渡邊恵太「融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論」

駅で偶然会ったデザイナー、M君のオススメ。今年の春にすでに購入ずみだったが、買ったことをすっかり忘れていた。本書のテーマは「インターフェイス・デザイン」。2年ほど前にスマホのアプリのUIをデザインする仕事に関わっていて、「フラットデザイン」「メタファ」の問題で大いに苦労した経験がある。その時に、本書があれば、かなり明快な方向性でデザインを進めることができたのに、と思った。ただ、文章が、ちょっとまどろっこしくて、ところどころ意味のつながりが読み取りづらい部分もある。そこを考慮しても、本書は、今後のデザインやユーザーインターフェイスを考える上での重要な指針となる一冊であることは間違いない。特に6章と7章は、デザインの概念を再定義してしまうほどカゲキな論考を展開する。「デザインをデザイナー任せておくには重要すぎる」「プログラミングをプログラマーに任せておくには重要すぎる」という主張も展開。本書によると今後数年でメディアの世界は想像もつかないほど激変するという。これからデザイナーをめざす人にも、デザイナーになるのを迷っている人にも必読の書。先日、デザイナーをめざす親戚の悩める高校生に、本書と「子どもを億万長者にしたければプログラミングの基礎を教えなさい」を進呈した。

メタファの問題。

初期のコンピュータは、キーボードの付いたテレビだった。ディスプレイがあり、キーボードがあり、マウスがある。それらのデバイスを駆使して、画面のカーソルを動かし、情報を入力する。そのためにはだれもが知っているわかりやすいメタファ(見立て)が必要だった。ディスプレイに表示される情報は、紙の書類であったり、ゴミ箱だったり、ペンだったり、タイプライターなどのメタファで表現された。コンピュータは何でにも見立てることができるメタメディアなので、その普及のためには、わかりやすいメタファを必要とした。しかし、コンピュータが進化し、タブレットスマートフォンに展開し、さらにIoTなどに発展していくと、従来のようなメタファが通用しなくなるという。

「経験」という軸。3つのレイヤ。

ハード、ソフト、ネットワークが融け合う時代のユーザーインターフェイスには、メタファに代わる軸が必要であると著者は主張する。それが「経験」である。著者は、さらに「経験」を「現象レイヤ」「文化レイヤ」「社会レイヤ」の3層に分ける。「現象レイヤ」は、素朴に人間の振る舞いを捉えていく視点で、認知心理学知覚心理学、現象論等の領域に関わるもの。また「文化レイヤ」は、人々の民族性や集団の観点から、その行動様式を捉えていく視点であり、個々人のライフスタイルの文脈から、コンピュータの利用価値を探る視点。「社会レイヤ」は、社会的価値からコンピュータの有用性を判断したり、経済的価値からの設計視点であるという。本書では、「現象レイヤ」「文化レイヤ」の視点による設計論を展開するという。

UIの「モッサリ感」は現象レイヤから。

「現象レイヤ」は直接、売れるファクターにはならないが、現象レイヤの設計がよくないと「モッサリ感」につながり、「使うのをやめる理由」「次回は買わない理由」になってしまうという。現象レイヤの設計がうまくできていると「触っているだけで気持ちがよい」というような感覚を提供できるという。著者は、人間の認知や心理から「現象レイヤ」を捉えたインターフェイスの書籍が、概ね古くて、iPhoneのマルチタッチインターフェイスや、任天堂Wiiや、MicrosoftKinectのような身体性のあるインターフェイス/インタラクションを説明するモデルは、従来のデスクトップコンピュータと人間の認知モデルでは説明が難しく、ましてユビキタスコンピューティングやIoTのような世界では、まったく新しいモデルが必要になってくるという。

