最相葉月「星新一 一〇〇一話をつくった人」

著者のノンフィクション「セラピスト」がとてもよかったので、他の作品を読みたくて、「なんといふ空」と「仕事の手帳」というエッセイを読んだ。その「仕事の手帳」の中で紹介されていたのが本書。読んでみたら「セラピスト」以上に衝撃を受けた。なんでもっと早く読まなかったのか、と大後悔。本書を読まなかった理由は、星新一という作家を僕自身がまったく認めず、作品をほとんど読んでいなかったことにあると思う。自分ではSFファンだと思っているが、けっこう偏っていることを痛感した。10代の前半から読み始めたSFは、最初の頃は、F.ブラウンやブラッドベリ等の短編をたくさん読んだものの、すぐにクラークやアジモフハインラインなどの長編ハードSFに興味が移り、高校に入った頃は、バラード、ディックなどのニューウエーブSFを読むようになった。日本の作家では、光瀬龍に始まり、小松左京筒井康隆眉村卓あたりの長編を中心に読んでいた。そんなわけで日本のSF作家の第一号ともいえる星新一は、素通りしてしまっていた。ショート・ショートという形式も、自分には、軽すぎて、なじめなかったのかもしれない。星新一の本は、自宅には数冊もないと思う。本書は星新一の評伝であるが、例によって、著者による関係者への執拗なまでの取材が、1人の作家の評伝という枠組みを超えて、SFはもちろん、推理小説、純文学にまで広がる戦後の日本文学の全体像を描いていることに驚かされる。さらに前半部で描かれる、星新一の父である星一(ほしはじめ)の生涯もユニーク。著者自身が、新一よりも父の生涯のほうが面白くて、のめり込みそうになったと語るほど凄い人物だったという。この星一の半生を描いた前半部も本書の読みどころの一つだ。

新一の父、星一(ほしはじめ)の生涯。

新一の父、星一は、米国に12年も留学し、帰国して星製薬という企業を創業。医療用の麻薬の独占製造、薬と生活用品、食品のチェーンストア網を全国に展開するなど、先進的な企業家として成功をおさめた人物であり、新渡戸稲造や、後藤新平廣田弘毅とも親しくしていたという。本書の前半は、父の生涯が中心に描かれる。星製薬は、現代でいうと最盛期のソニーくらいの規模があったと言われる。また、全国のチェーンストアの薬局の子弟を無月謝、寄宿代無料で教育する星製薬商業学校の設立、女性が働きやすいように、会社に託児所や幼稚園を設けるなど、福利厚生の面でも、最先端を行く企業だった。しかし、星製薬は財閥ではなかっため、政治の変化に翻弄される。のちに星新一の小説「人民は弱し 官吏は強し」で描かれた「阿片事件」に始まり、融資の凍結、軍による生産設備の供出、敗戦による台湾、満州の拠点喪失、戦後はGHQによる圧力など、ありとあらゆる不運が続く。しかし、星は、それらに挫けることなく、次から次へと新しいアイデア事業を創り出していく…。本書の前半部では、独創的で不屈の企業家であった父の活躍を語りながら、星新一の幼少期から青年期までが描かれる。新一は、父の急死により、代表取締役社長になる。

1951年1月、父の一がロスアンゼルスで 逝去。新一は、取締役会で星製薬の社長に就任する。まだ24歳という若さだ。しかし受け継いだ会社は、債権まみれだった。しかも星製薬に関わりがあると主 張する大勢の親族、一を絶対的に信奉していた福島や茨城出身の大学や会社の関係者、さらに全国のチェーン組織、労働組合、一亡き後の混乱に乗じて、会社の 乗っ取りを企む者…。父が生きている間は、会ったこともないような人々が次々に現れてくる。企業家としては優れた父だったが、ワンマン経営であったため、部下には、イエスマンしかおらず、便りになる側近もいなかった。1年余りで、外部から社長を迎え、自らは副社長に退くが、会社再建の道は遠かった。1958年、ついに星は、会社の株式などを一切放棄し、取締役を辞任した。辞任の記者会見を取材した日本経済新聞の記者の目には、星が、ただただ無責任な2代目にしか見えなかった。この年、彼は「ボッコちゃん」を書き上げる。

SF作家第一号、星新一

本書の最大の読みどころは、まだSFという言葉を誰も知らなかった頃、SFを発見し、日本SFの黎明期を創っていった人々の奮闘だろう。星新一も、その1人であったが、昭和29年、たった1人でアメリカのSF大会に参加した矢野徹。ただのアマチュアであった矢野に、日本のSF事情を教え、後にミステリー雑誌にSF小説を掲載する道筋を創った推理小説作家の江戸川乱歩。まだSF専門誌がなかった時代にSFの同人誌「宇宙塵」を刊行した柴野拓美。日本で初めてのSF雑誌「SFマガジン」を創刊した福島正実…。彼らの涙ぐましい努力の結果、日本のSFは、推理小説の軒先を借りて、誕生し、育っていったのだ。日本にSFを根付かせようとした彼らの奮闘ぶりを読むだけでも、じゅうぶん面白い。そして彼らが待ち望んだ日本人SF作家の第一号が、星新一であったのだ。

SFの苦悩。

SFというジャンルが、文芸の一画に一定の位置を占めるようになったものの、文壇内での評価はまだまだ低いままだった。星新一も、後に続く作家たちも、長い間、低い評価に苦しめられる。そんな時、星が推理作家の黒岩重吾とともに直木賞の候補になって、話題となる。受賞は逃したもの、候補になったことで、名前から知られ、新聞や雑誌、テレビなどの取材がいっきに増えた。SF作家第一号としてのポジションを獲得する。しかし、文壇での評価は依然として低いままで、星は「賞」にこだわっていたという。筒井康隆の「大いなる助走」に描かれた、銀座のバーで暴れる大御所SF作家は、星新一がモデルであるという。仲のよかった小松左京筒井康隆は、御三家と言われるようになってからも、どんな場面でも星を先輩として先輩として立てていたという。吉行淳之介なども登場する銀座のバーにおける作家どうしの交流も面白い。

