白井聡「永続敗戦論 戦後日本の核心」

知人のHさんがFBで紹介していた、内田樹と本書の著者である白井聡の対談集「日本戦後史論」を読んだ。その中で、内田樹の発言がこれまでになく過激で、色々考えさせられたが、対談の中で何度も出てくるのが本書である。(というよりも、その対談自体が、本書を読んで刺激を受けた内田樹が企画したかのようである。内田樹の過激な発言も、本書の主張が導き出したとも読めないことはない)。著者による戦後体制についての考察はショッキングですらある。僕たちが、これまで何の疑問も持たず、当たり前だと思っていたことが、著者の考察によって突然、ネガポジ反転したかのようにまったく違う意味を持ち始める。僕の知識や見識では、本書の内容を批評はおろか要約することさえ難しい。しかし、僕自身の言葉で、僕なりの要約をしてみよう。

私らは侮辱の中で生きている。
本書の冒頭、著者は3.11以降の事態を、中野重治の「私らは侮辱の中で生きている」という言葉で表現する。それほど福島原発事故における東電や政府の対応は、国民を愚弄するものだった。政府や東電だけではない。国や企業の活動の監視者としての役割を負うべきマスメディアや研究機関、大学ですら、まともに機能しなかった。日本が、このような無責任の体系ともいえる社会になってしまったのは、なぜなのか?著者は、それが「戦後」にあるという。第二次世界大戦において完全に敗北を喫した日本は、その敗戦に正面から向き合うことなく、米国の戦略によって、天皇制をはじめとする国体の存続を許された。戦前の権力者たちは、一部の軍関係者を除いて、戦争の責任を問われることもなく、占領国アメリカから与えられた平和主義、民主主義、安保体制という枠組みの中で生き延びる。それを可能にしたのは、戦後の冷戦構造と、アメリカの反共戦略である。また、日本の植民地であった韓国と台湾が(要塞と化した沖縄も含める)軍事独裁体制で共産圏と対峙する最前線となってくれたおかげで、日本はアメリカの核の傘の下、デモクラシーごっこと未曾有の繁栄を享受することができた。また「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、国民の目から「敗戦」を隠蔽し続けることにも成功した。しかし80年代、冷戦が終わり、日本を取り巻く状況が変化しても、敗戦時の米国への従属の構図を変えることなく、今日まで来てしまった。著者は、それを「永続敗戦」と名付ける。我々、それを底の底まで検証することで、敗戦ともう一度向き合って、ようやく戦後を終わらせることができるという。
シラケ世代の後悔。
団塊の世代より少しだけ遅く生まれた僕たちは、シラケ世代/三無世代(無気力・無関心・無責任)とも呼ばれ、政治に対して拒絶反応を起こしてしまう世代だった。(安倍首相も同世代だ)高度成長、冷戦、学生運動が終盤を迎え、若者たちは内向し、個人主義に傾斜していった。僕たちが政治から関心を失ってシラケている間に、著者が言う戦後体制は存続し、ますます強化され、硬直し、そして腐敗していったのだ。日本を取り巻く様々な環境が変化しても「永続敗戦」は存続し、ついに3.11でその正体を晒したというわけだ。正体がばれてしまってからは、政府は開き直って「本音」を語り始めているという。集団的自衛権行使のあからさまな議論や特定秘密保護法のの成立。自衛隊を「軍」と呼ぶ首相。相変わらずアメリカへの従属を続けながら、中国、韓国などに対しては強硬な態度を取り始めていること…。かつて有力者や知識人のほとんどが「戦えば負ける」と理解していながら、あの戦争に突入していった「無責任の体系」が、戦後も生きのび、民主主義、平和主義の仮面を被って、現在まで存続していることを、本書は戦慄とともに教えてくれる。