう少し東京を面白くできたのに」という思いがあるという。しかし、そうはならなかった。「財力と勢いがあった時の、日本のアーバンデザインと建築のリーダーは、簡単にいえば考え方が古くさかった。要するに、僕がいう『武士』『おサムライさん』だった」。日本を代表するデベロッパー企業が、その時、何をしていたかというと、ニューヨークのロックフェラーセンターを買っていた。ついでに世界の反感も買っていた。新しい事業を開拓しないで既成の権威を高い値段で買って、バブルが崩壊するとその大半を手放した。まさしくアタリが言う「既存の産業・不動産から生じる超過利得」だけを狙って見事にコケたのだ。「既成の価値観に縛られているだけで、自分たちで新しい価値観を作っていこうという自信と意欲のある人が日本にはいなかった」。「クリエイティブなはずの建築家やデザイナーまで、僕のいうダメな『武士』だった」という。隈さんは、そんなバブル時代の先達たちを見ていたから、あれじゃいけないと思って、外へ飛び出そうとしたという。2つめの理由、「将来性のある産業、イノベーション、人間工学に関する産業を犠牲にして来た」もそこにつながる。iPhoneiPodなど、アップルの製品は、とりわけ初期のものには日本製の高性能な部品が50%以上も使われていた。技術者たちは「あんなの、作るのは簡単だよ」と後から言っていたけれど、作れなかった。イノベーションが起こせなかったのだ。

 「土地の私有」が日本をダメにした。

この辺りから隈さんの主張が始まる。「戦後、『土地の私有』というものが発明され、国全体がその流行り病に冒されていくようになってから、日本はダメになっていった」「土地の私有」とは、つまり「持ち家願望」のことで、その根底には土地の値段が永遠に上がっていくという神話があった。現在の土地価格の下落や空き家の急増を見ても土地神話が幻想にすぎなかったことがわかるが、バブル時代は大企業までもその幻想に染まっていた。「『持ち家願望』はサラリーマン労働者を企業に縛りつけるための、有効な動機づけでした。サラリーマンは、一生かけたローンを組んで自分の夢を買わされ、そのローンを返すためにサラリーマンである自分から逃れられなくなる。そんな自分たちを肯定するために、彼はサラリーマンの価値観を世の中全体に押しつける」「『なぜ東京は世界中心都市になれなかったのか』という大きな問いに対する僕の答えは、『日本社会の一億総サラリーマン化』。それに尽きます」と隈さん。

都市を破壊した「マンション文化」と「相続税

隈さんは、さらに「東京の場合は、あまりに土地の価格が高いものだから、持ち家願望がマンションの占有面積所有に置き換わり、幻想の対象がさらに細分化されてきた」という。そして「マンション文化というものが、東京という都市が本来持っているきめ細かさ、人間同士が触れ合う関係性など、いろいろな魅力を破壊してきた元凶だ」とも。

外国から来る建築の専門家は、「東京のオフィスは世界水準だけど、レジデンス(集合住宅)は何であんなに貧祖なのか」と言ってくる。東京の醜いグレーの街並みの大半は、相続税対策で切り売りされた土地に建ったマンションや雑居ビルであるという。東京に限らず、京都や鎌倉でも、相続税の負担に耐えられなくて、由緒あるお屋敷や土地を売ることが常態化している。隈さんによると「相続税が日本の税収に閉める割合は、たったの3%でに過ぎず、それでいて、街並みが持つ歴史性、それを介して人々が育んできた街への愛着をずたずたにしてしまう」という。

「戦後75年が経ち、戦後の高度成長と人口増加の時代が終わり、時代は経済縮小、マイナス金利、人口減少、少子化という、昭和とは180度違う方向に進んでいるのに、高度成長時代の「集団の存続が第一目標で、その目的を忖度して個人の決定を行う人たち」の考え方と行動様式が温存されているのは悲劇でしかない」と隈さん。「日本では、アタリがいうクリエイター階級であるところの技術者、研究者もサラリーマン化している。今からでも遅くないので、国も企業も個人もクリエイター階級の育成に向かうべき」と清野さん。「それこそエネルギーと財力があった80年代に、国家と企業が率先して取り組むべきことだった。でも、今さらウダウダ言っても仕方ないよね」と隈さん。

「小さな東京」に未来がある。

そして隈さんは「世界の中心都市にするために東京を何とかしようとは思わない。僕は僕にできることを静かにやり続けていくだけ。建築家である僕がゲリラ的に、すなわち反サムライ的にできることはたくさんある」と語る。続けて「建築家というのは、社会的に何かを提案したとしても、お金を出すのは別の人が多いので、自分で責任をとらないところがある。でも建築家として次に行くためには、自分で企画し、お金を用意し、建物を建て、運営まで責任をとる形を見せないとダメなんじゃないか」という。それは国立競技場とも、JR高輪ゲートウエイ駅、渋谷スクランブルスクエア、そしてスタバロースタリーとも違うことだという。隈さんは「もっと小さく、もっとボロく、もっと等身大で親密なところに未来はあると思うんです」と語る。

小泉純一郎内閣によって2000年代初頭に規制緩和が行われて以来、都心、郊外、地方で乱立するタワーマンション。土地所有の幻想はマーケティングやコンサルによってますます洗練されていく。ガラス張りのロビー、図書室、プールとか、共有部分は異常にかっこよくして、居室部分は意外に安っぽい…。隈さんは、建設業界という現場にいて、そのシステム先行きの暗さを実感するようになったという。そして彼が選んだのは、自らがシェアハウスの大家さんになることだった。

