NHKスペシャル新・映像の世紀「02 グレートファミリー新たな支配者」

NHKスペシャル 新・映像の世紀「02 グレートファミリー新たな支配者」。録画しておいたのをようやく視聴。「01 百年の悲劇はここから始まった」もよかったが、今回も見応えがあった。20世紀に入って急速に台頭してきた大富豪たちに焦点を当てて資本主義の爆発的な発展と、その光と影を描いたドキュメンタリー。ロックフェラー、J.P.モルガン、ヘンリーフォード、デュポンなどのファミリーの歴史、1929年に始まる大恐慌に翻弄される世界を、新たに発掘された貴重な映像を交えて紹介する。

ロックフェラーセンターのクリスマスツリー。

番組の始まりは、ニューヨーク、ロックフェラーセンターの巨大なクリスマスツリー。ロックフェラーは、当時アメリカ各地で採掘が始まっていた石油に目をつけ、巨万の富を築いた。彼は、自らは採掘に手を出さず、掘り当てられた石油を買い集め、精製し、販売するビジネスを立ち上げる。さらに石油を精製する技術を高め、どんな品質の石油でも精製できるシステムを作り上げた。彼が精製し販売する石油が世界の基準になることを示す「スタンダード石油」を社名とした。全米の石油産業でのシェアは90%に達していたという。ロックフェラーは、大統領よりも有名なスーパースターとなり、メディアは彼と彼の家族の生活を競って報道した。しかし民衆との格差は広がる一方で、各地でストライキや暴動が発生する。スタンダード石油の従業員たちが起こしたストライキを、ロックフェラーは武力で鎮圧し、30人もの死者が出た。

空前の繁栄と突然の暗転。

戦勝国に貸し付けた多額の債権を回収するために、ドイツに多額の賠償金を課すことを主張した金融王モルガンは、USスチール、GEなどの大企業に融資し、政治にも強大な影響力を及ぼした。この他、自動車王のヘンリー・フォード、発明王エジソン、火薬メーカーであり、ナイロンなどの化学製品で財を築いたデュポンなどが紹介される。彼らの一族はグレートファミリーと呼ばれ、アメリカを世界一の経済大国に押し上げる。空前の繁栄を遂げるアメリカ。その富に惹かれて大量の移民がやってくる。ロシアの迫害を逃れてやってきたユダヤ人は映画ビジネスを始めようとするが、映画の様々な特許を握っていたエジソンの支配を逃れ、西部に移動し、ハリウッドで映画産業を立ち上げる。美容師から化粧品メーカーを立ち上げたマックスファクターなど、多くのサクセスストーリーが生まれた。自動車や住宅のローン販売など、現在につながる金融の仕組みも、この頃生まれている。さらに投資熱も高まり、わずかな資金で株が買える仕組みが人気を集めていた。景気の過熱を懸念するフーバー大統領に対して、モルガンは、「経済がコントロール不能に陥っていることを示唆する要素は何もない。我々は世界で最強の富と確固たる未来を持っている」というレポートを提出した。その5日後、ウォール街で株が暴落した。借金をして株を買っていた人たちは次々に破産。恐慌は、またたく間に世界に広がっていく。モルガンは議会の聴問会に召喚される。過剰な投機をあおり、自分はいち早く資金を引き上げ、暴落の被害を免れたことや脱税の罪に問われたのである。それから80年後、我々は同じ場面を見ることになる。リーマンショックで。

ケインズの言葉。「資本主義は、成功ではなかった」

今回、最も印象に残ったのが、ウォール街の暴落から始まる世界恐慌を描いた後、ケインズの以下の言葉がテロップ入りで紹介される場面だ。

「今、 我々がそのただ中にいるグローバルで、かつ個人主義的な資本主義は、成功ではなかった。それは、知的でなく、美しくなく、公正でもなく、道徳的でもなく、 そして、善ももたらさない。だが、それ以外に何があるのかと思うとき、非常に困惑する」ケインズ 論文「国家的自給」(1933年)より

いまから80年以上前の言葉が、21世紀の今も、一言一句そっくりそのまま通用することに驚く。資本主義は、大恐慌時代以上に、電子マネー、インターネット によって、スピードと規模を増し、世界を席巻するようになっている。それによって世界の格差はますます広がり、紛争や難民、テロにつながっている。資本主 義を全否定しながら、それ以外の選択肢を提示できない経済学者の苦悩が伝わってくる。世界経済を襲った大恐慌で、人々は資本主義に絶望する。その絶望の中から、ドイツ、イタリア、日本で、ファシズムが台頭してくる。

ロックフェラーの孫が建てたツインタワー。

象徴的なエピソードがある。ロックフェラージュニアは、資本主義が健在であることをアピールするために、巨大なロックフェラーセンターを建設する。この建設よって、7万人の雇用が生まれたという。それに感謝した労働者たちがポケットマネーを出し合って巨大なクリスマスツリーを立てたのだという。そして、ロックフェラー一族の哲学である「World Peace  Through Trade」(自由貿易による世界平和)をアピールするためにロックフェラーの孫が建てたのは、僕らが見慣れた、あのツインタワーだった。それは「World Trade Center」と呼ばれた。

加古隆パリは燃えているか」の旋律。

前回の時、サウンドトラック盤のCDを思わず買ってしまったが、今回もアレンジを変えて登場。番組の中で、メインテーマである「パリは燃えているか」の旋律が聴こえてくるだけで、否応なしに感情を鷲掴みにされてしまう。悲しいような、愛おしいような、とてもエモーショナルな音楽である。かなりシリアスでシビアなドキュメンタリーなので、音楽はもっと控えめでよいかな、と思うのだが…。この旋律が流れてくると「やっぱりそうなんだ。あの出来事が現在のあの出来事につながっているんだ。人間って、どうしようもなく愚かで、悲しい生き物だよね。歴史って因果応報!」みたいな判断停止状態になってしまうような気もして、もっとドライな音楽でもいいのではと思う。まあ音楽も番組の大きな魅力のひとつではあるのだけれど…。音楽以外にも、ナレーションや、演出が絶妙で、思わず涙が出そうになる場面がある。今回もサウンドトラック盤CDを購入してしまった。

 

 

鎌田浩毅「西日本大震災に備えよ  日本列島大変動の時代」

異色の火山学者。

著者は、このところ頻発する火山噴火のせいか、時々テレビで見る火山学の先生。最初に見た時は、赤い革ジャンとスキンヘッドという異色の風貌が印象に残った。いつも読む地震学の研究者とは違う視点を期待して購入。タイトルの「西日本大震災」とは、南海トラフ沿いに発生する3つの地震を指している。東海地震東南海地震、南海地震である。3つの地震は連動して発生する可能性が高く、3つが同時に起きた場合はマグニチュード9.1の巨大地震になる可能性があるという。南海地震は、ほぼ100年周期で発生し、現在では最も予測可能な地震とされている。地震学者によると2030年代、著者も2040年までには発生するであろうと予測している。予測の根拠として著者が紹介する、高知県室津港の海底の隆起と沈下のデータが興味深い。室津港の漁師たちは、江戸時代から、地震による海底の隆起で漁船が出入りできなくなることを知っており、水深を測り続けていたのだという。港の海底の地盤は、地震の発生により1.8m〜1.2mの範囲で隆起する。そして地震直後から地盤沈下が緩やかに始まり、隆起がゼロになった頃、次の地震が発生するという。地盤の隆起の大きさは次の地震発生までの時間と連動しており、隆起が大きいほど次の地震までの時間が長くなるという。1707年/1.8m。147年後の1854年は1.2m。92年後の1946年は1.15mである。ここから予想される南海地震の時期は2035年になるという。

3.11以降、列島は大変動の時代に入った。

著者によると、戦後から高度成長期〜90年台の日本は、地球学的に見て僥倖と言えるほど平穏な時期であり、地震も火山噴火も極端に少なかったという。それが1995年の阪神淡路大震災以降、さらに3.11以降、日本列島は、本来の姿である地震と火山噴火が頻発する時代に入ったという。しかも1960年台以降の日本は、地震や噴火が頻発した9世紀の日本に酷似しているという。整理してみると。

