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村上龍「オールド・テロリスト」

著者の作品を読むのは、2005年の「半島を出よ」以来。80年代、90年代、二人の「ムラカミ」の作品を並行して読んでいた。その頃は、どちらかというとリュウのほうに共感していたと思う。しかし、今世紀に入った頃からは、ハルキばかり読むようになってきた。リュウの作品の特色は、時代の空気、社会現象、事件にいち早く着目し、作品の中に取り込んでいくこと。そして性と暴力、さらにある種のパワーを描くことで、この世界に揺さぶりをかけていくことだろうか。暴力を描くせいか、ある時期から、彼の作品に「強者側の視点」とでもいえるようなものを感じるようなって、しだいに敬遠するようになった。それに対してハルキは、時代の空気やトレンドから自分の作品を隔離し、ハルキワールドとも言える閉じられた宇宙の中で独自の物語世界を創りあげていった。それが阪神大震災オウム事件のあたりから、事件や社会現象に目を向け、積極的に関わっていくようになってきた。その辺りから僕の中でリュウとハルキの位置付けが逆転していったような気がする。

本書の発行日、新幹線で老人による放火事件が発生。

本書の発行日である6月30日、東海道新幹線の車両で杉並区在住の71歳の男性がガソリンを浴びて焼身自殺する事件が発生。こわいような偶然だ。著者には、時代の伏流を嗅ぎ分ける独特の嗅覚があり、やがて起きる事件を予言するような作品をいくつか書いている。本書の老人テロリストたちと新幹線の事件の犯人は、動機も犯行の内容もまったく違っていて、何のつながりも無いが、不思議なシンクロニシティーを感じてしまう。

希望の国エクソダス」のジャーナリスト、セキグチ。

主人公は「希望の国エクソダス」のジャーナリスト、セキグチ。その後、彼が記事を書いていた大手出版社の週刊誌は廃刊になり、彼は仕事を失い、落ちぶれていた。外資系証券会社に勤める妻は、彼を見捨て、娘を連れてシアトルに移住している。この50代の主人公の落ちぶれ方が、妙にリアルで、独居中高年が味わう孤独と貧困が身につまされる。大衆食堂や激安居酒屋の食べ歩き、風俗店や風俗嬢の紹介、中小企業のホームページの社史や製品紹介など、どんな仕事も引き受けるフリーライターとしての月収は平均12万円〜15万円。住んでいたマンションを追い出され、公園の野宿をした後、現在は大久保の木賃宿のようなアパートに住んでいる。彼の存在感に較べると、登場するオールド・テロリストたちや謎の和風美人カツラギは、一昔前のコンピュータグラフィックスで描かれた人物のようにリアリティがない。

標的はNHK、自転車、映画館、そして。

主人公セキグチは、かつての上司からルポの仕事を依頼される。NHKを狙ったテロの予告電話があり、犯人らしき人物は、その取材を主人公にしてほしいと言ってきている。セキグチは、半信半疑ながら、ルポを引き受け、当日、NHKに出かけていく。当日、NHKの報道局の職員を呼び出し、偽の取材をしている最中に、本当にテロが発生。12人が焼死し、 100人以上が重軽傷を負った。容疑者も焼死。ガソリンなどよりもはるかに燃焼力の強い可燃物が使用されたという。セキグチはルポを書き、Webマガジンに掲載される。現場に居合わせた彼のルポは、反響を呼び、その結果、期契約社員としてかつての職場に復帰することができた。テロを予告してきた人物はセキグチと大久保の将棋クラブで知り合ったと語っていたことから、大久保の将棋クラブへの調査を始める。事件から6日後、自分たちが犯人グループであると言う3人の若者が自殺する。その犯行声明が隷書体という珍しい書体で手書きされていた。犯人の一人が駒込の書道教室に通っていたことが判明し、セキグチは、その書道教室の調査を始める。そこで不思議な老人たちのグループとカツラギという若い奇妙な女性と知り合う。そして何者かが、セキグチの上着のポケットに、次のテロの日時を予告したメモを忍ばせた…。