シェアハウスと「都住創」。

第二章は隈さんが大家を務めるシェアハウスの探訪記から始まる。東京・神楽坂の静かで穏やかな雰囲気の住宅街に2012年に建てられた「シェア矢来町」は地上3階建て、敷地面積は35坪(約116平方メートル)。設計は篠原聡子さん(空間研究所:隈さんの奥様)+内村綾乃さん(A studio)、家具・内装はタイチクマ(隈さんの息子さん)。2014年に日本建築学会賞を受賞している。設計者の一人である内野さんが住民として住んでいて、管理人も務めている。居室は8つあり、そのうち1つはゲストルーム。1階にシャワールームなどの水回りとユーティリイティ、3階にキッチンとリビング、1、2階にトイレという構成。家賃は7万3千円と共益費1万2千円の計8万5千円で,採算ぎりぎりだという。

サラリと「シェア矢来町」の紹介をしたあと、隈さんは「都住創」の話を告白する。これは初めて聞く話だ。1985年、隈さんは、大阪で中筋修さんという「ものすごく面白いおっさん」と出会う。中筋さんは安原茂さんという建築家と一緒に「ヘキサ」という設計事務所を立ち上げ、「都住創(都市住宅を自分たちの手で創る会)」という一種の住宅革命運動を進めていた。中筋さんは日本ではじめてコーポラティブハウスというものを実現した人で、マーケットありきではなく、純粋に自分たちが面白がろうというゲリラ的発想からはじまったという。隈さんはそんな「都住創」のマンションに遊びに行って、自分の“建築”観と“建築家”観が変わるぐらい衝撃を受けたという。以下引用。「まず、関わっている人たちが、大阪のヘンなおっさん、おばさんたちで、サラリーマン社会の常識の外にいる人たちだった。「都住創」のマンションには住人以外にも、毎晩のように、そういう面白くて、ちょっとおかしい人たちが集まって、家を開いた空間として、みんなで住みこなしていたんです。それも、ただわいわい楽しく飲んでいるだけじゃなくて、若いアーティストを応援する前衛的な展覧会を開いたり、教室や講演会を開いたりしていた。そういう使い方も含めて、建築家がハードだけでなく生活全体をデザインしている感じでした」。

「中筋さんがデザインした建物は建築雑誌に載るような「作品」ではなくて、もっとぐちゃぐちゃなもの。とてもじゃないけど「美しい」と言えるものではなかったのですが、その「下手さ」にも、既存の建築とは違う意味があるように見えた」。「中筋さんのすごいところは、どこかの会社と組んで、そこに頼ろうとしなかったことです。あくまで仲間たちで作ろうとしていました」

 隈さんは、大阪の谷町のあたりにまとまっている「都住創」のコーポラティブハスを訪れて「若くてヘンな奴が東京から来た」と面白がられ、歓迎される。そこから、「だったら東京で一緒にコーポラティブハウスを」という話が進み、86年にプロジェクトがスタートする。場所は江戸川橋。小さな土地を探して、有志を募ったら、中筋さんを中心に大阪の人が集まって、ビルを一棟建設した。ビルの名前は「ラスティック都住創」。ラスティックは「錆びている」「田舎っぽい」という意味。スタートはよかったが、完成が91年になり、バブルの弾けるタイミングに重なってしまう。建物はできたけれど、お金が回らなくなり、資金繰りの苦労に直面することになった。この時の心労が重なったせいか、中筋さんが、深酒がたたって2001年に亡くなってしまう」。あんなに明るくて、エネルギッシュだった中筋さんがあっけなく亡くなったっことは隈さんに大きな衝撃を与える。その後も関係者が破産したり、自殺したりすることが続き、結局生き残ってお金を返せるのは隈さん一人になった。プロジェクトの連帯保証人になっていた隈さんは数億円の借金を背負うことになった。それから毎月、一緒に組んだ建設会社のある高﨑の裁判所に通い続け、18年かけて借金を返済したという。そのつらい体験から「私有ほどヤバいものはない」ということを心の底から勉強したという。

「都住創」の取り組みには、現在のシェアハウスの原型があり、それを先取りしていたといえるが、「『その根底には「みんながそれぞれの不動産を持つと安心だよね』という20世紀的な私有への信仰が横たわっていて、僕らはそれを見抜けなかった。つまり20世紀から抜け出せていなかったことに問題があったわけです」と隈さん。「都住創」との関わりは、大きな傷を残したけれど、そこから得たものもあったという。そのひとつが江戸川橋から東京を見ることができたことだという。世田谷のように小洒落た住宅地でもなく、バブル期の西麻布のようにブランド化することもなかったが、実は戦前の東京人の暮らしが蓄積した面白い下町的エリアだという。そんなライトインダストリー(軽工業)エリアの発見。それが現在の「シェア矢来町」につながっているという。土地の所有に縛られない建築のあり方の1つとして「シェアハウス」という解があったのだ。土地に縛られない「流動的な建築」の模索は、さらに続く。