818年 北関東地震              1965年 静岡地震

827年 京都群発地震             1974年 伊豆半島地震

830年 出羽国地震

832年 伊豆国 噴火

837年 陸奥国 鳴子 噴火          1983年 日本海中部沖地震

838年 伊豆国 神津島 噴火                                1984年 長野県西部地震

839年 出羽国 鳥海山 噴火

841年 信濃地震、北伊豆地震

850年 出羽庄内地震             1995年 阪神淡路大震災

863年 越中・越後地震            2000年 鳥取県西部地震

864年 富士山・阿蘇山 噴火         2005年 福岡県西部沖地震

868年 播磨地震 京都群発地震                            2007年 能登半島地震 中越沖地震

871年 出羽国 鳥海山薩摩国 開聞岳 噴火  2008年 岩手・宮城内陸地震

869年 貞観地震(東日本大震災 M9クラス)  2011年 ※東日本大震災

878年 相模・武蔵地震(首都圏直下型 M7.4) 2020年? ※首都直下地震

887年 仁和地震(南海地震 M9クラス)     2029年? ※南海地震

この中で注目すべきは最後の3つの地震貞観地震と酷似しているといわれる2011年の東日本大震災と2020年?(東京オリンピック)の首都直下地震と2029年?の南海地震だ。もちろん、この年号の通り地震が発生するわけではないのだが、現在の日本が9世紀と同じ大変動期に入っているとしたら、とんでもないことになるという。

日本は火山大国。

3.11以降、日本列島の火山活動が活発化しているらしい。陸地面積では世界の400分の1にすぎない日本列島に世界の火山の7%がひしめいている。現在110個の活火山が活動していて、その内20個ほどが活発な活動を見せている。火山学では、VEI:火山爆発指数と呼ばれる基準があり、VEI0〜1が「小規模な噴火」、VEI2〜3が「中規模な噴火」、VEI4が「大噴火」、VEI5〜6が「巨大噴火」、VEI7以上が「超巨大噴火」とされている。現在起きている噴火は、そのほとんどが小〜中規模の噴火である。大噴火は、 100年で数回という頻度で発生するが、20世紀に入ってからは、1914年の桜島と1929年の北海道の駒ヶ岳の2例のみ。それ以降、現在までの100年近くは、異常なほど大噴火は少なかった。また巨大噴火も1707年の富士山と1739年の樽前山の噴火以降、300年は起きていない。3.11以降、活発化しはじめた日本の火山は、いつ大噴火や巨大噴火を起こしてもおかしくないという。巨大噴火の中でも特に規模が大きなカルデラ噴火は、一つの文明を滅ぼすほどの激甚災害となる。日本でも、最近の10万年は7000年に一度くらいの頻度でカルデラ噴火が起こっているという。北海道と九州に多く、最も新しいものは、今から7300年ほど前に、鹿児島の薩摩半島沖の薩摩硫黄島で起きたカルデラ噴火である。この噴火では、大量の火砕流と火山灰を噴出、高温の火砕流は、海を越えて流走し、40km以上離れた屋久島や種子島に上陸した。火砕流は九州本土にも上陸し、南九州一帯を焼き尽くし、当時、そこに暮らしていた縄文人を全滅させたという。このような巨大噴火も、7000年の間、発生しておらず、いつ起きてもおかしくない状況だという。ただし、巨大噴火は、ある日突然起こるのではななく、小噴火や中噴火が頻発し、さらに大噴火の時期を経て、最終的なクライマックスとして大噴火を起こすので、準備を整えることができるという。国は、食料1年分の備蓄や、西日本に人が住めなくなった場合、東日本だけでどう生き残りを図るか、などを対策を早急に検討しなければならないだろう、と著者は主張する。

大地大変動時代の生き方。

3.11以降、大変動時代に入ったという日本列島。百年周期で発生する南海地震。三百年周期で発生する東海・東南 海・南海の連動地震。そして、いつ起きてもおかしくない首都直下地震。さらに300年発生していない大噴火や7000年発生していないというカルデラ噴 火…。以前にドイツの災害保険会社が世界の主要都市の自然災害の危険度ランキングを発表したことがあった。それによると東京、横浜は、次点のサンフランシスコ やロサンゼルスを大きく引き離してダントツのワースト1だったという。治安などでは世界一といってもいい東京だが、地球科学的には、3つのプレートがひしめき合う「地震の巣」の上に構築された砂上の楼閣であるという。日本人は、これから、どこで、どのように生きていけばよいのだろう。例えば、「首都移転」を行えばよいのだろうか?著者は、 それでは意味がないという。地球科学のスケールで考えると、日本列島のどこにも直下型地震のリスクは存在し、首都移転でそのリスクが回避できるわけではな いという。ニューヨークやパリに住む著者の仕事仲間は「東日本大震災の後、西日本大震災が必ずやってくるというのに、ヒロキはなぜ日本を脱出しない?」と著者の生き方を訝しむという。著者は、「日本を脱出すること」を人生の選択肢から最初に外したという。著者は、現在、京都を拠点に「大変動時代の日本をどう生きるか」というジャーナリズム活動を続けている。

 「長尺の目」という思考。

著者が本書の中で繰り返し主張するのが「長尺の目」の思考。地球の誕生から46億年のの時間を研究する地球科学にとって、地震や火山活動は、最小でも百年、千年、1万年というスケールで考えるものであって、数年や数十年という時間は、一瞬に等しいという。地球科学のスケールで考えると、100年に1度の南海地震は必ず発生するし、富士山の巨大噴火も必ず起きる。1000年に1度と言われていた東日本大震災も現実に起きたのである。しかし、地球科学も地震学も火山学も素人の僕には、この「長尺の目」思考というのが難しい。たぶん100年足らずの寿命しか持たない人間には、自らの命の長さを超える時間の長さを実感として捉えることが簡単ではないのだと思う。民主党政権時代に事業仕分けで、「200年に1度の大洪水に備えるよりも、先に手掛けなければならない事業があるのではないか」と主張した議員のことを思い出す。100年先という未来ですら、僕らには永遠と同じくらい遠い未来に感じられてしまう。著者のような研究者でさえ、3.11以前は、1000年に1度の大地震が自分たちが生きている時代に起きるとは考えていなかったという。しかし3.11が、そんな人間のスケールの常識を打ち砕いてしまった。

ストックからフローへ。
 ここで、著者は地震や火山から離れ、人類の文明の発展を俯瞰する。大雑把にいうと、西洋の文明はストックの文明であり、環境問題などの行き詰まりは、このストックの価値観に原因があるという。ストックとは備蓄や在庫を表す経済学の用語であり、持ち家や株式など、人が蓄える資産という意味もある。要するにモノを抱え込む生活を「ストック型生活」と呼ぶ。資本主義経済は、まさにストックを基に成り立っているという。こうしたストック型の生活から、フローの生活への転換が必要であると著者は主張する。現在の、自然の操作と改変、そして進歩と拡大を前提とした西洋のストック型生活から、人類が長い間、そのフローの一環として続けてきた狩猟採集の生活へ、大きな価値観の転換が必要だという。この辺りのロジックは、それほど新しいわけではない。本書の面白いところは、そのフローの生活を著者自らが実践しているところだと思う。

気流の鳴る音が聞こえる。

著者は、ここでフローな生き方のヒントになる二人の学者を紹介する。一人は、真木悠介ペンネームで知られる社会学者の見田宗介。真木の著者で「気流の鳴る音」という本がある。未開地域で原始的な生活を送っている人々が、何十キロメートルも遠くで気流が鳴る音が聞こえる、という世界を表現している。こうした未開民族が、我々文明人が及びもつかない五官の能力を持っていることを社会人類学者が明らかにしてきたという。我々文明人は、様々なメディアにより地球の裏側のことを知ることができるようになったいっぽうで、人間が本来持っていた感覚が失われていったという。

体の声を聞く。

もう一人の学者は、野口晴哉という昭和の思想家。人間には、言葉による意識をつかさどる大脳を中心とする「錐体系」と、自律神経や意識外の動きをつかさどる「錐体外路系」があり、後者の働きを増すことが大切だと述べる。「錐体外路系」の働きが鋭い人は、地震の前に危険を察知することができるという。著者に知り合いにも、なぜか危険な時に、その場所にいない、という人がいるようだ。たとえば、ふとした思いで歩く道を変えたために、交通事故の現場に遭遇せずに済んだという人。それは全くの偶然かもしれないが、その人は普段の生活の何かが違うのかもしれない。それは「気流が鳴る音が聴こえる能力と無縁ではないと著者は考える。最新の地球科学が予測する「日本列島の大変動時代突入」という知識や情報を十分理解した上で、錐体外路系の訓練も必要ではないか、と著者は考える。緊急時において人間の身体は「行動すべきこと」を知っているという。

