逸木 裕「電気じかけのクジラは歌う」

前回投稿の「風を彩る怪物」の著者による音楽SF or ミステリー?。

個人的には音楽を題材にしたSFだと思うが、現在では普通の小説とSF小説の壁は融解しつつあり、本書ぐらいの近未来設定であればもうSFと呼ばないほうがいいのかもしれない。

AIが音楽を創り、作曲家は失業。

舞台は、AIが社会のあらゆるところに浸透している近未来の日本。AIがリスナーに合わせて好みの音楽を作ってくれるサービス「Jing」が開発され、人気を集めている。「jing」の普及により作曲家という職業が消滅する。主人公の岡部も、かつては作曲家として活動し、仲間の作曲家二人とユニットを組み、ライブ活動をしていた。しかしJingの出現により、作曲の仕事を続けられなくなった彼は、ユニットを解散し、jingのAIに、自分が音楽を聴いた時の反応を提供する「検査員」となっていた。「検査員」とはAIの機械学習における「教師」のようなものだろうか。ヘッドホンで様々な音楽を聴き、身体に取り付けた生体モニターで採取した自身の反応データをAIに提供する仕事である。ある日、岡部は、かつてのユニット仲間であり、解散後も作曲を続けていた天才音楽家の名塚が自殺したことを知る。名塚は自分のスタジオの外壁に遺作となる曲を記録したメモリーシールを1枚だけ貼り付けて公開していた。(メモリーチップみたいなモノ。シールにスマホをかざすだけで音楽をダウンロードできる)岡部の元にも別の曲が入ったメモリーシールが送られてくる…。名塚はなぜ自殺したのか?彼の遺作は何のために公開されたのか?岡部に送られてきたシールは何を意味するのか?

AIが人間の創作活動を奪う!?

本書はミステリー作品であり、ネタバレになるのでこれ以上のストーリー紹介はしないでおこう。本書の一番の読みどころは、AIによる音楽の創作が進化すれば、人間による創作活動を奪ってしまうかもしれないという思考実験だ。これまでにもテクノロジーの進歩によって多くの職業が消滅してきたが、本書では、AIによって人間の最後の砦とも言える創作活動が奪われていく。世の中に流通するような音楽のほとんどはjingによって提供されるようになる。唯一の例外は天才作曲家の名塚によるもので、AIでは創り出せない音楽を作り続けることで、かえって人気が高まっていく。一方、主人公の岡部は、ゲームや劇伴などの作曲で収入を得ていたが、jingの普及で仕事を失っていく。彼が仕事を奪われていく様子は、とても身につまされた。

新しいテクノロジーによって仕事が消滅していくやるせなさ。

分野は全然違うが、僕のような広告のコピーライターが新聞・雑誌などの印刷メディアの衰退によって仕事が激減していった状況と似ていると思った。ちょっとだけ本文引用「仕事が減っていくというのは、想像していたよりはるかに苦痛だった。自分の居場所がなくなっていき、お前の代わりなどいくらでもいると日々通告されている感覚。自分を支えていたプライドや自信が、少しずつひび割れて不安定になっていく苦しさ。(中略)ひとつ仕事を失うごとに、指を一本ずつ切り落とされているような感じすらした。」引用終わり。広告コピーの場合、仕事がAIに奪われたわけではなく、インターネットやWebの登場によって仕事の舞台である印刷媒体が衰退していったのと、SNSの普及で、大勢の人に「広く伝える」という広告の手法が通用しなくなったことが原因なのだが、メディアの変化によって、仕事が失われてゆく過程は似ているのかもしれない。もう数年前のことだが、知り合いのネットショップを運営している会社が、AIを使って商品説明のコピーライティングを行うシステムを開発していると聞いたことがある。そのシステムは、すでに稼働しているかもしれない。別の知り合いから聞いた話だと、AIによるコピーライティングは実現可能だが、その開発には少なからぬコストがかかるため、人間のライターに書かせたほうが安く上がるため、わざわざ開発する必要が無いのだという。

一方、ビジュアルの分野では、現実に、AIによる画像生成ソフトが出現し、それを利用して作品を作り出し、発表するクリエイターがすでに現れているという。いずれはアートに限らず音楽や文学の世界でも、AIによる創作が広がっていくのだろう。本書で描かれる音楽業界はかなり単純化されており、現実にはこの通りにはならないと思うが、近い将来、同様のことは起きるような気がする。

天才 vs AIの闘い。

自殺した天才作曲家の名塚は、Jingが普及してからも作曲活動を続けていて、その作品は人気を集めていた。天才のみがAIに対抗できるということなのか。そして彼の自殺はAIへの敗北を意味するのか。音楽における創造性とは何なのか?さらに音楽とは何なのか?主人公の岡部は、ある意味で根源的な問いかけをしながら天才の自殺の謎を探っていく。本書は、天才とAIとのせめぎ合いを描くと同時に、岡部のように、天才ではないが、音楽を愛し、音楽を知り尽くしていながら、AIに仕事を奪われていく音楽家と名塚のような天才との葛藤も描かれている。

控えめな近未来の表現。

本書における近未来の表現は、かなり控えめである。AIによる音楽サービスJing以外は、ほとんど現在のままだと言ってもいい。パソコンもタブレットスマホも登場するし、そのインターフェイスも現在と大きく変わっていないようだ。その中で大きく変化しているのはタクシーとコンビニ。タクシーは自動運転による無人化が進み、都内ではほぼ無人タクシーになっている。コンビニも電子決済や画像認識による決済でレジがなくなり、無人店舗が増えているという設定。新しいテクノロジーが世の中に浸透していく過程のリアリティが絶妙だ。フリーランスのウエブエンジニアという著者の職業から来るものなのかもしれない。さらに他の作品も読んでみよう。