村上春樹「猫を棄てる」

「小さな本」だ。

ハードカバーの新書サイズでページ数も100ページほど。台湾のイラストレーターによる叙情的な挿画ページもしっかりあるので、本文はさらに短い印象を受ける。1時間ほどでスルッと読めた。しかし、この「小さな本」の読後感は、長編小説を読み終えた時のように重く充実している。

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 父にまつわる、少し不思議な記憶から始まる。著者が子供時代に夙川に住んでいた頃、飼っていた猫を、父親と自転車で香櫨園の浜に棄てに行った記憶。猫を置いて、そのまま自転車を走らせて家に帰って、玄関を開けると中から、棄ててきた猫が「ニャア」と出迎えた。棄ててきたはずの猫を見た時、呆然とした父の顔は、感心したような顔に変わり、最後にはほっとした顔になった。結局、そのまま飼い続けることになったという。父親とのちょっと奇妙な思い出をきっかけに、私小説風にサクッと語りそうな軽やかな導入部だが、読み進めるにつれて、まったく違う印象が立ち上がってくる。次に父親に関するもうひとつの記憶が語られる。

死者に祈る父。

著者が語る父親のもうひとつの記憶は、毎朝、朝食をとる前に仏壇に向かって長い時間目を閉じて熱心にお経を唱えていたことだという。著者の知る限り、父はそのおつとめを1日たりとも怠らなかった。そして誰にもその行いを妨げることができなかったという。著者は子供のころ、父に誰のためにお経を唱えているのか、たずねたことがあった。すると父は「前の戦争で亡くなった人たちのためだと。そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだ。」と語った。この話は、2009年に著者がエルサレム賞を受賞した時のスピーチの中でも語られている。そして、著者は、ここから、父の生い立ちをたどりながら、著者自身の中にある父の記憶を読み解いていこうとする。父は、京都のお寺の次男として生まれ、僧になる教育を受けた。俳句に打ち込み、京都帝国大学の文学部へ進んだ。前半生というか、少年時代は、丁寧ではあるが、さらりと済ませる感じ。陸軍に召集されるあたりから、空気が重苦しくなっていく。

3回の招集と日中戦争

父親は3回召集され、そのうち1回は、日中戦争に出征している。2度目は太平洋戦争直前だったが、上官の配慮で?除隊。3度目は前線に行く前に終戦を迎えている。著者は父が属していた部隊のことを丁寧に調べている。戦史を調べ、当時を知る人の話を聞き、きっと部隊の拠点だった福知山も訪れているだろう。日中戦争での体験は過酷だったようだ。戦後、父は、自分の属していた部隊が中国兵の捕虜を殺害していた話を少年だった著者に語っている。著者は、父親が入隊した部隊が南京陥落に関わっていたのではないかと長い間疑っていたという。(調べてみると父親の入隊が南京陥落の1年後であることがわかって、ほっと安堵するという記述がある)父が属していた部隊は、太平洋戦争が始まると南方に送られ、悲惨な戦闘を戦い、終戦時には96%が死亡するという全滅に近い状態に追い込まれている。日中戦争での記憶、そして自分が除隊した部隊が全滅に近い状態に追い込まれたことは、父の心に深い傷跡を残した。エルサレム賞のスピーチの中で、著者は、毎朝お経を唱える父の周りには死の影が漂っていたと語っている。

ある時期からの村上春樹の小説を読んでいて、僕には理解できないことがあった。それは作品の中に現実の戦争が出てくることだ。「ねじまき鳥のクロニクル」にはノモンハン事件の話が、「1Q84」には満州開拓団の話が、「騎士団長殺し」では南京虐殺の話が出てくる。僕にはそれが随分唐突に感じられた。著者がそれまで描いてきた「物語」の世界との現実の戦争の話の関係が見えなかったからだ。ノモンハン事件に関しては、紀行エッセイ「辺境・近境」に収められた「ノモンハンの鉄の墓場」の中で「子供のころから『どうしてかわからないけれど』取り憑かれてしまった」と書いている。そんなこともあるのかなあ、と、いまひとつ納得できなかった。しかし本書を読むと、その原点は、著者が意識していたかどうかに関わらず、間違いなく、父が体験した「戦争」だったのだとわかる。毎朝欠かさず仏壇に向かって長いお経を唱えていた父。その周囲には死の影が漂っていたという。そんな父を毎日のように見ていた著者が影響を受けないはずはない。父の属していた部隊が南京虐殺に関わっていたかもしれないという疑いも、父の記憶に暗い影を落としていただろうと思う。戦争の体験は、父だけでなく、息子である著者にも深刻なトラウマとなって受け継がれていった。著者は、その「異物」を抱えて、小説を書き続けてきたのだ。やがて「異物」は著者の中で成長し、作品の中に姿を現し始める・・・。それが「ねじまき鳥クロニクル」のノモンハン事件であり、「騎士団長殺し」の南京虐殺だった。

 父親と向き合う。

本書を読み終えた後、父親の人物像に変化がないことに気づかされる。棄ててきた猫が戻ってきた時に父が見せた呆然とした顔。毎朝、目を閉じて長い時間お経を唱えていた横顔。冒頭で語られた父のイメージは、本書を読み終えた後もほとんど変化しない。どんな人だったのか、どんな顔だったのか?どんな声だったのか?父親の具体的な人物イメージがどうしても鮮明な像を結ばないのである。本書の中には「 」で表現されるような父の「肉声」の部分がない。父の言葉は、すべて著者の地の文章の中で語られている。著者と父親の関係には軋轢があり、20年近くも互いに連絡もとらない時期があったという。二人が和解のようなものにたどり着いたのは、父が亡くなる直前だったという。本書の中には父子の対立や軋轢の具体的な様子はほとんど書かれていない。著者の作品は「父親が不在」であると言われてきた。しかし、著者の中には、ずっと父親の存在が、ネガティブな形で居座り続けていたのだと思う。本書は、著者が、自分の中の父親と初めて向き合おうとした思索の足跡なのだ。そこには「戦争」というものが深い影を落としている。

卵にとっての戦争。

エルサレム賞の受賞スピーチで語った「卵と壁」の話でいうと、著者は本書の中で「押しつぶされる卵」の側から見た「壁としての戦争」を語ろうとしたのではないか。著者は、本書の中で、戦争の是非を語っていない。南京虐殺についても「あったと正直に語る人もいれば、そんなものはなかったと否定する人もいる」と紹介するのみである。それよりも戦争というものが、どれほど個人の人生を翻弄し、変えてしまい、深い傷を負わせるものなのかを書こうとしている。

冒頭にも書いたが、本書の読後感は、長編小説を読んだ後のように重く充実している。村上作品を読み続けてきた読者なら、きっと同じ思いを抱くだろう。この本には、著者がこれまでたどってきた作家としての道程の全体をくっきりと照らし出すような「作用」がある。読者は、この本を読みながら、同時に、過去の作品を、以前とは違う光源の下で読んでいるのである。