日本人には幾多の自然災害をくぐり抜けてきたDNAが引き継がれている。

3.11の直後、多くの外国人が日本から逃げ出した。しかし日本人の多くは、無意識のどこかで、こうしたことは過去にいくらでもあったと知っっている。我々には近い将来の大変動を乗り越える知恵が組み込まれている。自然がもたらす変動を生き抜く力強いDNAがあるという。

東京出張の時は首都直下地震に備える。

本書の面白さは、3.11以降の「日本列島大変動」の話と、それに対して著者自身が、どう生きようとしているかの話が一緒に読める点になる。京都に住む著者が仕事などで東京にいく時の話は、興味深い。著者が東京に行く時は、気合を入れて出かけるという。首都直下地震がいつ起きてもおかしくないと認識しているからである。鞄やリュックの中には、常に懐中電灯と予備の電池、500mlのペットボトルの水、ドライフルーツを入れて持ち歩いているという。僕も、阪神大震災以来、キーホルダーには小型の懐中電灯をぶら下げ、鞄の中にも、もうひとつ懐中電灯を用意している。さらにポータブルのFM/AMラジオ、レザーマンのマルチツールを持ち歩いているが、著者はさらに水と非常食を持ち歩いているのだから徹底している。本書を読んでから、僕も従来の装備に加え、水と非常食を持ち歩くことにした。

軽い気持ちで読んだが、読み込むと、かなりディープ。

薄い新書で、タイトルもいかにもな感じで躊躇したが、「西日本大震災って何だっけ?」という疑問から購入。半日もかからず読み飛ばしたが、感想を書こうとすると、意外に中身が濃く、再度じっくり読み、感想を書きながら、何箇所も読み直した。後半は内田樹先生ばりにぶっとんでいる部分もあるが、共感しながら読めた。本書の中に出てきた真木悠介「気流の鳴る音」と野口晴哉「風邪の効用」も面白そうなので読むことにした。

 

マツダの「Be a driver.」キャンペーンに感じたこと。

気持ちはわかるけど、伝わらないだろうなあ。

前回のエントリーで、キャッチフレーズを覚えている広告としてRIZAPの「結果にコミットする」と日産の「やっちゃえ」を紹介したが、個人的に一番印象に残っているのはマツダの「Be a driver.」キャンペーンである。2013年に始まり、現在も続いている。最初に、この広告を目にした時、「気持ちはわかるけど、通じないだろうな」と思ったことを覚えている。マツダは、一貫して「走る歓び」を追求したクルマづくりを主張していて、以前から「zoom zoom」というスローガンを掲げてきた。「zoom zoom」とは、子供が自動車のオモチャを走らせて「ブーンブーン」という声を出すのと同じ意味であるという。英語圏ではこれでいいかもしれないが、日本では伝わらない言葉だった。「Be a driver.」は、同じ意図を持ちながらも、狙いはしっかりと伝わってくる。意図は伝わってくるのだが、考え方そのものが、今の時代からずれていないだろうかと感じたのである。

クルマ離れ。スポーツ車の低迷。

クルマを取り巻く環境は大きく変わってきている。若者のクルマ離れは進んでいて、「走り」を売り物にするスポーツタイプのクルマの人気は高くない。また、いまだにクルマに興味を持ち、購入意欲もあるといわれるマイルドヤンキーたちの関心も、仲間がワイワイ乗れるワンボックスタイプのワゴンに集中しているようだ。かつて「走るクルマ」に興味があった、もう少し上の世代も、いまやハイブリッド車など、エコカーを選ぶようになり、「走り」への関心は薄れてしまっている。今年のモーターショウでは「自動運転」が大きなテーマになった…。そんな時代に「Be a driver.」と訴えてもどれだけ届くんだろう、と思ったのである。広告は届かなければ、すぐに終わってしまう。たぶん1回きりのキャンペーンを打ったあとは、別の広告に変わっていくだろうなと思っていたのである。ところが2013年に始まったキャンペーンは、2014年も、継続し、現在も続いている。続いているだけでなく、なんだかどんどん拡大している感じ。「Be a driver.」の意味を拡大して「人生のドライバーになろう:自分の人生を自らの意志でドライブ(動かす)する人になろう」という広告に発展したり、テクノロジーやデザイン、クルマづくりの姿勢など、ブランディング広告にも使われるようになってきたのである。

マツダファンが増えている?

「そうはいっても、クルマを買う人に届いているかな」と効果を疑っていたが、偶然、知り合いに「マツダのクルマに買い換えた」「マツダのクルマに買い換えたい」「最近のマツダっていいよね。次はマツダにしようかな」という人が出てきたのである。経験上、自分の周辺で3人の人間が同じことを言いだしたら、それはかなりのブームになっている、と考えられる。「Be a draiver.」の広告が効果を上げているのだろうか?そういえば、最近のマツダのクルマには、ある種の統一されたイメージがある。どの車種も、ちょっとマッシブな筋肉質のデザインで、グラスハウスも低く、いかにも「走りそうな」イメージなのである。空力一辺倒の他社のデザインとは一線を画していると思う。今年の1月にNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で観た、低燃費エンジンの開発ストーリーも好印象だった。現在、トヨタが「TNGA:TOYOTA NEW GLOBAL ARCHITECTURE」の開発ストーリーを豪華キャストで展開しているが、そのドキュメンタリー風なタッチが、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」に似ているような気がするのである。いままでマツダのクルマを一度も買ったことはないが、いつの間にか、自分の中のマツダのブランドイメージが良くなっていることに気づかされた。

モノづくり/ブランド/広告が一体となっているキャンペーン。

売上など、具体的な数字を調べたわけではないが、このキャンペーンは成功していると思う。成功の理由は、マツダのモノづくりとブランディング、そして広告キャンペーンが一致しているからではないかと思う。そして一番難しいのは、モノづくりとブランディングを一致させることである。モノづくりを軸にしてブランディングの方向を定めたら、今度はその軸をブレさせずに、モノづくりと、ファンづくりを推進していく。さとなおさんが言ってるようなコミュニケーションをマツダは実践し始めているのかもしれない。今年の東京モーターショウで見た、ロータリーエンジン搭載のスポーツカーの新しいコンセプト「RX-VISION」も、自動運転やエコカー中心だった業界のトレンドとは異なる方向をめざした、マツダ独自のエンスーなモノづくり-クルマづくりの姿勢をアピールするものだった。しばらくはマツダの動きを注目してみよう。

最近、キャッチフレーズを覚えている広告って、ある?

少し前に、コピーライターが集まって飲んでいる時に、誰かが「最近の広告で、キャッチフレーズを覚えている作品ってあるかな?」と言い出した。その場にいた全員が思い出そうとするのだけれど、なかなか出てこない。ようやく出てきたのがライザップの「結果にコミットする」と、日産の自動運転のCMの「やっちゃえ」。たったこれだけ!?信じられないと思うかもしれないが、実際そうなのだ。メンバーの構成は、代理店と制作会社で半々ぐらい。中心は30〜40代だった。「auの桃太郎とか出てくるヤツ」「ちょっと前のトヨタの、たけしが出てたヤツ」「パナソニック西島秀俊が出てきて…」というように作品を説明することはできるのだけど、キャッチフレーズは思い出せないのである。嘘だと思ったら、あなたもやってみたらいい。頑張って、3つ思い出せたら、かなり優秀である。それ以来、業界の人を中心に、誰かに会う度に、この質問をしてみるが、答はほぼ同じ。0〜3つ以内がほとんどである。

かつて広告は、キャッチフレーズで覚えられていた。

「トリスを飲んでハワイへ行こう!」「いつかはクラウン」「そうだ 京都、行こう。」など、キャッチフレーズを覚えているのは、昔の広告ばかり。新しくなるほど、キャッチフレーズは、忘れられてしまう。特に、ここ1〜2年が激しい。これは、どういうことなんだろう。広告自体のパワーダウンが原因?もう「キャッチ一発で勝負」という時代の終焉?コピーライターになろうなんて人が減ったから、優秀なコピーライターがもういなくなったから?そこで、僕の周辺の何人かに聞いてみた。