  第三章。屋台・トレーラーハウス・サハラ体験。

シェアハウスの次は屋台である。きっかけはsnow peakの社長からテントのデザインを依頼されたことだという。最初は面白そうだったが、テントというものは、素材や構造などが極め尽くされていて、デザインの力で飛躍させることが難しかったという。snow peakの社内にトレーラーハウスを手がけている部署があって、そこでは一般的な建築よりもはるかに低いコストで住空間を作り出せることが明らかになり、トレーラーハウスの技術を使った住空間「ジュウバコ:住箱」を提案する。その「ジュウバコ」を使って始めたのが「屋台レストラン」である。清野さんによる、現在はもう無い屋台ビストロ「TRAILER」の探訪は楽しいけど、省略。それよりも、隈さんが土地所有に縛られない「建築の流動性」を追求するようになった原点ともいえる体験が語られる。それは隈さんが東大大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を、アルジェリアニジェールからコートジボワールまで、フィールドワークで横断した体験だという。恩師である原広司教授と5人の院生メンバーで、スバル・レオーネをカスタマイズした車に乗って、ベドウィン族みたいに野営をしながら、点在する集落を回ったのだという。集落研究といっても長期間滞在するのではなく、1日中、砂漠や草原を弾丸のように車を走らせ、集落を見つけては訪ねていく。2ヶ月で100件ほどを取材した。事前に許可をもらって訪ねるのではなく、突然行くわけだから「よそ者が襲ってきた」と思われて、殺されても文句が言える状況ではなかったという。そんな状況でも原広司は、集落にずんずん入りこんで、子供たちにボールペンをプレゼントしながら、建っている家の寸法を片っ端から測っていったという。集落の首長に歓迎されて、歓迎のご馳走としてねずみやコウモリなんかを振舞われることもあったという。隈さんたちを受け入れてくれたベドウィン族の集落では、その土地の材料を、彼ら自身の手で組み立てて家をつくっていたという。サバンナではアドベ(日干しレンガブロック)を使い、海に近づいてくると、木、竹、ヤシで家を建てる。さらに砂漠のど真ん中になると、もう建物すらなくなって、テントになる。そのテントをラクダに積んで、ベドウィンの兄ちゃんがラジカセを布にくるんで、身軽に移動していく。その姿を見て、隈さんは、ああ建物にしばりつけられないで生きる様子は、カッコいいなあ、と思ったという。それ以来、どうやったら、このテントの気軽さを作れるか、ということが人生の目標になったのだという。それから40年経っても、まだテントは作れていないのだ、と。

第4章。木造バラックハモニカ横丁、仮設商店街、ボロさの力。

屋台の次は、木造バラックの焼き鳥屋の話に飛ぶ。吉祥寺、ハモニカ横丁「てっちゃん」。歌舞伎座の改築、新国立競技場、高輪ゲートウエイ駅を手がけ、世界中で60におよぶプロジェクトに関わる隈さんが、昭和の匂いが残る横丁のバラックみたいな焼き鳥屋さんの設計をどうして引き受けたのかは謎だが、隈さんは「僕が東京の都市再生を語る時は、『歌舞伎座』『KITTE』とともに『てっちゃん』を併記したいと思います」と主張する。商業的な変貌がすさまじい吉祥寺にあって、戦後の闇市発祥の一画が奇跡的に残っている。それがハモニカ横丁だ。隈さんは「東京が世界に誇る建築として、歌舞伎座があるのは当然のことですが、本当はハモニカ横丁のような空間こそが、都市空間の中で最もユニークな資産で、東京が、日本が世界に誇るべきものです。(中略)近年のまち歩きブーム、建築ブームは、みんなが路地に惹かれていることのあらわれじゃないかと思いますが、建築家なら、思っているだけじゃなく、路地に飛び込んで、それを実践しないとダメだよね。」と語る。このあとは二人による「てっちゃん」探訪記があるが、吉祥寺もハモニカ横丁も行ったことがない僕にはイメージがわかない。店の写真も掲載されているが、モノクロで小さいため、ちゃんとイメージできないので省略。その後は隈さんに設計を依頼したクライアントの手塚一郎さんのユニークなインタビューが続く。このインタビューも面白いのだが、長くなるので省略。エピソードをひとつだけ紹介すると、手塚さんが再生資源を扱う知り合いを紹介すると、隈さんは喜んで廃材を使ったという。「そういうスタンスの軽さが、他のアトリエ派の建築家と違う。そもそも隈さんは人に嫌われない人ですよね」という隈さん論が語られる。

木造バラックは日本の原・建築である。

隈さんは「てっちゃん」の設計を通して、東京における木造の価値を再確認できた」と語る。「ハモニカ横丁は、いまだに木造建築のスケール感、質感を残していることが決定的に重要だという。地方都市に出かけると、いまだに見かける木造バラックの市場、路地の空間は、日本の木造建築の原風景であるという。「歴史的に見ると、日本の都市は江戸時代まですべて木造だった。それも「小径木:しょうけいぼく」と呼ばれる10センチ角内外の断面寸法で、二間(3.6m)という細くて短い材をだましだまし組み立てながら、柱が不規則に配置された、イレギュラーでフレキシブルでゆるい空間をつくってきた。僕らが木造住宅の柱として見慣れている、あの寸法が小径木なんです」と隈さん。小径木なら山から簡単に切り出して近くの都市に運べる。小径木を媒介にして、山は、日常生活の延長となって都市と一体となった、持続可能な環境システムを作りあげていた。木造建築にとって、唯一の敵は火災で、江戸は数十年ごとに大きな火災に遭遇し、多くの木造家屋を焼失させた。でも、その度に「小さな木」のシステムが驚くべきスピードでまちを復興させたという。江戸のまちは火災をも取り込んで、ゆっくりと循環していた。しかし「小さな木」が持つサスティナブルなシステムは、戦後の都市から一気に姿を消してしまう。隈さんによると「関東大震災第二次世界大戦による焼失が国民全体のトラウマになったからだ」という。建築の法規をはじめ、消防法などもすべて都市から木を排除する方向に進んでいってしまった。日本建築学会ですら1959年に「防火、耐風水害のための木造禁止」という驚くべき決議を発してしまった。それによって日本がいかに大切なものを失ってしまったか…。歌舞伎座がパリのオペラ座に負けないくらい世界に誇れるものであるとは、別の次元でハモニカ横丁の「小さな木」の継承は世界に類例がない。ハモニカ横丁では「小さな木」のシステムが、人間の生活という、多様で猥雑で予測不可能なものを全部呑み込み、昇華し、コンクリートでは絶対達成できない、温かくて、心地よい空間を保持し続けている。「戦後75年を経て、高度成長も、バブル経済も、不景気も震災も経て、戦後闇市的なスケール感が、いまだにこの大都市の中に残っていたことは奇跡に思われます。その意味で、ハモニカ横丁は、現代の聖地。このハモニカ的なるものを、骨董としてではなく、日常の当たり前として、東京の中に回復するのが僕の夢です」と隈さん。

