ルパート・サンダース監督「Ghost in the Shell」

劇場版アニメをロードショーで観たのが僕のささやかな自慢である。

アニメの原作が実写化されると失望することが多いが、本作品はとてもよかった。押井守監督の「Ghost in the Shell」の世界観、ストーリーをかなり忠実に実写化している。ストーリーやエピソードはもっと大胆にアレンジしてもいいと思うのだが、ルバート・サンダース監督は、劇場アニメ版の世界を丁寧にたどっていく。オープニングのアンドロイド誕生、冒頭の高層ビル屋上からのダイブ。「ブレードランナー」にルーツを持つ、荒廃した中華的都市の風景。偽の記憶を移植された哀れな男。水没した広場での光学迷彩をまとった少佐とテロリストの格闘。ラスト近く、多脚戦車との戦闘から、ハッカーとの接続、ヘリからの狙撃まで…。劇場アニメ版のエピソードを忠実に辿りながら、別の物語を展開していく。それは押井版、士郎正宗の原作には無かった、少佐が自らの過去を探す物語だ。

過去の自分探しの物語になってしまったのは残念。

少佐はかつて難民の一人であり、テロリストに襲われ、家族も、自らの身体も失われたとされているが、それは偽の記憶であり、実は草薙素子という日本人女性であることが明らかになってくる。このストーリーの改変は、個人的にはNGで、劇場アニメ版(コミック版も)のほうがよかった。ラストで少佐は、天才ハッカー「クゼ」との融合を拒否して、草薙素子として生きていこうとする。それはわかりやすく、共感しやすいストーリーかもしれないが、僕は、劇場アニメ版のように、ネット上に誕生した「生命体」と素子が融合して、新しい存在へと進化していくほうがずっといいと思う。桃井かおりが演じる、素子の母親が登場してきた時は思わずずっこけた。この改変によって、作品は安易なヒューマンドラマになってしまったと思う。劇場アニメが描こうとした「身体を失ったサイボーグの悲しみ」と、「人間の世界を捨ててネット上の生命体へと進化する人類の未来」がどこかへ行ってしまったのが残念だ。

とはいえ大満足!

個人的な難点を書いたが、100点満点に近い出来上がりに大満足なのだ。多脚戦車が登場した時は、涙が出そうになった。(ただし、戦車のデザイン、戦闘シーンのクールさ、迫力では、劇場アニメ版のほうがずっと勝っている。)その直後、「ヘリからの狙撃シーン」まで出てきた時は、椅子から転げ落ちそうになった。アニメ版では、スナイパーに対して「心肺機能の調整に入れ」という指令が出るのだが、そんなディテールまできっちり描いてほしかった。実写版でいちばん気に入ったのは「ゲイシャロボット」の造形かな。確かテレビ版のStand Alone Complexには出てきたと思うが、花魁風のコスチュームで登場し、襲撃を受けると、蜘蛛のように動いて壁を登っていく場面は素敵だ。多脚戦車やタチコマなど、蜘蛛や甲殻類から連想したと思われるロボットの造形は、原作者がこだわるイメージでもある。

興行的には、日本では成功しているようだが、米国ではそれほどでもないという。素子役をスカーレット・ヨハンセンという白人女優が演じたことが不振の理由だというが本当だろうか。

数多久遠「半島へ 陸自山岳連隊」

 

この時機に、あまりにタイミングが良すぎる!?出版。

実兄の暗殺、粛清される高官たち、ミサイル発射、核実験など、エスカレートする挑発行為…。迫る北の崩壊。その時、韓国、米国、中国はどう動くのだろう。そして日本は、自衛隊はどう対応するのだろう…。元幹部自衛官による軍事シミュレーション小説。竹島を題材にした「黎明の笛」、尖閣諸島を舞台にしたハイテク潜水艦同士の対決を描いた「深海の覇者」に続く第3弾。今回は「北の崩壊」と「生物兵器」がテーマだ。本書の中で、崩壊のきっかけとして実兄の暗殺をあげているが、本書が執筆されたタイミングは、当然ながら暗殺事件以前であり、出版直前に、その部分だけ書き加えられたのだろう。著者が元幹部自衛官のせいか、登場する自衛官たちの意識の描かれ方が、他の作家とは微妙に違っている。どこが、と具体的に指摘できないのだが、「そうか、そういう感覚なんだ」と感じることが何度かあった。外部から見ているだけでは、決して理解できない当事者感覚というのだろうか。そして、このことが本書のリアリティを高めている。

崩壊と同時に進められる作戦とは。

日本政府は、北の崩壊に合わせて、自衛隊による作戦を計画していた。自衛隊 特戦群・空挺団が米軍と共同で行う、弾道ミサイルの発見と破壊作戦「ノドンハント」。そして残された拉致被害者の一斉救出作戦である。さらに密かに進められるもうひとつの作戦があった。それは北が密かに開発を進めている生物兵器を発見し奪取する作戦である。生物兵器の研究所は急峻な山岳地帯にあり、陸自の山岳連隊である第13普通科連隊が投入される。

毎朝新聞の記者である桐生琴音は、自衛官の種痘接種による副反応被害を取材する内に、この作戦の存在にたどり着く。しかもその作戦に自分が好意を持っている自衛官、室賀が関わっているらしいことを知る…。これ以上ストーリーを紹介するのはネタバレになるので止めておこう。本書は、桐生琴音による謎解き、山岳連隊の侵入と戦闘、御厨首相(女性)を中心とした日本政府の対応という、3つのポジションで進んでいく。琴音の謎解きも面白いが、読み応えがあるのは、山岳連隊の戦闘場面だ。終盤に向かって、予期せぬ事態の発生など、スリリングな展開でいっきにラストまで引っ張っていく。2日間で読み終えた。

安保法制と機密保護法の使われ方。

今の自民党政権が成立させた法案が、本書の中で、実際に機能している。物語では、北朝鮮内での自衛隊の軍事作戦が当然のように実行されているが、その根拠は2015年に成立した安保法制である。「日本に対する直接の脅威が顕在化していなくとも、存立危機事態を認定して自衛隊を動かすことが想定されていた。」と解説されている。また琴音が取材中に、秘密保護法違反の容疑で拘束され、取り調べされる場面もある。そうか、あの法制は、こんな風に使われるのか、と、怖さを感じた。

現実の崩壊の時には、どんな作戦が計画されているのだろう。

緊張の高まる北朝鮮問題。崩壊は時間の問題だという人もいる。崩壊が現実のものとなった時、政府や自衛隊は、どのような作戦を実行するのか、計画されているのだろうか。本書のように自衛隊の特戦群や空挺団が北朝鮮に侵入してノドンハントや拉致被害者救出を行うのはとんでもないと思うが、実際には、そのような作戦が当然のように計画されているのかもしれない。そんな風に思わせるのも、この作品のリアリティかもしれない。それにしてもタイミングが良すぎで、ちょっと不気味。

