南直哉 為末大「禅とハードル」

ランニングについて多くの本が出版されているが、そのほとんどが入門本である。ランニングの効果や効用にはじまり、道具選び、練習方法、マラソン出場のノウハウなどが書かれている。これはこれで有用なのだが(すでに30冊以上購入)「人はなぜ走るのか」「ランニングとは何か」みたいなことについて書かれた本はほとんどない。その意味で、クリストファー・マクドゥーガル著「BORN TO RUN」

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は画期的な本だったのだが、その後、ランニングについて文化系視点で語られた本に出会えていない。文系ランニング本としては、村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」があるが、あくまでもエッセイの領域を出ておらず、ランニングについての徹底した考察というところまで行ってないと感じた。そんな時に出会ったのが、本書「禅とハードル」とマーク・ローランズの「哲学者が走る」だ。どちらもランニングの本としてはかなり異色の著作であるが、個人的には、とても面白く読めた。

禅僧とアスリートの出会い。

本書は、禅僧とアスリートの対話という形を取っている。著者の一人である為末大陸上競技の400mハードルの選手で、シドニーアテネ、北京と3度のオリンピックに出場。陸上競技の選手としてはめずらしく、実業団を離れ、プロの陸上選手になり、世界選手権に出場を続けていた。コーチにつかず、自分だけのやり方でトレーニングを続け、多くの成功を収めてきた。そのせいか、その思考回路も独特で、「スポーツとは何か」「走るとは何か」ということを、自分だけの視点と言葉で徹底して考え続けてきた人である。著者の本はけっこう面白くて「インベンストメントハードラー」「日本人の足を速くする」「走る哲学」等を読んだ。2012年に引退。もうひとりの著者である禅僧、南直哉のほうは著書を読んだことがない。現在は恐山菩提寺の院代。雑誌「考える人」の仏教特集で作家の高村薫との対談、宮崎哲弥著「仏教教理問答 連続対論 今、語るべき仏教」の対談は読んだことがあり、面白い人だなと思っていた。本書の構成は、第1部が、為末の競技生活と、禅や座禅に対して興味を持った経緯を中心に語られる対談。第2部が南の指導による座禅の体験。第3部が座禅を終えた為末と南との対談である。

「ゾーン」の話

為末が禅に興味を持ったきっかけは、彼が400mハードルのレースで体験した「ゾーン」という状態であるという。「ゾーン」というのは、スポーツなどで選手が極限の集中状態に入った状態のことを指す。ゾーンに入ると、自分が競技をしているという意識すらも弱まり、競技している自分を観客席から見ているような感覚や、ボールや相手の動きがスローモーションのように感じられたりする。為末の場合も、その競技人生の中で2度しか体験したことがないと言う。その「ゾーン」の境地が、瞑想や座禅で得られる感覚と似ているのではないかと彼は考えた。為末によると、彼がレースを走る時、普通はかなり意識的に身体を動かしているという。それが「ゾーン」の状態に入ると、走っているという意識が消え去り、自分が走る行為そのものになってしまっている感じがするという。「走っている」というよりは「走ってしまっている」「気がついたら走っていた」という感じ。「走りながら、自分がどうなっているかという感覚がなくて、走り終えてから「余韻」として「なんだか足音だけがやけにびんびん響いていたな」という感覚が残っているという。僕が本書を購入した最大の理由が、この「ゾーン」についての考察を読みたかったからだ。ずいぶん昔から僕は「ゾーン」と呼ばれる現象について興味があった。それはアスリートだけではなく、音楽やダンスなど、身体を駆使する芸術や、優れた外科医の手術などにも現れる現象で、「オーバードライブ」などと呼ばれることもある。個人的には、この現象は身体の運動を伴うパフォーマンスだけではなく、絵画や彫刻、さらには身体を伴わない作曲や詩、小説の執筆など、創作の世界にまで出現するのではないかと考えている。そして「ゾーン」という現象そのものが、いわゆる進化心理学の考え方で説明できるのではないかと思っている。つまり動物や人類が進化の過程で、必要に迫られて身につけるようになった能力ではないか。もしくは人類が動物が元々持っていた能力たが、進化の過程で必要がなくなり、使われなくなった能力のひとつではないか…。僕がこんな風に思うようになったのは、ずいぶん昔に体験したある出来事のためである。

緊急モードとしてのゾーン。

たぶん高校時代だと思うが、父の実家に遊びに行った時に、実家にあった原付(たぶんホンダ・スーパーカブ)を持ち出して近くの林道に出かけたことがある。未舗装の下り坂で、深い轍にタイヤを取られてカーブを曲がりきれず、道を飛び出して、数メートル下の斜面に真っ逆さまに転落した。バイクは崖っぷちの樹木に引っかかり、人間だけが飛んだ。幸運にも、身体は、ほぼ1回転して、柔らかい土の斜面に落ち、転がって深い草むらに軟着陸したため、ほんの擦り傷程度で済んだ。その時、不思議な体験をした。身体が空中に投げ出された瞬間、時間の流れが変容した。世界がスローモーションで回転してく。落ちていきながら周囲ののディテールが鮮明に見えた。斜面の途中に引っかかっていた牛乳瓶のフタ(紙製)がやけにはっきりと見えたことを今でも覚えている。恐怖も感じなかった。後になって、その時の体験も、一種のの「ゾーン状態」ではないかと思うようになった。転落など、身体が致命的な状況に投げ出された瞬間、脳と身体は一種のエマージェンシーモードにスイッチして、神経の処理速度を爆発的に増大させる。それによって少しでもダメージを減らそうとするのではないか。時間の感覚が変容するほどの強烈な体験は、後にも先にも、これ一度だけである。