被災地に作った木造長屋の商店街。

隈さんは、「ハモニカ横丁的」な方法論を、東日本大震災の復興に使っている。それが「南三陸さんさん商店街」。隈さんは震災の後、石巻に自分が作った運河交流館が、周辺の地盤が液状化した中で奇跡的に残っているのを見て、津波でまちがすっかりなくなっているのに、作品というアートを残してもむなしいと思うようになったという。2017年に開業した「さんさん商店街」は、木造の長屋が6棟にわたって連なる配置で、バラック的。そこに海産物屋、かまぼこ屋、海鮮丼屋、スイーツ店などが並んでいる。開業1年目には65万人、2年目には60万人の来場者があった。南三陸町への観光客数は、震災前の2010年の108万人で、2018年には144万に増加している。「さんさん商店街」が復興の核になったのは間違いないという。隈さんは、震災直後に地元の人たちがローコストで立ち上げた仮設の商店街を見て、「ボロボロのハードそのものがカッコいい」「ハードのボロさがあるから、ソフトがうまく乗って来れるんです」と再認識したという。材料に用いたのは、塩ビの波板と小径木という安っぽい素材。この安っぽい素材で、いかに力強く美しいハードとして結晶させるか。それが建築家の力量だと考えたという。プレハブや仮設的なものは安物の代表と見られがちだが、デザインによって、それらから生き生きとした面白さを発することができれば商店街として成功である。そう考え抜いた上でボロさを極めていったという。例えば塩ビの波板を横桟から何センチぐらい出せば軽やかさが出るか、なんてことを現地に原寸のモックアップ作りながら、デザインを決めていったという。

コンクリートと土木による復興。コスト意識のない建築家は社会から排除される。

隈さんは東日本大震災を経験して、コンクリートの建築とはこんなにも脆かったのか、と痛感したという。しかい震災後、被災地では未曾有の土木工事が発生した。海辺に設けられた防潮堤を筆頭に、おびただしい量のコンクリートが投入された。清野さんは、土木畑の先生たちと被災地を回った時、都市復興や地域再生で発言権を持っているのは、相変わらず土木分野の方々だったという。「なぜ建築家は、災害復興で前面に出られないのですか」と、一緒に行った土木の先生に聞いたら「だって建築家は予算を持って来られないじゃない」と冷笑的に言われたという。それに対して、隈さんは「建築家を入れると、デザインで面倒くさいことを言って、お金がよけいにかかる。建築家って、国の土木予算を持って来られないだけじゃなくて、無駄なお金を使う、経済感覚のない人たちだと建設業界では思われているから」と答える。「建築家にコスト意識はないですか?」と清野さん。「一般的にはないね(笑)と隈さん。すると清野さん「ただ私は、以前からコスト意識にとらわれていた隈さんを見ています。『六本木ヒルズ森タワー』を批評のために見に行った時、『そうか、超高層ビルは、アルミの代わりにプレキャストコンクリートを使えば建設費が節約できるな』とか、『そこかい!?』ということをいっぱいおっしゃってましたよ」。隈さん「建築家は現実ではみんな、コストで苦労していますよ。だけど、それをいわないでアーティストの振りをすることが、業界の通例です。まち全体での損得を、利害関係者とビジネスパートナーの視点からとらえて、最適な解を出そうとする姿勢も薄い。基本的にコスト以上にデザインが大事だ、というイデオロギーに染まっていて、結果として社会から排除されているんです。」と、自らの同業者に対しても手厳しい。

第5章。渋谷から池袋へ。

冒頭は、変貌著しい渋谷ターミナルの開発の話から始まる。隈さん自身も、超高層ビル「渋谷スクランブルスクエア」(東館)の設計に参加している。清野さんは「渋谷の『垂直都市化』は、このまちの無国籍化であり、グローバリズムの果ての光景だと思います」と批判的。それに対して隈さんは、「鉄道と道路インフラの複雑さを解くために、渋谷はアジアや中東の、自分のビルだけ目立てばいいという古くさいグローバリズムを超えることができたと僕は思います。その点においては、渋谷の再開発は世界標準をはるかに超えています。」と肯定的。二人は渋谷再開発を推進した東急電鉄の構想力、ビジョンの強さに感心する。そのまま渋谷と東急電鉄の話が続くと思いきや、隈さんは「こんな前振りの後ですが、僕は池袋のすごさを語りたい」と、話題が急転。

