玉岡かおる「帆神」

江戸末期に活躍した播磨高砂の英雄、工楽松右衛門の生涯を描いた小説。著者は兵庫県出身の小説家。初めて読む人だ。

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もう随分前になるが、友人で建築家のY君に誘われ、高砂市のイベントに出かけたことがあった。Y君はその当時「兵庫ヘリテージ」といって、県内の建築遺産の保存と公開を推進するプロジェクトに関わっていた。その日、彼は、高砂市内の古い商家の公開のガイドのようなことを行なっていた。その時にY君が話していたのが工楽松右衛門の家の話だった。現在は高砂市によって公開されているが、当時は家の所有者と保存と公開の話を進めている途中だったと記憶している。僕は、工楽松右衛門という名前を、司馬遼太郎の「菜の花の沖」に登場する人物として覚えていたので印象に残っていた。

技術者が主役の歴史小説

歴史小説を読んでいて、最も共感を覚えるのは、武将とか僧侶などではなく、技術者が活躍する作品である。司馬遼太郎の作品でいうと、船頭から海商となり、函館や択捉などの開発に貢献した高田屋嘉平を描いた「菜の花の沖」。蘭学者蘭方医であり、幕府軍や新政府軍の西洋化に貢献した大村益次郎が主人公の「花神」など。本書に登場する工楽松右衛門も、船頭や海商でありながら、船や航海術の改良に取り組み、「松右衛門帆」という画期的な帆を生み出した技術者であった。

高砂の漁師の家に生まれ、幼い頃から漁労に従事していた主人公は、家業の漁師を継がず、高砂を飛び出して、兵庫津で、御影屋という船主の素で水主(かこ)として働き始める。若くして航海を重ねた彼は、帆船の操縦が巧みで、また創意工夫が得意であったという。その後、廻船問屋「北風荘右衛門」の支援を受け、船持ち船頭として独立する。当時の船の帆は、莚や木綿の布を重ね合わせ、縫い合わせたものが主流で、強度に問題があった。松右衛門は、研究と試作を重ね、播磨の特産である太い木綿糸を用いて、軽くて丈夫な帆布の開発に成功する。この新しい帆布により巨大な帆を装備することが可能になり、従来より船の速度を飛躍的に高めることができたという。この帆布は「松右衛門帆」と名付けられ、またたく間に全国に普及。江戸の海運に革命を起こしたという。小説の中では、松右衛門が船頭の仕事をそっちのけで、資金や時間を帆布の開発に費やし、機織り機まで改良を加え、新しい帆布を生み出した過程が描かれている。

主人公が生きた時代は一方で異国船が、北方に出没し始め、幕府が蝦夷地に注目し始めていた時代である。有名になっていた松右衛門は、1790年、幕府より択捉島に船着場の建設を命じられた。大型船が入港できるよう、海底を浚渫し、邪魔になる岩を取り除き、大量の石を運んできて埠頭を建設する。彼は厳寒の地での困難な工事を成し遂げ、幕府から「工楽:工夫を楽しむ」の姓を与えられる。さらに函館港の掘割や乾ドックなどを建設し、蝦夷地交易の拡大に大いに貢献した。その後も備後の鞆の浦高砂港の築港工事を完成させた。

小説は、松右衛門の生涯を、高砂・兵庫津・浪華・越後出雲﨑・恵土呂府(択捉)・鞆の浦を舞台に​、4人の女性との愛を絡めながら辿っていく。冒頭、初めて読む著者の文体に馴染めず、手間取ったが、兵庫津に移ったあたりから俄然面白くなってきて、あとは一気に読み終えた。

同時期に活躍した高田屋嘉平に比べると、残された資料も多くなく、あまり注目されて来なかったという。

現在は、高砂市が「工楽松右衛門旧家」を公開しており、見学することができる。彼の像がある高砂神社や高砂港とともにぜひ訪れてみたい。

松右衛門帆は、蒸気船などの登場により廃れていったが、2016年に新たに創業された御影屋(松右衛門が水主として働きはじめた船主の名)から「松右衛門帆」のブランドでバッグなどが発売されている。

追記

本書で一つだけ違和感を感じたのは「浪華の巻」の中で「知らんけど」という言葉が当時の大阪人特有の言葉として使われていること。会話の最後に「知らんけど」という言葉を付け加えて、相手を煙に巻いたり、自分の責任を回避するような使い方は、この10年ほどの間に出現したものだと思う。江戸時代に同じ使い方をされていたとは思えない。