A氏。「広告自体のパワーが落ちてきている」2点

まあ、しかたないんじゃないの。マス広告に効果があったのは、前世紀まででしょ。CMもどんどん質が下がってるし、新聞広告だって、シルバー向けの通販広告のメディアになっちゃったし、交通広告なんかもダメ。コピーのパワーというより、広告自体のパワーダウンが原因だと思うね。キャッチもだけど、広告自体も覚えてないんじゃないかな。そんな状況だから、悪いけど、コピーライターなんて仕事は前世紀の遺物。絶滅危惧種。アータだって、もうキャッチフレーズ1発の仕事なんてしてないんじゃないの。ね、そうでしょ。Webやら、ECやら、ソーシャルやらでライターの仕事はなくならないと思うけど、昔ながらのコピーライターは要らない。

B氏。グラフィックデザインの衰退とシンクロしている。4点

紙媒体の広告が衰退していくのに歩調を合わせている気がする。ムービーの場合、紙媒体ほど言葉は重要ではないんだな。代理店の制作でも、みんなプランナー志向で、コピーをじっくりやろうなんていう人はあまりいない。キャッチ一発ジャジャーンというのは、やっぱりデザイナーとコピーライターが組んで創る新聞広告とか雑誌広告とか、ポスターとかの媒体がメインじゃないと生きてこない。キャッチフレーズが主役になる時代は、もう戻ってこないと思う。古きよき時代っていうことかな。

C氏。広告ではユーザー体験を作れない。0点

企業と生活者とのコミュニケーションは、広告のような一方的な、1対多数のコミュニケーションではもう作れない。製品やサービスという、企業活動そのもので、よいユーザー体験を提供しなければならない。ソーシャルメディアによるコミュニケーションも企業の中の個人の顔がちゃんと見える必要がある。もう広告という仕組み自体が終わっていることに気づくべき。インタラクティブなコミュニケーションの中でも、言葉は大切だと思う。コピーライターは、そっちのほうのスキルを磨くべきじゃないのかな。

D氏。まだまだ、コピーは死んでない。1点

クリエイターがさぼっているだけだと思うね。いつの時代でも、言葉の力は強いよ。言葉の影響力を馬鹿にしていると、いつか、みんな痛い目に遭うと思う。安倍政権が総選挙で勝った時の「日本を取り戻す」とか、けっこう効いたんだと思うよ。日本人は、言葉で動かされやすいんだ。「尊王攘夷」で300年続いた幕府が倒れ、「八紘一宇」「鬼畜米英」で勝てるはずのない戦争に突入していったでしょ。「積極的平和主義」とか「一億総活躍社会」とかの言葉で、日本を引っ張って行こうとしている人たちがいるのです。僕たちは彼らの言葉と戦う言葉を持たなければならない。コピーライターの人たちも、その辺りの、人を動かす言葉に敏感なのだから、もっと発言してほしい。今回の安保論争でも、広告業界の人たちはあまり発言してないよね。まあ企業の仕事をしているからしかたがないところはあるけれど、何というか、一市民として発言するコピーライターというポジションはないのかな。

千松信也「けもの道の歩き方 猟師が見つめる日本の自然」 

2009年のエントリーで取り上げた「ぼくは猟師になった」の著者の2冊目。大学を出て猟師になった著者は、40歳になった。結婚して、子供もいるが、猟師としての生活はいまも続けている。11月から2月の猟期には、ワナをしかけて、イノシシ、シカを獲る。網猟で鴨やスズメを獲る。猟期が終わると川で魚を漁り、蜜蜂を飼い、鶏を飼い、木の実を拾い、キノコを栽培する…。縄文時代の狩猟採集生活はこうであったろう、というような生き方である。前回の「ぼくは猟師になった」では、狩猟によって「命」と直に向き合う戦慄や感動、太古から続く狩猟採集生活を著者自らが体験する歓びに溢れていた。しか し、著名になり、ナチュラリストの一人として様々な場で発言したりするようになった今、著者の文章は、冷徹に、日本の自然が抱える問題を見つめている。

千松信也「ぼくは猟師になった」 - 読書日記

シカやイノシシによる獣害の急増。

シカがここ何十年かで急増し、その食害によって農作物に大きな被害が出ているという。農業だけでなく、森林の生態系にも深刻な影響が出ているらしい。希少植物が食べ尽くされて絶滅するのはもちろん、笹などを食べ尽くすことにより、そこを隠れ家にするイノシシや小鳥、小動物などにとっても住みにくい場所になっている。京都大学の芦生研究林では、20年前と比べると昆虫の数が8分の1に減少していたという。昆虫は、森林内では花粉媒介や落ち葉・死骸の分解などの役割を果たしていて、それが絶滅すると森林全体の活性を弱めることになる。シカが増えた理由も単純ではない。戦後、木材確保のため、各地で自然の森林を伐採し、スギやヒノキを植林した。手入れの行き届いた森は、日当たりがいいためシカの餌である下草もよく育ち、住みやすい環境であったという。その後、東南アジア等の安い木材が輸入され、採算がとれなくなり、林業自体が廃れていった。かつて植林された木が伐採適期を迎えているのに放置されたままになっている。間引きや枝打ちなど、最低限の手入れさえされなくなった森は、下草も生えない薄暗い森である。そこに生息していたシカは、餌を求めて、手入れされた森や人家近くに移動してくるという。

猟師はいまや絶滅危惧種

かつてシカの捕食者であったニホンオオカミが絶滅した後、猟師が、その役割を果たしていたが、近年、高齢化が進み、急速に減少していることも、シカが増える理由のひとつであるらしい。著者の住む京都では、2013年から猟期にシカを獲ると、1頭4000円の報奨金が出るようになった。それまで猟期以外の、いわゆる害獣駆除には報奨金が出ていたが、猟期では初めてであるという。ここに来て、国が、シカの保護から、数の管理に方針を変更しようとしているらしい。奈良のシカですら駆除が議論されているという。シカだけでなく、イノシシやサルによる獣害も増えている。他に山間の耕作放棄地や人が利用しなくなった里山も、獣たちが人里に入り込む原因になっているという。人と自然がバランスよく調和していると言われる里山も、実は、シカやイノシシなどの獣がほとんどいないこの100年ぐらいの例外的な時期に出来上がったもので、江戸時代には、人の身長ほどもあるシシ垣を築いて、イノシシやシカの害から農地を守ったり、藩をあげて大規模なイノシシ狩りをしていたという。

狩猟をビジネスにする動き。

害獣駆除で殺されたシカは、そのほとんどが埋められたり、廃棄物として処分され、シカ肉として流通することはないという。一部の地域では大掛かりなシカ肉の加工所などを作って製品として流通させようとしている。しかし、このような試みも、著者からすると、未知数であるという。大規模な加工所を作れば、利益を出すために大量のシカを狩らねばならず、そうなると、それほど豊かでない日本の自然では、瞬く間に絶滅してしまう可能性があるという。自然は、人間の都合に合わせてはくれないのだ。著者が猟を始めた20代の頃、裏山にドングリの実がいっぱい採れる巨木がたくさんあった。日当たりをよくしてドングリをたくさんに実らせようと、周囲に生えているリョウブやヒサカキ、ソヨゴといった木を間伐し、薪にしていった。しかしニホンミツバチを飼うようになると、自分が伐採した樹種が全部ミツバチにとっての大切な蜜源だと知って、愕然としたという。森林性のニホンミツバチは、四季折々の森に咲く小さな花に集まって花粉や蜜を集めていく。ミツバチが豊かに暮らすには、多種多様な「雑木」の林でなくてはならないことに初めて気づかされたという。