前作で、トム・クランシーに匹敵するハイテク軍事スリラーの誕生と書いたが、今回はハイテクとは言えない。それでも面白いのは著者の筆力のせいだろう。タイトルから、村上龍の「半島を出よ」を思い出した。あちらは、北朝鮮軍が博多を占領する話だったが。

本書を読んだ家人の反応。「そりゃ殺すだろう」。

家人も同じ著者の「黎明の笛」「深海の覇者」を読んでいて、女性自衛官が活躍するストーリーなど、割と気に入ったみたいで、本書も読むことになった。彼女の反応をちょっと書いておこう。後半、山岳連隊が北に侵入して、作戦実行中に、当然のように北の兵士を殺す場面が出てくるのがショックだったという。もちろんわが国の領土に他国の侵略があった場合、戦うのは自衛隊だから、戦闘になれば当然、相手を殺すだろう。しかし、自衛隊が、他国の領土に侵入して、敵の兵士を殺しながら施設を制圧するというストーリーには違和感があるのだろう。そこの部分は僕もちょっと引っかかった。「そりゃ殺すだろう。戦闘なんだから。」と言ってはみたものの、完全に納得できたわけではない。

桐野夏生「夜の谷を行く」

著者の作品で読んだのは「魂萌え」「グロテスク」ぐらいだが、テレビドラマや映画になった作品は気になってけっこう見ている。著者は実際に起きた事件をモチーフにして作品を書くことがあるが、本書も連合赤軍の事件がモチーフになっている。事件は僕が高校の時に起きたが、当時は学生運動そのものに拒否反応があり、事件を詳しく知ろうとは思わなかった。その後もまったく関心が持てないまま時間が経ってしまった。閉ざされた集団の中でリーダーたちが徐々に狂っていく過程に興味を覚えて、ドキュメンタリーや小説を読むようになったのは、この10年ぐらい。カバーの不気味な写真は、よく見ると「ママチャリ」。ママチャリだって描き方しだいでホラーな絵になる。

40年前の事件が蘇ってくる。

主人公の西田啓子はかつて連合赤軍の兵士だった。彼女は、メンバー同士による「総括」と称する批判によってリンチで12人が殺された「山岳ベース事件」から脱走した一人だった。現在は、一人の妹以外は誰ともつきあわず、ひっそりと暮らしていた。事件から39年が経った2011年、元連合赤軍の仲間から連絡がくる。彼から最高幹部の永田洋子が死んだことを告げられる。そして彼女に会って取材したいというライターを紹介される。さらに元の夫からも電話がかかってくる。同じころ、姪の結婚が決まり、自分の過去を告げざるを得なくなり、妹との関係も険悪になっていく。封じ込めていた過去が永田洋子の死をきっかけに甦ろうとしているかのようだ。そして3月11日の東日本大震災が起きる。以後、震災報道の様子は、暗騒音のように物語を支配している。

むしろ淡々とした印象で読み進んでゆく。

主人公の、スポーツジムに通うのと図書館の本を借りて読むのが日課という、単調な生活のせいか、読んでいる印象は淡々としている。事件の頃を思い出す場面は出てくるが、事件のドキュメンタリーを読んだ時のような執拗さ、陰惨さは感じられない。主人公は、元夫や昔の仲間と話すうちに、自らも忘れていた事実と向き合わざるを得なくなる…。過激な武装闘争をめざす集団がなぜ、凄惨なリンチ殺人を犯すようになっていったのか?閉ざされた集団の中で、悪霊が生まれ、若者たちの心を少しずつ侵食していき、狂わせていった様子を描いてほしい。僕が連合赤軍の事件に関する本を読むのは、その過程を知りたいからだ。執拗な「総括」やリンチの描写を読む辛さを覚悟して読み始めたが、ちょっと肩透かしをくらった印象。著者は、あの事件の違った側面に光を当てようとしたのかもしれない。ネタばれになるので書かないが、ラストは鮮やかだ。静かな感動に包まれる。

 

村上春樹「騎士団長殺し」

サクサク・ストーリー。

これまででいちばんサクサク読めた。途中でひっかかったり、退屈したり、考え込んだりすることなく、ほんとうに、サクサク、サクサクとストーリーが進んでいき、2冊合わせて1000ページにもなる大作をいっきに読ませてしまう。元々ストーリーテリングが巧みな作家だが、本書では、絶妙というか、なんか巧妙な手品を見せられているようで、ちょっと気味が悪かった。そのせいか、読み終えたあと、思い返すと、いくつか破綻ではないかと思えるところが出てくるが、読んでいる間は、そんなことに全然気づかない。ひょっとして、この「サクサク感」こそが村上春樹の「キーワード」ではないかと思えてきた。あとで「サクサク感」の原因をじっくり考えてみよう。

 回想で語られる物語。

プロローグ。読者は、いきなり寓話的な世界に放り込まれる。そして「騎士団長殺し」が一人の画家が描いた絵であることを告げられる。そして第1章?が始まると、村上作品を読み続けてきた読者には、懐かしいようなハルキワールドが展開していく。主人公は、穏やかだが頑固に自分のスタイルを守り続ける職業人。今回は肖像画の画家という設定。主人公は、妻との結婚生活を一度解消し、9ヶ月後に、もう一度結婚生活を始めることになる。彼は、妻と暮らした家を飛び出し、長い旅に出る。旅から帰ってくると、美大時代の友人である雨田政彦の父であり、著名な画家であった雨田具彦が住んでいた小田原の山の上の家に、半ば留守番役として暮らし始める。その家の住人であった雨田具彦は、高名な日本画家であったが、認知症が進行し、伊豆の高級養護施設に入っているという。小説はこの9ヶ月を主人公が回想する形で語られてゆく。

