隈研吾・清野由美「変われ!東京 自由で、ゆるくて、閉じない都市」

世の中、あっちもこっちもクマ、クマ、クマ!なんで?

2007年のサントリーミュージアムあたりからだろうか。根津美術館歌舞伎座の改修、国立競技場、高輪ゲートウェイ駅、渋谷スクランブルスクエアなどなど・・・。東京における話題の建築は、隈研吾の一人勝ちみたいな感じ。建築はまるきり素人の僕が彼の作品を語ることはできないけれど、彼の著作は面白いのでわりと読んでいる。本書は、以前に読んだ同じコンビによる「新・都市論TOKYO」、「新・ムラ論TOKYO」に続く3冊目。前の2冊は痛快な本だった。建築家と辛口ジャーナリストが東京の注目スポットを訪ね歩きながら会話していくという企画である。建築家にジャーナリストがインタビューする、というより、もっと、ゆるくて、お互いにタメ口をきくような掛け合いが絶妙。この感じ、別の本でもあったな、と思ったら、村上春樹と川上未央子の対談「みみずくは黄昏に飛びたつ」が少し近いかも・・・。前の二作でも、二人が、時には辛辣に、時にはユーモラスに、東京の今を批評していった。清野氏の的確なトレンド総括も小気味よかった。どうでもいいことだけど、隈研吾氏と僕は1954年生まれの同い年。そのせいか、なんとなく同時代の匂いみたいものを感じる。ちなみに同年生まれの著名人は、安倍晋三ユーミン麻原彰晃ゴジラなど。なので、勝手に親しみをこめて、以後、隈さんと呼ばせてもらおう。本書を読んで、隈さんが多くの建築に起用される理由が少しだけわかった気がした。

「これ、誰が書いたんですか?」冒頭からツッコミ。笑えるほど面白い本。

本書の「はじめに」の文章は、隈さん自身が書いている。ちょっと生真面目な都市論だ。都市は、疫病などの災厄に見舞われた時、変わるという話。ふんふんと読み終えて、第1章の対談へ進む。すると、いきなり清野さんが隈さんにツッコむ。「『はじめに』を読んでびっくりしました。これ、誰が書いたんですか」隈さん「僕です」清野さん「不遇で、ナイーブな建築青年の筆じゃないですか。国立競技場、高輪ゲートウエイ駅、渋谷スクランブルスクエアにも携わり、(中略)そんなプロジェクトを手がける円熟の建築家とは程遠い感じです」とタメ口で畳みかける。こんな二人の距離感が本書を面白くしている。第1章では、まず清野さんが前作、前々作からの総括を行う。ゼロ年代当初は、六本木ヒルズ、汐留再開発、ミッドタウンなど、東京が超高層都市に変貌する節目となった。名だたる企業が都心に超高層の自社ビルを建てることがステイタスとブランドバリューの上昇に直結していた。ジャン・ヌーヴェルが設計した電通本社ビルは美しかった、と。その後、リーマンショックがあり、東日本大震災が起きた。IT革命がどんどん深化し、GAFAなど、超高層本社ビルにこだわらない企業が増加。今では大企業でさえもシェアオフィスを積極的に利用するようになっている。隈さんは「コロナ禍を経て、超高層ビルで朝から深夜までバリバリと働くことは、ますます時代遅れになっている」という。「かつて建築設計事務所は、知的だけれど、ブラック労働の筆頭だった」と清野さん。隈さんも「残業しても、過労死しそうになっても、いい建築を作れ!なんていうのは、武士道そのままじゃないですか」「都市にも、建築にも、会社にも、いよいよ武士の時代の終焉が来ている。」そして「武士よ、さらば」「おサムライさん、さよなら」の時代なんですよ。と隈さん。ここから隈さんの最近の建築に話題が移っていく。清野氏によると、前作、前々作から一番変わったのは、「外部の批評者であった隈研吾が、今では、内部の当事者になっている」ことだという。

中目黒スタバロースタリー。

清野さんが隈さんの建築でいちばん注目しているのは中目黒の「スターバックス リザーブ ロースタリー」。その空間には、今までの隈研吾にはなかった女性性が感じられるという。これはスタバ内部のデザインチームとのコラボレーション(協働)によるのではないかと分析する。清野さんは、隈さんと似ている小説家として村上春樹をあげ、「騎士団長殺し」は素晴らしい物語、素晴らしい言語感覚、素晴らしい出来上がりで、文句なく面白いが、そのモチーフは全部、自己模倣になってしまっている。世界中で60以上のプロジェクトが同時進行しているという隈さんの建築にもそういう嫌いがないとは言えないという。それを救っているのが他者とのコラボではないかと考察する。前作からの総括と隈さんの近況を軽く語ったあと、対談は大きなテーマに移っていく。

