小沢慧一「南海トラフ地震の真実」

「30年以内に70〜80%」は嘘?
自宅の集合住宅の防災委員を務めていることもあって「南海トラフ地震」は、目下のところ最優先のテーマである。この地震を語る時、枕言葉のようにくっついているのが「30年以内に70〜80%の確率で発生する」という長期評価である。国の地震本部が発表するこの数字には「明日起きるかもしれない」という切迫感がある。本書は、よりによって、この数字が信頼できない可能性が高いと主張する。南海トラフ地震の予測は他のエリアの地震とは違う特別な方法によって計算されていて、他のエリアと同じ方法で計算すると確率はなんと20%まで下がるという。「オイオイ」と思う。70〜80%と20%では受ける印象がまったく違う。なぜこんなに違うのか?その謎に調査報道で徹底的に迫ったのが本書。著者は中日新聞の記者。本書の元になった2020年に連載の「南海トラフ80%の内幕」により「科学ジャーナリスト賞」を受賞している。
南海トラフ地震だけが違う予測モデルで計算。
なぜ南海トラフ地震だけが特別な方法で予測されるのか?それを理解するためには、この地震の仕組みを理解する必要がある。静岡県沖から四国沖にまで伸びる南海トラフは、海側のフィリピン海プレートが陸側のユーラシアプレートの下に潜り込んでいくことでできる長大な海溝である。海側のプレートは陸側のプレートを引きずりながら潜り込んでいくので、陸側のプレートにはひずみが蓄積していく。そのひずみが限界に達すると、陸側プレートの端が大きく跳ね上がる。それが南海トラフ地震である。この地震は、これまで95年〜150年の周期で発生している。地震の規模は一定ではない。この時の地震の「規模」と「周期」の関係に着目したのが「時間予測モデル」と呼ばれる、南海トラフ地震だけに用いられる特別な計算法である。大きな規模の地震が起きると、次の地震までの時間が長くなり、小さな規模の地震だと、次の地震までの時間が短くなる。そして地震の「規模」は、地震で生じる土地の隆起によって知ることができるという。南海トラフ地震が特別なのは、江戸時代に起きた2つの南海トラフ地震による土地の隆起の測量記録が残されていたからである。精密な測量機器など無かった江戸時代に、現在の地震科学に通用するような測量が可能であったのか?地震学者によれば可能であったということになる。それが高知県室津港の水深測量データである。
「30年以内に70〜80%」の根拠は江戸時代の古文書。
江戸時代、室津港では港役人が置かれ、代々、久保野家がその役を勤めていた。この久保野家に伝わる文書に、二度の南海トラフ地震前後の水深測量の記録が残っていたという。水深、つまり土地の高度データである。江戸時代に起きた二度の地震と1946年に起きた南海トラフ地震、3つの地震における土地の隆起データから次の地震の発生確率を予測したのが「30年以内に70〜80%」なのである。「時間予測モデル」と呼ばれるこの計算法は1980年に東京大学名誉教授(当時は助手)の島崎邦彦らが発表したもので、地震研究など地球物理学分野における最も有名な学術誌で「最も重要な論文40」に選ばれている。時間予測モデルは2001年の長期評価で初めて採用された。(当時は30年以内に45%だった。時間の経過とともに確率は高まっていく)そして2013年に長期評価の見直しが行われ、その際に、地震研究者の間からこの予測モデルを疑問視する声が上がってきたのである。
地震研究者たちの疑問。
江戸時代に測量された室津港の水深データは果たして地震予測に使えるデータなのか?室津港の水深というが、それは港のどの場所なのか?また測量はどんな方法で行われたのか?縄に縛りつけた石を沈めたのか?竹竿を使ったのか?さらに、室津港は何度も浚渫工事が行われており、それによる水深の変化は考慮されているのか?予測を担当した地震研究者たちは、江戸時代に行われた室津港の水深測量データに疑問があると判断し、それに基づいた「時間予測モデル」にも問題があると結論づけた。そして南海トラフ地震の長期評価を、他の地域の地震と同じ単純平均モデル(過去の地震の発生周期を単純に平均する計算法)を採用することを提案した。しかし、この提案は地震本部の中の上部組織によって拒否されてしまう。そこで研究者たちは2つのデータを併記することを提案するが、これも拒否され、結局、時間予測モデルの数字だけが前面に出た文書として発表されてしまう。
「古文書の信憑性」と「長期評価会議への疑問」
著者は、2つの問題に焦点を絞って調査を進めていく。一つ目は久保野家に残された文書に記された室津港の水深測量データが長期評価の計算に使えるのかどうかという検証。つまり南海トラフ地震にだけ用いられる「時間予測モデル」が根拠としているデータそのものが信頼できるのかどうかという検証である。もう一つは地震研究者たちによる長期評価の見直し提案が上部組織によって、なぜ拒否されたのかという疑問。著者は忙しい新聞記者の仕事を続けながら、長期評価の会議メンバーを取材したり、高知の久保野家を訪ねたりして調査を進めてゆく。
久保野文書を追う。
まずは久保野家に残された文書の検証。2001年と2013年の長期評価で、その根拠となった江戸時代の室津港の水深データが記録された久保野文書は、元々明治の著名な地震学者である今村有恒が高知県を訪れた際に、久保野家の当主に会って発見したものだ。2013年の長期評価発表の際に、この文書に記されたデータの検証を行うことが記されている。しかし、その後、検討が行われた事実は無い。そこで著者は自らこの検証を行うことを決意する。室戸市役所や久保野家の末裔にコンタクトを取って古文書そのものを確認しようとする。このあたりは歴史ミステリー的な面白さがあるが、詳細は省略。本書を買って読んでください。地震学者も巻き込んで文書のデータを検証した結果は「30年以内の発生確率は38〜90%」である。確率の幅がこんなに広がった理由は、地震の度に行われたという室津港の浚渫工事で、隆起の数字に1mもの誤差が出る可能性が出てきたこと。さらに潮位による誤差を含めると、さらに確率の幅が広がる可能性があるという。これでは「時間予測モデル」への信頼は大きく揺らいでしまう。
地震サイエンスVS行政・防災。
もう一つの問題は、地震学者たちによる長期評価の見直しの提案がなぜ拒否されたのか?長期評価は、文部科学大臣を本部長とする「地震本部」(地震調査研究推進本部)の「地震調査委員会」で発表されるが、その検討と取りまとめを行うのは「長期評価部会」である。さらに南海トラフ地震のような海溝型地震の長期評価は、下部組織である「海溝型分科会」が実際に検討を行うという。著者は、長期評価部会の議事録を取り寄せたり、会議の出席者にインタビューして、時間予測モデル採用の経緯を探っていく。そこから浮かび上がってきたのは日本の地震研究や防災行政に大きな影響力を持つ「地震ムラ」の存在である。