画家と絵画という新しい枠組み。

主人公は、山の上の家に住みながら、地元の絵画教室で教え、人妻との関係を重ねながら、絵を描こうとするが、描けない日が続く。以前の家の住人であった雨田具彦は、かつては気鋭の洋画家であり、第二次世界大戦前のウイーンへ留学していた。帰国した画家は、6年の沈黙の後、日本画を発表する。それ以後は、日本画を描き続け、日本画家として成功を収める。主人公は、ある日、家の屋根裏で厳重に梱包された1枚の絵を発見する。それは「騎士団長殺し」と名付けられていた。それは発表されていれば間違いなく雨田具彦の代表作なったであろう作品で、日本画ながら、血なまぐさい殺人の場面を描いた絵であった。その絵を見つけた頃から、主人公の周りでは不思議なことが起きはじめる。近所の豪邸に住む謎めいた人物、免色渉から肖像画の依頼。そして深夜に聞こえてくる鈴の音…。お約束ともいえるパラレルワールドの冒険が始まる。以前と違うのは、作品のタイトルに、「顕れるイデア編」「還ろうメタファー編」というような、「これはパラレルワールドの物語ですよ」と、わざわざ謳っていることだろうか。「騎士団長殺し」の絵が、現実世界とパラレルワールドをつなぐ重要なアイテムになる。主人公は「絵」を媒介にしてパラレルワールドイデアの世界)に入っていくのだ。著者が、画家を主人公にした作品を書いたのは初めてではないだろうか。主人公が、肖像画を描きあげていくプロセスがしっかり描写されていて興味深い。現実の画家がこの部分を読んで、どんな風に感じるのか聞いてみたい。著者の創作のプロセスを、絵画に置き換えて描いたようにも読める。雨田具彦のモデルになった日本画家がいるらしく、話題になっている。井上三綱(さんこう)という人で、西洋と日本を融合した作風で知られ、小田原の山の上に住んでいたという。

上田秋成、ウィーンのアンシュルス南京虐殺カルト教団

小説の中で語られる様々なエピソードが興味深い。真夜中に聞こえてくる鈴の音のエピソードの中で語られる上田秋成の「二世の縁」の話。ウィーンでのナチスによる大弾圧「アンシュルス」の話、他に日本軍の南京大虐殺の話、秋川まりえの父が傾倒していくカルト教団の話など。それらのエピソードが物語の中で違和感なく組み込まれ、ストーリーが進んでいくのだ。

謎の人、免色渉(めんしきわたる)

本書の中で、主人公に関わり、物語を展開させていく重要な人物が、この免色渉である。著者は、免色のディテールを執拗に描写するが、なぜかリアリティが感じられないのだ。山の上の白亜の豪邸にたった一人で住み、お金があり余るほどあって、趣味みたいな感じで株や為替の取引をやっている人物だという。主人公がパラレルワールドの冒険から帰ってきた後、友人の雨田政彦に免色の話をすると、雨田は、「なんだか、火星の美しい運河の話を聞いているみたいだ。」という感想を語る。重要な人物なのに、空想の世界の人物を語っているようなリアリティのなさは何だろう。彼のルーツは、過去の作品の中にいるような気もするが、よくわからない。このあたりの解釈は、加藤典洋の「村上春樹イエローページ4」を待ちたいところ。

これまでと一番違うのは読後感だ思う。

これ以上中身を紹介しても意味がないので、感想を書くことにする。本書は読みなれたハルキワールドのように見えるが、ところどころ微妙に違ってきている。一番違っているのは、読後感だ。物語は、一応、ハッピーエンドっぽく終わる。しかし、なぜか未達感のようなものが後に残る。1000ページを越える長編なのに、何のストレスもなくいっきに読めてしまう。本書はサクサク読めるが、謎は増える一方だ。読み終えた後、「あれっ」と思うような「疑問」がいくつも湧いてくる。まりえの失踪と主人公のパラレルワールド(メタファーの国)の冒険は、もちろん関係あるのだが、何がどうつながっているのか、まったく見えない。免色渉とはいったい何者なのか?スバルフォレスターの男は?物語は終わったはずなのに、「顔のない男」は、なぜ主人公に肖像画を書かせようとするのか?などなど。加藤典洋の著作「村上春樹はむずかしい」ではないが、「村上春樹は、読むのは易しいが、理解するのは難しい」と言ってみたくなる。

ハルキワールドへ、おかえりなさい。

やはり著者は「喪失と冒険と再生の物語」に帰ろうとしているのだと思う。そして彼のストーリーテリングは、さらに冴え渡り、スムーズになって、ますますサクサク感が高まっていく。「なんか、物語のつながりに破綻が!」と思っても、「そんなこと、僕にはわかりません。物語に聞いてください。」という答えが帰ってきそう。

 

姫路城マラソン完走記(京都マラソン棄権)

 

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よりによって、こんな時に!初の京都マラソン一週間前、インフルエンザ発症!

大阪は5度、神戸は3度当選していたが、同時期に始まった京都は一度も当選したことがなかった。6回目となる2017年に初当選。初めての京都ということもあり、いつもは応援に来ない家人も、友人のH君を誘って応援に来てくれることになった。ゴール後、夕食を食べに行くお店も予約。そのまま三条のホテルに泊まり、翌月曜は仕事を休んで京都観光の予定も立てていた。その一週間前、こともあろうに夫婦揃ってインフルエンザの診断!その前の週の後半、咳がひどかった家人は、金曜日の夜には寒気を感じるようになった。土曜日に耳鼻科に行ったが、建国記念日で休診。しかたなく月曜日に病院に行くことになった。僕の方は、土日に10kmずつ走り、一週間後の本番に備えた。ところが、月曜になって仕事に行く途中、関節に軽い痛みを感じた。昼頃になると、寒気もしてきて早退する。家人のほうも午前中で早退していた。夫婦揃ってかかりつけの耳鼻科へ。なんと二人ともインフルエンザと診断。よりによって、こんなタイミングで。あんまりではないか!2014年の東京マラソンも、直前に正体不明の高熱と浮腫みに襲われ、泣く泣く棄権したことを思い出した。翌2015年も、ほぼ同じ時期に同じような症状が出て、篠山マラソンが危なかった。医者は花粉症を疑った。昨年は、2月初めから花粉症の薬を飲んでいたので、症状は出なかった。今年も2月初めから花粉症の薬を飲んで、マラソンに備えていたのだ。仕事は当然二人とも一週間休みになった。僕の方はフリーランスの身なので、休むのは難しくない。症状は夫婦とも軽めで、病状が回復したら走れるかもと一瞬思ったが、マラソンのように人が大勢いる場所にインフルエンザの患者が紛れこんでウィルスを撒き散らすわけにはいかない、と断念。お店もホテルもキャンセルした。幸いというべきか、二人ともインフルエンザの予防接種をしていたせいか、症状は軽く、火曜の夜には熱も下がった。関節の痛みが木曜までは残っていたが、金曜日にはほぼ回復した。