「なぜ東京は世界中心都市のチャンスを逃したか」

清野さんは、このテーマを語るための補助線としてジャック・アタリの「21世紀の歴史」を持ち出してくる。この本の中では、13世紀に資本主義が現れた時から、「世界中心都市」の移り変わりについて、歴史を俯瞰している。ベルギーのブルージェにはじまり、ヴェネツィアアントワープジェノバと続き、18世紀にはロンドン、19世紀には、ボストン、20世紀のニューヨーク、ロサンジェルスと続いてきた。アタリによる「世界中心都市」の定義とは「クリエイター階級が新しさ、発見への情熱を燃やす場所」だという。「クリエイター階級」とは、歴史的にいうと海運業者、起業家、商人、技術者、金融業者、芸術家、知識人など、都市が発展する原理を牽引する人たちのことを指す。都市の成長原理が変化すれば、その活力を担うクリエイター階級も交代する。残念ながら、この変遷の中には東京は入っていない。アタリによれば、東京は、1980年代後半、ニューヨークとロサンジェルスの間の時期に、世界の中心になるチャンスがあったという。日本はそのチャンスを逃した。そしてロスの次は、日本を素通りして、中国、東南アジア方面に行ってしまったという。その理由を、アタリは3つあげている。1つめは「並外れた技術のダイナミズムを持つにもかかわらず既存の産業・不動産から生じる超過利得、官僚周辺の利得を過剰に保護した」。2つめは「将来性のある産業、イノベーション、人間工学に関する産業を犠牲にして来た。特に情報工学の分野」。3つめは「『近代』に対する強い憧れがあったにもかかわらず、官僚の排他的な特権階級制度を粘り強く修復し、その権力に畏怖しながら、過去の栄華に対するノスタルジーに浸ってきた」。隈さんにも「80年代に東京が持っていたある種のエネルギーと財力を駆使したならば、もう少し東京を面白くできたのに」という思いがあるという。しかし、そうはならなかった。「財力と勢いがあった時の、日本のアーバンデザインと建築のリーダーは、簡単にいえば考え方が古くさかった。要するに、僕がいう『武士』『おサムライさん』だった」。日本を代表するデベロッパー企業が、その時、何をしていたかというと、ニューヨークのロックフェラーセンターを買っていた。ついでに世界の反感も買っていた。新しい事業を開拓しないで既成の権威を高い値段で買って、バブルが崩壊するとその大半を手放した。まさしくアタリが言う「既存の産業・不動産から生じる超過利得」だけを狙って見事にコケたのだ。「既成の価値観に縛られているだけで、自分たちで新しい価値観を作っていこうという自信と意欲のある人が日本にはいなかった」。「クリエイティブなはずの建築家やデザイナーまで、僕のいうダメな『武士』だった」という。隈さんは、そんなバブル時代の先達たちを見ていたから、あれじゃいけないと思って、外へ飛び出そうとしたという。2つめの理由、「将来性のある産業、イノベーション、人間工学に関する産業を犠牲にして来た」もそこにつながる。iPhoneiPodなど、アップルの製品は、とりわけ初期のものには日本製の高性能な部品が50%以上も使われていた。技術者たちは「あんなの、作るのは簡単だよ」と後から言っていたけれど、作れなかった。イノベーションが起こせなかったのだ。

 「土地の私有」が日本をダメにした。

この辺りから隈さんの主張が始まる。「戦後、『土地の私有』というものが発明され、国全体がその流行り病に冒されていくようになってから、日本はダメになっていった」「土地の私有」とは、つまり「持ち家願望」のことで、その根底には土地の値段が永遠に上がっていくという神話があった。現在の土地価格の下落や空き家の急増を見ても土地神話が幻想にすぎなかったことがわかるが、バブル時代は大企業までもその幻想に染まっていた。「『持ち家願望』はサラリーマン労働者を企業に縛りつけるための、有効な動機づけでした。サラリーマンは、一生かけたローンを組んで自分の夢を買わされ、そのローンを返すためにサラリーマンである自分から逃れられなくなる。そんな自分たちを肯定するために、彼はサラリーマンの価値観を世の中全体に押しつける」「『なぜ東京は世界中心都市になれなかったのか』という大きな問いに対する僕の答えは、『日本社会の一億総サラリーマン化』。それに尽きます」と隈さん。

都市を破壊した「マンション文化」と「相続税

隈さんは、さらに「東京の場合は、あまりに土地の価格が高いものだから、持ち家願望がマンションの占有面積所有に置き換わり、幻想の対象がさらに細分化されてきた」という。そして「マンション文化というものが、東京という都市が本来持っているきめ細かさ、人間同士が触れ合う関係性など、いろいろな魅力を破壊してきた元凶だ」とも。

外国から来る建築の専門家は、「東京のオフィスは世界水準だけど、レジデンス(集合住宅)は何であんなに貧相なのか」と言ってくる。東京の醜いグレーの街並みの大半は、相続税対策で切り売りされた土地に建ったマンションや雑居ビルであるという。東京に限らず、京都や鎌倉でも、相続税の負担に耐えられなくて、由緒あるお屋敷や土地を売ることが常態化している。隈さんによると「相続税が日本の税収に閉める割合は、たったの3%でに過ぎず、それでいて、街並みが持つ歴史性、それを介して人々が育んできた街への愛着をずたずたにしてしまう」という。

「戦後75年が経ち、戦後の高度成長と人口増加の時代が終わり、時代は経済縮小、マイナス金利、人口減少、少子化という、昭和とは180度違う方向に進んでいるのに、高度成長時代の「集団の存続が第一目標で、その目的を忖度して個人の決定を行う人たち」の考え方と行動様式が温存されているのは悲劇でしかない」と隈さん。「日本では、アタリがいうクリエイター階級であるところの技術者、研究者もサラリーマン化している。今からでも遅くないので、国も企業も個人もクリエイター階級の育成に向かうべき」と清野さん。「それこそエネルギーと財力があった80年代に、国家と企業が率先して取り組むべきことだった。でも、今さらウダウダ言っても仕方ないよね」と隈さん。