インターフェイスを再定義する。

第2章で、著者は経験を軸にしたインターフェイスデザインの理論を構築するために、「インターフェイスとは何か」という問いかけから出発する。そこで重要なテーマとなるのが「透明性」である。「透明性」とは、例えばハンマーのように、それを持てば「釘を打つ」ことに集中できる、原因と結果が直接結びつくような理想的な関係を表すもので、「道具の透明性」という。ハンマーやスコップのように手に持って使う道具ではなく、コンピューターのように、操作の結果がディスプレイに表示される場合の「透明性」は、どのように作り出せばいいのか?著者によると、個人のデザイン事務所のほうがたまに良いものを出してくるという。その理由は、個人による設計作業の中で調整した結果、良いものに収束していくことがあるからだという。しかし、開発が大規模になるほど、きちんと言語化したり、ツール化しておく必要があるという。著者は、人間の身体と道具に加え、環境という要素を加え、環境の透明性についても考察する。環境、道具の透明性が実現すると、コンピュータの存在が消え、ユーザーの行為とその結果だけが残る。このような状態を著者は、2000年ごろに流行した「ユビキタスコンピューティング」という言葉で表す。さらに人間が置かれた環境の中に、行為を可能にする要因があるとする「アフォーダンス」の考え方にも注目する。

カーソルの触感。

第3章では、透明性をコンピュータのカーソルを題材に考察する。コンピュータの画面に表示されるカーソルは、直接身体とつながっているわけではない。マウスのようなデバイスを通してカーソルを動かす時に、人は透明性を感じるのか?著者は、コンピュータを操作する感覚を「サクサク感」「モッサリ感」「ひっかかる』というような触感で表すことに注目する。デジタルの世界に物理的な触感は存在しない。著者は、マウスの操作に反応するカーソルに様々な変化を加えることで、触感を感じさせることができるVisual Hapticsというインターフェイスを開発。ザラザラ、ベタベタといった触感、球形、奥行きなどの立体感など、多様でリッチな触感を表現することに成功する。

カーソルは身体の延長になるか。

カーソルの透明性を検証するために、画面上に多くのダミーカーソルを配しランダムに動くようにし、その中から本物のカーソルを見つける実験ソフトを開発。操作した人間は、すぐに本物のカーソルを発見する。著者は、この実験から、自分の手の動きとカーソルの動きが連動する「自己帰属感」こそが、カーソルが身体の延長になる条件であることを確信する。

iPhoneGUIは、なぜ気持ちよいか?

 iPhone以前にもタッチパネルによるGUIを用いた端末は存在した。しかしiPhoneの登場以後、スマートホンの操作は、ほとんどすべてがタッチパネルの中で完結するようになった。iPhone以前のタッチパネルの操作は、感触がなく、使いにくいものだった。これに対して、iPhoneは、操作に対する応答速度が圧倒的に速く、マルチタッチを行っても指への追従性が高い。ソフトウェアキーボードも、触感はないが、視覚的なフィードバックや反応領域のしきい値がうまく調整されている。iPhoneは、これらの特性を、ほぼGUIの設計だけで実現しているという。iPhone以降、競合メーカーがiPhoneGUIを真似する流れが起きたが、著者に言わせると「何を真似するか」が間違っていたという。他社が真似すべき点は、ずばり「自己帰属性の高いインターフェイス」だったという。だからiPhone は身体の延長ともいえる存在になり、操作は透明になり、情報に直接触れているかのような感触が得られるのだという。他社がiPhoneの真似をするのは、ほぼ美観、ジェスチャー、アニメーションの3点だという。この中でジェスチャーとアニメーションは、自己帰属性の視点がなければ、操作の透明性に貢献することはないという。著者は、このようなGUIの進化を「情報の身体化」と呼んでいる。

情報の道具化。インターネットがほんとうに面白くなるのは、Webブラウザを中心としないネットになってからだ。

第4章は、これからのインターネットの進化を見据えたインターフェイスデザインの話。これまでのインターネットは、Webブラウザを通して利用することが多かった。それは、サーバーに蓄積された情報にアクセスし、閲覧するという、本や書類を探したり、読んだりする時代の情報の接し方をモデルにした利用法である。しかし、スマホタブレット型PCの普及により、ブラウザを使わないことが増えている。ブラウザという、何でも情報検索閲覧サービスよりも、レシピアプリや地図アプリを立ち上げて欲しい情報を直接利用するほうがてっとり早い。「ブラウザからアプリへ」という流れがもう始まっているのだ。しかもtwitterなど、これまでに無かった概念のサービスが始まっている。今後は、twitterのように今まで無かったサービスが次々に現れてくるだろうと著者はいう。さらに、これからは、PCや家電ではない製品がインターネットにつながってくる。つまり今後は「コンピュータのインターフェイス」ではなく、「インターネットのインターフェイス」を考える時代になっていくという。著者は、インターネットがほんとうに面白くなるのは、Webブラウザを中心としないネットになってからだという。