そうだ、姫路城マラソンにエントリーしてたんだ。

京都マラソンを断念した直後から「姫路城マラソン」のことが頭をよぎるようになっていた。東京マラソン京都マラソン、姫路城マラソンは、ほぼ同時期に開催され、抽選も同じ頃に行われる。昨年9月、まず姫路城マラソンの当選、東京の落選が決まった。京都の抽選発表はまだだったが、どうせ駄目だろうと思い、姫路城マラソンの入金も済ませてしまった。ところが2週間後、京都マラソンも当選になり、お金がもったいないと迷ったが、初当選の京都のほうを走ることにした。インフルエンザで京都を断念してから、姫路城マラソンを走りたいと思う気持ちが強くなってきた。家人に相談すると「駄目駄目!インフルがぶり返したらどうするの」と反対していたが、インフルの症状が思ったより軽く、回復も早かったせいもあって「勝手に走れば〜。ぶり返しても知らないよ、応援行かないからね」と冷たいながらOKの空気になってきた。姫路を走るとなると練習も再開しないといけない。日曜まで我慢して、10kmほど走ってみる。膝の関節に違和感を感じるものの、走れそうな感触があり、姫路を走ることに決める。4日前の水曜日にも10kmを走って、当日に臨む。

前日入り、ホテル泊。

当日は7時から荷物預かり。8時15分〜45分にランナー集合。スタートは9時。逆算すると7時半には会場に着きたい。姫路駅から会場まで徒歩15分なので、7時15分頃には姫路駅に着きたいところ。乗り換え案内で検索すると、あてはまる電車がなく、前日入りになってしまう。一番早いので7時30分だ。何度も乗り換えて山陽電鉄を利用して7時17分到着というルートがあった。最寄駅の宝塚南口出発は5時5分となる。「午前4時起きかあ」と悩んでいると、家人から「前日から行って、姫路に泊まったら。ビジネスホテルだったら出してあげてもいいよ」という助け船。さっそくネットで調べてみるが、さすがに姫路市内はどこも満室。エリアを広げると加古川駅前のビジネスホテルに空室があったので予約。前日、午前中、会計士さんが来て確定申告の相談、午後一番で買い物を済ませ、3時頃、家を出る。乗り継ぎが悪く、姫路に着いたのは4時45分頃。駅を出ると正面に姫路城が見える。駅とお城をまっすぐな大手前通りが結ぶ、このたたずまいは悪くない。ここが県庁所在地でもおかしくない。駅から15分ほど歩いて受付会場のイーグレひめじに向かう。受付を済ませ、マラソンまつりをさっと見て、長い本町通り商店街を抜けて姫路駅に戻る。駅の構内のパスタ屋さんでパスタを食べ、普通電車で15分ほどの加古川に向かう。駅から徒歩3分のビジネスホテル。部屋に入ってシャワーを浴び、ゼッケンをつけるなど、装備をチェックする。あとはベッドに入って本を読む。午後9時半ごろ就寝。寝つきのよい自分には珍しく、夜中に何度か目が覚めた。

当日。

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午前5時起床。6時朝食。6時20分チェックアウト。6時40分の普通電車に乗る。姫路駅6時58分着。改札を出ると高校生(中学生?)のブラスバンドが迎えてくれる。これはよいアイデアで気分が盛り上がる。気温は3度とけっこう寒い。大手前通りを進むと途中で昨日帰りに通った本町通り商店街に誘導される。まだ開いている店はほとんど無く、薄暗い中をランナーたちが進んでいく。昨日の受付会場の北側に大手前公園があり、その地下の駐車場が男子の更衣スペースと手荷物預かりスペースになっている。これはよいアイデアで、大スペースを確保できて、しかも大勢のランナーが入ると少し暖かいのもいい。ウエアに着替えて手荷物を預けると7時45分。地上に出て、お城のほうへ軽く走る。戻ってくると8時15分。ランナー集合の時間だ。

装備。

トップはCWXの厚めのジッパー付シャツに、姫路城マラソンの参加賞のTシャツを重ね着。ボトムはミズノのサポート機能なしの防寒タイツに膝丈のナイキ・エアフィット・パンツ。シューズは昨年の大阪マラソン、宝塚ハーフを走ったアディダスのジャパンブースト。帽子ではなくバイザーを被る。時計はGARMIN。前後に振り分けたウエストバッグには、ジェルのサプリを3本、塩飴3個、エアサロンパス(試供品のミニ)、ティッシュ2パック、iPhone6、予備のバッテリーパック。けっこう重装備になった。スタートまでは、防寒のためのビニールポンチョを羽織る。

 

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スタート。北へ。逆走ランナーと衝突。

8時45分、セレモニーが始まる。スタート地点のステージの上は見えないが、聞きなれた声。「世界遺産姫路城マラソン 応援軍師 黒田カンペイこと間寛平です!」という自己紹介から始まったセレモニーは短めで好感が持てた。いよいよスタートだ。インフルエンザ明けのフル挑戦が始まった。号砲からさほどのタイムラグもなく、動き出した。100mも行かないうちにランニングに変わる。姫路城を背に、大手前通りをまっすぐ南下。駅の手前で右折して西へ向かう。すぐに右折して北に向かい、左折して北西に向かう。3km地点でポンチョを脱ぐ。暑いマラソンになりそうだ。突然、前方からランナーが逆走してきて、激しくぶつかった。肩と脚がからまってあやうく転びそうになる。手袋か何かを落として、拾うため引き返したらしいが、他のランナーにもぶつかったらしく、後ろのほうから悲鳴が上がる。これは明らかにマナー違反。何かを落としたことに気付いたら、コースの端に寄って(できればコースを出て)、ランナーの迷惑にならないように後戻りする。落とした場所の少し手前からコースに戻り、流れに乗りながら、落し物に近づいて拾いあげる。というのが正しいやりかただろう。

15kmまでは登り。夢前川の上流へ。

行く手には播州地方特有の低い山が見える。道はゆるやかに北に曲がり、前方に書写山が見えてくる。7km付近で夢前川の左岸沿いに出る。山陽自動車道を越え、書写山に登るロープウエイを左手に見上げながら北上。ここまでは抜かれる一方で、ペースもキロ6分30〜40秒前後にとどまっている。いつもなら最初の10kmぐらいまでは周囲の速さに引っ張られてキロ6分前後のペースになるのだが、インフルエンザの影響か、ペースが上がらない。コース図によると前半の15kmまでは70mほどの落差の、気付かないほどの登りである。知らず知らずのうちにペースが落ちるので、キロ6分30秒を維持することに努める。あとから考えると、前半の、この頑張りが25km過ぎの失速につながったのだと思う。9km付近で橋を渡って右岸を行く。なだらかな山並みを縫うように流れてゆく早春の夢前川が美しい。しばらく行くと、道の左側に菜の花畑が広がる。

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15km付近で登りが終わり、ペースアップ。

夢前川は清流で、上流にはカジカが生息していると聞いたことがある。しかしマラソンのコースとしては単調で、同じような風景が続き、僕たち亀ランナーには辛いコースでもある。集落にさしかかると、村中の人が集まってきたような人数の応援で迎えられる。学校のそばにさしかかると、たいていブランスバンドや太鼓の応援があり、元気をもらえる。案山子の応援が2箇所あった。10kmを越えたあたりだろうか対岸の道を、折り返してきたランナーがやってきた。地元のFM局が、ランナーへの応援メッセージを大音量で流している。相変わらずペースが上がらない。15kmあたりでようやく登りが終わる。16km過ぎでやっと折り返して、少しペースが上がった。キロ6分10〜20秒台をキープできるようになった。折り返した後、20km付近の給水所で、ジェルのサプリを補給。川沿いの風景は相変わらず単調。集落での応援で、ちょっと元気をもらう。

姫路は美人が多い?!