「小さな東京」に未来がある。

そして隈さんは「世界の中心都市にするために東京を何とかしようとは思わない。僕は僕にできることを静かにやり続けていくだけ。建築家である僕がゲリラ的に、すなわち反サムライ的にできることはたくさんある」と語る。続けて「建築家というのは、社会的に何かを提案したとしても、お金を出すのは別の人が多いので、自分で責任をとらないところがある。でも建築家として次に行くためには、自分で企画し、お金を用意し、建物を建て、運営まで責任をとる形を見せないとダメなんじゃないか」という。それは国立競技場とも、JR高輪ゲートウエイ駅、渋谷スクランブルスクエア、そしてスタバロースタリーとも違うことだという。隈さんは「もっと小さく、もっとボロく、もっと等身大で親密なところに未来はあると思うんです」と語る。

小泉純一郎内閣によって2000年代初頭に規制緩和が行われて以来、都心、郊外、地方で乱立するタワーマンション。土地所有の幻想はマーケティングやコンサルによってますます洗練されていく。ガラス張りのロビー、図書室、プールとか、共有部分は異常にかっこよくして、居室部分は意外に安っぽい…。隈さんは、建設業界という現場にいて、そのシステム先行きの暗さを実感するようになったという。そして彼が選んだのは、自らがシェアハウスの大家さんになることだった。

シェアハウスと「都住創」。

第二章は隈さんが大家を務めるシェアハウスの探訪記から始まる。東京・神楽坂の静かで穏やかな雰囲気の住宅街に2012年に建てられた「シェア矢来町」は地上3階建て、敷地面積は35坪(約116平方メートル)。設計は篠原聡子さん(空間研究所:隈さんの奥様)+内村綾乃さん(A studio)、家具・内装はタイチクマ(隈さんの息子さん)。2014年に日本建築学会賞を受賞している。設計者の一人である内野さんが住民として住んでいて、管理人も務めている。居室は8つあり、そのうち1つはゲストルーム。1階にシャワールームなどの水回りとユーティリイティ、3階にキッチンとリビング、1、2階にトイレという構成。家賃は7万3千円と共益費1万2千円の計8万5千円で,採算ぎりぎりだという。

サラリと「シェア矢来町」の紹介をしたあと、隈さんは「都住創」の話を告白する。これは初めて聞く話だ。1985年、隈さんは、大阪で中筋修さんという「ものすごく面白いおっさん」と出会う。中筋さんは安原茂さんという建築家と一緒に「ヘキサ」という設計事務所を立ち上げ、「都住創(都市住宅を自分たちの手で創る会)」という一種の住宅革命運動を進めていた。中筋さんは日本ではじめてコーポラティブハウスというものを実現した人で、マーケットありきではなく、純粋に自分たちが面白がろうというゲリラ的発想からはじまったという。隈さんはそんな「都住創」のマンションに遊びに行って、自分の“建築”観と“建築家”観が変わるぐらい衝撃を受けたという。以下引用。「まず、関わっている人たちが、大阪のヘンなおっさん、おばさんたちで、サラリーマン社会の常識の外にいる人たちだった。「都住創」のマンションには住人以外にも、毎晩のように、そういう面白くて、ちょっとおかしい人たちが集まって、家を開いた空間として、みんなで住みこなしていたんです。それも、ただわいわい楽しく飲んでいるだけじゃなくて、若いアーティストを応援する前衛的な展覧会を開いたり、教室や講演会を開いたりしていた。そういう使い方も含めて、建築家がハードだけでなく生活全体をデザインしている感じでした」。

「中筋さんがデザインした建物は建築雑誌に載るような「作品」ではなくて、もっとぐちゃぐちゃなもの。とてもじゃないけど「美しい」と言えるものではなかったのですが、その「下手さ」にも、既存の建築とは違う意味があるように見えた」。「中筋さんのすごいところは、どこかの会社と組んで、そこに頼ろうとしなかったことです。あくまで仲間たちで作ろうとしていました」

 隈さんは、大阪の谷町のあたりにまとまっている「都住創」のコーポラティブハスを訪れて「若くてヘンな奴が東京から来た」と面白がられ、歓迎される。そこから、「だったら東京で一緒にコーポラティブハウスを」という話が進み、86年にプロジェクトがスタートする。場所は江戸川橋。小さな土地を探して、有志を募ったら、中筋さんを中心に大阪の人が集まって、ビルを一棟建設した。ビルの名前は「ラスティック都住創」。ラスティックは「錆びている」「田舎っぽい」という意味。スタートはよかったが、完成が91年になり、バブルの弾けるタイミングに重なってしまう。建物はできたけれど、お金が回らなくなり、資金繰りの苦労に直面することになった。この時の心労が重なったせいか、中筋さんが、深酒がたたって2001年に亡くなってしまう」。あんなに明るくて、エネルギッシュだった中筋さんがあっけなく亡くなったっことは隈さんに大きな衝撃を与える。その後も関係者が破産したり、自殺したりすることが続き、結局生き残ってお金を返せるのは隈さん一人になった。プロジェクトの連帯保証人になっていた隈さんは数億円の借金を背負うことになった。それから毎月、一緒に組んだ建設会社のある高﨑の裁判所に通い続け、18年かけて借金を返済したという。そのつらい体験から「私有ほどヤバいものはない」ということを心の底から勉強したという。