地震ムラ」のルーツは地震予知
地震予測のルーツとも言える地震予知。そのきっかけとなったのは1976年、神戸大学の石橋克彦名誉教授(当時は東京大学理学部助手)が唱えた「東海地震説」(駿河湾地震説)である。彼は「駿河湾震源とする巨大地震が明日起きても不思議ではない」と述べ、世間を震撼させた。危機感を持った国は、1978年に、地震予知を前提とした「大規模地震対策特別措置法」(大震法)を成立させた。大地震のの発生を、前兆現象の観測によって予知し、政府が警戒宣言を発することで被害を抑えようという構想だ。静岡県には「地震防災対策強化地域」として2020年までに計2兆5119億円の対策費が投じられた。しかし実際には、東海地震は発生せず、地震は起きないと思われていた関西で阪神・淡路大震災が発生する。前兆現象による地震予知ができないことが明らかになり、政府と地震予知の研究者をしていた地震学者へ批判が集まった。当時、地震予知推進本部長を兼任していた田中真紀子科学技術庁長官は「地震予知に金を使うぐらいだったら、元気のよいナマズを飼った方がいい」と言い放ったと語り継がれている。地震予知推進本部は「地震調査研究推進本部」と看板を掛け替え、政府の目標は地震予知から予測に切り替わった。そして2011年、東日本大震災が発生する。地震学者は、またしてもこの地震を予測できなかった。しかし、福島の原発事故のせいで、地震学者たちは批判に晒されることなく、かつて地震予知ができると主張していた地震学者や、その弟子、孫弟子が、そのまま地震研究の中心の座に居座り続けることになったという。地震学者の一人は、「かつては地震予知のためと予算の申請書に書くと他の分野に比べて格段に額が大きい予算が出た。実際にはあまり予知に関係なくても予算が通りやすくなるので、私も随分そうやってきた。今は予知ではなく、防災のためと書けば予算が取りやすい」と語る。
予知から予測・防災へ。
2016年、政府の中央防災会議は大震法の抜本的な見直しを掲げ、検討を開始した。そして2018年に検討結果を発表した。その内容は東海地震の予知情報(警戒情報)を実質的に廃止し、震源域で異常現象を観測すれば臨時情報を発表するというものだ。異常現象とは、南海トラフ震源域の半分でM8級の地震が起きた場合(半ワレという)などで、残り半分の沿岸住民の一部に政府が呼びかけ、1週間程度の避難を要請するということらしい。臨時情報は警戒宣言と違い、住民や企業に対して拘束力のある指示・指令ではない。あくまで情報を提供し、対応については個別の判断に任せるというもの。この発表について、新聞は社説などで大震法の廃止を訴えたが、蓋を開けてみると、予知のような精度の高さをうたわないことにより地震学者が「責任を問われない仕組み」ができただけで大震法は残った。さらに「想定外」を無くすために、発生する地震の規模や被害の大きさを、考えられる最大に想定することになり、最大で死者32.3万人という東日本大震災をはるかに超える被害予想が発表された。地震学者たちは自分たちの責任が問われないような仕組みを作りながら「30年以内に70〜80%の確率」と「未曾有の被害予測」で人々の危機感を煽る。それによって自分たちの研究費やポストの配分を牛耳ってきたのだ。かつて地震予知をうたった科学者とその弟子、孫弟子たちによる「地震ムラ」の存在。彼らこそが「長期評価」の見直し」を拒否しているのだ。
「前兆現象」はオカルトみたいなもの。
著者は「地震ムラ」に属さない研究者のロバート・ゲラー東大名誉教授にも取材している。ゲラー氏は「前兆現象はオカルトみたいなものです。確立した現象として認められたものはありません。予知が可能と言ってる学者は全員「詐欺師」のようなものだと思って差し支えないでしょう」と言い切る。
