雲を描く人
新海誠の作品は「雲のむこう、約束の場所」から観るようになった。「雲の〜」は東京勤務時代、渋谷の小さな小さな劇場で観た。「雲」のディテールをここまで克明に描いたアニメに初めて出会った。実は僕自身が子どもの頃から「雲」を眺めるのが大好きだったのだ。1日中、雲の変化を眺めていても退屈しない子どもだった。もちろん、新海作品の魅力は「雲」だけではなく、自然描写全般なのだが、僕にとって彼は「雲を描く人」なのである。今回も「雲の描写」を堪能した。
セカイ系から遠く離れて。
2000年代はじめ、新海誠のアニメは「セカイ系」の作品として位置づけられていた。「セカイ系」とは、主人公とヒロインの閉じられた関係と「世界の終わり」や「最終戦争」という巨大な出来事が、社会という中間項なしに直結した作品群のことをいうらしい。エヴァンゲリオンにルーツを持ち、高橋しんの「最終兵器彼女」、新海誠の「ほしのこえ」などが、その代表とされていた。「戦闘美少女のヒロイン」と「無力な僕」の愛という、オタクの自意識をそのまま物語にしたような世界観に、恥ずかしながら一時期はまってしまった。「雲のむこう、約束の場所」では、まだ「セカイ系」を引きずっていたと思う。その後、「ほしを追うこども」で宮崎駿的なファンタジーに行き、「言の葉の庭」では、SFじゃない恋愛の物語になった。その段階で、僕は、もう新海作品を見ることはないだろうと思った。美しい自然描写の中で進行するありふれた恋愛物語に興味は持てなかった。
空から何かが降ってくる。
「君の名は。」のポスターには「空から何かが降ってくる」のが描かれていた。宇宙船なのか?ミサイルなのか?新海のデビュー作である「ほしのこえ」や「雲の向こう、約束の場所」を思い出した。もう一度SFに帰ってくるのか?そんな期待をこめて作品を観た。「初代ゴジラ」が公開された1954年に映画「君の名は」3部作の完結編が公開された。それから62年後、庵野秀明と新海誠という、いわば「セカイ系」の中心にいた監督二人の作品が同名のタイトルで公開される。初代ゴジラ公開の年に、僕もこの世に生まれ落ちていた。その不思議な因縁も感じて「君の名は。」を観ることにしたのだ。
ジブリとは違うファンタジー
少年と少女の「とりかえばや」という、一応「時空ファンタジー」ではある。そこにはもう「セカイ系」の匂いは全然ない。ちゃんとエンターティンメントに成長した、多くの観客を楽しませる作品。平日の夜にもかかわらずほぼ満席であることに驚いた。渋谷の100人も入れないような劇場で観た「雲のむこう、約束の場所」からすると隔世の感がある。あいかわらず風景の描写は素晴らしい。主人公たちの心象風景をそのまま映像にしたような描写はアニメでしか表現できない世界だ。六本木ヒルズをはじめ、東京の都心が、あんなに「懐かしく」描かれた映画はなかったと思う。「レトロフューチャー」という言葉を思い出した。でも僕にはちょっと物足りなかった。SFが、ファンタジーが足りない。宮崎駿も自然のディテールを克明に描くことがあるが、それは、観客をその先の空想の世界へ誘い込むための「仕掛け」なのだ。よく観察すると驚異に満ちた里山の自然の中には、不思議なトトロが隠れている。森の奥深く、今も残る原始の森には「シシ神」がいる…。新海誠も、そっちのほうへ行ってほしいと思った。