気のせいか、沿道で応援してくれる女性に美人が多いと感じた。中高生から、主婦まで、はっとするような美人を何人も見かけた。これまでたくさんのマラソンを走ってきたが、こんな風に感じたのは初めて。コースが単調なせいで、そんなところに目が行くのかもしれないが…。姫路に多いのか?夢前川流域に多いのか、どっちだろう。

竹炭そば、たまねぎスープ、蒲鉾、ぜんざい…。

20kmを越えたあたりから、膝に違和感を覚えるようになった。インフルエンザで熱が下がったあとも膝の関節の痛みはしつこく残っていたから、その影響なのかもしれない。気分転換のために給食コーナーでしっかり食べることにする。竹炭を練り込んだそば、たまねぎスープ、蒲鉾、ぜんざいなどをいただく。しっかりストレッチもして、後半に臨む。この頃になると、周囲のペースが一定になり、同じ顔ぶれで走るようになってくる。25kmぐらいまではなんとか快調に走れたが、ペースが落ちてきた。この先が思いやられる。腰を高く保って、骨盤を立て、腕をしっかり振って、リズムを守る。

下流へ。30kmの壁。

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ようやく山陽自動車道が見えてきて、姫路市街が近づいてきた。しかし往路を戻るのではなく、27km付近で河を渡り、右岸をさらに下流へ向かう。ここからが長かった。道は土手上の散歩道のような狭い道になる。道沿いには桜が延々と植わっていて、お花見によさそう。しかし単調なのは変わらず。その上、対岸の土手道は折り返してきたランナーの列が延々と続いている。土手道なので、小さなアップダウンがあり、けっこうきつい。30kmを越えたあたりで、ついに足が止まった。これがマラソン名物「30kmの壁」。練習不足のツケはきっちりやってくる。こうなるともう我慢しかない。膝の違和感はすでに鈍い痛みに変わっている。立ち止まって、2本目のジェルサプリを補給し、ストレッチを念入りに行って、12kmの苦行に出発する。走り方も変える。腕振りを強くしてリズムを保ち、動かない脚を無理やり動かす。いつまで経っても対岸にわたる橋が見えてこない。33km手前でようやく橋を渡り、上流へ向かう。ここからの左岸の土手道も長く辛かった。歩幅が小さくなり、ペースはキロ7分台に落ち、気を抜くと8分台まで落ちてしまう。35km手前の冷却スプレーポイントで、ふくらはぎ、膝、太ももの後ろを冷却し、さらに水をかけて冷やす。土手道のすぐそばまで住宅地が迫り、庭や自宅の窓越しに応援してくれる。この付近でも、チョコやアメ載せたトレーを差し出して「どうぞ」と声をかけてくれる人がたくさんいるが、いただく余裕はなくなり、「ありがとう」と手を振りながら通りすぎる。

ゴール。動物園。

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38km手前で、ようやく、本当にようやく夢前川を離れ、姫路市街に向かう。最後の3kmほどは、気が遠くなるほど長くて辛い。前を走っている滋賀から着た女性に、先にゴールした男性が沿道を走りながら励ましている。女性は脚を痛めているらしく、走り方が痛々しい。「無理に走らなくてもいいよ。歩いても腕さえ振ってれば、スピードはそんなに変わらないから。」女性は、男性のほうを見ず、走り続ける。市街地に入っても、姫路城が見えてこない。見えてきたのは残り1kmを切ってからだ。外堀を渡り、内堀を渡り、ようやくゴール。ゴール直前、20km過ぎから前後を走っていたカップルを抜く。スポーツドリンクと完走メダルを受け取り、フィニッシャータオルをかけてもらい、ICタグを外され、ランナー順路という案内に従って進むと、なんと動物園の中。あちこちの動物の檻の前のベンチで休んでいるランナーがいるのが不思議。動物園を出て、大手前公園に戻り完走証を受け取って、地下の手荷物預け&更衣スペースに向かう。地下に向かうスロープを、痛む膝でゆっくり降りる。このぶんでは今夜は筋肉痛で眠れないかもしれない。40分ほどかけて着替えて、JR姫路駅に向かう。新快速で三宮まで行き、阪急に乗り換える。宝塚南口に着いたのが5時前。風呂に入って、洗濯を済ませ、録画してあった東京マラソンブラタモリを見ながら夕食。11時に就寝。膝の筋肉痛で夜中に何度も目が覚めた。走った後、こんな風になるのは最初のフルマラソン以来だ。練習不足、インフルエンザ、コース前半のゆるい登りによる消耗など、複合的な原因によるものかもしれない。

5時間8分35秒

ネットタイムは5時間7分46秒。記録は見るべきもの無し。ここ3年はサブ5すら達成できていない。もちろん練習不足が一番の原因だが、最近は練習していても「僕は、マラソンに向いてないのかも」と思ってしまったりする。

姫路城マラソンについて。

今年で3回目となる大会だが、運営や演出、ボランティア、ランナーのサポートなどは申し分なかったと思う。市民、学校などが一体となった応援も気持ちよかった。また走りたい。課題は、やっぱりコースだと思う。姫路城マラソンといいながら、コースの大半は夢前川沿いで、自然豊かな景観の中を走れるのは、いいと思うが、そればかりでは退屈してしまう。僕らのような亀ランナーにとって退屈は疲労につながり、辛いマラソンになってしまう。交通規制の問題でこうなったのだと思うが、これでは姫路の魅力を伝えるマラソンにはならない。コースを、もっと南の臨海部や、東西方向に広げれば、変化に富んだマラソンにできると思うが。

 

 

鳥居「キリンの子 鳥居歌集」

詩歌の本はほとんど読まないが、知人から本書を教えられて、即購入。著者のプロフィールが凄まじい。2歳の時に両親が離婚。目の前で母が自殺。児童養護施設に入るが虐待を受ける。小学校中退、ホームレスにもなった。拾った新聞で文字を覚え、短歌を作りはじめる。作品が入選し、歌集を出した今も、セーラー服を着て、母の形見である赤い傘をさしている…。こんな生い立ちの著者がどんな言葉を紡ぎだすのか?