老人テロのリアリティ。

これ以上書くのはネタばれになるので書かないが、テロは続いていき、オールド・テロリストたちの真の計画が明らかになってくる。しかし老人たちがテロに走る動機にいまひとつ説得力が無いため、リアリティが感じられないのである。著者の小説は、荒唐無稽なストーリーを、現代の日本の中に、違和感なくどう組み込んでいくかという点が「読みどころ」であると思うが、本書では、それがうまく行ってない。それに比べると主人公の落ちぶれぶり、駄目ぶりの描写のほうが生々しくて、いかにも「ありそう」な感じ。こちらのほうが読み応えがあるのだ。例えば主人公が、東日本大震災の後、惨めさと不安を紛らわせようと、安酒を大量に飲み、昔の歌謡曲やポップスを大音量で聴き続ける。その曲が荒井由美の「あの日にかえりたい」で、その次が中島みゆきの「わかれうた」で、その次が石川セリの「八月の濡れた砂」。最後はザ・ピーナッツの「恋のバカンス」。「iTuneで百五十円で購入したが、一千回以上聴いたので元は充分に取った」と語っているのがセコくて笑える。しかし、この選曲、僕には、とてもリアリティがあるのだ。少し前からザ・ピーナッツの「恋のバカンス」、石川セリの「八月の濡れた砂」も、iTuneで購入してよく聴くし、この2曲が入ったプレイリストも作っている。著者は1952年生まれで、僕とは2つ違いだが、同じ時代を生きてきたリアリティがあるのだ。それに比べると、ほとんどが80歳以上というオールドテロリストたちに、リアリティが感じられない。「満州国に関わり、現在も政治的な影響力を保っている老人たち」という設定が、いかにも安っぽい謀略ドラマのようで、現実感に乏しいのだ。本書を書くにあたり、著者は様々な人や集団に取材を行っていると思う。「カンブリア宮殿」で知り合った企業のトップたちの中にもモデルとなった人物がいるのかもしれないが…。また本書に登場する「アハトアハト」という武器にも、リアリティが感じられなかった。

「老後破産」の世代を主人公にすれば、リアリティはあったのかもしれない。

最初に書店で本書を見つけた時、帯の文章とかを読んで、一度は「買う必要なし」と判断した。しかし「老後破産」を読んで、新幹線の焼身自殺という事件とのシンクロニシティを感じて、購入。「老人」と「テロ」という組み合わせには、「今」がある。著者は、無意識のうちに時代と共振できる、稀有な感受性を持っているのだ。きっと「孤独/貧困/病気」に苦しむ独居老人たちが主人公であれば、本当に凄い小説になったのにな、と、ちょっと残念に思った。

追記:セキグチは日本そのもの?

本書を読み終えて2〜3日経って、上に書いた自分の感想が、少し違うんじゃないかな、と思い始めた。その理由は、主人公セキグチの存在。著者は、なぜ、こんなダメオヤジのディテールを執拗なまでに描こうとしたのだろう。仕事を失い、家族からも見捨てられ、木賃宿のような大久保のアパートに独りで、淋しく暮らす中年オヤジ。安酒を大量に飲み、古い歌謡曲やポップスを繰り返し聴くしか能がない負け犬。ひょっとしたら、著者は、セキグチを、現在の日本と日本人のシンボルとして描きたかったのではないか。バブルの崩壊以降、経済成長が止 まり、敗北と撤退を余儀無くされている日本経済。リーマンショック、3.11以降、状況はさらに悪化。いまやすっかり自信をなくし、進むべき方向も見出せ ずにいる日本と日本人。彼を見捨ててシアトルに移住する外資系証券会社に勤務する妻は、低迷する日本を見限って、海外に移住する金融エリートたちのシンボルではないか…。セキグチの生活は、都会に暮らす貧しい独居老人そのものであり、リストラ等で仕事を失った非正規雇用の労働者の現実でもある。セキグチは老人テロリストの取材を続けるうちに、彼らの主張に共感を覚えるようになっていく。これも、昨今の右傾化に共感する人々やネトウヨの急増を象徴しているのではないか?しかしセキグチは、共感を覚え始めた老人テロリストたちに、テロの現場に同行することを求められると、恐怖のあまり、精神安定剤と酒を飲みすぎて泥酔したあげく気絶しまう。さらに実際のテロの実行の時には、恐怖のあまり、失禁してしまうという醜態を晒す。これも平和ボケで、すっかりヤワになってしまった日本と日本人を表現しているのではないか。終盤、セキグチは、老人たちから、彼らのテロの実態をジャーナリストとして書くことを求められ、尻込みして、右往左往する。あげくの果ては、そのプレッシャーに耐えられず、老人たちを裏切り、官邸に密告してしまう。ダメな負け犬であろうと、平和ボケの臆病者であろうと、弱者には、弱者の戦い方がある。著者は、そう主張したいかのようだ。