「都住創」の取り組みには、現在のシェアハウスの原型があり、それを先取りしていたといえるが、「『その根底には「みんながそれぞれの不動産を持つと安心だよね』という20世紀的な私有への信仰が横たわっていて、僕らはそれを見抜けなかった。つまり20世紀から抜け出せていなかったことに問題があったわけです」と隈さん。「都住創」との関わりは、大きな傷を残したけれど、そこから得たものもあったという。そのひとつが江戸川橋から東京を見ることができたことだという。世田谷のように小洒落た住宅地でもなく、バブル期の西麻布のようにブランド化することもなかったが、実は戦前の東京人の暮らしが蓄積した面白い下町的エリアだという。そんなライトインダストリー(軽工業)エリアの発見。それが現在の「シェア矢来町」につながっているという。土地の所有に縛られない建築のあり方の1つとして「シェアハウス」という解があったのだ。土地に縛られない「流動的な建築」の模索は、さらに続く。

  第三章。屋台・トレーラーハウス・サハラ体験。

シェアハウスの次は屋台である。きっかけはsnow peakの社長からテントのデザインを依頼されたことだという。最初は面白そうだったが、テントというものは、素材や構造などが極め尽くされていて、デザインの力で飛躍させることが難しかったという。snow peakの社内にトレーラーハウスを手がけている部署があって、そこでは一般的な建築よりもはるかに低いコストで住空間を作り出せることが明らかになり、トレーラーハウスの技術を使った住空間「ジュウバコ:住箱」を提案する。その「ジュウバコ」を使って始めたのが「屋台レストラン」である。清野さんによる、現在はもう無い屋台ビストロ「TRAILER」の探訪は楽しいけど、省略。それよりも、隈さんが土地所有に縛られない「建築の流動性」を追求するようになった原点ともいえる体験が語られる。それは隈さんが東大大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を、アルジェリアニジェールからコートジボワールまで、フィールドワークで横断した体験だという。恩師である原広司教授と5人の院生メンバーで、スバル・レオーネをカスタマイズした車に乗って、ベドウィン族みたいに野営をしながら、点在する集落を回ったのだという。集落研究といっても長期間滞在するのではなく、1日中、砂漠や草原を弾丸のように車を走らせ、集落を見つけては訪ねていく。2ヶ月で100件ほどを取材した。事前に許可をもらって訪ねるのではなく、突然行くわけだから「よそ者が襲ってきた」と思われて、殺されても文句が言える状況ではなかったという。そんな状況でも原広司は、集落にずんずん入りこんで、子供たちにボールペンをプレゼントしながら、建っている家の寸法を片っ端から測っていったという。集落の首長に歓迎されて、歓迎のご馳走としてねずみやコウモリなんかを振舞われることもあったという。隈さんたちを受け入れてくれたベドウィン族の集落では、その土地の材料を、彼ら自身の手で組み立てて家をつくっていたという。サバンナではアドベ(日干しレンガブロック)を使い、海に近づいてくると、木、竹、ヤシで家を建てる。さらに砂漠のど真ん中になると、もう建物すらなくなって、テントになる。そのテントをラクダに積んで、ベドウィンの兄ちゃんがラジカセを布にくるんで、身軽に移動していく。その姿を見て、隈さんは、ああ建物にしばりつけられないで生きる様子は、カッコいいなあ、と思ったという。それ以来、どうやったら、このテントの気軽さを作れるか、ということが人生の目標になったのだという。それから40年経っても、まだテントは作れていないのだ、と。

第4章。木造バラックハモニカ横丁、仮設商店街、ボロさの力。

屋台の次は、木造バラックの焼き鳥屋の話に飛ぶ。吉祥寺、ハモニカ横丁「てっちゃん」。歌舞伎座の改築、新国立競技場、高輪ゲートウエイ駅を手がけ、世界中で60におよぶプロジェクトに関わる隈さんが、昭和の匂いが残る横丁のバラックみたいな焼き鳥屋さんの設計をどうして引き受けたのかは謎だが、隈さんは「僕が東京の都市再生を語る時は、『歌舞伎座』『KITTE』とともに『てっちゃん』を併記したいと思います」と主張する。商業的な変貌がすさまじい吉祥寺にあって、戦後の闇市発祥の一画が奇跡的に残っている。それがハモニカ横丁だ。隈さんは「東京が世界に誇る建築として、歌舞伎座があるのは当然のことですが、本当はハモニカ横丁のような空間こそが、都市空間の中で最もユニークな資産で、東京が、日本が世界に誇るべきものです。(中略)近年のまち歩きブーム、建築ブームは、みんなが路地に惹かれていることのあらわれじゃないかと思いますが、建築家なら、思っているだけじゃなく、路地に飛び込んで、それを実践しないとダメだよね。」と語る。このあとは二人による「てっちゃん」探訪記があるが、吉祥寺もハモニカ横丁も行ったことがない僕にはイメージがわかない。店の写真も掲載されているが、モノクロで小さいため、ちゃんとイメージできないので省略。その後は隈さんに設計を依頼したクライアントの手塚一郎さんのユニークなインタビューが続く。このインタビューも面白いのだが、長くなるので省略。エピソードをひとつだけ紹介すると、手塚さんが再生資源を扱う知り合いを紹介すると、隈さんは喜んで廃材を使ったという。「そういうスタンスの軽さが、他のアトリエ派の建築家と違う。そもそも隈さんは人に嫌われない人ですよね」という隈さん論が語られる。

