村上春樹「辺境・近境 ノモンハンの鉄の墓場」

ノモンハン事件の3冊目は、村上春樹の紀行エッセイの中の一章。再読である。本書を選んだのは、僕らの世代に近い人が、ノモンハン事件に触れ、さらにあの戦場の現在を訪れて、何に、どう感じたか、ということを知りたかったからである。

ねじまき鳥クロニクル」に登場。

著者によると、子供の頃、歴史の本の中で見たノモンハン事件の写真になぜか強い興味をいだいたという。その後、著者がプリンストン大学に属していた時、大学の図書館でノモンハン事件に関する古い日本語の書籍がたくさんあるのを見つけた。著者は暇にまかせて、それらの本を借り出して読んでいった。その結果、著者は、このモンゴルの名もない草原で繰り広げられた短期間の戦争に、子供の頃と同じように激しくひきつけられていることに気づいたという。どうしてなのか、その理由はわからないという。その後「ねじまき鳥クロニクル」でノモンハン満州のことを書いたら、雑誌「マルコポーロ」で実際にその場所へ行ってみないか、という話が来た。著者もかねがね行ってみたいと思っていたところだったので、すぐに引き受けたという。

中国に行くのは初めてという著者の旅の部分は、まあ面白いのだが、あまりノモンハン事件に関係がないため、ここでは触れないことにする。僕が興味深く読んだのは、中国側のモンゴルでも、モンゴル国でも第二次世界大戦ノモンハン戦争の痕跡が、当時と変わらないかたちであちこちにそのまま残されているという話。それも、原爆ドームのように、きちんとした目的のために保存されているのでなく、そのままほったらかしになって、ただそこに残っているだけだという。関東軍ハイラル郊外に建設した地下要塞(ハイラル城)は、あまりに強固に造られているため、今でも当時のまま残されている。内部には病院など籠城に必要なあらゆる施設が作られ、街のようであったというが、内部の鉄の扉が頑強すぎて壊すこともできず、地下の迷宮がどこまで続いているか、いまだにわからないと言う。

歩兵が歩いた220kmを行く。

ハイラルから最新のランドクルーザーで国境地帯に向かう。距離にして220kmほどだが、著者は、道なき荒野を激しく揺られながら進むことに疲れ果ててしまう。しかし当時の日本軍は、同じ行程を完全軍装の徒歩で移動したのである。その事実に気づいた著者は、当時の兵士たちの体力に驚き、そして兵員の輸送手段すら確保できなかった日本の貧しさを思う。そうやってたどり着いたノモンハンは、とても小さな集落で、ここを拠点にしている遊牧民たちは移動中で、責任者と子供たちだけが留守番をしていた。著者が訪れたのは事件が起きた時と同じ季節で、大量の虫に悩まされる。皮膚が露出していると、何処から現れるのか、物凄い数の虫が襲ってくるという。当時の兵士たちも、蚊、蝿などの虫に悩まされた。特に蝿は、虻(アブ)ほどの大きさで、遺体や重症者の傷に卵を産みつける。普通の蝿の卵から蛆になるのは3日ほどを要するが、その卵は10分も経たずに蛆になるという。奇術としか思えない早さで孵った蛆は、みるまに死体の上を這い回り、眼や口など、やわらかな部分を蝕みはじめたという。

すぐそこまでの数千キロ。

モンゴル国との国境は目と鼻の先にあるのだが、そこを越えることはできない。著者たちは一旦北京に行き、空路でウランバートルに飛び、飛行機を乗り継いでチョイバルサンに行き、そこからジープで370kmを走破してハルハ河に向かう。数km先の土地に行くために、とんでもない遠回りをしたことになる。著者は、そのおかげでモンゴルの草原のだだっ広さを嫌というほど味わうことができたという。大洋を小さなクルーザーで航海するイメージが一番近いという。たどり着いたハルハ河の左岸の、ソ連軍が重砲陣地を築いた崖の上から、著者はノモンハン方面を眺める。そこからは、はるか彼方まで見渡すことができた。ハルハ河の右岸は土地が低く、ソ連軍は、日本軍の動きを手にとるように見ることができたという。そこから日本軍の陣地に正確な砲撃を放った。いっぽう日本軍の方からは崖の上のソ連軍の布陣をまったく知ることができず、最後まで不利な戦いを強いられたという。

鉄の墓場。

ハルハ河を渡って、最も激しい戦闘が行われたノロ高地付近に立った著者は、周囲を見回して、言葉を失う。戦車、様々な機械、道具、砲弾の破片、銃弾が、55年前のまま、放置されている。湿度が低いせいか、表面こそ赤いサビに覆われているが、その下には「鉄」がそのまま残されている。つまり、この戦場は、戦争のあと、人間がほとんど足を踏み入れることがなかったのだろう。遊牧民が時々通過するだけの、この不毛の土地をめぐって、兵士たちは血みどろの戦いを繰り広げ、殺されていったのだ。

「それ」がやってきた。

著者は臼砲弾らしき破片と銃弾を拾って持ち帰ることにした。再び、ジープで荒野を370km走り、深夜1時ごろチョイバルサンに帰ってくる。すぐホテルに入って寝ようとするが、なかなか寝付けない。持ち帰った臼砲弾の破片と銃弾を取り出して、砂を払って、机の上に置いた。砂丘でそれらを見つけた時と印象が違って見えた。ふだんは超自然的な出来事に対して関心がない著者も、この時は、何かの濃密な気配を感じたという。持って帰るべきでなかったのかもしれない。しかし、もう遅い。