池袋駅は、1日乗降客数がJRでは新宿に次ぐ全国2位、私鉄と地下鉄では全国1位の巨大ターミナル駅だが、渋谷の持つ華やぎ、都会感に乏しく、新宿のように、すべてを呑み込むパワーにも欠けている。そんな池袋が、ここに来て、攻めの姿勢を強めているという。それも投資力のある民間企業でなく、豊島区という1つの特別区の行政主導によるもの。区庁舎の移転新築を皮切りに、「Hareza(ハレザ)池袋」の建設や、造幣局跡地の広大な防災公園の整備、「トキワ荘漫画ミュージアム」、電気バス「IKEBUS」の運行など、20件以上のまちづくりプロジェクトを同時進行させてきた。その目玉が豊島区の旧区庁舎跡地の再開発「Hareza池袋」で、地上33階の超高層ビル「ハレザタワー」と、メインホールの「東京建物Brillia HALL」が入るホール棟、「としま区民センター」の中層棟の3棟を新築。さらに隣接する「中池袋公園」と道路を合わせて整備したもので、豊島区一世一代の勝負といわれている。渋谷が超高層ビルを中心としたタワー型(垂直型)の再開発なのに対して、池袋は広場を中心としたスクエア型(水平型)の再開発だという。しかも世界の都市再生のトレンドである「ウォーカブル:歩けること」の流れをとらえていて、歩行者中心のエリアを拡大しようとしている。20世紀の都市は自動車優先だったけれども、21世紀には、その発想は時代遅れという認識が世界の潮流だという。地方の行政が駅前活性化に取り組むと、超高層ビルを建て、道路を拡幅し、その結果、街が空洞化して沈んでいくという悪循環の土木パターンに陥りやすい。池袋ではその誘惑を振り切って「文化」の方向に舵を切った。また、池袋と渋谷は、「ミッドタウン」や「ヒルズ」のように都市の中に「島」を作るという考えを超えているという。このような池袋の都市開発のきっかけとなったのが、2015年に誕生した「としまエコミューゼタウン」。区庁舎とタワーマンションを合体させた、地上49階地下3階の超高層建築で、デザイン監修は隈さん。本書の中でもたびたびマンションは都市・東京をダメにした張本人だと主張している隈さんが、このタワーマンションをどうデザインしたのか。「マンション自体がダメなわけではなく、日本における集合住宅の建て方、都市に対する閉じ方が問題なのだ」。このプロジェクトでは、マンションと街の接地面に注目し、「エコヴェール」と呼ばれる環境調整パネル(緑化、太陽光発電、リサイクル木材)を開発して、使用したという。その発想の原点は、東池袋周辺に密集していた木賃アパートだったという。戦後、数多く建てられた小さな木造民家の密集、いわゆる木賃アパートでは、軒先に盆栽を置いたり、すだれをかけたりして、住宅が街と接する時のマナーを守っていた。そのマナーとヒューマンなスケール 感を現代風にデザインしたのだという。

 2014年に日本創成会議・人口減少問題検討分科会が発表した「地方消滅」(中公新書)において、豊島区は、23区の中で唯一「消滅可能性」があると名指しされた。このショッキングな発表が区民の危機感を高め、思い切った改革が可能になったという。また豊島区は、他の街に比べ、開発が進まなかったぶん、都電荒川線など、夏目漱石が描いた明治、大正の空気を残している。「チンチン電車って、どんなに街を刷新しても消し切れない、過去のいろんな気配を運んでいる。そのタイムスリップ感がいい」と隈さん。そういうものを全部、不便だから、効率的じゃないからと一掃することが戦後日本の都市開発だった」と清野さん。「東京だけじゃなく、日本がいっせいにそっちに行ったことで、たまさかそれが残った場所が、今になってすごい財産に見える」と隈さん。

UR洋光台団地のリノベーション「ルネッサンスin洋光台」

話題は、池袋から、昭和の「団地」に移る。隈さんは「マンションではなく「団地」というものに非常に共感を持っている」という。「団地もチンチン電車と同じで、日本の近代が持っていた何かーーー要するに住居がマンションという商品に堕落してしまう以前の世界の、建築家やデザイナーの真摯な思いを伝えるものです。昭和30年代の団地黎明期に団地の設計に携わった人たちは、商品ではなく、人間の生活をデザインしようと本気で考えていた」隈さんは、JR根岸線の陽光台駅の駅前にある「陽光台団地」のリノベーション「ルネッサンスin陽光台」にディレクターアーキテクトとして参画している。隈さんは、賃貸住宅を上手に住みこなしていくことが重要だという。「設計者の側も、住宅を私有の資産としてとらえるのではなく、暮らしのクォリティを上げる装置、すなわち、一種の都市インフラとしてデザインしていくことが大切」「資産としての集合住宅という考え方は、高く買わせるためのワナみたいなもので、このワナにハマると、逆に生活の質を下げることにつながってしまう。僕が30年ぐらいかけて学習した結論です」と隈さん。

