激動の幕末。2年前に吉田松陰処刑。前年には桜田門外で井伊大老暗殺。そして公武合体で皇女和宮が江戸へ下った文久元年。江戸から20里ほど離れた忍藩(おしはん)という小藩に、尾崎石城という下級武士が暮らしていた。彼は文章が巧みで、しかも絵がうまかったため、「石城日記全7冊」の絵日記を残した。石城は元々江戸詰の庄内藩士の家に生まれ、忍藩の尾崎家の養子となった。最初は御馬廻役で百石の中級身分だったが、安政4年、29歳の時に、上書して藩政を論じたために蟄居を命じられ、わずか十人扶持の下級身分に下げられてし まった。尾崎家を出され、妹夫婦の家に居候している。絵日記は石城が33歳の文久元年から翌2年までの178日間の暮らしを記したものである。絵日記に は、日常の細々とした暮らしが絵と文章で描かれている。幕末を動かした英雄たちとはまったく縁のない小さな藩の下級武士のくらし。やがて維新になって失われてゆく、江戸時代特有の細やかな日常が鮮やかに描かれている。このような普段の武士の日常生活を詳細に記した記録は珍しいという。著者は建築科の教授で、住宅計画 学を専攻している研究者。
文庫版は絵が小さすぎる。
最初は文庫版で購入。読み始めて、確かに面白いのだが、文庫だと肝心の絵が小さすぎて、何が描いてあるのか、よくわからない。そこでルーペを用いて見るのだが、今度は画像が粗くなって、絵がぼけてしまい、やっぱり何の絵なのか、わからない。ページ数が増えてもいいので、絵の部分をもっと大きくしてほしかった。結局、我慢できず、単行本を古書で購入することに。
毎日のように人に会い、酒を飲む生活。
読んで驚かされるのは、下級武士どうしの交流が頻繁で密接なこと。尾崎石城は、同じ下級武士の友人や、中級武士の友人と3日と置かずに会っている。お互いの家を訪ねては食事をしたり酒宴を持ったりする。また、近所の寺に毎日のように遊びに行き、和尚や友人たちと酒を飲む。また、月に1〜2度は料亭に上がり、遊んでいる。人が集まるのは、自宅、お寺、料亭である。特に寺は、当時の人々の重要な交流場所だったようで、ほぼ毎日出かけている。寺に集まるのは、石城のような中下級武士とその家族、様々な町人、他の寺の僧侶などで、特に用事がなくても、誰かいないか、ぶらりと立ち寄ることも多かったようだ。しかも武士、僧侶、町人が身分の壁を越えて気軽につきあっている。日記には、三食何を食べたか、食材の値段、料亭の支払いなども記されているので、当時の食生活がわかる。それによると、普段の食事は「三食とも茶漬け」といった風に質素だが、お祝いや酒宴になると俄然豪華になる。人が集まる時は、各々が食材や酒を持ち寄る。江戸末期、藩の財政は逼迫しており、下級武士たちの生活は楽ではなかったはずだが、これほど頻繁に集まったり、酒宴を開いたりして家計は大丈夫なのかな?と思うほど人々の交流は盛んであった。十人扶持といえば、今でいうと年収100万円ぐらいらしい。日記の中でも、石城は、髪結代を友人に借りるほど金に困っているが、酒宴に行くためには、帯を売って酒代を作ったりしている。
愛すべき人物。
尾崎石城という武士は、なかなか愛すべき人物である。古今の書物に通じたインテリであり、絵も達者だが、性格はとても気さくで、友人の武士や、複数の寺の和尚、料亭の女将や主人、近所の後家さんなどと気楽に付き合っている。また城勤めもない身分のせいか、お寺の留守番を頼まれたり、庭の手入れをしたり、妹と一緒にもてなしの料理を作ったりする。酒が好きで、しばしば飲み過ぎて、寺や訪問先の家に泊まってしまうこともしょっ中である。また酔うと、大声で歌い、踊りだす癖もある。さらに飲み過ぎての失敗談も少なくない。酔っ払って大暴れし、寺の戸や障子をこわし、根太(ねだ:床板を支える横木)まで折ってしまって、「誠に面目なし」と猛反省する。ある日、酒を飲んで帰る途中に沼にはまって泥だらけになり、こっそり井戸で着物を洗っている自分の姿を絵に残している。また酒の席での不埒を理由に、閉戸を命じられている。友人たちとの酒の席で、酔った勢いで藩政を批判するような発言をしたのだろう。それが藩の重役の耳に入り、閉居の咎めとなったらしい。百石から十人扶持に落とされた藩への鬱屈した気持ちが時に爆発してしまうのかもしれない。
武士の住居考察。
著者は建築の研究者であり、絵日記の記された中下級武士の住宅を考察している。江戸期の武士の住宅は、現在の住宅よりもずっと開放的であり、道に向かって開かれていたという。道に面した表には広い前庭があり、来客は、正式な玄関とは別に、庭を通って、座敷の濡れ縁に座り、家の者と会うことができた。物売りから気のおけない友人まで、様々な人々がこの動線で出入りしたという。裏庭には野菜などを植える畑を作ることも多かったという。
激動の時代の片隅で。
江戸末期の小さな藩の下級武士のささやかな日常。しかし、時代の波は容赦なく押し寄せてくる。石城の妹の夫である進(すすむ)も、京から江戸へ下る和宮一行の護衛に借り出される。絵日記には、彼を送り出す緊張した家族の様子も描かれている。石城自身も、御馬廻り百石の身分から無役の十人扶持に落とされた理由が、上書により藩政を論じたことにあった。彼は水戸の浪士たちにも共感を寄せていたらしい。絵日記の中でも坂下門外で、老中・安藤信正が襲撃された事件のことが書かれている。文久元年12月に閉居を命じられた石城は、大晦日、酔って自らの不遇を嘆く日記を乱れた筆跡で記す。年が明けて8日、閉戸が急遽解かれた。友人知人たちの藩重役への赦免嘆願が功を奏したのだろうと著者は推測する。日記の最後は、閉戸を解かれ、戻ってきた日常が描かれる。赦免の祝い、姪のおきぬを背負っての買い物、祝日に妹と一緒にちらし寿司をつくったこと。独り酒を飲む石城のもとに、近所の娘たちが遊びに来たこと。日記はここで終わっているようだ。それから6年後、明治維新になった。石城は、あの激動の時代をどのように生きたのだろう。大政奉還後、忍藩は、幕府につくか、新政府につくかで藩論が割れる。しかし戊辰戦争が始まると、新政府側に与することに決し、東北に出陣した。明治元年、石城は、藩校の培根堂の教頭に任ぜられた。ようやく彼の才能が認められたわけだ。その後、宮城県に招かれ大主典(官職の名)となった。明治7・8年に任地の石巻で病没。四十六、七歳の生涯であった。
本書の前に、司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んだ。 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の影響である。吉田松蔭から高杉晋作へと続く、それこそ「翔ぶように」日本が動いていった時代の物語だった。それと同じ時代に、同じ日本の片隅で、こんなにささやかで心暖まる暮らしが営まれていた。そのことに何だかほっこりする。