村上春樹「街とその不確かな壁」

また、そこに戻っちゃうの?

というのが、読み始めての印象。

第一部は、1985年発表の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の中の「世界の終わり」の部分と、1987年発表の「ノルウェイの森」を、三十数年後にもう一度読み読み直している感じ。というより、僕らが読み続けてきた村上作品とは、結局のところ同じ物語を繰り返し読まされているんじゃないのかな。鏡の部屋。どちらを向いても写っているのは無限に続く自分の姿みたいな。第二部に入ると、物語は動き出し、新たな展開が始まるのだが、物語の輪が閉じているというか、気がつくと同じ場所に戻っている。著者にとって「愛する人の喪失」というモチーフは、そこから決して逃れることができない「取り返しのつかない原罪」なのかもしれない。

閉じられた物語。

17歳の「僕」と16歳の「君」のピュアな恋。そして「君」の失踪。さらに「君」が語った「街」の物語。小説は、その輪の中で展開していくが、決してその外側に出て行こうとしない。「1Q84」で、外に向かって出て行こうとした著者が、本書では内に向かって再び世界を閉じてしまっている。著者がこれほどまでに「喪失の物語」にとらわれ続けるのはなぜだろう。きっと著者は、若い時に、決して忘れることができない出会いと喪失を体験し、そのトラウマに今も囚われているのだろう。本書の中で著者は、彼女が姿を消してしまう理由というか、そのきっかけに「性」の問題があったことを匂わせている。第二部で登場するコーヒーショップの女性も、「性」の問題を抱えている。

「街」と「風景構成法」。

本書に登場する「街」は、、三十数年前に読んだ「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の中の「世界の終わり」の部分で描かれた「街」とほぼ同じである。そして1980年に発表された「街と、その不確かな壁」の街ともほぼ同じである。その街は、彼女の頭の中に存在し、主人公が彼女から聞き出した架空の街である。彼女がいなくなった後も、主人公は、街の細部まで記憶している。今回、本書を読んで「世界の終わりと・・・」を読んだ時とは「街」の印象が違っていると感じた。「世界の終わりと・・・」では、街は、2つのパラレルワールドの一つとして描かれ、二つの世界はリンクしていた。しかし、本書の中では、「街」はあくまでも彼女と主人公の空想の中に存在するだけである。本書を読んでいて思い出したのが、以前読んだ最相葉月のノンフィクション「セラピスト」の中で紹介されていた心理療法のひとつである「風景構成法」という芸術療法のことだ。「風景構成法」とは、今年亡くなった精神科医中井久夫が考案した芸術療法の一つで、もともとは河合隼雄が日本に紹介した「箱庭療法」を中井久夫が発展させた心理療法である。セラピストが画用紙とサインペンを用意する。セラピストは画用紙に四角い枠を描いた後、クライアントに画用紙とサインペンを渡し、11のアイテム(川、山、道、家、木、人、花、動物、石、足りないと感じるアイテム)を伝え、好きなように描かせていく。さらにクレヨンで色を塗る。それ以前の精神医学では、医師とクライアントは、言葉によってコミュニケーションを取るしかなく、どうしても意味や因果律に縛られた診断や治療しかできなかった。それを意味や概念から解放された「イメージ」によって患者の心象を捉えてゆく。中井久夫は、この風景構成法によって統合失調症の治療に目覚ましい成果をあげたという。

街と壁の風景。

枠(壁)があり、川が流れ、道が伸び、家があって、人や動物がいる…。風景構成法で描枯れた、シンプルで抽象化された「風景」。それは、本書の中の「街」に似ていないだろうか。後半に登場する「イエローサブマリンのパーカを着たサヴァン症の少年」は主人公から聞いた「街」の話を精密な地図を描くことで主人公と対話しようとする。言葉ではない、視覚的な空間イメージによって描かれた「街」のイメージ。それは、かつて、恋人が主人公に必死に伝えようとした痛切なメッセージではないか。だからこそ彼は、街の記憶を繰り返し反芻し、子易さんやサヴァン症の少年に語りかけ続けたのではないか。「街」を通して、彼は通常の因果律が成立しない「地下2階の世界」=「黄泉の国」へ降りて行こうとしたのではないか。そこでは失われた恋人が今も生き続けているのかもしれない。

40年後の書き直し。

あとがきによると、本書は、1980年に雑誌「文学界」に発表された「街と、その不確かな壁」を核に執筆されたという。当時、著者はその作品に満足できず、書籍化せずに、いつか然るべき時期が来たらじっくり手を入れて書き直そうと思っていたという。著者はまた「この作品には自分にとって何かしらとても重要な要素が含まれていると感じ続けていた」という。