木造バラックは日本の原・建築である。

隈さんは「てっちゃん」の設計を通して、東京における木造の価値を再確認できた」と語る。「ハモニカ横丁は、いまだに木造建築のスケール感、質感を残していることが決定的に重要だという。地方都市に出かけると、いまだに見かける木造バラックの市場、路地の空間は、日本の木造建築の原風景であるという。「歴史的に見ると、日本の都市は江戸時代まですべて木造だった。それも「小径木:しょうけいぼく」と呼ばれる10センチ角内外の断面寸法で、二間(3.6m)という細くて短い材をだましだまし組み立てながら、柱が不規則に配置された、イレギュラーでフレキシブルでゆるい空間をつくってきた。僕らが木造住宅の柱として見慣れている、あの寸法が小径木なんです」と隈さん。小径木なら山から簡単に切り出して近くの都市に運べる。小径木を媒介にして、山は、日常生活の延長となって都市と一体となった、持続可能な環境システムを作りあげていた。木造建築にとって、唯一の敵は火災で、江戸は数十年ごとに大きな火災に遭遇し、多くの木造家屋を焼失させた。でも、その度に「小さな木」のシステムが驚くべきスピードでまちを復興させたという。江戸のまちは火災をも取り込んで、ゆっくりと循環していた。しかし「小さな木」が持つサスティナブルなシステムは、戦後の都市から一気に姿を消してしまう。隈さんによると「関東大震災第二次世界大戦による焼失が国民全体のトラウマになったからだ」という。建築の法規をはじめ、消防法などもすべて都市から木を排除する方向に進んでいってしまった。日本建築学会ですら1959年に「防火、耐風水害のための木造禁止」という驚くべき決議を発してしまった。それによって日本がいかに大切なものを失ってしまったか…。歌舞伎座がパリのオペラ座に負けないくらい世界に誇れるものであるとは、別の次元でハモニカ横丁の「小さな木」の継承は世界に類例がない。ハモニカ横丁では「小さな木」のシステムが、人間の生活という、多様で猥雑で予測不可能なものを全部呑み込み、昇華し、コンクリートでは絶対達成できない、温かくて、心地よい空間を保持し続けている。「戦後75年を経て、高度成長も、バブル経済も、不景気も震災も経て、戦後闇市的なスケール感が、いまだにこの大都市の中に残っていたことは奇跡に思われます。その意味で、ハモニカ横丁は、現代の聖地。このハモニカ的なるものを、骨董としてではなく、日常の当たり前として、東京の中に回復するのが僕の夢です」と隈さん。

被災地に作った木造長屋の商店街。

隈さんは、「ハモニカ横丁的」な方法論を、東日本大震災の復興に使っている。それが「南三陸さんさん商店街」。隈さんは震災の後、石巻に自分が作った運河交流館が、周辺の地盤が液状化した中で奇跡的に残っているのを見て、津波でまちがすっかりなくなっているのに、作品というアートを残してもむなしいと思うようになったという。2017年に開業した「さんさん商店街」は、木造の長屋が6棟にわたって連なる配置で、バラック的。そこに海産物屋、かまぼこ屋、海鮮丼屋、スイーツ店などが並んでいる。開業1年目には65万人、2年目には60万人の来場者があった。南三陸町への観光客数は、震災前の2010年の108万人で、2018年には144万に増加している。「さんさん商店街」が復興の核になったのは間違いないという。隈さんは、震災直後に地元の人たちがローコストで立ち上げた仮設の商店街を見て、「ボロボロのハードそのものがカッコいい」「ハードのボロさがあるから、ソフトがうまく乗って来れるんです」と再認識したという。材料に用いたのは、塩ビの波板と小径木という安っぽい素材。この安っぽい素材で、いかに力強く美しいハードとして結晶させるか。それが建築家の力量だと考えたという。プレハブや仮設的なものは安物の代表と見られがちだが、デザインによって、それらから生き生きとした面白さを発することができれば商店街として成功である。そう考え抜いた上でボロさを極めていったという。例えば塩ビの波板を横桟から何センチぐらい出せば軽やかさが出るか、なんてことを現地に原寸のモックアップ作りながら、デザインを決めていったという。

コンクリートと土木による復興。コスト意識のない建築家は社会から排除される。

隈さんは東日本大震災を経験して、コンクリートの建築とはこんなにも脆かったのか、と痛感したという。しかい震災後、被災地では未曾有の土木工事が発生した。海辺に設けられた防潮堤を筆頭に、おびただしい量のコンクリートが投入された。清野さんは、土木畑の先生たちと被災地を回った時、都市復興や地域再生で発言権を持っているのは、相変わらず土木分野の方々だったという。「なぜ建築家は、災害復興で前面に出られないのですか」と、一緒に行った土木の先生に聞いたら「だって建築家は予算を持って来られないじゃない」と冷笑的に言われたという。それに対して、隈さんは「建築家を入れると、デザインで面倒くさいことを言って、お金がよけいにかかる。建築家って、国の土木予算を持って来られないだけじゃなくて、無駄なお金を使う、経済感覚のない人たちだと建設業界では思われているから」と答える。「建築家にコスト意識はないですか?」と清野さん。「一般的にはないね(笑)と隈さん。すると清野さん「ただ私は、以前からコスト意識にとらわれていた隈さんを見ています。『六本木ヒルズ森タワー』を批評のために見に行った時、『そうか、超高層ビルは、アルミの代わりにプレキャストコンクリートを使えば建設費が節約できるな』とか、『そこかい!?』ということをいっぱいおっしゃってましたよ」。隈さん「建築家は現実ではみんな、コストで苦労していますよ。だけど、それをいわないでアーティストの振りをすることが、業界の通例です。まち全体での損得を、利害関係者とビジネスパートナーの視点からとらえて、最適な解を出そうとする姿勢も薄い。基本的にコスト以上にデザインが大事だ、というイデオロギーに染まっていて、結果として社会から排除されているんです。」と、自らの同業者に対しても手厳しい。