チェルノブイリの汚染イノシシ。

 猟師である著者には、福島の原発事故による汚染の深刻さがわかる。イノシシは、ドングリが大好物で、タケノコやヤマイモなども器用に探し出して食べてしまうという。また腐葉土を掘り返してミミズなどを食べる。つまり森や土壌の汚染は、どんどんイノシシの中に取り込まれ、濃縮されていく。福島では、イノシシ肉の出荷停止が続いている。そのせいで猟を廃業した猟師もいるらしい。チェルノブイリ事故から29年経った今でも、1500km離れたドイツで、国の基準を超えたイノシシが捕獲され、殺処分されているという。それに比べると著者の住む京都は、事故を起こした原発からたかだか540 kmしか離れていない。風向きなどによって、京都のイノシシが汚染されるおそれは十分にあったのだ。著者は、原発と狩猟採集生活は相容れないと、控えめに反対を表明している。しかし原発の反対運動にも違和感を覚えるという。事故が起きる前から、原発の作業員などが被曝するなど、問題はあったのに、福島の事故で、いざ自分の身にまで放射性物質が降り注ぐことになった瞬間に反原発というのは都市住民の身勝手ではないかと思った。放射性物質は、生態系の豊かな循環を通じて、生き物に蓄積されていく。福島の汚染された自然の中で、子育てをするイノシシ、ものも言わず毎年芽吹く植物群。自然界の生き物はみんな人間が汚染した環境でそれを引き受けながら生きている。自らすすんで汚染される必要はないが、潔癖なまでに汚染を気にするのはどうかと思う。というのが著者の意見だ。

狩猟文化を継承する

著者が狩猟を始めた頃に比べると、狩猟への関心が高まっているという。狩猟を理解してもらうためのイベントも各地で開催されるようになり、予想以上の人気を集めているという。さらに狩猟を始めようという女性も増えてきているという。自然や環境への意識の高まりが、きわめてエコロジカルなライフスタイルである猟師に眼を向けさせているのかもしれない。狩猟学校を作ろうなどという動きもあるらしい。しかし著者は、学校のように画一的な方法を教えるというのは、実は猟師に向かないのではないかと考えている。著者の周囲の猟師たちは、かなり個性的な人が多いらしい。独りで色々工夫して獲物を獲るような人物が猟師には向いているという。

狩猟について、理解が深まる。

本書を読むと、当然ながら狩猟についての知識が得られる。猟ができる動物のことを「狩猟鳥獣」と呼び、法律で規定されていて、現在は48種が選定されている。本書の中では「僕の周りの狩猟鳥獣」として紹介されている。著者と獣や鳥たちとのふれあいが楽しい。また、本書で紹介されている様々な猟の方法も興味深い。それらの猟が、猟師や動物の激減で、継承されないまま、消えてゆくのが残念だという。

半猟半Xで生きる。

半農半X」という考え方があるが、著者は「半猟半X」。人間自身が生態系の一環となり、自然が生み出す恵みを必要最低限なぶんだけ手に入れるという究極のサスティナブルな暮らしではないだろうか。現代において「猟師という生き 方」を選ぶのは、とてつもなくラディカルだ。これに比べると自然に手を加え、生態系を変化させてしまうという点において、農業や林業ですらサスティナブル とは言えない。しかし著者は狩猟を職業にしているわけではない。普段は運送会社で働き、猟期になると週に3日だけ仕事をして、残りの日は猟師 として活動する。彼は専業の猟師になる気はないという。自然の恵みの中から、家族や友人が食べるだけぶんだけの動物や植物を獲り、生活していく。シカやイノシシなら年に10頭獲れればじゅうぶんだという。猟師を職業にして、誰かの依頼で「来週までにイノシシを3頭」というような注文に応えようとすると、狩猟採集生活という、著者の理想とする生活から離れてしまう。また、猟師を専業にする人が増えると、乱獲などが起こり、動物が絶滅するなど、生態系が 変わってしまう可能性がある。昔の人は、農業をしながら、山に入って猟をしたり、薪を集めたり、果実や山菜を採ったりというくらしをしていた。生活 の中に狩猟採集がしっかり根付いていた。著者は、そのような狩猟採集生活を理想としているのだろう。だから著者にとって狩猟は「趣味」ではない。「生活の一部」なので ある。僕らがスーパーで肉を買うように、彼は山でイノシシを獲って、解体し、肉を手に入れる。著者の、このような暮らし方は、僕には無理だと思うが、羨ましくもある。今の時代に、ある意味で、最もラディカルだといえる狩猟採集生活を続ける著者の動向を、今後も注目していきたいと思う。数年に一度、このような本を出してくれるとありがたいのだが…。

村上春樹「辺境・近境 ノモンハンの鉄の墓場」

ノモンハン事件の3冊目は、村上春樹の紀行エッセイの中の一章。再読である。本書を選んだのは、僕らの世代に近い人が、ノモンハン事件に触れ、さらにあの戦場の現在を訪れて、何に、どう感じたか、ということを知りたかったからである。

ねじまき鳥クロニクル」に登場。

著者によると、子供の頃、歴史の本の中で見たノモンハン事件の写真になぜか強い興味をいだいたという。その後、著者がプリンストン大学に属していた時、大学の図書館でノモンハン事件に関する古い日本語の書籍がたくさんあるのを見つけた。著者は暇にまかせて、それらの本を借り出して読んでいった。その結果、著者は、このモンゴルの名もない草原で繰り広げられた短期間の戦争に、子供の頃と同じように激しくひきつけられていることに気づいたという。どうしてなのか、その理由はわからないという。その後「ねじまき鳥クロニクル」でノモンハン満州のことを書いたら、雑誌「マルコポーロ」で実際にその場所へ行ってみないか、という話が来た。著者もかねがね行ってみたいと思っていたところだったので、すぐに引き受けたという。

中国に行くのは初めてという著者の旅の部分は、まあ面白いのだが、あまりノモンハン事件に関係がないため、ここでは触れないことにする。僕が興味深く読んだのは、中国側のモンゴルでも、モンゴル国でも第二次世界大戦ノモンハン戦争の痕跡が、当時と変わらないかたちであちこちにそのまま残されているという話。それも、原爆ドームのように、きちんとした目的のために保存されているのでなく、そのままほったらかしになって、ただそこに残っているだけだという。関東軍ハイラル郊外に建設した地下要塞(ハイラル城)は、あまりに強固に造られているため、今でも当時のまま残されている。内部には病院など籠城に必要なあらゆる施設が作られ、街のようであったというが、内部の鉄の扉が頑強すぎて壊すこともできず、地下の迷宮がどこまで続いているか、いまだにわからないと言う。

歩兵が歩いた220kmを行く。

ハイラルから最新のランドクルーザーで国境地帯に向かう。距離にして220kmほどだが、著者は、道なき荒野を激しく揺られながら進むことに疲れ果ててしまう。しかし当時の日本軍は、同じ行程を完全軍装の徒歩で移動したのである。その事実に気づいた著者は、当時の兵士たちの体力に驚き、そして兵員の輸送手段すら確保できなかった日本の貧しさを思う。そうやってたどり着いたノモンハンは、とても小さな集落で、ここを拠点にしている遊牧民たちは移動中で、責任者と子供たちだけが留守番をしていた。著者が訪れたのは事件が起きた時と同じ季節で、大量の虫に悩まされる。皮膚が露出していると、何処から現れるのか、物凄い数の虫が襲ってくるという。当時の兵士たちも、蚊、蝿などの虫に悩まされた。特に蝿は、虻(アブ)ほどの大きさで、遺体や重症者の傷に卵を産みつける。普通の蝿の卵から蛆になるのは3日ほどを要するが、その卵は10分も経たずに蛆になるという。奇術としか思えない早さで孵った蛆は、みるまに死体の上を這い回り、眼や口など、やわらかな部分を蝕みはじめたという。

すぐそこまでの数千キロ。

モンゴル国との国境は目と鼻の先にあるのだが、そこを越えることはできない。著者たちは一旦北京に行き、空路でウランバートルに飛び、飛行機を乗り継いでチョイバルサンに行き、そこからジープで370kmを走破してハルハ河に向かう。数km先の土地に行くために、とんでもない遠回りをしたことになる。著者は、そのおかげでモンゴルの草原のだだっ広さを嫌というほど味わうことができたという。大洋を小さなクルーザーで航海するイメージが一番近いという。たどり着いたハルハ河の左岸の、ソ連軍が重砲陣地を築いた崖の上から、著者はノモンハン方面を眺める。そこからは、はるか彼方まで見渡すことができた。ハルハ河の右岸は土地が低く、ソ連軍は、日本軍の動きを手にとるように見ることができたという。そこから日本軍の陣地に正確な砲撃を放った。いっぽう日本軍の方からは崖の上のソ連軍の布陣をまったく知ることができず、最後まで不利な戦いを強いられたという。