この後、話題は、日本の団地が誕生した歴史的な背景に及ぶ。日本住宅公団が全国各地に建設した団地のルーツは、第二次世界大戦前、ヨーロッパに盛んに建てられた集合住宅にある。戦後、コルビュジエ社会主義思想を住宅に翻訳したのがユニテ・ダビタシオン。その流れで都市のすべてを埋め尽くそうとしたのが旧ソ連。そのモダンな理想の部分だけを移植したのが日本の団地だった。しかしアメリカやイギリス、オランダなどでは集合住宅はすぐにスラム化して、長い寿命を持てなかった。一方、日本人は「団地」という全く新しい居住形態を受け入れて、うまく住みこなした。その理由が「ナチュラルな社会主義」ともいえる日本のムラ社会にあるのではないかと、二人は推測する。さらに隈さんはロンドンの金融街近くにある人気の集合住宅「バービカン・エステート」を例にあげて、団地が成功する条件を考察する。それは住民と文化だという。広い敷地の中には、共有のよく手入れされた庭があって、住民たちのコミュニティが良好に保たれている。バービカンにはコンサートホールやギャラリーなどの文化施設「バービカン・センター」があって、例えていうと、上野の文化エリアに集合住宅が建っているイメージだという。池袋の再開発のキーワードも「文化」である。それも借りてきた文化ではなく、その場所に住む人が育てた、その土地の植物みたいな文化が必要だという。一般に再開発を行うと、テナント料が高くなるため、ロウカルチャーが駆逐され、ハイカルチャーだけに偏ってつまらなくなる。それを免れた池袋はめずらしいケースだという。

終章。隈さんの「失われた10年

1980年代のバブル期、隈さんは鋭い切り口の建築批評で注目を集め、1991年に環状8号線沿いに建設されたマツダのショウルーム「M2」を手がけた。しかし「M2」は建築界やメディアで不評を浴び、またバブルが崩壊したこともあって、以後、東京での仕事が一切なくなる。まさに「失われた10年」となる。そして隈さんが東京に復帰するのは2002年、東銀座に完成した「ADK松竹スクエア」から。以後、「One表参道」(2003年)、「サントリー美術館」(2007年)、「根津美術館」(2009年)、「浅草文化観光センター」(2012年)、JPタワーの商業施設「KITTE」(2013)、「第五期歌舞伎座」改修(2013年)、「国立競技場」(2019年)と、東京のシンボル建築に次々に携わっていく。東京復帰のきっかけになったのは、栃木県の「那珂川町馬頭広重美術館」(2000年)と、北京郊外に作った「竹屋 Great Bamboo Wall」(通称『竹の家』2002年)が海外で評価されたことだという。隈さんは「失われた10年」の間、日本の地方で様々な建築を手がけている。そこでじっくりと風土と建築の関係性を勉強できたという。90年代、東京にいなかったことがむしろプラスになっていると語る。

東京が復活しつつある。

話題は、ここで、最近の東京の再開発に移る。東京の景観がパワーを取り戻しつつあるという。きっかけは、東京駅舎の復元と丸の内の再開発。駅前の広場からまっすぐに伸びた行幸通りが超高層ビルを従えて皇居のお堀に続く眺めには、都市の品格と現代性があり、「東京、やっぱりすごいだろ」と誰かれなく自慢したくなる、と清野さん。「再開発以前は、丸ビルと新丸の内ビルのあたりって、東京のどまん中なのに暗かったよね。こういったらなんだけど、場末感が漂っていたでしょう」と隈さん。まず丸の内仲通りを商業街に整備して賑わいを呼び込んだ。一帯を「大丸有(大手町・丸の内・有楽町)」と新しい呼び名にして、ビル単体ではなく、エリア一帯をマネージメントするという街づくりの潮流をいち早く取り入れた。その一方で東京駅丸の内駅前広場の方はごてごてと飾らず、余計なことをしていない。低層、煉瓦造りの駅舎は、ゼロ年代の潮流からすると、取り壊されて、超高層タワーになっていてもおかしくなかったけれど、そうしたら東京は首都の顔を失っていたという。三菱地所が丸の内の再開発で話題を集めていた頃は、影の薄かった三井不動産も、日本橋を拠点に本格的な再開発を仕掛けているという。また寺田倉庫が手がける天王洲の再開発、森ビルが創業の池で進める「虎ノ門ヒルズ」など、「地元」をキーワードに、東京の景観と賑わいが復活しつつあるという。

世代交代が始まっている。

東京が復活しつつある理由として、隈さんは、都市開発の意思決定者や現場に、コンプレックスのない新しい世代が就くようになったからだという。「高度経済成長時代は、近代とか西洋に憧れたオールドジェネレーションと団塊の世代が、土木と建築界を牛耳って、鉄、コンクリート、効率といったものを祭りあげたけれど、今は、都市開発の当事者に、そういうトラウマがなくなってきたんですよ」と隈さん。

