1Q84の読み方 その2 BOOK3を読んで。


1Q84 BOOK3をもう少し考えてみる。
村上春樹の作品は9割ぐらいは読んでいる。しかし、ファンというわけではない。どちらかというとトレンドウォッチングの一環という感じで、出る度に真っ先に買って読んできた。どこか翻訳小説を読んでいるような文体と、日常的なリアリティの乏しい、テーマパークのような空々しい物語空間にどうしても馴染めないのは以前からだ。現実にある場所や事物が出てきたとしても、それは私たちが暮らしている世界とは違う、閉じられた宇宙だ。好きではないが、ストーリー展開と精密な文章で、それなりに楽しめるようになった作家のひとり。
地震地下鉄サリン事件、オウム。
それが90年代後半から彼の作品が少しずつ変化してきたように思う。阪神大震災以後に書かれた「神の子どもたちはみな踊る」あたりからだろうか。そして地下鉄サリン事件が起きた後、被害者にインタビューした「アンダーグラウンド」元・現オウム信者にインタビューした「約束された場所で underground2」を発表する。そして2006年の小説「アフターダーク」あたりから「世界の描き方」も変わってきたように感じた。「アフターダーク」で描かれた空間は、私たちが普段暮らしている、この世界と、陸続きでつなっがている世界だ。大地震サリン事件、オウムと出会ったことで、村上春樹は書きたくなる大切なテーマを発見したのだと思った。それから4年後の2009年に出版された「1Q84」は「オウム」や「悪」について真正面から取り組んだ問題作だった。
「オウム」と「さきがけ」。
なんと言っても一番の読みどころは宗教集団「さきがけ」だ。オウムをヒントにしながら、その成立やディテールは、かなり違っている。あれほど稚拙な教義や当たらない予言でさえ、多くの信者を集め、あれほど大きな事件を起こしたオウム。「さきがけ」は、オウムより巧妙でパワフルなカルト教団として描かれている。リーダーの深田保も、ある意味で「魅力ある」人物として存在感たっぷりの教祖として描かれている。武闘派と別れ、穏健派として進んできた教団が、なぜカルト教団になっていったのか…。聖なるもの、善なるものをめざしていた人々が、いつのまにか邪悪なものに反転してしまう…。悪が生まれる瞬間。それがこの小説の重要なテーマのひとつだと思った。それは「さきがけ」だけではなく、青豆や、柳屋敷の老婦人の側にもあてはまる。彼らの行っていることは「正しいこと」だと信じている。しかし、いつ「邪悪なこと」に反転するかわからない。BOOK1、BOOK2には、そんな展開を予感させる描写がある。たぶん謎の「リトルピープル」も、どんな人間の中にも存在する「悪のアーキタイプ」なのだと思う。人間が(それも集団が)ある条件に置かれると、「悪が作動するスイッチ」が入ってしまう。だから「悪」はオーウェルの「1984」が描いた巨大な独裁権力「ビッグブラザー」ではなく、「ひとりひとりの個性の曖昧なリトルピープル」だったのだ。

BOOK3では「さきがけの変貌」を描いてほしかった。
だからBOOK3では、「さきがけ」の中で「邪悪なもの」が生まれる過程と瞬間が描かれる、と思っていた。そして正しいことをしているはずの柳屋敷側の人々の中にも「悪」が生まれ、成長していく…。そんな展開を期待していた。

再び「小さな物語空間」に閉じられてしまった。
BOOK3には既視感を感じる。この読後感は、以前の「閉じられた物語」を読んでいた時に感じていた「物足りなさ」と同じものではないか?マザやドータの謎も明らかにならず、さらに青豆の身体に起きた変化という新しい謎が加わる。物語は、まだまだ続きそうな気がする。BOOK4に期待すべきなのかな?