鉄の墓場。

ハルハ河を渡って、最も激しい戦闘が行われたノロ高地付近に立った著者は、周囲を見回して、言葉を失う。戦車、様々な機械、道具、砲弾の破片、銃弾が、55年前のまま、放置されている。湿度が低いせいか、表面こそ赤いサビに覆われているが、その下には「鉄」がそのまま残されている。つまり、この戦場は、戦争のあと、人間がほとんど足を踏み入れることがなかったのだろう。遊牧民が時々通過するだけの、この不毛の土地をめぐって、兵士たちは血みどろの戦いを繰り広げ、殺されていったのだ。

「それ」がやってきた。

著者は臼砲弾らしき破片と銃弾を拾って持ち帰ることにした。再び、ジープで荒野を370km走り、深夜1時ごろチョイバルサンに帰ってくる。すぐホテルに入って寝ようとするが、なかなか寝付けない。持ち帰った臼砲弾の破片と銃弾を取り出して、砂を払って、机の上に置いた。砂丘でそれらを見つけた時と印象が違って見えた。ふだんは超自然的な出来事に対して関心がない著者も、この時は、何かの濃密な気配を感じたという。持って帰るべきでなかったのかもしれない。しかし、もう遅い。

目がさめると、闇の中であらゆるものが激しくゆれていた。大きな地震のようだった。とにかくここを出なくては----。どれ位時間が経ったのか、ようやくドア近くまでたどり着いて、電気を点けた途端、揺れは止まった。というより、何も起きていなかった。揺れていたのは部屋でも、世界でもなく、自分自身だった。そのことに気づくと、著者は、身体の芯まで冷たくなったという。それほど深く理不尽な恐怖を味わったのは、生まれて初めてだった。それほど暗い闇を見たのも初めてだった。何はともあれ、その部屋にいたくなかった。著者はカメラマンの松村君が寝ている隣の部屋に行き、彼のそばの床に腰をおろし、夜が明けるのをじっと待った。4時過ぎになって、ようやく東の空が白んできた。その朝の光とともに、著者の中の恐怖がだんだん溶けて消えていった。もうこわくはなかった。それは闇とともにどこかへ去ったのだ。著者はベッドに入って、ぐっすり眠った。著者は時間の経過ともに、こう考えるようになた。あの振動や闇や恐怖は、外部から来たのではなく、彼自身の中にもともとあったものではなかったかと。何かがきっかけのようなものをつかんで彼の中にあるそれを激しくこじ開けただけではなかったのかと…。

著者が体験した、この不思議な出来事を読むと、前回のエントリーで取り上げた、伊藤桂一の「静かなノモンハン」に書かれた「少尉を呼ぶ背嚢」を思い出す。超自然的な世界を信じない、という前提に立てば、背嚢の蓋が風も無いのにパタパタと音を立てるのは、鳥居少尉の脳の中で起きていることだと考えられる。その場にやってきた時、鳥居少尉は、周囲の地形と平本の背嚢を、無意識のうちに捉えていたのだと思う。きっと何か違和感を感じていたのではないか。それが意識上に上がって来ないので、無意識は、意識に対して信号を発したのだろう。それが「風もないのにパタパタめくれる背嚢の蓋」という幻覚として鳥居少尉の前に出現したということができるだろう。また超自然的な世界があるという前提で考えれば、本書に書かれた、著者が持ち帰った臼砲弾の破片に、かつて戦場にいた兵士の記憶のようなものが残っていて、それが著者の脳を刺激し、幻覚を見せたのではないか。地震のように思えた激しい振動は、ソ連軍の重砲の集中砲火を浴びた兵士の生々しい体験だったのではないか。

著者は、冒頭近くで、自分がノモンハン事件に強く惹かれる理由を考察している。少し長いが引用しておこう。『それは、この戦争の成り立ちが「あまりに日本的であり、日本人的であった」からではないかと。(中略)にもかかわらずそれは、日本人の非近代を引きずった戦争観=世界観が、ソビエト(あるいは非アジア)という新しい組み替えを受けた戦争観=世界観に完膚なきまでに撃破され蹂躙された最初の体験であった。しかし残念なことに、軍指導者はそこからほとんどなにひとつとして教訓を学ばなかったし、当然のことながらそれと同じパターンが、今度は圧倒的な規模で南方の戦線で繰り返されることになった。(中略)そしていちばん重要なことは、ノモンハンにおいても、ニューギニアにおいても、兵士たちの多くは同じようにほとんど意味を持たない死に方をしたということだった。彼らは日本という密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。そしてこの「効率の悪さ」を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない。戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。我々は日本という国家を結局は破局に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した。その結果我々はたしかに近代市民社会の理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の良さは社会に圧倒的なな繁栄をもたらした。(中略)でも、そうなのだろうか?表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。』

僕には、著者のこの文章がいまだによく理解できないでいる。敵の兵力や当時の情勢を無視した無謀な作戦を立案し、実行しようとした関東軍の参謀たちを「効率の悪さ」(あるいはアジア的)という言葉で語り尽くせるのだろうか…。僕には、それが「アジア的」というより、あるいは「日本的」というより、人間の精神の根っこの部分に存在している「悪霊のようなもの」ではないかと思う。
「悪霊のようなもの」がやってくるところ。
今回、本書を読み直してみて、僕は、こんな風に思った。著者がノモンハン事件にわけもなく惹かれたのは、そこに、日本人の精神の深層に潜む「悪霊のようなもの」の存在を感じとったからではないか? 奥泉光の「東京自叙伝」の主人公であった「地霊」のように、「悪霊のようなもの」は、その時代の最も典型的な人物に取り憑き、人々や国家を破滅に導いていく。「悪霊のようなもの」が属する世界は、僕らの住む日常のすぐそばに存在しているが、普段は隔てられ、行き来することはできない。その世界は、著者自身の深層にも通底していて、何かの拍子に境界が破れ、奈落の入口がぽっかりと開く。著者がチョイバルサンで体験した、あの振動は、そこからやってきたのかもしれない。もしかしたら、ノモンハンに触れ、深く知り、さらにその場所を訪れたことが、著者の作家としての転機になったのかもしれない。彼は、戦うべき相手を見つけたのではないだろうか。

この本を読み終えて、僕の「あの戦争と昭和史を知る読書」は、ひと休みとする。色々とわかってきたこともあるし、新たな疑問も生まれてきた。日本軍の南方への侵攻も、マッカーサー以後の昭和史もちゃんと読みたいが、他に読みたい本も随分たまっている。

伊藤桂一「静かなノモンハン」

ノモンハンの夏」とは対照的に、兵士の一人一人に寄り添うように書かれたノモンハンである。著者自身が中国北部で4年9ヶ月の軍務に就いている。小説家で詩人。本書で1984年、芸術選奨文部大臣賞、吉川英治文学賞を受賞している。もう新刊では買えず、amazonの古書で購入。著者のサイン入りだった。冒頭の20ページほどでノモンハン事件の概要を語った後、三人の兵士による手記という形式で語られていく。

初めての戦闘が最も過酷な戦闘に。

最初の兵士は、満州チチハルに駐屯していた関東軍の鈴木上等兵。兵役のかたわら外国語学校で満語を学び、現地の家族と親しくなり、満人の娘と結婚しようなどと考え、のんびり過ごしていた彼は、事件の終盤ともいえる8月にノモンハンに派遣される。チチハルからハイラルまで汽車で行き、そこから前線基地である将軍廟まで216kmの距離を徒歩で行く。文字で記すと簡単だが、東京から浜松あたりまでを30kgの完全軍装で歩くのである。しかも砂漠と草原が入り混じる不毛の土地で昼間の気温は40度を超え、夜は15〜16度に下がる。1週間かかって、途中の採塩所にたどり着き、3日ほど幕舎で休息したのち、将軍廟へ移動。8月23日、将軍廟を出発した部隊は、交戦区域内に深く入り込んだところで大休止をとる。翌朝、戦闘に突入する。鈴木はここで初めて戦闘に参加し、半日戦ったところで、初めての対戦車戦を体験する。部隊は、例のサイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶で戦うが、味方は次々に倒れ、戦車のキャタピラに踏み潰されていく。その阿鼻叫喚の中、鈴木も戦車の機関銃弾を受け、重症を負う。彼の戦闘は半日で終わる。大量の出血で朦朧となり、部隊からはぐれながらも、何とか後方の包帯所にたどり着き、さらに後方の野戦病院に収容されて、ようやく一命を取りとめる。

