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内田樹・成瀬雅春「身体で考える」

著名なヨーガ行者と内田先生の対談。自分はヨーガをやってる人とかが苦手で、あの容貌とかファッションを見ただけで引いてしまう。その上いきなり空中浮揚などと言われると拒否反応を起こすしかない。これはたぶんオウム事件のトラウマだ。もちろん、あの教団の教えや世界観に影響を受けたのではなく、事件後に明らかになってきた信者たちの態度。かなり知的で真剣に自分の生き方を考えている人が、あの陳腐でチープな世界観を信じてしまったことにショックを受けたのである。それ以来、自分はスピリチュアルな世界への扉を閉じてしまったと思う。一次期、あれほどのめり込んだライアル・ワトソンが、科学者にあるまじきねつ造に走ってしまったことも大きかったかもしれない。たぶん、この本がなければ、この成瀬雅春というヨーガ行者を知ることもなかっただろう。とりあえず「空中浮揚」をカッコでくくって、対談を読み進めることにする。読み進めるにつれて、この成瀬雅春という人物の面白さがわかってくる。意外なことに、この人、きわめて現実的で、宗教やスピリチュアルなどということにあまりこだわりがないように思える。「必要だから」という言葉がよく出てくる。ヨーガの行者が空中に浮かぶのも、キリストが水の上を歩くのも必要だったからだという。出会った人々に素早く自分を信じさせるには、空中に浮かんでみせたり、水の上を歩いてみせるのがてっとり早いから、そうした、と。この人は究極の身体探求マニアといっていいかもしれない。自分の身体のあらゆる部分を知り尽くすことが面白いという。偉大なる自然人といってもいいような成瀬雅春と、大学を早期退職し、武道家として生き始めた内田樹が身体をめぐって様々な対話をくりひろげる。ソニーの創業者井深大が空中浮揚をしたがった話。村上春樹のマラソンの話。刀を振り下ろす一瞬で16文字のお経を唱えた江戸時代の首切り役人の話。二人の話を読んでいると、身体は想像以上に柔軟で大きな能力を備えており、普通の人は、その限界を自ら低く制限してしまっているという。身体の仕組みや動きや感覚を極限まで知り尽くすと、周囲の環境の変化への感度が飛躍的に高くなる。それは人間が、文明化によって失ってしまった危険予知や危機回避の能力を取り戻すことでもあるという。このあたりの議論は、内田樹の著作「邪悪なものの鎮め方」でも出てきた議論につながっていく。すなわち「前例のない事態に直面した時に、なぜか正しい選択ができる人がいる。彼はなぜ、そのような正しい選択ができるのか」というテーマである。9.11の同時多発テロの時、ワールドトレードセンターで働いていた男性が理由もなく外に出たくなり、エレベーターで地上に降り、外に出てカフェに入ろうとした瞬間、飛行機がビルに突っ込んだという話。東日本大震災の3月11日の夜、静岡の三島に避難してきた人たちがいた。震災後、最初の3日間に首都圏を離れ、避難してきた人たちは、みんなすごく気配りができる人だったという。彼らは互いに情報交換をしたり、自己紹介をしたりして、小さな気分のいいコミュニティが形成された。ところが4日目を過ぎると、それまでと全く違う種類の人が避難してきた。メディアの情報によって合理的に避難してきた彼らは、気配りができず、自分のことしか考えられない人たちだったという。成瀬によれば、最初に避難してきた人たちは、身体のセンサーがしっかりしているという。そこから二人は「現代人は、情報によって合理的に判断する生き方を身につけたために、身体が本来持っていた危機回避能力を失ってしまっている。」「自分自身の判断を重視せず、上からの指示を待って行動しようとするホウ・レン・ソウ的組織が、今回の震災で「人災」による多くの被害を生み出した」と結論づける。
自分の生き方を振り返ってみると、つくづく「身体」のことをおろそかにしてきたと思う。それによって身体で考える能力が衰えているのは間違いない。例えばランニングの時、自分が走っている速度を感じる精度は驚く程いいかげんだ。また、その日の体調を見きわめたり、身体の異変を感じとるのがうまくできていないと思う。それでもランニングを始めて数年経つと、身体に備わった様々なセンサーがようやく機能しはじめたような感じがする。同じ場所を、同じような速度で走っても、走っている感覚は大きく違っているとわかる。何が違っているのかは、まだわからないが、とにかく違っているのはわかるようになったと思う。空中浮揚にはじまり、UFO、空中歩行、予知能力までが、あるんだ、という視点で語られる、この本を読み終えて、「空中浮揚」という言葉への拒否反応が少し薄れたように思う。ヨーガなど、はじめてみようかな。