鮮烈な言葉、凄惨なイメージ。

言葉が意味ではなく、ほとんど生理的ともいえる痛みとなって刺さってくる。母の自殺や目の前で電車に飛び込んだ友人、虐待の歌などは、読んでいて息苦しくなってくる。特に、友人が目の前で踏切に飛び込んで自殺した時の体験を歌った連作「紺の制服」は、歌人の目に焼きついた光景が、コマ落としの映像のように連続して動いていくのを読者は体験させられる。連作を読み終えて、思わず息を吐き出した。短歌でこんな体験をしたのは初めてだ。

歌われることで、救われていく。

救いは、少女が歌人になったことだろうか。泥にまみれ、地を這うような日々が、歌われることで詩に昇華され、救済されていく。描かれた体験は凄惨そのものだが、歌になった世界は、不思議と静謐で、読み手を癒してくれる。

なぜか懐かしさを感じる。

歌集を読み終えて、デジャ・ブというか、懐かしさのようなものを感じた。僕らがまだ十代だった頃、生きづらかったり、疎外感を感じたりしたことが、本書の中で極北の姿で歌われているのかもしれない。十代の終りに読んだ「天の鐘」という神経症の少女が書いた詩集を思い出した。地を這うような日々を生きる者は、大空や天に憧れる。著者も、歌の中で自らを天駆ける「キリンの子」であると歌いあげる。歌人は、今も複雑性PTSDに悩まされているという。

 

阿古真理「なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか パンと日本人の150年」NHK出版新書

このところ仕事の資料で洋菓子とパンの本ばかり読んでいるが、その中で出会った出色の一冊。昨今のパンブームを取り上げたグルメ本の類だと思って読み始めたが、本書に描かれているのは、パンの歴史だけではない。パンを含む食文化はもちろんのこと、生活、産業、宗教、戦争までも視野におさめた日本の近代史そのものである。その視野の広さと造詣の深さにグイグイ引き込まれ、一気に読み終えた。250ページほどの新書だが、読後の印象は、ぶ厚いノンフィクションを読んだような充実感がある。

何度目かのパンブーム。

現在は、何度目かのパンブームであるそうだ。各地で本格的なフランスパン(硬いパン)を売る店が生まれ、パンのイベントも開かれるようになっているという。さらに日本に暮らす外国人にとっても日本のパンは美味しいと評判だという。なぜ日本のパンは、こんなに美味しくなったのか?本書は、わが国におけるパンの歴史150年を丹念にたどることでその理由を見つけようとする。しかしパンが日本に入ってきて今日のように普及するまでの道筋はひとつではなく、驚くほど多くの国や人々が関わって、同時多発的に進行してきた物語の集合体である。本書を要約しようと試みたが結構むずかしい。時系列に沿って書かれていないからだ。日本におけるパンの歴史は、同時多発的であると同時に社会や暮らしの様々なレベルで進んできたと言える。本書を読んで興味深かった点をあげると…。

パンと戦争。

日本人がパンと最初に出会ったのは戦国時代らしいが、本格的なパンづくりがはじまるのは幕末である。パンはまず兵糧として注目され、長州、薩摩、水戸、幕府がパンの研究を始めた。戊辰戦争では函館の五稜郭攻略の際に兵糧パンが準備され、西南の役では軍用パンが用意されたという。パンはコメに比べ携行性に優れ、調理の必要もなくどこでも食べることができ、消化もよく、しかも大量に製造することができた。日清・日露の戦争では、大量の脚気患者が発生し、その予防や治療にパンが効果があるとされたこともパンの普及を促したという。その後も戦争は、様々な形でパンの普及に関わっていく。第一次世界大戦では日本はドイツと戦い、多くのドイツ兵が捕虜として連行され、各地に収容所ができた。その中にパン焼き職人がいて、彼らが日本のパン製造者にアドバイスをしたことで本格的なドイツパンの製造がはじまったという。捕虜の一人であったハインリッヒ・フロインドリーブは、戦後、敷島製粉(後の敷島製パン:現在のPASCO)の技師長として迎えられ、本格的なパン製造に貢献する。さらに同社を辞めた後、神戸で現在につながるパン屋の「フロインドリーブ」を立ち上げる。洋菓子の「ユーハイム」も、ドイツ人捕虜だったカール・ユーハイムが横浜で創業し、関東大震災を逃れて神戸に移転したのが始まりである。またロシア革命を逃れた亡命者が始めたのが、「モロゾフ」、「ゴンチャロフ」という、現在につながる菓子メーカーである。神戸にパンや洋菓子が早くから根付いたのは、戦争の捕虜や、ロシア革命を逃れた亡命者の活躍によるというのが面白い。戦争をはじめとする大きな出来事は、人々の生活に大きな影響を及ぼしてきた。関東大震災米騒動もパンの歴史に大きな影響を残している。

あんパンとカレーパン。

著者は、日本におけるパンの普及と発展にあんパンが果たした役割は大きいという。明治2年、武家の次男であった木村安兵衛は、現在の新橋あたりで文英堂という名のパン屋を開く。パン焼の職人には、長崎出島の異人館でコックとして雇われていたという梅吉を採用した。しかし店は大火に巻き込まれ、翌年、京橋区尾張町(現在の銀座)で木村屋として再出発する。当時、パンの製造は横浜が中心であった。横浜には日本最初のビール工場があり、パン作りに不可欠な酵母を入手しやすかったからである。横浜から離れた都内では酵母の入手が難しく、木村屋は、日本酒の麹を使用することにした。しかし日本酒の酒だねはビール酵母のホップスだねに比べてあまりふくらまないので硬くなってしまい、全然売れなかった。そこで木村親子は日本人に向いたパンができないかと苦心の末に生み出したのが、まんじゅうのようにあんこを包んで作る方法だった。6年の歳月を費やして生まれたあんパンは、まさに日本人が好むパンだった。あんパンの存在があったから日本人はパンを受け入れ、そして後に、様々な具を包むバラエティ豊かなパンへと発想を広げる土壌ができたのではないかと著者は考察する。ジャムパンやクリームパン、メロンパンの誕生をめぐるエピソードも興味深い。あんパンが広がる最初のきっかけとなったのは明治天皇が食べられたことだというエピソードも面白い。あんパンに代表される菓子パンとカレーパンに代表される調理パン(惣菜パン)は日本で生まれた独自のパンである。それらのパンはなぜ日本で生まれたのか?