850人の大隊が36人になった戦い。

2番目の兵士は、衛生兵の小野寺伍長。彼が須見部隊(歩兵第二十六連隊)の本部に到着したのは8月1日。ここで第一大隊への配属が決まるが、8月5日には彼が属する大隊は須見部隊を離れ、第23師団の小松原師団長直属となる。彼の大隊は日本軍陣地の最右翼に位置し、6kmほど先にハルハ河が望めた。ソ連軍は、ハルハ河を越え、河の東岸に布陣し、開戦の時を待っていた。8月7日、味方の連隊砲が前面に出て、敵の陣地に向けて試射の一発を放った。すると、向こうからは210発の重砲弾が飛んできた。それはこの戦闘を象徴する砲のの打ち合いであった。そして戦闘が始まると日本軍は言語に絶する苦戦を強いられたという。8月20日の早朝、朝霧に包まれた中、ソ連軍の総攻撃が始まった。航空機にによる爆撃に続き、重砲がこちらの陣地を徹底的に砲撃。直径4−5kmの地域が完全に弾幕に包まれていたという。その砲撃が止むと、戦車がやってくる。この時期になると、火炎瓶攻撃の効かないディーゼルエンジンを搭載した戦車が投入されるようになっていた。前線のあらゆる場所で日本の部隊が圧倒的な敵の兵力に包囲されつつあった。大隊の中で、第三中隊が、何重にも包囲され、孤立していた。衛生兵がいない、この中隊のために、大隊の軍医は、小野寺に第三中隊の負傷者救援を指示した。彼は、包囲網を隙間を使って、第三中隊の陣地に潜り込む。しかし、すでに中隊は全滅寸前の状態にあり、中隊長は「せっかく来てくれたが、これから本部へ引き返してくれんか。第三中隊はただいま総攻撃を敢行して玉砕した、と、大隊長に伝えてほしい。」と言った。小野寺は反論するが中隊長は「これは命令だ。守ってもらわねばならぬ。それに誰が情報を伝えねば、大隊長への任務が果たせぬ。」と小野寺をさとす。彼は、意を決し、戦車と機関銃にびっしりと包囲された陣地から、決死の脱出を試みる。砲弾穴をたどって、何とか大隊本部にたどりつき大隊長に報告をすると、生田大隊長は「中隊長を見捨てておけぬ。これから第三中隊を救援に行く。」と叫ぶように言い、大隊は、移動を開始する。大隊は夜に紛れ、第三中隊が玉砕した陣地に進撃、何度も突撃を繰り返して敵を後退させることに成功した。しかし夜が明けると。敵は、大隊を殲滅すべく大攻勢をかけてくるのは目に見えている。大隊は、攻撃を中止し、負傷者を収容しながら、731高地まで撤退する。しかし、そこも安全ではない。夜明けとともにソ連軍の総攻撃が始まった。

死者の小指を持ち歩く。

ちょうど、その頃、誰が言い出したか、戦死者の小指を切り取り、認識票とともに持ち歩こう、という申し合わせができていたという。小指を持った死者が出ると、今度は、その者の小指を切り取り、彼が持っている小指も持っていく。最後には生き残った誰かがチチハルの原隊に届けてくれる。それでみんな安心して死ねるはずだ。しかし731高地に閉じ込められ、戦況が急速に悪化し、戦死者が驚くべき速度で増えていくと、死者の小指を切り取るのはもちろん、認識票を預かることさえ不可能になる事態が生じてきたという。どっちみち、みんな死んでいくのだから、小指を分け合って持っていて何になる、という虚無的で絶望的な考え方がみんなを支配するようになった。誰が言うともなく、この約束をとりやめようという話になった。敵の包囲網がさらに狭まり、敵の先端との距離が50mを切るようになった時、大隊長は、隊を挙げての突撃を敢行する。鬼気迫る攻撃に、敵は退散。敵の陣地に残された水や食料を奪って、引き上げてきては飢えと渇きを癒し、体力を回復して、再び、突撃を敢行。3回の突撃を繰り返し、敵の包囲網はかなり後退した。100人ほど残っていた隊員は、この時点で50名ほどになっていた。全員が死ぬまで、突撃を繰り返すつもりであったが、8月29日、山県部隊から引き上げ命令を持った伝令がやってきた。命令は、「生田大隊は山県部隊の位置に集結し、負傷者を野戦病院に後送する。後方の将軍廟には増援部隊が待機しているので、これと連絡して戦闘任務を交代する。」というもので、小野寺たちは、これで、この蟻地獄のような凹地が出られると安堵する。撤退は夜間に行われたが、たび重なる突撃のせいで、敵は後退しており、戦闘を避けることができた。山県部隊と合流した大隊は担架に負傷者を乗せて千人ほどの集団で将軍廟へ向かう。

撤退部隊を悲劇が襲う。

ここで彼らを最後の悲劇が襲う。進行方向から7台の輸送トラックが走ってきた。最初は味方かと思ったが、近づいてくるとソ連軍のトラックと判明。こちらはもう戦闘部隊ではないので、そのまま見過ごしてしまってもよかったのかもしれないが、まだ元気な兵隊が、トラックに飛びつき、攻撃を始めた。砂にタイヤを取られて速く動けないトラック6台を奪取し、食料、弾薬、酒類を入手した。しかし、1台のトラックが逃げのびていた。しばらく進んだ時、ハルハ河のほうから約50台のソ連戦車が攻撃してきた。逃げのびたトラックの通報により、急きょ、戦車隊による追撃が始まったのである。身を隠す陣地や塹壕もない平原で、戦闘力をほとんど持たない撤退部隊への殺戮が始まった。戦車砲を撃ち、機銃を浴びせ、砂上に投げ出された負傷者はキャタピラで踏み潰していった。最初は手榴弾などで対戦車戦を戦っていた者も、つぎつぎに死んでいき、抵抗する者はいなくなった。戦車は、その後も戦場を走り回り、動く影を見つけると機関銃を浴びせてきた。日本兵は、隠れて、戦車が立ち去るのを待つしかなかった。夜中に戦車が立ち去った後、隠れていたところから現れた兵は、300人ほどに減っていた。小野寺の部隊も36人になっていた。将軍廟に着いたのは、次の日の朝になっていた。しかし、そこには連絡のための数名の兵士しかおらず、部隊は「引き上げ部隊は速やかに後方の野戦病院へ移動せよ」という示達を受けただけであった。

速射砲小隊の戦い。

3人目は速射砲小隊を指揮する鳥居少尉。速射砲とは、37ミリの徹甲弾榴弾を1分間に16発撃つことができて、対戦車戦では最も有効な武器とされる。速射砲隊は2個の小隊からなる速射砲中隊を形成し、歩兵大隊に属していた。大隊は、戦車を主力とする安岡支隊に編入され、6月10日に、チチハルを出発した。6月29日にはチチハルの西方340kmにあるハンダガイで戦車隊と合流した。戦車隊は29日の朝、ハンダガイを出発して前線に向かった。鳥居少尉所属する大隊は、輸送するトラックを待って戦車隊の後を追いかけ、7月1日の午後に目的地であるバルシャガル高地の北方に到着した。しかし、そこに戦車隊の姿はなく、戦車の残骸が点々と残されていた。一緒に戦うべき戦車部隊が、合流する前に消滅してしまった。大隊は、草原をさらに西に進み、ハルハ河の近くまで行く。そこで転覆しているソ連のトラックを発見し、これを修理して将軍廟の師団司令部に向かわせ、安岡支隊の情報を得ようとした。将軍廟に行っても支隊の情報は得られず、5日早朝、大隊は、ハルハ河に沿って南下する。しかし、そこはハルハ河を渡ってきた敵の兵力が、相当数布陣していて、たちまち戦闘が始まる。ソ連側の砲撃の後、10輌の戦車が進んできた。ただちに速射砲中隊は砲撃を開始し、先頭を進んできた6輌をつぎつぎに撃破。後ろにいた4輌は、方向転換をして戻って行った。戦車が戻っていった後、今度は正確に標的を絞った砲撃が始まり、かなりの死傷者が出る。大隊は戦闘地点より東に 少し下がった小丘陵を利用して陣地を築く。陣地を設営中にソ連兵の斥候隊を発見。大隊長に報告し、急襲すれば撃滅できると進言するが、受け入れられず大隊長は撤退を決定。すぐに移動となる。しかし重い砲を引いて移動しなければならない速射砲隊は、移動に手間取り、大隊とはぐれてしまう。ソ連の斥候隊は、前進を続け、速射砲隊は、発見されそうになる。やむなくソ連の斥候隊に対して、軍刀と帯刀だけで急襲し、全滅させる。斥候隊の異変に気づいたソ連の中隊が攻撃してくると予測し、砲を分解して草原に埋め、戦闘に備えた。速射砲隊員は小銃を持っていないため、手榴弾と刀で戦うしかない。壕に潜み、敵の前進を待ち伏せる…。しかし、いつまでたっても敵は現れず、夜明けになっても周囲に人影は見えなかった。つまり敵は、後退していたのである。埋めていた4門の砲を組み上げ、引きながら、大隊を探して移動を続ける。次の日に、ようやく斥候が大隊と接触し、合流することができた。

