読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Hサんの返信への返信 村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」

Hさんという人がFacebook村上春樹の新作への感想を書いていたので、コメントを付けたら、彼のブログに長い返信が書かれてびっくり。http://water-planet-bungaku.blog.so-net.ne.jp/2013-05-16
その内容は彼のブログを読んでもらうことにして、その返信への返信を書いてみることにした。
あの、Oさんって、どこのどなたのコト?自分のイメージとギャップありすぎ。まあ、当時はバブルが弾ける直前で、広告業界も元気だったし、僕自身もコピーライターとしてのパワーはピークの頃だったと思うので、Hさんみたいなスーパー頭脳とやりあうことができたのかも…。彼と話していると、世の中にこんなに頭のいい、回転の速い人がいるんだ、と、驚かされっぱなし。仕方なしに、自分の頭は、ゆっくりだけど正確に回転するんだ、と慰めていたことを覚えている。あの頃、Hさんと、コピーライターのYさんと、仕事の打ち合せをしていると、すぐ脱線して、いま読んでいる本の話になった。よく話題になったのが村上春樹村上龍。ちょうど「ノルウェイの森」と「愛と幻想のファシズム」が出た頃で、どちらを支持するかで議論が盛り上がったことを覚えている。新作「色彩を持たない〜」は「ノルウェイの森」の続編とか後日談とか言われている。「ノルウェイの森」を読んでから25年目の村上春樹談義、不思議なつながりを感じます。うまく語れるかなあ…。
僕の村上春樹をめぐる遍歴。
まずは僕自身の村上春樹歴。デビューの頃から読み続けているが、どちらかというと嫌いな作家だった。嫌いだったけれど、周囲には村上ファンが多くて、ある種のトレンドウォッチングのつもりで、村上作品を読み続けていた。嫌いだった理由は、彼の小説が、僕たちがいま生きている現実の世界を正面から描こうとしないように思えるからだ。彼は、現実を描く代わりに、リチャード・ブローティガンカート・ヴォネガットの作品を翻訳したような文体とスノッブなライフスタイルのディテールを延々と書き続けているようにしか思えなかった。彼の作品に登場する主人公たちも、仕事をきちんとこなし、様々なこだわりを持ちながら(料理、音楽、アイロンかけなど)なぜか他人との深い関わりを避け、世捨て人のような生活を送っている。しかし彼にはなぜか女性を惹きつける魅力があって、ガールフレンドに事欠いたことがない…。たぶん、それだけでは小説が成立しない。そこで主人公は、ある試練を与えられることになる。大抵の場合、主人公の親しい友人やガールフレンドが、ある日突然、彼の前から姿を消す。主人公は、その「失われた人」を探すために、自らの安定した世捨て人の暮らしから飛び出して、冒険の旅に旅立っていくのである。彼が旅立つ世界は、この世界とつながっているが異なる世界:パラレルワールドである。主人公は、そこで数々の試練を受け、失われた人を取り戻そうと懸命に戦う。そして「悪」に対して辛うじて勝利を得るが、失われた人は還ってこない…。主人公は現実に戻って、以前と同じ世捨て人のような生活を続ける。みたいな…。90年代前半までの彼の小説を読んでいると、まるでロールプレイングゲームをしているような気持ちになる。要するに村上春樹は、日本的な私小説とは正反対の方向に向かって小説を書き続けていたわけだ。彼の作品は日本の文壇からはほとんど評価されなかったが、村上春樹ファンは確実に増え続けていった…。彼が、日本の私小説的な部分をかたくなに拒否して書き続けた作品は、いつの間にか世界に通じる普遍性を持ち始めたらしい。気がつくと彼はノーベル文学賞の候補になるほど、世界的な人気作家になっていた。僕自身、嫌いなまま、30年以上にわたって村上春樹を読み続けてきたが、なぜ彼の作品が世界で読まれるのか、いまだに理解できずにいる。ただ、ここ数年は、彼の文章を読んでも以前程の拒否反応は出ず、エッセイやインタビューなどは、共感すら覚えることもある。
阪神大震災オウム真理教の影響。
村上春樹への拒否反応が薄れてきたのは、数年ぐらい前からだろうか。90年代半ば以降、村上春樹に、ある変化が訪れる。きっかけは阪神大震災オウム真理教の事件。阪神大震災のあと、「地震のあとに」にという連作を発表し、それはやがて「神の子供たちはみな踊る」という短編集として出版された。ちょっと不思議な、しかし今までの村上作品と明らかに違った気分に包まれた小説群だった。その後、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー集「アンダーグラウンド」を出版。さらにオウム真理教の現信者や元信者へのインタビュー集「約束された場所で Underground2」を出版する。それまで自閉的な主人公が登場する小説を書き続けてきた村上春樹は、この頃から、社会への関わりを意識した小説を書くようになってくる。2004年に出版された「アフターダーク」には、うまく言えないが、これまでとは違ったリアリティで都市の暗闇の世界を描いている。しかし、彼の現実への関わりが作品に本格的に現れてくるのは、2009年の「1Q84」以降である。「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」では、まだ従来のスタイルで描かれているように思える。