建築家の系譜。

では建築家の方の世代交代はどうなんだろう。ここで清野さんは、戦後の建築家の系譜を概観する。丹下健三(1913年生まれ)を第一世代として、槇文彦(1928年)、磯崎新(1931年)、黒川紀章(1934年)らが第二世代。安藤忠雄(1941年)、伊東豊雄(1941年)、山本理顕(1945年)らが第三世代。その後、内藤廣(1950年)、隈研吾(1954年)、妹島和世(1956年)、青木淳(1956年)、坂茂(1957年)の第四世代がいて、現在は70年代生まれの藤本壮介(1971年)、平田晃久(1971年)、石上純也(1974年)、中村拓志(1974年)、田根剛(1979年)といった人たちにつながっている。黒川紀章など第二世代までは、20世紀型の建築家すごろくに乗っかっていればよかったという。最初は実家とか親戚とかの家を設計して、自分のキャラクターをアピールする。そこから小さな美術館、次にもう少し規模の大きい文化施設、さらに大きな公共施設・・・というようにコマを進めていけばよかった。ところが安藤忠雄など第三世代になると、国内の需要が満たされてしまい、それまでの安定したレールがゆらぎ始める。隈さんの世代になると、国内だけでは仕事が回っていかなくなった。その後の世代の建築家たちは、さらに縮小したマーケットで戦っているという。隈さんは、宮崎晃吉(1981年)が谷中でプロデュースする「hanare」を紹介する。それはイタリアで注目されている「アルベルゴ・ディフューゾ(分散型宿泊施設)」の東京版といえるもので、下町に点在する物件を1つはレセプションに、もう1つは客室にと機能を分散させることで、宿泊者がまち全体を体験できるように設計するという。隈さんは、クライアントがいて、建築家が起用されるという従来のシステムではなく、建築家自らがクライアントになって、自らリスクを負って建築に向き合うことが、建築と社会の新しい関係を作っていくという。「今、建築家をめざすなら、自分の名前を売る仕事ではなく、楽しいと思える仕事に足を突っ込んじゃうほうがいい。建築家の意識が、そっちの生の社会に方に向いていかないとダメだと思ってる」と隈さん。最後は、建築家という枠組みを超えて、様々な分野に進出していく建築家を紹介していく。コーヒースタンドのオーナー、自作のケーキをカーゴバイクで行商するケーキ屋さん、下町に喫茶ランドリーを開業した建築家・・・。オオバコの中で働くサムライというサラリーマンのシステム、日本型の終身雇用制が崩れ、彼らがのさばっていた社会が本格的にダメになろうとしている。コロナ禍によって、ゼロ年代から盛んになった新自由主義グローバリズムの弊害を、ようやくみんなで共有できるようになったという。「これから、本当に楽しい時代が始まります」と隈さん。本当かなあ。

読み終えて。

本書を読んで、いろんなことを考えた。隈さんの「戦後、『土地の私有』というものが発明され、国全体がその流行り病に冒されていくようになってから、日本はダメになっていった」という主張。僕も、バブルの頃、その流行り病に冒され、分譲マンションを購入した。さらに阪神大震災のあと、長いローンを組んで、新しいマンションに買い替えた。定年後、退職金でローンの残りを返済すると、蓄えは少ししか残らず、年金で細々と生き延びる暮らしになった。高いローンを組んでマンションを購入したことは果たして正解だったのか?隈さんが言ってるように、マンションを購入したことで生活の質が下がったということはないだろうか?今後も、今のマンションに住み続けることがいいのだろうか?隈さんが構想している、都心の高齢者向けのシェアハウスのような住まい方もアリなのかなと思ったりしている。

僕の「都住創」の記憶。

隈さんが大阪の「都住創」コミュニティに通っていた頃、僕もクリエイティブ業界の端っこにいたので、その種の集まりに1、2度行ったことがあると思う。「と思う」と書いたのは、当時、どこの「都住創」にどういう経緯で、誰と行ったか、記憶が曖昧なせいだ。たぶん当時勤めていた会社の社長か先輩に連れていってもらったのだと思う。バブルのまっさかりの時代だった。僕よりふた回りぐらい年上のリッチそうなおじさん、おばさんたちが元気いっぱいで飲んだり喋ったりしていて、なんだか眩しくて、気おくれして、その場に溶け込めなかったことを覚えている。自分も、いつか成功して会社を経営するようになって、この人たちの仲間入りができる日が来るのだろうか、と思ったことも・・・。バブルがはじけたあと、あの熱気の中にいた人たちの中には、廃業したり、倒産したり、亡くなったりした人も少なくないのだろうと思う。隈さんも「都住創」の渦の中に飛び込み。その混乱に呑みこまれ、大きな傷を負いながら生き延びて、今があるのだろう。

 

村上春樹「猫を棄てる」

「小さな本」だ。

ハードカバーの新書サイズでページ数も100ページほど。台湾のイラストレーターによる叙情的な挿画ページもしっかりあるので、本文はさらに短い印象を受ける。1時間ほどでスルッと読めた。しかし、この「小さな本」の読後感は、長編小説を読み終えた時のように重く充実している。

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 父にまつわる、少し不思議な記憶から始まる。著者が子供時代に夙川に住んでいた頃、飼っていた猫を、父親と自転車で香櫨園の浜に棄てに行った記憶。猫を置いて、そのまま自転車を走らせて家に帰って、玄関を開けると中から、棄ててきた猫が「ニャア」と出迎えた。棄ててきたはずの猫を見た時、呆然とした父の顔は、感心したような顔に変わり、最後にはほっとした顔になった。結局、そのまま飼い続けることになったという。父親とのちょっと奇妙な思い出をきっかけに、私小説風にサクッと語りそうな軽やかな導入部だが、読み進めるにつれて、まったく違う印象が立ち上がってくる。次に父親に関するもうひとつの記憶が語られる。

