養老孟司/宮崎駿「虫眼とアニ眼」

映画「風立ちぬ」以降、宮崎駿の発言が気になって色々読んでいる。考えてみると宮崎駿作品は、ほとんど見ているが、巨匠の発言そのものを読もうとしたことはなかった。しかし引退宣言やNHKの番組で、巨匠の発言を聞いたりしていると、やはり面白い。雑誌CUT9月号に載った渋谷陽一によるロングインタビューもとてもいい。かなり饒舌で、辛辣な言葉がポンポン飛び出してくる。もうすぐ公開される零戦乗りの映画「永遠の0」を批判しているが、あの作品のみを攻撃しているのではなく、過去に出版された、ほとんどの零戦戦記を批判しているのである。この人はほんとに天才で怪物なんだと思う。以前に書いたエントリーの鈴木敏夫のインタビュー集「風に吹かれて」の中でも、いちばん面白いのは巨匠との関わりの部分である。本書は解剖学者、養老孟司との対談集である。「もののけ姫」の公開直後の1997年から「千と千尋の神隠し」公開直後の2001年に、3回にわたって行なわれた対談集である。今年8月に出版された半藤一利との対談集「腰ぬけ愛国談義」と比べて、巨匠の発言内容がまったくブレていないことに驚かされる。先週の引退宣言でも、語られた言葉は、本書の時からまったブレていないのはさすが。宮崎と養老の話は、噛み合っているような、いないような微妙な間合いで続いていく、不思議な対談になっている。それはそれで面白いのだが、僕が感心したのは、巨匠の以下の話だ。
追い詰められて、脳にフタがバカッと開く。
巨匠の話をそのまま引用させていただく。「実際、映画を作る作業というのは、言葉で意識的につかまえる範囲じゃ間に合わなくなってくる行為なんですね。それでも何とか形にしなといけないから、ある感じだとか、気分といった漠然としたものを手がかりに『こっちの方向だな』と思って始めるわけですけど、結局、『こっちの方向』だけではすまなくなって、とことん追い詰められてしまう。で、いよいよ困ると、これもいい加減な幻想なんですけど、普段は開いていない脳のフタがバカッと開いて、それに比例して日常生活のことがどうでもよくなるんです。あらゆる約束事や雑事を全部忘れてしまう。でも、そのフタを開けなきゃダメなんです。」この話、何だか身につまされる。巨匠はさらに「しかし映画を作り終えると、今度は、そのフタを閉めるのが大変だ」と言う。開いた脳のフタを閉じるのに、最低、半年はかかるらしい。フタを閉じるために、巨匠は山小屋にこもって、毎日自炊して、散歩して、また食事を作って、というシンプルな生活を続けていると、ようやく日常が戻ってくるという。ところが「もののけ姫」の場合は、脳のフタがなかなか閉じないのだという…。ここで語られた「お話」は、芸術や創造の成り立ちを、的確そのもの言葉で表現しきっている。宮崎駿という人は天才であることは間違いないが、自らの天才を語る言葉においても優れた表現者であると思う。ここで語られる創造の秘密は、村上春樹がエッセイなどで語っている創作の手法と通底している。普段の言葉や感覚では到達できない領域に入り込むために、作家は、言葉では表せない世界に降りていかなければならないのだ。そして降りていった世界が「もののけ姫」のような、人智を超えた神話のような世界であったり、自然と人間の間の解決が難しい問題であったりすると、そう簡単には還ってこれないのだろう。
ここで語られる創造の秘密は、広告のような、もう少し明快な方向性を与えられたクリエイティブにも当てはまることだと思う。しかし広告のアイデアを一生懸命考えていても、その結果、脳のフタが何カ月も開いたままになるなんてことはまずない。そういう人もいるかもしれないが、僕はそこまで行かなかった。行けなかった。映画や小説はとは、深さが違うのだと思う。
この作品は、スタッフを食いつぶした。
もう1カ所、創作にまつわる興味深いエピソードが紹介されている。再び巨匠の発言を引用させていただく。「今、ジブリも大変ですよ。危機感はあるというんだけれど、なんか気のいい若者たちのすみかになっちゃって。(中略)これは僕の仮説ですが、それまでカラーンとしていた職場が、なんか匂いが立ち込めてくるんですよ。澱のように。職場の中にエネルギーが立ち込めているんです。窓を開けたぐらいじゃすまないんで、禊みたいな感覚で、ペンキを塗り替えようとか、席の配置を変えようとか、なんとかしてそれを拡散させようとするんです。ところが今行くとないんです。匂いが。カラーンとしている。これがいちばん怖いですね。」中略「ぼくがよくなかったんでしょうね。『もののけ姫』やっているときに、しょうがない、この作品はスタッフを養成するのではなく、食いつぶすしかないと決めたもんですから。で、ほんとに食いつぶしちゃったんです(笑)いや、食いつぶすって変な言い方で、人間、食いつぶされることはないんです。でも、集団というのは食いつぶし得るんです。」このエピソード、とても怖い話だと思う。『もののけ姫』は、それまでの作品と違い、宮崎駿が内部に持っていた矛盾に満ちた世界観をいっきに解き放った作品だった。その世界観を、本人以外誰もきちんと理解できなかったのだと思う。それ故、巨匠は、自らの創造性だけを優先し、スタッフを自らの手足として使い切ることに決めた。スタッフの創造性を活かすことはなかった。その結果、集団が持っている創造のエネルギーが失われてしまった。組織には、スタッフを育てる組織と、スタッフを潰してしまう組織がある。圧倒的な天才が支配する組織は、どうしてもスタッフが育ちにくいのだと思う。僕らのようなクリエイティブの集団でも、同じようなことが起きる。ボスがあまりに出来すぎて、完璧主義で、おまけに自己顕示欲が強かったりすると、新しい才能が育つのは、ほぼ絶望的だといってよい。うちの会社はどうなんだろう。自分はどうなんだろう…。いろいろ考えささせられる本だ。本書に続いて、鈴木敏夫のエッセイ集「ジブリの哲学」も購入。少しだけ読んだが、こちらもメチャメチャ面白くて、困っている。また感想を書こう。