星新一の素顔。

雑誌などで時々見かけた星新一は、丸い柔和な顔で、いつもニコニコしていた印象がある。育ちのよい優しいおじさんというイメージ。しかし本書には、まったく違う彼の別の顔も描かれている。星新一は、誰も信用しなかった。創作の悩みを編集者に相談することもなかった。秘書も税理士もいなかった。育児が忙しく、家政婦を雇いたいという妻の要望にも、他人を家に上げるのが嫌で承知しなかった。次女のマリナがアメリカ人と結婚した時も、同窓会で酔って、娘がアメリカ人にとられたと泣いた…。また、筒井康隆が様々な文学賞を受賞するようになった頃、筒井のパーティの2次会で、筒井が星の言動をネタに書いた作品に対して「勝手に書きやがって…、人のことを書いて原稿料を稼ぎやがって…」という暴言を吐いてしまう。筒井の妻もいる席でのことだった。それは、SFの後輩として、親友として、盟友としてつきあってきた筒井に先を越された焦りや妬みからの暴言だった。そんな星の醜い顔も、著者は容赦なく描いていく。

高度成長期。あの頃の未来。

高度成長期の真っ只中、未来学としてのSFが注目される。70年の大阪万博では小松左京がプロデューサーになり、星も福島正実矢野徹眞鍋博とともに三菱未来館の企画に参加した。あの頃が日本SFの最初のピークだったかもしれない。その後、「日本沈没」を書き、ベストセラーになった小松左京は、東宝から「スターウォーズ」に負けないSF映画の企画を依頼され、「さよならジュピター」を企画する。星がもらえなかった様々な文学賞を受賞していく筒井康隆…。仲がよかったSF作家仲間は、それぞれが別の方向へ進んでいった。星のショートショートは、文壇では評価されないままだったが、小中学生を中心に多くのの読者を獲得していく。増刷を重ね、作家の長者番付にも顔を出すようになる。

一〇〇一話への挑戦。

悩みながらも、ショートショートにこだわり続けてきた星は、1000編を目標にし始める。そして1984年に1001編を達成。その後は、ペースを落として作品ができるたびに発表するという形で執筆を続けた。1994年、口腔がんと診断され、手術を受ける。1996年、自宅で倒れ、入院。人工呼吸器を装着する。その後、話せるまで回復するが、夜中に酸素マスクが外れ、呼吸停止状態に陥る呼吸は回復するが意識は戻らず、その1年8ヶ月後、永眠。

門外漢だから書けた、長大な年代記。

本書は星新一の評伝だが、読後の印象は、1人の作家の生涯というよりは、ある時代の長大な「年代記」を読んだような感覚だ。そう感じる理由は、関係者の証言が多いせいではないかと思う。著者によれば実際に取材したのは124人に及ぶという。星製薬の関係者から、作家、文壇関係者、星新一が通った銀座のバーの女性にいたるまで、執拗ともいえる取材を繰り返して、本書は生まれた。だから、著者は、SFから推理小説、純文学にまで広がる戦後文学の変遷を語るというよりは、そこに関わった人々の証言を丹念に拾いあげようとしたのだろう。書かれた小説の中身に触れなくとも、その作品を書きあげた作家の気持ちや、それを読んだ編集者の印象を語るほうが、作品自体はもちろん、作品が生まれた時代の気分までも伝えてくれるのかもしれない。著者は、SFの門外漢であるからこそ、SFの全体像を書くことができたのではないか。さらに著者には、人間を描くことのへの強いこだわりあったのではないかと思う。それは、福岡伸一が書く科学ノンフィクションの世界と似たところがある。福岡は、生命科学の事件や歴史を描きながら、そこに関わっている人々のドラマ、愛憎や裏切り、妬みや恨みまでも描き出すことで、読者の興味を掻き立ててゆく。二人とも、文章がとても上手く、簡潔で明晰である。僕には、二人の文体が、ノンフィクションというよりは、なぜか小説の文章を読んでいるように感じられる。

多くの賞を受賞。

本書は、多くの賞を受賞している。第34回大佛次郎賞、第29回講談社ノンフィクション賞は順当としても、第61回日本推理作家協会賞 評論その他部門、第28回日本SF大賞、第31回星雲賞ノンフィクション部門 など、ミステリーやSFの賞を受賞しているのは凄い。たぶんSF界の人たちも、このような評伝を待ち望んでいたのだろう。

SFへの鎮魂歌。

僕は自分がSFファンだと思っている。自分がコピーライターであることよりも、関西人であることよりも、ランナーであることよりも、SFファンであることが、自分のアイデンティテイーを形づくっていると思いこんでいる。しかし、いつの頃からか、自分の読書の中でSFが占める空間が小さくなっていったように思う。いまではSFは、文学の、ひとつの方法として定着している。村上春樹の小説のいくつかは僕から見るとSFだし、映画やアニメ、コミックの世界では、もうSF◯◯◯という呼称さえ消えつつある。SFは拡散し、あらゆる日常の中に溶けこんでいる。だから本書を読んでいると、本書が「SFの時代」への鎮魂歌のように感じられる。僕自身はこれまでの人生で、星新一ショートショートにハマったことは一度もなかった。きっと、これからもないだろうと思う。しかし、この本に描かれた星新一の生き方には深く共感する。彼への尊敬を込めて、彼が残した一〇〇一話を、少しずつ読んでいこうと思う。