日本人が好きな柔らかいパンのルーツは、中国からの「粉もの文化」?

日本人のパンの好みは2つに分かれる。コッペパンのような柔らかいパンとフランスパンに代表される硬いパン。圧倒的に多いのは柔らかいパンである。なぜ日本人は柔らかいパンを好むのか。米を主食とする和食文化のせいではないかと言われているらしいが、著者はさらに中国発祥の粉もの文化の影響ではないかと考察する。明治以降に入ってきた肉まん、ラーメン、餃子などに共通するのは、柔らかい食感と具を一緒に食べる点である。中国では、具を包んで蒸す料理「包子:パオズ」の長い歴史がある。そして平安時代に宋から伝わった饅頭も、柔らかい生地で餡を包む菓子であった。和食の基本形は一汁三菜といわれるが、庶民の間では、長い間、うどん、すいとんなど、小麦粉を用いた粉ものと野菜などを一緒に煮込む一品料理が主食であった。明治以降に生まれたカレーライスやカツ丼など、ご飯とおかずを一体化した一品料理も、その延長線上にある日本独自の食スタイルであるという。あんパンやカレーパンなど、日本独自のパンの進化も、この潮流の中で生まれてきたものだ。

神戸とパン。

ドイツ人捕虜であったフロインドリーブがパンの普及に大きな役割を果たした神戸は、その後もパンの歴史の重要な舞台となる。パリの国立製粉学校の教授であったレイモンド・カルヴェルは、退官後、世界各国を回ってパンづくりを指導した。日本でも1954年に、70日間、全国17カ所で業界向けに講習会を開いた。この時、最も注目されたのがカルヴェルが披露したバゲットだった。「皮はパリッと硬いのに、中はしっとりとやわらか。身にはぼこぼこと不規則な穴が開き、えもいわれぬパンのよい香りがしていた」本物のフランスパンに出合った人々が誇張ではなく感涙にむせんだという。その中に、当時33歳、ドンクの藤井幸男がいた。講習会の後、藤井はカルヴェルを神戸の自分の店に招き、パンづくりの指導を仰ぐ。その10年後、カルヴェルは再度来日し、講習会を終えた後、ドンクに立ち寄る。カルヴェルは、その足でフランス大使館に立ち寄り、翌年に日本で開かれる見本市にフランスパンのブースを設けるよう掛け合う。藤井幸男は、見本市で使用する機械をドンクで引き取り、来日するパン職人とも契約を結びたいとカルヴェルに申し出る。日本に行く職人として選ばれたのが、22歳のフィリップ・ビゴだった。1965年4月東京・晴海で開かれた国際見本市でフランスパンづくりのデモンストレーションはテレビ中継までされ、大盛況となった。見本市の後、約束通りビゴはドンクに招かれる。6月には神戸に蒸気の出るオーブンを入れたフランスパン工場も完成する。当初は「こんな硬いパン、食べられませんわ」などと言われながらも、神戸の人たちに受け入れられていく。翌年、爆発的なブームを作った青山店がオープン。ビゴは、神戸、青山を立ち上げた後も、全国にチェーン展開する20カ所以上を回る生活が続いていた。そして1972年、ドンク芦屋店を「ビゴの店」として独立オープン。一躍、人気店となる。ビゴの店では、後に活躍する多くの職人が育ったという。

 広島とパン。

広島も、パンの歴史において重要な役割を果たしてきた。広島県は山地が多く平野が少ないため、戦前はアメリカなどへ多くの移民を出したという。移民たちは現地に定住せず、お金が貯まれば生まれ故郷に帰ってきたという。アメリカで身につけた技術を持ち帰る者も多く、その中にパン屋もあった。また日清戦争で軍の大本営が置かれ、その後も軍の重要な拠点だったせいでで、兵糧パンが大量に作られたことが製パン技術の向上に役立ったという。陸軍の情報将校だった高木俊介と妻の彬子は戦後間もなく広島市でパン屋「タカキのパン」を開く。彼が売り出したイギリス式の山形食パンが評判となり、県内で委託販売の店舗を20店舗近くまで拡大、1951年には株式会社化した。「タカキベーカリー」の名の卸売は現在の「アンデルセングループ」の柱となる。高木は、当時珍しかったサンドイッチのイートインスペースを設けた直営店「パンホール」を開き、食事用パンの普及に努める。また客がトレイを持ってパンを選ぶセルフ方式も高木が生み出した。また工場で大量に製造し冷凍したパンを店舗に配送して焼くベーカリーチェーンを日本で最初に始めたのもアンデルセンであった。

パンとキリスト教

著者によると世界でパンが普及している地域はキリスト教が勢力を広げている地域と一致しているという。キリスト教徒にとってパンは単なる食品ではない。新約聖書の「マタイ福音書」の中だけでもパンのエピソードが7回出てくる。また最後の晩餐のエピソードで、キリストが、出されたパンを祝福して割き、「これは私のからだである」と言い、ワインを「多くの人のために流すわたしの契約の血である」という。そして弟子たちとの食事中に捕らえられ、処刑される。

現在のイラクアフガニスタンクウェート、シリア、イスラエルパレスチナなどを含む「黄金の三日月地帯」で、紀元前4000年頃にパンの歴史は始まったという。その後エジプトに広がり、さらに勢力を伸ばしてきたギリシアに伝わる。その後、繁栄を極めた古代ローマでも、パンは主食になった。紀元前30年頃には帝国内に329カ所の良質な製パン所があり、すべてギリシア人が経営していた。ローマにはパンの職人学校があり、特許の組合組織も定められていたという。パンづくりは西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人などにも伝わり、ヨーロッパ全体がパン食文化圏になっていく。312年、教徒の拡大によって東ローマ帝国キリスト教を公認すると、製パン技術は、パンとワインを神聖なものとする価値観とともにヨーロッパに広がっていった。中世初期には修道院が風車を備え、粉挽きとパンづくりも担っていた。

日本におけるパンの普及にもキリスト教は関わっている。明治期、宣教師が学校を次々に作ったが、それらキリスト教系の私立校でも給食はパンだったという。京都の老舗パン屋である「進々堂」も、学生時代、内村鑑三に師事した続木斉と同志社女学校を卒業したハナ子が始めた。東京、文京区の「関口パン」も小石川関口教会が、経営する孤児院の子供たちに手に職をつけさせようと発足させた「製パン部」が始まりであるという。

給食のコッペパンはアメリカの陰謀?

