岸 政彦「ビニール傘」

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前回エントリーのエッセイ集「大阪」は、今までにない切口の大阪が描かれていて新鮮だった。著者のひとりであり、社会学者でもある岸氏の小説も読んでみることにした。「ビニール傘」とは思い切ったタイトル。本書にはもう一編、「背中の月」という中編が収められている。

舞台は、「大阪」で描かれたような、港区、此花区大正区といった、都心に近いが、どこか殺伐とした街。導入部は、タクシー運転手の「俺」が、ユニバで客を降ろした帰りに、若い女を乗せるところから始まる。しかし、そのままストーリーが展開していくのではなく「俺」が、タクシー運転手の「俺」から清掃作業員の「俺」、コンビニ店員の「俺」へと変化していく。女を見つめる「視点のリレー」とでも言ったらいいか。さらに日雇い労働者の「俺」、派遣社員の「俺」へと次々に変化しながら、女と関わっていく。女の方も、同じ人物とは言えないようだ。コンビニ店員の「俺」は、女の様子から、地方から出てきて、酉島(とりしま)あたりのワンルームマンションに住んで、最近増えているガールズバーか、居酒屋のチェーンか、安いサービス業のアルバイトをしているのだろう、と想像する。想像はさらに膨らみ、女の部屋の様子や投げやりな生活のディテールにまで広がっていく。日雇い労働者の「俺」は近所のマクドで女と出会い、派遣社員の「俺」は女と暮らし始める。「俺」も「女」も一人ではなく複数の存在として表現されている。しかも名前すら与えられていない。大阪ならどこにでもいそうな「ありふれた人物」として描こうとしたためだろうか。しかし、コンビニ店員の「俺」が想像する女の部屋の描写はディテールを極めている。以下引用「部屋の真ん中には小さな汚いテーブルがあった。その上には吸い殻が山になった灰皿と、携帯の充電器と、食べかけのジャンクフードの袋と、なにかわからないドロドロした液体が入っているパステル色のコスメの瓶で溢れかえっていた。」引用終わり。このような描写がさらに数行にわたって続くのだ。男が想像する女の部屋の描写としては克明すぎないか。そして、この描写は、そっくりそのまま、後半部分の語り手である女性の数少ない話し相手で自殺する女性の部屋の描写としてコピペされているのだ。都会ならどこにでもいそうな無名のありふれた若者たちの荒涼とした生のかたち。ストーリーではなく、シーンの断片のような文章を重ねていく、ある種の詩のような手法がよけいにそう感じさせるのかもしれない。

テーマは「孤独」と「終末」。そして、あの歌。

本書のテーマは孤独なのだと思う。故郷とのつながりも切れ、都会に出てきて、誰と繋がることもなく、牢獄のような小さなワンルームマンションで暮らす若者たち。彼らが暮らす大阪という街も、かつての賑わいや勢いが失われ、壊れていこうとしている。そして登場人物たちの世界のディテールは、コンビニやマクドユニクロや回転寿司など、チェーン店や大量生産の安い商品や安いサービスで成り立っている。「食べ残しのカップ麺」は、本書のキーアイテムの一つである。さらに、およそ文学的な素材になりえないような「ビニール傘」が、この作品では二人の関係を鮮やかに象徴するアイテムになっている。どのように出会ったかも思い出せない二人は、普段のデートのように「またね」と別れることで、その関係を終わらせてしまう。恋愛関係すらも希薄化し、人々のつながりが失われていく時代。最後の方で、雨の淀川を散歩する二人を包む透明な「ビニール傘」の美しさが愛おしい。本書を読み終えて、井上陽水の「傘がない」という歌を思い出した。ありふれた何の変哲もない「傘」を題材に、社会や親しい人から切り離された若者の閉塞感と孤独を表現した初期の傑作である。

もっと小説の方へ。

もう一つの作品「背中の月」は、より小説らしくなってきている。「ビニール傘」と違い、主人公である「俺」は独りの人物に集約され、女性の方も美希という名前が与えられ、二人は結婚もしている。「俺」はIT系の会社に勤め、美希はデザイン会社で働いている。二人は環状線大正駅近くの2DKのマンションを借りて慎ましく暮らしていた。しかし、読者は、小説の冒頭から、美希がこの世にいないことを知らされる。美希がいなくなって「俺」の生活は、少しずつ壊れていく。いや、美希が生きていた時から、崩壊は始まっていた。俺の会社は、東京の大手との競合に敗れ、リストラの話が持ち上がっていた。美希の働くデザイン会社も業績が悪くなり、彼女の手取りも少なくなっていた。大阪の経済の崩壊とともに「俺」も美希も徐々に生きる力を奪われていく。印象的なイメージの断片を重ねて行く、著者独特の文章は変わらないが、より小説らしい構成になったぶん、「ビニール傘」で感じた新しさやインパクトが感じられなかったのはちょっと残念。

この本を読んだ直後に「リリアン」という小説が出た。「断片的なものの社会学」という本も面白そうだ。しばらく、岸氏の作品を読んで見ようかな。