創造のゾーン。

仕事でアイデアを出している時にも、ふだんとはまったく違う時間感覚に入り込んでしまうことがある。ある日、打合せが終わり、部下と二人で電車に乗って移動している時に、それはやってきた。いま取り掛かっている仕事のアイデアが、突然、頭の中に出現。しかもアイデアはひとつではなく、次から次へと現れてくるのだ。アイデアの出現する数とスピードは、記憶する暇もないほどで、「これはやばい」と感じ、あっけに取られる部下を引きずって次の駅で飛び降り、改札を出て、一番近い喫茶店に飛び込んだ。鞄からノートを取り出し、いま出て来ようとするアイデア、それまでに出てきたアイデアを夢中で書きなぐった。書き残したアイデアの数は十数個。時間にして、たぶん15分足らず。書き残せなかったアイデアは、後から思い出そうとしても、どうしても思い出せなかった。その後も、たぶん数回、この時ほどではないが同じような体験をしたと思う。しかし「ゾーン」に入り込むのは簡単ではない。ふだん容易に「ゾーン」状態に入ることができれば、1日15分ほど働けば済む。様々なことを試してみたが実際に「ゾーン」状態が訪れたのは、数えるほどしかない。

「ゾーン」は創り出せるか?

トップアスリートの為末大ですら、たった2回しか体験したことがないという「ゾーン」とは何なのか?どうすれば「ゾーン状態」に入ることができるのか?彼は、ゾーンに入るための様々な努力を重ねたと思う。しかし、結局は、自ら意識してゾーンに入ることはできなかった。為末にすれば、座禅によって到達できる心身の状態がゾーンと同じであれば、座禅の手法は、スポーツにも応用できるのではないかと目論んでいたのかもしれない。そんな彼の目論見を禅僧の南直哉は容赦なく打ち砕く。

「ゾーン」は無意味である。

南は、為末の「ゾーン体験」を「具体的に言葉で語ることはできますか」と言って語らせた後、「ゾーン」という状態は、いろんな場所で、いろんなやり方で「作る」ことができると語る。さらに「ある身体技法を実践すると、自意識が融解する、もしくは解体することができる。座禅もそのひとつである」という。そして「人間の自意識、つまり人間が「私」だと思う感覚というのは作り物にすぎないこと。「ゾーン」を体験すると、そのことが明白になるという。さらに南は、「ゾーン」が非常にインパクトのある体験であり、一種の高揚感というか、強い快楽のようなものであるだけに、こだわりたくなってしまうという。座禅を行う者の中には、その状態にはまり込んでしまう人間がいて「禅病」というらしい。南は、その体験自体は無意味である、と断言する。オウムの事件も、彼らの修行によって、ある心身の状態が成立したようだが、それ自体を「悟り」とか「真理」と称してしまうと、その体験を得るために薬物とかを使うようになって本末転倒になことが起こってしまうという。

ゾーンを目的にしてはいけない。

「ゾーン」の状態を目指して、モチベーションを高め、努力を重ねても、「ゾーン」にたどり着けない。意味はないけれど、体は動いている、動けている、まさに「遊び」のような状態がゾーンである。人がゾーンの状態にある時、それを言葉で表現することはできない。なぜならゾーンは言語が成立する以前の世界で起きているからだという。つまりゾーンに入ることは言語や意味の世界から「離脱」することである、という。南は、そこで「僕が大事にしていることは、ゾーンによる『離脱』、つまり『解除する状態』が『絶対の真理』であると決して言わないことである、という。

ゾーンの体験から自己を再構築していく。

「ゾーン」の体験とは、人間の社会やそれを支えている意識や言語が解体されてしまうことである。だから強い快感があるという。しかし、その快感にハマると、人間としては存在できなくなるという。なぜなら人間というものは「言語的自己」というあり方でしか存在できないからだという。だからこそ「ゾーン」を土台にして、そこから自覚的に自己を再構築していかなければならないという。

「ランニングとは何か?」の答は、本書には無いが…。

そもそも本書を買った理由である「ランニングとは何か」ということについて本書は直接答えてくれるわけではない。しかし為末が経験したという「ゾーン」状態は、彼がランニングを通してたどり着いた境地であることは間違いない。つまりランニングという行為の中に、ゾーンにつながる何かがあるのだ。本書の中で、「ゾーン」に入る時、速く走ろうとする意志や、勝ちたいという意識や、◯◯のために走るといった、意義や目的からも開放された、純粋な運動になっている。それは「遊び」と似ているという。この考え方は、もう一冊の「哲学者が走る」の中で語られている「純粋なランニング」の概念と似ていると感じた。すなわちダイエットや健康のためなど、何かのために走るのではなく、ただ「走るために走る」という考え方にも、なぜか似通っているのだ。「走る」という行為には、きっと人間の本質につながる何かがあるのだ。