第5章。渋谷から池袋へ。

冒頭は、変貌著しい渋谷ターミナルの開発の話から始まる。隈さん自身も、超高層ビル「渋谷スクランブルスクエア」(東館)の設計に参加している。清野さんは「渋谷の『垂直都市化』は、このまちの無国籍化であり、グローバリズムの果ての光景だと思います」と批判的。それに対して隈さんは、「鉄道と道路インフラの複雑さを解くために、渋谷はアジアや中東の、自分のビルだけ目立てばいいという古くさいグローバリズムを超えることができたと僕は思います。その点においては、渋谷の再開発は世界標準をはるかに超えています。」と肯定的。二人は渋谷再開発を推進した東急電鉄の構想力、ビジョンの強さに感心する。そのまま渋谷と東急電鉄の話が続くと思いきや、隈さんは「こんな前振りの後ですが、僕は池袋のすごさを語りたい」と、話題が急転。

池袋駅は、1日乗降客数がJRでは新宿に次ぐ全国2位、私鉄と地下鉄では全国1位の巨大ターミナル駅だが、渋谷の持つ華やぎ、都会感に乏しく、新宿のように、すべてを呑み込むパワーにも欠けている。そんな池袋が、ここに来て、攻めの姿勢を強めているという。それも投資力のある民間企業でなく、豊島区という1つの特別区の行政主導によるもの。区庁舎の移転新築を皮切りに、「Hareza(ハレザ)池袋」の建設や、造幣局跡地の広大な防災公園の整備、「トキワ荘漫画ミュージアム」、電気バス「IKEBUS」の運行など、20件以上のまちづくりプロジェクトを同時進行させてきた。その目玉が豊島区の旧区庁舎跡地の再開発「Hareza池袋」で、地上33階の超高層ビル「ハレザタワー」と、メインホールの「東京建物Brillia HALL」が入るホール棟、「としま区民センター」の中層棟の3棟を新築。さらに隣接する「中池袋公園」と道路を合わせて整備したもので、豊島区一世一代の勝負といわれている。渋谷が超高層ビルを中心としたタワー型(垂直型)の再開発なのに対して、池袋は広場を中心としたスクエア型(水平型)の再開発だという。しかも世界の都市再生のトレンドである「ウォーカブル:歩けること」の流れをとらえていて、歩行者中心のエリアを拡大しようとしている。20世紀の都市は自動車優先だったけれども、21世紀には、その発想は時代遅れという認識が世界の潮流だという。地方の行政が駅前活性化に取り組むと、超高層ビルを建て、道路を拡幅し、その結果、街が空洞化して沈んでいくという悪循環の土木パターンに陥りやすい。池袋ではその誘惑を振り切って「文化」の方向に舵を切った。また、池袋と渋谷は、「ミッドタウン」や「ヒルズ」のように都市の中に「島」を作るという考えを超えているという。このような池袋の都市開発のきっかけとなったのが、2015年に誕生した「としまエコミューゼタウン」。区庁舎とタワーマンションを合体させた、地上49階地下3階の超高層建築で、デザイン監修は隈さん。本書の中でもたびたびマンションは都市・東京をダメにした張本人だと主張している隈さんが、このタワーマンションをどうデザインしたのか。「マンション自体がダメなわけではなく、日本における集合住宅の建て方、都市に対する閉じ方が問題なのだ」。このプロジェクトでは、マンションと街の接地面に注目し、「エコヴェール」と呼ばれる環境調整パネル(緑化、太陽光発電、リサイクル木材)を開発して、使用したという。その発想の原点は、東池袋周辺に密集していた木賃アパートだったという。戦後、数多く建てられた小さな木造民家の密集、いわゆる木賃アパートでは、軒先に盆栽を置いたり、すだれをかけたりして、住宅が街と接する時のマナーを守っていた。そのマナーとヒューマンなスケール 感を現代風にデザインしたのだという。

 2014年に日本創成会議・人口減少問題検討分科会が発表した「地方消滅」(中公新書)において、豊島区は、23区の中で唯一「消滅可能性」があると名指しされた。このショッキングな発表が区民の危機感を高め、思い切った改革が可能になったという。また豊島区は、他の街に比べ、開発が進まなかったぶん、都電荒川線など、夏目漱石が描いた明治、大正の空気を残している。「チンチン電車って、どんなに街を刷新しても消し切れない、過去のいろんな気配を運んでいる。そのタイムスリップ感がいい」と隈さん。そういうものを全部、不便だから、効率的じゃないからと一掃することが戦後日本の都市開発だった」と清野さん。「東京だけじゃなく、日本がいっせいにそっちに行ったことで、たまさかそれが残った場所が、今になってすごい財産に見える」と隈さん。