携帯口糧を勝手に食ってはならん。

斥候からの報告を聞いていた大隊長は、鳥居少尉に対して「携帯口糧をみな食ってしまったそうだな」と咎め、「無断で携帯口糧を食った場合は処罰だ。補給がいつ来るかもわからぬ状態だ。お前たちに支給してやる余分な食糧はない」と言う。鳥居は、大隊長の言葉に納得できず、「速射4門を置き去りにして、しかも何の連絡もいただけなかったのは、少しひどいのではないでしょうか。連絡さえいたいだいていれば、みだりに携帯口糧を食したりしません。」と反論。玉砕を覚悟して戦うつもりだったので食糧を持っていてもしかたがなかったという事情を説明する。大隊長は「独立隊長の許可なくして携帯口糧を食ってはならぬ、という規定がある。」と反論。鳥居は、それでも食い下がり、「わかっております。しかし、あの場合、自分は速射の独立隊長だったと思います。」と主張。これで携帯口糧を食べてしまったことはお咎めなしとなり、食糧も分けてもらうことができたという。

激戦地、ノロ高地。

7月14日、大隊はホルステン河を渡った南のノロ高地の一角に布陣する。戦況は目に見えて厳しさを増し、連日のようにソ連軍の激しい攻撃を受ける。空襲の後、重砲陣地からの猛烈な砲撃にさらされ、それが終わると戦車と歩兵が攻撃してくる。ソ連の兵力は日を追うごとに増強され、攻撃の激しさは増していく。武器や兵員の増強のない日本軍は、日に日に消耗していく。8月、ソ連は勝利に向けて、大規模な総攻撃を開始する。速射砲隊も残り少ない砲弾を撃ち尽くしたら、あとは手榴弾を持って戦うしかないと覚悟をする。激しい戦闘の最中に、部隊長と対立した鳥居少尉は、第三大隊への移動を命じられる。移動の翌日、知り合いのいる第一大隊の陣地をたずねる。そこで故郷の幼なじみの平本と偶然出会い、再会の喜びを分かち合った。

幼なじみの死。

戦況はさらに悪化し、陣地を2000mほど、後退させることになった。速射砲隊は先に移動を済ませ、集合地点で休憩をしていた。鳥居は草原の斜面に寝っ転がり、撤退してくる第一大隊の隊列を見ていた。夜は砲撃もなく、撤退は無事に終わると思われた。その時、しゅるしゅるという迫撃砲弾特有の音が聞こえてきた。鳥居はとっさに「伏せろ」と部下に叫んだ。しかし砲弾は、頭上を飛び越え第一大隊の真ん中に落ちた。砲弾は列の中にいた平本の身体を直撃し、炸裂した。周りの兵士は案外軽傷で、死者は平本だけだった。鳥居は駆け寄って、バラバラになった平本の遺体を拾い集め、自分が休憩していた草原の一画に仮埋葬し、目印に平本の背嚢を置いた。

ソ連兵との触れ合い。

陣地の後退の後もソ連の攻勢は続き、鳥居たちはいよいよ最後の時を覚悟した。9月15日の午前零時に「一切の敵対行動をやめよ」という司令部からの指示があり、17日の朝、全面停戦の示達が届く。鳥居は第二十八連隊の遺体収容班長を命じられて、陣地に残る。遺体収容の期間は1週間。トラック1台を支給され、遺体や遺品を確認しながら、次々に積み込んでいく。これほど狭い地域に、これほど多くの遺体が散らばっているの戦場はめったにないだろうと思われた。ソ連側も同じように遺体収容を行っている。そんなある日、ノロ高地の一画で休憩を取っていると、ソ連側の将校が兵隊を一人連れて近づいてきた。そして敬礼をして、何か話しかけてくる。言葉はわからないが、敬礼を返し、相手に返事をするような格好で、「貴様ら、なれなれしく口を利くな。勝ったつもりでいるのか?笑わせるな、もう一度、戦車をつぶされたいのか」と罵倒の言葉を浴びせた。相手は鳥居が好意的に話しかけたと勘違いしたのか、さらに近づいてきて、ポケットからタバコを取り出し、箱ごとくれようとした。仕方なく、礼を言ってタバコをもらい、1本火を点け、助手の曹長にも勧めた。ソ連製のタバコは味のよいものではなかった。その時、この戦いは、別に、彼らのせいで起きたのではない、彼らだって苦しい戦いを耐え忍んできたのだろう、と思い、発作ののような憤りの気持ちが溶けてゆくのを覚えた。鳥居は笑顔を見せて、「うまいタバコだ」という動作をすると、相手はさらに喜び、ポケットから手帳を取り出し、二人の子供が写っている写真を見せた。鳥居は写真をほめてやりながら、「そうか、この戦場での戦いは終わったのだ」とようやく気持ちが落ち着いてきたという。遺体収容を続けている間も、まだ戦っている気持ちの高ぶりが続いていたが、この邂逅で、それが鎮まったのだ、という。この場面、本書の中でいちばんほっとするところ。何の憎しみも恨みもない者どうしが殺し合いに駆りたてられるという戦争の魔法が一瞬で解ける瞬間が美しい。

背嚢が呼ぶ。

その後、作業の途中で休憩していると、どこからかパタパタという音が聞こえてきた。音のほうを見ると足元からほんの1メートル先に背嚢があって、その蓋が風がないのにめくれるのだ。あたかも少尉に呼びかけるように背嚢の蓋がパタパタとめくれる。突然、電気に打たれたような衝撃を受けた。(平本だ、そうだ平本だ、平本の背嚢だ)と初めて気づいた。その場所が平本を仮埋葬した場所であることを鳥居は忘れていたという。あまりに考えることが多すぎて、つい忘れてしまったのだという。背嚢を調べてみると平本の注記が見えた。「そうか、平本、おれが気づかんので呼んだのか」と声に出して呼びかけていた。「よしよし、おれが掘り出して、おれの手で焼いてやる。安心せよ。ほったらかしにしてすまなんだなあ。ゆるしてくれよ。」鳥居は伍長に円匙(シャベルのような道具)を借りにいかせ、自分の手で平本の遺体を掘り起こしてやった。この場面、鳥肌が立った。本書全体のクライマックスでもある。巻末の司馬遼太郎との対談の中で、著者は、生死の交錯する戦場では不思議な出来事が少なくなかったという。

勇敢に戦って死んでいった日本兵

 それにしても本書で描かれた日本兵たちは、なんと勇敢に、懸命に戦い、死んでいったのだろう。弾薬や食料、水の補給もなく、増援も期待できないまま、圧倒的な兵力の敵を前にした時、その運命を受け入れ、死を覚悟して、戦闘に飛び込んでいく。その姿に戦慄し、感動している自分がいる。しかし、この感動は本物だろうか?弾薬も尽きた部隊の隊長が、軍刀を掲げて「天皇陛下万歳」と叫び、最後の突撃を 敢行する。そんな場面を、これまで僕らは何の抵抗もなく受け入れてきたのではないか?「玉砕」という美しい響きを持つ言葉に騙されていないか? 部隊の7割が戦死という無謀な作戦を立て、それを命令し、兵士たちを戦場に送り出した人間が間違いなくいたのだ。兵士たちを殺したのはソ連兵ではなく、はるか後方で作戦を立てていた者たちだ。著者は、彼らについてほとんど語らない。ひたすら戦場の兵士に寄り添って、彼らの戦いを克明に描いていく。そこに、祈るような著者の視線だけがある。