目がさめると、闇の中であらゆるものが激しくゆれていた。大きな地震のようだった。とにかくここを出なくては----。どれ位時間が経ったのか、ようやくドア近くまでたどり着いて、電気を点けた途端、揺れは止まった。というより、何も起きていなかった。揺れていたのは部屋でも、世界でもなく、自分自身だった。そのことに気づくと、著者は、身体の芯まで冷たくなったという。それほど深く理不尽な恐怖を味わったのは、生まれて初めてだった。それほど暗い闇を見たのも初めてだった。何はともあれ、その部屋にいたくなかった。著者はカメラマンの松村君が寝ている隣の部屋に行き、彼のそばの床に腰をおろし、夜が明けるのをじっと待った。4時過ぎになって、ようやく東の空が白んできた。その朝の光とともに、著者の中の恐怖がだんだん溶けて消えていった。もうこわくはなかった。それは闇とともにどこかへ去ったのだ。著者はベッドに入って、ぐっすり眠った。著者は時間の経過ともに、こう考えるようになた。あの振動や闇や恐怖は、外部から来たのではなく、彼自身の中にもともとあったものではなかったかと。何かがきっかけのようなものをつかんで彼の中にあるそれを激しくこじ開けただけではなかったのかと…。

著者が体験した、この不思議な出来事を読むと、前回のエントリーで取り上げた、伊藤桂一の「静かなノモンハン」に書かれた「少尉を呼ぶ背嚢」を思い出す。超自然的な世界を信じない、という前提に立てば、背嚢の蓋が風も無いのにパタパタと音を立てるのは、鳥居少尉の脳の中で起きていることだと考えられる。その場にやってきた時、鳥居少尉は、周囲の地形と平本の背嚢を、無意識のうちに捉えていたのだと思う。きっと何か違和感を感じていたのではないか。それが意識上に上がって来ないので、無意識は、意識に対して信号を発したのだろう。それが「風もないのにパタパタめくれる背嚢の蓋」という幻覚として鳥居少尉の前に出現したということができるだろう。また超自然的な世界があるという前提で考えれば、本書に書かれた、著者が持ち帰った臼砲弾の破片に、かつて戦場にいた兵士の記憶のようなものが残っていて、それが著者の脳を刺激し、幻覚を見せたのではないか。地震のように思えた激しい振動は、ソ連軍の重砲の集中砲火を浴びた兵士の生々しい体験だったのではないか。

著者は、冒頭近くで、自分がノモンハン事件に強く惹かれる理由を考察している。少し長いが引用しておこう。『それは、この戦争の成り立ちが「あまりに日本的であり、日本人的であった」からではないかと。(中略)にもかかわらずそれは、日本人の非近代を引きずった戦争観=世界観が、ソビエト(あるいは非アジア)という新しい組み替えを受けた戦争観=世界観に完膚なきまでに撃破され蹂躙された最初の体験であった。しかし残念なことに、軍指導者はそこからほとんどなにひとつとして教訓を学ばなかったし、当然のことながらそれと同じパターンが、今度は圧倒的な規模で南方の戦線で繰り返されることになった。(中略)そしていちばん重要なことは、ノモンハンにおいても、ニューギニアにおいても、兵士たちの多くは同じようにほとんど意味を持たない死に方をしたということだった。彼らは日本という密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。そしてこの「効率の悪さ」を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない。戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。我々は日本という国家を結局は破局に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した。その結果我々はたしかに近代市民社会の理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の良さは社会に圧倒的なな繁栄をもたらした。(中略)でも、そうなのだろうか?表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。』

僕には、著者のこの文章がいまだによく理解できないでいる。敵の兵力や当時の情勢を無視した無謀な作戦を立案し、実行しようとした関東軍の参謀たちを「効率の悪さ」(あるいはアジア的)という言葉で語り尽くせるのだろうか…。僕には、それが「アジア的」というより、あるいは「日本的」というより、人間の精神の根っこの部分に存在している「悪霊のようなもの」ではないかと思う。
「悪霊のようなもの」がやってくるところ。
今回、本書を読み直してみて、僕は、こんな風に思った。著者がノモンハン事件にわけもなく惹かれたのは、そこに、日本人の精神の深層に潜む「悪霊のようなもの」の存在を感じとったからではないか? 奥泉光の「東京自叙伝」の主人公であった「地霊」のように、「悪霊のようなもの」は、その時代の最も典型的な人物に取り憑き、人々や国家を破滅に導いていく。「悪霊のようなもの」が属する世界は、僕らの住む日常のすぐそばに存在しているが、普段は隔てられ、行き来することはできない。その世界は、著者自身の深層にも通底していて、何かの拍子に境界が破れ、奈落の入口がぽっかりと開く。著者がチョイバルサンで体験した、あの振動は、そこからやってきたのかもしれない。もしかしたら、ノモンハンに触れ、深く知り、さらにその場所を訪れたことが、著者の作家としての転機になったのかもしれない。彼は、戦うべき相手を見つけたのではないだろうか。

この本を読み終えて、僕の「あの戦争と昭和史を知る読書」は、ひと休みとする。色々とわかってきたこともあるし、新たな疑問も生まれてきた。日本軍の南方への侵攻も、マッカーサー以後の昭和史もちゃんと読みたいが、他に読みたい本も随分たまっている。