ググるは易く、行うは難し。

Web上には、様々な、そして膨大な情報が蓄積されている。人間は、スマホタブレット端末、PCなどを利用して、しかも常時接続の無線ネットワークを通じて、求める情報をいつでも、どこでも簡単に探し出して手に入れることができる。しかし情報は、情報でしかなく、それを人間が利用して行動しなければ結果は得られない。どんなに美味しい料理のレシピがあっても、その料理を誰かが調理して作らなければ食べることはできない。今後、インターネットの情報と実体が直接つながるようなサービスが次々に始まるだろうと著者は予測する。そんな情報が実体化するインターフェイスの実験として「Smoon」「Integlass」「Length Printer」という製品モデルを試作する。「Smoon」はレシピなどの情報に基づいて容量が変化し、最適量の材料を計量できる計量スプーン。「Integlass」はスマートフォンを計量カップに取り付けることで計量カップの目盛代わりになるしくみ。「Length Printer」は実際の長さを、貼って剥がせるテープとして出力し、実際の空間において家具や家電が収まるかどうかを調べるもの。あらゆるものがインターネットにつながっていくIoT(Internet of Things)の時代。アウトプットだけでなくセンシングも、多様になっていく。著者はその一例として、自動車のワイパーの作動情報を集めてビッグデータとして処理し、局地的な降雨情報として利用するサービスなどを紹介している。

情報の環境化。

第5章では、スマホタブレット端末の登場によって、情報を利用する文脈が大きく変化しつつある状況が語られる。デスクトップパソコンまでは、パソコンは移動せず、ユーザーがパソコンの前に座って集中的に使うことが前提だった。しかしスマートフォンタブレットの登場により、情報の利用は「生活の文脈」の中で「いつどこでどのように使うか」が重要になってくる。たとえばカーナビやスマホ向けの地図サービスは、「移動している私」という文脈の中で利用される。従来なら、パソコンという枠組みの中で起こる事象についての設計でよかったものが、人の生活や行動の中でどう機能し、どういう意味や価値をもたらすのか、という設計に変わってくるという。著者は、まず、動き続ける人間を前提としながら膨大なコンテンツとの接点をどう作るかというテーマを設定する。さらにコンテンツの持つ時間性に注目し、Cast Ovenというシステムを考案する。Cast Ovenは、電子レンジの温め(調理)時間を利用してWeb上にある動画コンテンツ(YouTube)を閲覧可能にするシステムである。ユーザーが温め時間を設定して、調理を開始すると、その時間の長さに合わせた動画が電子レンジの前面のディスプレイで再生される。温め時間と動画の再生時間はぴったり同じであることが重要で、温めが終われば、動画も終了する。これによってユーザーは、生活の流れを止めずにコンテンツを利用できるという。生活の中には、様々な「待ち時間」が生まれる。電車の乗り換えの待ち時間。電車で移動している時間も「待ち時間」である。その時間にぴったり合ったコンテンツを提供することで人と情報の接点を増やせないかという実験である。従来に無かったサービスでありながらTwitterがこれほど成功したのは、144文字以内の投稿という、ユーザーが時間の拘束にあまり縛られないサービスであったからではないかと著者は考察する。