UR洋光台団地のリノベーション「ルネッサンスin洋光台」

話題は、池袋から、昭和の「団地」に移る。隈さんは「マンションではなく「団地」というものに非常に共感を持っている」という。「団地もチンチン電車と同じで、日本の近代が持っていた何かーーー要するに住居がマンションという商品に堕落してしまう以前の世界の、建築家やデザイナーの真摯な思いを伝えるものです。昭和30年代の団地黎明期に団地の設計に携わった人たちは、商品ではなく、人間の生活をデザインしようと本気で考えていた」隈さんは、JR根岸線の陽光台駅の駅前にある「陽光台団地」のリノベーション「ルネッサンスin陽光台」にディレクターアーキテクトとして参画している。隈さんは、賃貸住宅を上手に住みこなしていくことが重要だという。「設計者の側も、住宅を私有の資産としてとらえるのではなく、暮らしのクォリティを上げる装置、すなわち、一種の都市インフラとしてデザインしていくことが大切」「資産としての集合住宅という考え方は、高く買わせるためのワナみたいなもので、このワナにハマると、逆に生活の質を下げることにつながってしまう。僕が30年ぐらいかけて学習した結論です」と隈さん。

この後、話題は、日本の団地が誕生した歴史的な背景に及ぶ。日本住宅公団が全国各地に建設した団地のルーツは、第二次世界大戦前、ヨーロッパに盛んに建てられた集合住宅にある。戦後、コルビュジエ社会主義思想を住宅に翻訳したのがユニテ・ダビタシオン。その流れで都市のすべてを埋め尽くそうとしたのが旧ソ連。そのモダンな理想の部分だけを移植したのが日本の団地だった。しかしアメリカやイギリス、オランダなどでは集合住宅はすぐにスラム化して、長い寿命を持てなかった。一方、日本人は「団地」という全く新しい居住形態を受け入れて、うまく住みこなした。その理由が「ナチュラルな社会主義」ともいえる日本のムラ社会にあるのではないかと、二人は推測する。さらに隈さんはロンドンの金融街近くにある人気の集合住宅「バービカン・エステート」を例にあげて、団地が成功する条件を考察する。それは住民と文化だという。広い敷地の中には、共有のよく手入れされた庭があって、住民たちのコミュニティが良好に保たれている。バービカンにはコンサートホールやギャラリーなどの文化施設「バービカン・センター」があって、例えていうと、上野の文化エリアに集合住宅が建っているイメージだという。池袋の再開発のキーワードも「文化」である。それも借りてきた文化ではなく、その場所に住む人が育てた、その土地の植物みたいな文化が必要だという。一般に再開発を行うと、テナント料が高くなるため、ロウカルチャーが駆逐され、ハイカルチャーだけに偏ってつまらなくなる。それを免れた池袋はめずらしいケースだという。

終章。隈さんの「失われた10年

1980年代のバブル期、隈さんは鋭い切り口の建築批評で注目を集め、1991年に環状8号線沿いに建設されたマツダのショウルーム「M2」を手がけた。しかし「M2」は建築界やメディアで不評を浴び、またバブルが崩壊したこともあって、以後、東京での仕事が一切なくなる。まさに「失われた10年」となる。そして隈さんが東京に復帰するのは2002年、東銀座に完成した「ADK松竹スクエア」から。以後、「One表参道」(2003年)、「サントリー美術館」(2007年)、「根津美術館」(2009年)、「浅草文化観光センター」(2012年)、JPタワーの商業施設「KITTE」(2013)、「第五期歌舞伎座」改修(2013年)、「国立競技場」(2019年)と、東京のシンボル建築に次々に携わっていく。東京復帰のきっかけになったのは、栃木県の「那珂川町馬頭広重美術館」(2000年)と、北京郊外に作った「竹屋 Great Bamboo Wall」(通称『竹の家』2002年)が海外で評価されたことだという。隈さんは「失われた10年」の間、日本の地方で様々な建築を手がけている。そこでじっくりと風土と建築の関係性を勉強できたという。90年代、東京にいなかったことがむしろプラスになっていると語る。

東京が復活しつつある。

話題は、ここで、最近の東京の再開発に移る。東京の景観がパワーを取り戻しつつあるという。きっかけは、東京駅舎の復元と丸の内の再開発。駅前の広場からまっすぐに伸びた行幸通りが超高層ビルを従えて皇居のお堀に続く眺めには、都市の品格と現代性があり、「東京、やっぱりすごいだろ」と誰かれなく自慢したくなる、と清野さん。「再開発以前は、丸ビルと新丸の内ビルのあたりって、東京のどまん中なのに暗かったよね。こういったらなんだけど、場末感が漂っていたでしょう」と隈さん。まず丸の内仲通りを商業街に整備して賑わいを呼び込んだ。一帯を「大丸有(大手町・丸の内・有楽町)」と新しい呼び名にして、ビル単体ではなく、エリア一帯をマネージメントするという街づくりの潮流をいち早く取り入れた。その一方で東京駅丸の内駅前広場の方はごてごてと飾らず、余計なことをしていない。低層、煉瓦造りの駅舎は、ゼロ年代の潮流からすると、取り壊されて、超高層タワーになっていてもおかしくなかったけれど、そうしたら東京は首都の顔を失っていたという。三菱地所が丸の内の再開発で話題を集めていた頃は、影の薄かった三井不動産も、日本橋を拠点に本格的な再開発を仕掛けているという。また寺田倉庫が手がける天王洲の再開発、森ビルが創業の池で進める「虎ノ門ヒルズ」など、「地元」をキーワードに、東京の景観と賑わいが復活しつつあるという。