日本人が柔らかいパンを好む背景に、戦後の給食のコッペパンが影響しているという説がある。その背景にアメリカの政策があったとするのが、2003年発売された鈴木猛夫著『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』である。同書によると、戦後の日本人の食生活が肉や油脂、乳製品やパンを摂る方向へと大きく舵を切ったきっかけは、アメリカが余剰小麦を日本に援助し、小麦輸入の道を拡大させたことだ。厚生省、農林省、文部省などが協力してそれぞれの外郭団体がアメリカから資金を受け、小麦の市場開拓のために取り組んだ。学校給食も、戦後占領期のアメリカの食料援助に始まり、独立後も、パンの学校給食を維持する条件で4年間小麦を援助する約束をし、パンが給食の主食となった。著者は、同書以外の書籍や資料を読んで、検証を試みる。第二次世界大戦で戦場とならなかったアメリカは大量の余剰小麦をを抱えこんでいた。戦後すぐはヨーロッパへの食料援助を行っていたが、ヨーロッパが復興すると自国の農業を守るために援助中止を望むようになった。そこでアメリカはアジア地域に目を向ける。アメリカが日本に対して行った援助は「米国が日本に小麦食を売り込むと同時に、反共産主義の砦として日本に再軍備させるための資金の一部を、小麦の日本国内での売却益でまかなおうという米国の思惑を反映したものだった」という。アメリカの小麦戦略は確かにあった。しかし、その結果日本人の食生活のスタイルを変えたことについては別の問題として考えるべきだろうと著者はいう。

本格フランスパンブームが始まった。

2000年代初頭、神戸文化圏から東京へ来たばかりの著者は、おいしいパン屋さんを見つけるのに苦労したという。『おいしい食パンを売る店はあるが、大好きなフランスパンを置いている店があまりないのだ。たまにバタールを売っている店を見つけることはあるが、買ってみると皮が柔らかめで「ちょっと違う」と思ってしまう』その東京で、ここ数年異変が起きているという。『フランス語でパン屋を意味する「ブーランジェリー」を名乗る店があちこちにできている。置いてあるパンの種類は少なく、単価は高め。コッペパンサンドが見当たらないかわりに、カンパーニュのサンドイッチがある。バタールよりバゲットの存在感が強く、もちろん皮は硬い。都心にはフランスから日本に上陸した店もふえてきた。一方、住宅街の一角や商店街の空き店舗などに間口も奥行きも小さいパン屋ができてきた。オーナーは若い女性が多く、スコーンやジャムなども置いている。ハード系パンはあるが食パンがない場合がある。品揃えが少なく、パンの形が、どこか素朴。値段はやはり高め』経産省の商業統計によるとパンの製造小売の数は1997年の1万2千百店をピークに減少を続けていたが、2012年から2014年にかけて1459店増加している。そんな潮流を消費者が敏感に感じ取り、パンブームが始まった。ブーム到来を決定づけたのは「Hanako」2009年11月12日号で「東京パン案内」という特集が組まれたこと。2011年10月には世田谷区・三宿で地元の人気パン屋を集めたイベント「世田谷パン祭り」が始まったこと。2013年秋には、表参道の国連大学前で週末に開かれる「青山ファーマーズマーケット」の中で、年に何回か「青山パン祭り」が開かれるようになった。パン屋情報も増えている。雑誌やムック本、テレビの情報番組でパン特集が増えてきた。SNSを利用してインターネットで発信する人も増えてきた。

リーマンショックの後。

パンブームが始まったのは2008年のリーマンショックの後だという。「前段として2000年前後のデパ地下ブームに伴って発生したスイーツブームがあるという。平成不況のどん底で流行りはじめたスイーツは、ファッションにあまりお金をかけられなくなったが、トレンド消費への欲望を満たしたい人々の心理を反映していた」という。しかしデパ地下で売られるスイーツは、気軽なおやつとしては値段が高い。ブームが一巡して冷めたところへ、再び大きな景気の後退が起こった。それでも、単に空腹を満たすだけではない食への欲望は消えなかったという。そんな人たちが発見したのが、ちょっと高級だがスイーツよりも手軽に食べられる、話題の店のパンだった。スイーツブームの時と違うのは情報が格段に増えたことだ。地域に点在するパン屋の情報をインターネットやマスメディアを通じて発信するのはパンマニアたちだ。パンマニアが登場する背景には、1970年代以降、充実の一途をたどる外食店の存在があるという。外食慣れした世代が社会の中核を占めるようになってきた。そしてパンマニアを育てているのはクオリティを上げ続ける日本のパン屋である。高いパンもおいしければ売れるきっかけを作った「VIRON」、フランスから上陸してきた「PAUL」「メゾンカイザー」のケースを紹介する。

 

米とパン。主食が逆転

コメの消費量は、1962年をピークに減り続けている。2011年には、総務省家計調査による一世帯あたりのパンの購入金額がコメを上回ったという。日本人が、ご飯の替わりにパンを主食にするようになったと騒がれた。しかし、著者は、家庭におけるコメの用途がほぼご飯を炊くことに限定されるのに対し、パンはおやつ用も含まれるため、必ずしも主食としてご飯を食べる回数がパンより少なくなったことを意味していないだろうという。著者は、さらに、日本人の食生活そのものが大きく変化しているせいではないかという。私たちは「おかず食い」になって、ご飯をあまり食べなくなっている。人々はまずご飯のお替わりをやめ、やがてご飯自体を食卓に載せなくなっている。「まったくご飯を口にしなかった日が思い当たるだけで何日もあるという現役世代は少なくないだろう。(中略)朝はパンで昼は麺類で夜は居酒屋でつまみだけ、という日はないか。(中略)ご飯はすっかり添え物になっているのだ。ダイエットをしなくても、私たちはとっくにご飯なしの日常を送っている。」

本書の面白さは、もうひとつの自分史をたどれること。

食品のひとつに過ぎないパンの歴史をたどることが、こんなに面白い読書体験になるとは思わなかった。僕のコピーライティングの師匠であるM司政官が昔、こう言ってたことを思い出した。「何かひとつだけでいいから、小さなことでいいから、それについて隅から隅まで知っているモノを持ちなさい。その「小さな世界」と「世界」は通底しているから、「小さな世界」をよく観察しているだけで「世界」で何が起きているか、わかるのだ」本書は日本におけるパンの歴史だが、歴史の本を読むよりも、たくさんの気づきや発見がある。そして、パンを通して歴史を見る視点は、間違いなく庶民の視点なのだ。しかも最近の半世紀ほどは、自分史とも重なっている。給食のコッペパン、あんパンやカレーパンの思い出、そして神戸のドンク、フロインドリーブ、ビゴのパンも、その匂いや味が、それを食べた時代の記憶とともによみがえってくる。