斎藤 環「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」

「ヤンキー」が話題である。「マイルドヤンキー」とか言うらしい。とても気になるし、その議論に違和感を覚える。本書は2012年に出版された本だが、感想がうまく書けないでいた。現在の「ヤンキーブーム」のきっかけを作ったような本であり、再読してみた。著者は「戦闘美少女の精神分析」の著者。精神科医。「ひきこもり」に関する著書も多い。アニメやコミックに登場する「闘う美少女」たちを題材にオタクの心性を精神分析的な手法で考察した著書はベストセラーになった。著者自身、どちらかというとオタク的な志向を持った人である。
著者は、故ナンシー関のエッセイによって、芸能界を支配している美意識の大部分が「ヤンキー的」であることに気付かされたという。そこから著者は、芸能界に限らず、コミックやアニメ、映画、ファッションなど、様々な分野に、以外なほど浸透している「ヤンキー化」を検証していく。キャロルに始まり、横浜銀蝿、そしてBOΦWY、X、さらに氣志團へと続くヤンキー系バンドの流れ。そして2009年、天皇陛下の即位20年を祝う「国民祭典」で奉祝曲を両陛下の前で披露したEXILE。いまや国民的なイベントにはヤンキー的なヒーローが欠かせないという。さらにギャル系の浜崎あゆみ安室奈美恵、キムタクを筆頭とするジャニーズ系のタレントたちもヤンキー的美意識に支配されているという。著者は、キムタクや島田紳助を例に挙げ、「教養は無いが地アタマが良い」ということがヤンキー的ヒーローの特色であるという。
ヤンキーとは何か?
著者によると、アメリカ人を表すyankeeを語源とし、非行少年、不良、チンピラ、不良軍団などの意味で使用されていたが、現在では、そのバッドセンスな装いや美学、「気合い」「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とが、アマルガム的に融合したひとつの“文化”を指すことが多いという。ヤンキーを表すキーワードとして以下の言葉が列挙されている。「バッドセンス」「キャラとコミュニケーション」「アゲアゲのノリと気合い」「リアリズムとロマンティシズム」「角栄的リアリズム」「ポエムな美意識と女性性」などである。
白洲次郎坂本龍馬も、野口英世も。
著者は、さらに昭和のヒーロー、白洲次郎や幕末のヒーロー、坂本龍馬までもヤンキーであると断言する。この二人に共通するのは、本人による業績がはっきりせず、その生き方のかっこよさのみが注目されていて、しかもキャラ立ちしていることだという。あの野口英世もそうではないかと著者は推測する。
ヤンキーの女性性。
本書の中で重要なポイントが2つある。そのひとつがヤンキーが女性的あるという指摘。ヤンキーはとにかく関係性を大切にするという。上下関係はもちろん、異性との関係、そして家族のつながりを大切にするという。コワモテでツッパリという男性的なイメージとは正反対の女性性。これこそが、ヤンキーたちが愛される大きな理由のひとつであると著者は言う。
本質を持たないヤンキー文化。
著者が指摘する、もうひつのポイントは、ヤンキー現象が、本質を持たず、表面上の現象に留まっていることだ。著者は、変形学生服や特攻服などの進化を例に挙げながら、ヤンキー文化に、本質や起源、中心を求めることが難しいという。それは中心ではなく、周縁、深層ではなく、表層の変化に過ぎないという。リーゼントや特攻服、さらにYOSAKOIソーランに代表されるヤンキーファッションは、それ以前に存在したスタイルの(誇張)デフォルメに過ぎない。しかしひとたび、その誇張が人気を集めると、それは一つの様式として定着し、次なる誇張(逸脱)を生む。その永遠の繰り返しがヤンキー文化であると著者はいう。さらに著者は、古事記伊勢神宮までも持ち出して、さらに丸山眞男の言葉まで引用して「中心が空洞であるにも関わらず、勢いで「成ってゆく」のが日本文化の本質でもある」と結論づける。しかし著者は「ヤンキー=日本文化」という文化論に、本書を持って行きたくないともいう。別の箇所では、「平安時代にもヤンキーはいた」とも語っているのだが…。
橋下徹のヤンキーイズム
著者は、最後にヤンキー化の最も強力な現象として橋下徹を取り上げる。本書が書かれた時代、橋下徹と彼が率いる維新の会は飛ぶ鳥を落とす勢いだったのだ。著者は橋下の生い立ちやテレビに出演した時のキャラクター、そして討論における無双ぶりが、まさにヤンキーヒーローそのものであるという。彼は現在の社会や行政の問題点を巧みに見つけ出し、鋭く攻撃する。しかし、彼がどのような社会や理想を実現したいのかは未だに語られていないと指摘する。そして知識人たちが彼を「ハシズム」などと呼び、ヒステリックなまでに攻撃を加えるのは、彼の「ヤンキー性」に対する嫌悪から来ているのだと指摘する。
自分にはヤンキーを語る資格なし。
本書の前半部分を読み終えたあたりで、僕自身が本書 の読者としては失格であることにことに気づいた。著者が例に上げる音楽や、コミック、ドラマ、映画、ファッションのサンプルは、自分との接点がまったく無いのだ。本当に気持ち悪いぐらい、ヤンキー的なモノとは、ことごとくすれ違っている。キャロルからEXILEにいたるまでの音楽は自分で購入した ことがない。キムタクが出てきたら即チャンネルを変える。金八先生もほとんど見なかった。相田みつお、高橋歩義家弘介に至っては、ごく最近まで彼らが何者であるかすら知らなかった。目の前に、数多くのヤンキー現象存在するのに見ていない。見えていない。どこか生理的に受け付けないのかもしれない。しかし接点が無いからと言って、縁が無いとは言えないのだ、というのが著者の主張である。誰の心の中にもヤンキーが住んでいる、らしい。
本書は、出版当時かなり話題になったようで、その後のヤンキーブームともいえる一連の現象のきっかけとなっている。2014年3月には「ヤンキー化する日本」という対談集を出版している。
ヤンキー化する業界。
僕が属するクリエイティブ業界にもヤンキー的な部分が少なからずある。知り合いで成功しているクリエイターの中にもヤンキー的な人物が少なくない。この業界に入って、最初に違和感を感じたのは、その「ヤンキー=体育会系ムラ社会的な気風」に対してだった。重要なのは「勢い」であり、プレゼンは「気合い」で勝つ。リクツじゃなく、ビッグなアイデアを出す奴が偉い…。ずっと違和感を覚えながらも、この業界に30年以上もいると、いつの間にか「ヤンキー的な気質」が身についてしまっているとも感じる。