それが「1Q84」になると、新興宗教の教団や農業コミューン、DVなど、現実の様々な現象が取りこまれ、ひとつの「物語」が出来上がっていく。それは「1984年」と「1Q84」という一種のパラレルワールドの物語なのだが、かつての作品に描かれた世界とは比較にならないほど重くて深いリアリティがある。地震とオウム以降、村上春樹は、ようやく戦うべき相手、書くべきテーマを見つけたかのようである。それはかつて彼が拒否しし続けた「現在の日本」にもう一度向かい合うことだった。同じ頃、自らの作品ついて語った長大なインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」を出版するなど、自らの創作について語りはじめる。それらを読み続けるうちに、村上春樹は、自分の中で、いつの間にか嫌いな作家から、「読み続けるに値する作家」になっていた。以上が僕の村上春樹歴。
「色彩を持たない〜」と「ノルウェイの森
さて、ここからが新作の話。僕自身も、読んでみて「色彩を持たない〜」「ノルウェイの森」は、とても似通っていると思った。むかし「ノルウェイの森」を読んだ時、それ以前の村上作品に比べると、ずいぶん日本の私小説的な世界に歩み寄っているなあ、と感じた。いつものパラレルワールドに逃避せずに、「人生の問題」(つまり10代から20代の若者の挫折----恋愛と性、人間関係など)に正面から向き合って小説を書こうとしているように感じた。実際には、その期待は裏切られたのだが…。そして今回の「色彩を持たない〜」も、ほぼ同じ枠組みの中で書かれている。25年も経った今、なぜこんな昔のテーマや世界観で小説を書こうとしたのだろうと思った。ここから先は想像だが、著者にとって「ノルウェイの森」は、ある種のトラウマになっていて、ずっと解決がつかないまま、今日まで抱え続けてきた問題ではなかったかということだ。そのテーマとは、Hさんも指摘している、主人公の中の「悪」を表現すること。主人公のワタナベ君は、それまでの村上作品の主人公と外見やライフスタイルは似ているが、内部に「悪」を抱え込んでいるところが違っている。「ノルウェイの森」は、村上作品の主人公の内面に醜悪な「悪」があることを自ら暴き出したした小説だったのだ。しかし、直子を自殺に追いやった主人公ワタナベ君の「悪」は、結局、改心することも断罪されることもなく、生き延びてしまう。それが「ノルウェイの森」の最も不満なところである。たぶん著者自身も、書ききっていないという不全感があったのではないか…。だから「色彩を持たない〜」を書いている内に、著者は無意識に「ノルウェイの森」の世界に引き寄せられていったのではないか。(インタビューで著者自身が何かに導かれるように書いていったと語っている。)だからというわけではないが、主人公の多崎つくるは、最初から(色彩を持たない=空しい)と決めつけられ、さらに物語の最初から、4人の仲間から追放という「断罪」を受けている。著者は本書で「ノルウェイの森」の主人公の罪に落としまえをつけようとしているのかも…と思った。しかし、多崎つくるは、終盤のほうで、エリから「色彩を持たない君」が悪いわけじゃない。ユズが悪霊に取り憑かれただけなのだと、あっけなく救われてしまうのだ。多崎つくるの中にも潜んでいる悪霊は、またしても生き延びてしまう。そこが新作のいちばんの不満な点である。ただ、荒唐無稽のパラレルワールドに逃避するのではなく、あくまでもひとつの物語/世界の中で描ききろうとしたところは好感が持てた。これが、以前のエントリーで「いままでの村上作品の中ではいちばん共感できた」と書いた理由。
村上作品の中の人物は全員有能な職業人であるという考察。
 Hサんの考察はユニーク。そんなこと気づきもしませんでした。本当にその通りですよね。村上作品の中では悪人ですら有能であることを求められている…。ただ村上春樹は、現実をそのまま描こうとは思っていないですよね。彼は、Hさんが言われる「寓話=物語」のフィルターを通して、世界を見ようとしています。その物語の中では登場人物は一定の役割を与えられ、その通りに演じていくしかないようです。彼が描こうとしている物語は、Hさんが言う、劣化し、老化し、崩壊しつつある現在の日本の物語ではありません。彼が今描こうとしているのは、80年代から90年代にかけて進んだ「魂の荒廃=悪霊の台頭」という物語です。地震オウム真理教の事件で受けた衝撃を、ようやく彼自身の作品の中に取り込んで書けるようになってきたところだと思います。そういう意味で「色彩を持たない〜」も、あの80年代〜90年代の「1Q84」の時代が生み出した産物だと思うのです。Hさんが書いている、若者たちが仕事を見つけ、働いて生活していくことの大変さ、そこで自己を確立していくことの困難さは、この業界にいても実感できます。僕らの仕事も、ここ十数年の間は、衰退と劣化、敗北と撤退の連続でした。すでに僕ら自身の職業の安定も脅かされるようになっています。社会全体が個人に対する寛容さを失いつつあるように思います。村上春樹が、いつの日か、この問題に気づく日が来るかもしれません。あるいは、すでに経済の問題が「魂の領域」を浸食しつつあることに気づいているかもしれません。若者たちを苦しめているブラック企業などは「経済が生み出した悪霊」と言えるかもしれません。うーん、これでHさんの返信への返信になったでしょうか?