世代交代が始まっている。

東京が復活しつつある理由として、隈さんは、都市開発の意思決定者や現場に、コンプレックスのない新しい世代が就くようになったからだという。「高度経済成長時代は、近代とか西洋に憧れたオールドジェネレーションと団塊の世代が、土木と建築界を牛耳って、鉄、コンクリート、効率といったものを祭りあげたけれど、今は、都市開発の当事者に、そういうトラウマがなくなってきたんですよ」と隈さん。

建築家の系譜。

では建築家の方の世代交代はどうなんだろう。ここで清野さんは、戦後の建築家の系譜を概観する。丹下健三(1913年生まれ)を第一世代として、槇文彦(1928年)、磯崎新(1931年)、黒川紀章(1934年)らが第二世代。安藤忠雄(1941年)、伊東豊雄(1941年)、山本理顕(1945年)らが第三世代。その後、内藤廣(1950年)、隈研吾(1954年)、妹島和世(1956年)、青木淳(1956年)、坂茂(1957年)の第四世代がいて、現在は70年代生まれの藤本壮介(1971年)、平田晃久(1971年)、石上純也(1974年)、中村拓志(1974年)、田根剛(1979年)といった人たちにつながっている。黒川紀章など第二世代までは、20世紀型の建築家すごろくに乗っかっていればよかったという。最初は実家とか親戚とかの家を設計して、自分のキャラクターをアピールする。そこから小さな美術館、次にもう少し規模の大きい文化施設、さらに大きな公共施設・・・というようにコマを進めていけばよかった。ところが安藤忠雄など第三世代になると、国内の需要が満たされてしまい、それまでの安定したレールがゆらぎ始める。隈さんの世代になると、国内だけでは仕事が回っていかなくなった。その後の世代の建築家たちは、さらに縮小したマーケットで戦っているという。隈さんは、宮崎晃吉(1981年)が谷中でプロデュースする「hanare」を紹介する。それはイタリアで注目されている「アルベルゴ・ディフューゾ(分散型宿泊施設)」の東京版といえるもので、下町に点在する物件を1つはレセプションに、もう1つは客室にと機能を分散させることで、宿泊者がまち全体を体験できるように設計するという。隈さんは、クライアントがいて、建築家が起用されるという従来のシステムではなく、建築家自らがクライアントになって、自らリスクを負って建築に向き合うことが、建築と社会の新しい関係を作っていくという。「今、建築家をめざすなら、自分の名前を売る仕事ではなく、楽しいと思える仕事に足を突っ込んじゃうほうがいい。建築家の意識が、そっちの生の社会に方に向いていかないとダメだと思ってる」と隈さん。最後は、建築家という枠組みを超えて、様々な分野に進出していく建築家を紹介していく。コーヒースタンドのオーナー、自作のケーキをカーゴバイクで行商するケーキ屋さん、下町に喫茶ランドリーを開業した建築家・・・。オオバコの中で働くサムライというサラリーマンのシステム、日本型の終身雇用制が崩れ、彼らがのさばっていた社会が本格的にダメになろうとしている。コロナ禍によって、ゼロ年代から盛んになった新自由主義グローバリズムの弊害を、ようやくみんなで共有できるようになったという。「これから、本当に楽しい時代が始まります」と隈さん。本当かなあ。

読み終えて。

本書を読んで、いろんなことを考えた。隈さんの「戦後、『土地の私有』というものが発明され、国全体がその流行り病に冒されていくようになってから、日本はダメになっていった」という主張。僕も、バブルの頃、その流行り病に冒され、分譲マンションを購入した。さらに阪神大震災のあと、長いローンを組んで、新しいマンションに買い替えた。定年後、退職金でローンの残りを返済すると、蓄えは少ししか残らず、年金で細々と生き延びる暮らしになった。高いローンを組んでマンションを購入したことは果たして正解だったのか?隈さんが言ってるように、マンションを購入したことで生活の質が下がったということはないだろうか?今後も、今のマンションに住み続けることがいいのだろうか?隈さんが構想している、都心の高齢者向けのシェアハウスのような住まい方もアリなのかなと思ったりしている。

僕の「都住創」の記憶。

隈さんが大阪の「都住創」コミュニティに通っていた頃、僕もクリエイティブ業界の端っこにいたので、その種の集まりに1、2度行ったことがあると思う。「と思う」と書いたのは、当時、どこの「都住創」にどういう経緯で、誰と行ったか、記憶が曖昧なせいだ。たぶん当時勤めていた会社の社長か先輩に連れていってもらったのだと思う。バブルのまっさかりの時代だった。僕よりふた回りぐらい年上のリッチそうなおじさん、おばさんたちが元気いっぱいで飲んだり喋ったりしていて、なんだか眩しくて、気おくれして、その場に溶け込めなかったことを覚えている。自分も、いつか成功して会社を経営するようになって、この人たちの仲間入りができる日が来るのだろうか、と思ったことも・・・。バブルがはじけたあと、あの熱気の中にいた人たちの中には、廃業したり、倒産したり、亡くなったりした人も少なくないのだろうと思う。隈さんも「都住創」の渦の中に飛び込み。その混乱に呑みこまれ、大きな傷を負いながら生き延びて、今があるのだろう。