死者に祈る父。

著者が語る父親のもうひとつの記憶は、毎朝、朝食をとる前に仏壇に向かって長い時間目を閉じて熱心にお経を唱えていたことだという。著者の知る限り、父はそのおつとめを1日たりとも怠らなかった。そして誰にもその行いを妨げることができなかったという。著者は子供のころ、父に誰のためにお経を唱えているのか、たずねたことがあった。すると父は「前の戦争で亡くなった人たちのためだと。そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだ。」と語った。この話は、2009年に著者がエルサレム賞を受賞した時のスピーチの中でも語られている。そして、著者は、ここから、父の生い立ちをたどりながら、著者自身の中にある父の記憶を読み解いていこうとする。父は、京都のお寺の次男として生まれ、僧になる教育を受けた。俳句に打ち込み、京都帝国大学の文学部へ進んだ。前半生というか、少年時代は、丁寧ではあるが、さらりと済ませる感じ。陸軍に召集されるあたりから、空気が重苦しくなっていく。

3回の招集と日中戦争

父親は3回召集され、そのうち1回は、日中戦争に出征している。2度目は太平洋戦争直前だったが、上官の配慮で?除隊。3度目は前線に行く前に終戦を迎えている。著者は父が属していた部隊のことを丁寧に調べている。戦史を調べ、当時を知る人の話を聞き、きっと部隊の拠点だった福知山も訪れているだろう。日中戦争での体験は過酷だったようだ。戦後、父は、自分の属していた部隊が中国兵の捕虜を殺害していた話を少年だった著者に語っている。著者は、父親が入隊した部隊が南京陥落に関わっていたのではないかと長い間疑っていたという。(調べてみると父親の入隊が南京陥落の1年後であることがわかって、ほっと安堵するという記述がある)父が属していた部隊は、太平洋戦争が始まると南方に送られ、悲惨な戦闘を戦い、終戦時には96%が死亡するという全滅に近い状態に追い込まれている。日中戦争での記憶、そして自分が除隊した部隊が全滅に近い状態に追い込まれたことは、父の心に深い傷跡を残した。エルサレム賞のスピーチの中で、著者は、毎朝お経を唱える父の周りには死の影が漂っていたと語っている。

ある時期からの村上春樹の小説を読んでいて、僕には理解できないことがあった。それは作品の中に現実の戦争が出てくることだ。「ねじまき鳥のクロニクル」にはノモンハン事件の話が、「1Q84」には満州開拓団の話が、「騎士団長殺し」では南京虐殺の話が出てくる。僕にはそれが随分唐突に感じられた。著者がそれまで描いてきた「物語」の世界との現実の戦争の話の関係が見えなかったからだ。ノモンハン事件に関しては、紀行エッセイ「辺境・近境」に収められた「ノモンハンの鉄の墓場」の中で「子供のころから『どうしてかわからないけれど』取り憑かれてしまった」と書いている。そんなこともあるのかなあ、と、いまひとつ納得できなかった。しかし本書を読むと、その原点は、著者が意識していたかどうかに関わらず、間違いなく、父が体験した「戦争」だったのだとわかる。毎朝欠かさず仏壇に向かって長いお経を唱えていた父。その周囲には死の影が漂っていたという。そんな父を毎日のように見ていた著者が影響を受けないはずはない。父の属していた部隊が南京虐殺に関わっていたかもしれないという疑いも、父の記憶に暗い影を落としていただろうと思う。戦争の体験は、父だけでなく、息子である著者にも深刻なトラウマとなって受け継がれていった。著者は、その「異物」を抱えて、小説を書き続けてきたのだ。やがて「異物」は著者の中で成長し、作品の中に姿を現し始める・・・。それが「ねじまき鳥クロニクル」のノモンハン事件であり、「騎士団長殺し」の南京虐殺だった。

 父親と向き合う。

本書を読み終えた後、父親の人物像に変化がないことに気づかされる。棄ててきた猫が戻ってきた時に父が見せた呆然とした顔。毎朝、目を閉じて長い時間お経を唱えていた横顔。冒頭で語られた父のイメージは、本書を読み終えた後もほとんど変化しない。どんな人だったのか、どんな顔だったのか?どんな声だったのか?父親の具体的な人物イメージがどうしても鮮明な像を結ばないのである。本書の中には「 」で表現されるような父の「肉声」の部分がない。父の言葉は、すべて著者の地の文章の中で語られている。著者と父親の関係には軋轢があり、20年近くも互いに連絡もとらない時期があったという。二人が和解のようなものにたどり着いたのは、父が亡くなる直前だったという。本書の中には父子の対立や軋轢の具体的な様子はほとんど書かれていない。著者の作品は「父親が不在」であると言われてきた。しかし、著者の中には、ずっと父親の存在が、ネガティブな形で居座り続けていたのだと思う。本書は、著者が、自分の中の父親と初めて向き合おうとした思索の足跡なのだ。そこには「戦争」というものが深い影を落としている。

卵にとっての戦争。

エルサレム賞の受賞スピーチで語った「卵と壁」の話でいうと、著者は本書の中で「押しつぶされる卵」の側から見た「壁としての戦争」を語ろうとしたのではないか。著者は、本書の中で、戦争の是非を語っていない。南京虐殺についても「あったと正直に語る人もいれば、そんなものはなかったと否定する人もいる」と紹介するのみである。それよりも戦争というものが、どれほど個人の人生を翻弄し、変えてしまい、深い傷を負わせるものなのかを書こうとしている。

冒頭にも書いたが、本書の読後感は、長編小説を読んだ後のように重く充実している。村上作品を読み続けてきた読者なら、きっと同じ思いを抱くだろう。この本には、著者がこれまでたどってきた作家としての道程の全体をくっきりと照らし出すような「作用」がある。読者は、この本を読みながら、同時に、過去の作品を、以前とは違う光源の下で読んでいるのである。