 デザインはインターフェイスだった。

5章までも示唆に富む内容だったが、本書の本当の意義は、第6章と第7章にある。冒頭で、著者は「デザインとは何だろうか」という根本的な問いかけを行う。そして第2章で引用した深澤直人氏の「行為に即応するデザイン」の文章を再び引用する。その中の「インターフェイスという薄っぺらな流行語が蔓延する前からデザインはインターフェイスだった。」という文章は明快である。企業の経営陣が一時期、「デザインが重要だ」という認識を持ち、「かっこよさ」や「おしゃれさ」を求める意味でデザイナーを雇い、問題を解決しようとした時期があった。その結果、スタイリッシュな携帯電話が市場に出回り、あっという間に消費され過去のものになっている。もし、デザインが重要だということがインターフェイスの問題だと理解されていれば、雇うべきはデザイナーではなく、心理学者、文化人類学者、エンジニアなどであり、彼らを一つのチームとして問題解決にあたり、力強い価値の輪郭をデザインしていくことができたはずだという。デザインは一般には、芸術や感性に近い領域として考えられているが、著者にとって、デザインとは、どちらかというとサイエンスに近いものであるという。この世界の中で人間の知覚や行為が環境とどのように関わるかということを解明し、新しいデザインへ応用したいのだと、著者は主張する。そして、サイエンスとしてのデザインの軸となるのが心理学であるが、従来の心理学は人間の「心」という存在を中心に展開されてきた。デザインの指南書も、そのほとんどが心理や脳を根拠にしてデザイン論を展開しているという。著者は、心や脳に答を求めすぎているのではないかと問いかける。人と環境とのインタラクションに法則性を見い出し、デザインに応用していくことが、著者の考えるデザインサイエンスであるという。著者はさらにギブソンの生態心理学を参照しながら、デザインの再定義を試みる。この章の中で、著者は体験の「リアリティ」について新たな考察を行っている。2Dや3Dの映像におけるリアリティの発生を2章で考察した「自己帰属感」と「質感」で説明できるという考え方も面白い。また考察の過程で、「モノ」という概念に疑問を持ち、「モノ」とは「コトの持続」であると定義するに至ることもユニークだ。この辺りの論考は、ついていくのがやっとで、きちんと理解できていると言えない。しかし、本書の論考を進めていく内に、著者の中で、様々な領域の間の境界が消えていき、世界が「融けていく」過程が見えるような気がする。そして章の最後に「世界はひとつのOSである」と結論づける。

終章:融けゆくデザイン。

前章も過激だが、第7章は、さらにジャンプする。そして、ここで語られることが著者のビジョンである。著者の主張を短く要約するのは困難だ。簡単に言ってしまえば、あらゆるハード、ソフト、メディア、領域、方法の境界が消え、融けてゆく世界で、デザインはどう機能していくべきなのか、という考察である。かつてテレビは、ハードであり、メディアであり、コンテンツであった。しかし、今やテレビはアプリケーションのひとつに過ぎない。リビングの壁に掛けられたスクリーンはもうすぐテレビとは呼ばなくなるだろう。LINEやSkypeに拡散した電話機能が受話器のアイコンで表せなくなる日は遠くない。各段落の見出しを書き出してみると、著者の意図が読める。「情報と物質を分けないデザイン」「方法がデザインを分けていた時代の終焉」「方法に依存していたメディアの終焉」「メディア軸からインターフェイスへ」「ワンメディア、マルチインターフェイス」「メタメディアのデザイナーたち」「インターフェイス関係の学会はメタメディアの多様性を模索している」「何をやっても新しい?メタメディアのデザイン方法論」著者は最後の段落で、こう主張する。「乱暴な言い方をすれば、何をやっても新しいし、何でもやらなければならない。やらなければその可能性すらわからないのだ。」そして、このような「融ける時代---メタメディアの時代」に見合う強力なツールがある、と主張する。『それはプログラミングだ。プログラミングを通じて、アイデアは「話す」のでもなく「見せる」ものでもなく、「動かして体験として共有する」ことができるようになる』プログラミングは、もはやソフトウエアを開発するためのツールであるだけではなく、それ以上にアイデアを伝えるためのコミュニケーション手段なのだという。しかもプログラミングは、かつてほど難しいものではなくなっているし、目的に応じて様々な言語が選べる。プログラミングはプログラマーやエンジニアだけのものではないのだ、という。さらに著者は、デザイン思考の考案者でもあるティム・ブラウンの発言「デザインをデザイナー任せておくには重要すぎる」という言葉を引用して、さらに「プログラミングをプログラマーに任せておくには重要すぎる」と主張する。

カンブリア紀爆発のような時代が始まろうとしている。

著者によると、現在の状況は、生物の歴史でいうと、カンブリア紀の爆発のように多様な生物が爆発的に出現してくる時代に近いという。これからデザインの仕事に就こうとしている人間にとって、とても難しい時代になっていくだろう。その一方で、とてつもなく面白い時代になることも間違いなさそうだ。この歳になってプログラミングでも学んでみようか…。