そういえば。
本書を読んで、色々と思うことがあった。ずいぶん前は「東海地震が‥‥」なんて言ってたなあ。それが東海地震東南海地震、南海地震の3つの地震になって、最近は3つまとめて南海トラフ地震と呼ばれているみたいで、「半ワレ」のように、聞いた事がない言葉が出てきた。「30年内に70〜80%」の数字も最近になって出てきたのではないだろうか?GPSによる測量とか、スーパーコンピューターの活用などにより、予測の精度が上がってきたから確率が出せるようになったのかな、ぐらいに思っていたが、どうもそうではないらしい。江戸時代の古文書に記された不確かなデータに基づく予測モデルが科学的に検証されないまま、今もこの国の地震研究の中心に居座っている。僕たちは「地震ムラ」の人々が、自分たちの都合がいいように作り上げた情報に随分振り回されてきた気がする。地震予知に関する本や地震を予測するとうたう有料サービスにどれだけお金を使ってきたことだろう。前出のゲラー氏によれば、地震の周期説でさえ科学的に証明されていないという。
長期評価の弊害。
それでも本書を読み始めて、予想の数字を多少大きく訴求するのは、人々の防災意識を高めるためには有意義なのではないかと思ったが、読み進めるに従って、それは間違いであることがわかる。2016年に熊本地震を引き起こした布田川断層帯の30年確率は「ほぼ0〜0.9%」だった。この数字は地震の発生確率としては決して低くないそうだ。しかし熊本県では企業の誘致に、地震災害が少ないことをアピールしていた。北海道地震で被害を受けた道や札幌市、苫小牧市も企業誘致に長期評価を使っていた。南海トラフ地震だけが飛び抜けて危険度が高く表示される現在のハザードマップでは、それ以外の地域では地震が起きる可能性が低いとミスリードされてしまうのだ。
それでも地震はやってくる。
今後、僕が南海トラフ地震を語る時に「30年以内に70〜80%」という枕詞を付けるのはやめようと思う。「時間予測モデル」だと今世紀前半、平均モデルだと今世紀中に起きるという。地震はいつかきっと来るのだろう。僕が生きている間に来るかどうかはわからないが、その備えは今後も続けていくつもりだ。
「○○○ムラ」だらけの国。
地震ムラ」「原子力ムラ」「防衛ムラ」…。この国には、いったい幾つの「ムラ」があるのだろう。「ショックドクトリン」ではないが、リスクがあって、そのために政府や学者や企業が動けば、やがて利権やコミュニティが生まれ、それを自分たちで囲い込もうとする「ムラ」が生まれる。一旦「ムラ」ができてしまうと、それを解体するのは容易ではない。本書のような真摯な報道に期待するしかない。

 

 

村上春樹「街とその不確かな壁」

また、そこに戻っちゃうの?

というのが、読み始めての印象。

第一部は、1985年発表の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の中の「世界の終わり」の部分と、1987年発表の「ノルウェイの森」を、三十数年後にもう一度読み読み直している感じ。というより、僕らが読み続けてきた村上作品とは、結局のところ同じ物語を繰り返し読まされているんじゃないのかな。鏡の部屋。どちらを向いても写っているのは無限に続く自分の姿みたいな。第二部に入ると、物語は動き出し、新たな展開が始まるのだが、物語の輪が閉じているというか、気がつくと同じ場所に戻っている。著者にとって「愛する人の喪失」というモチーフは、そこから決して逃れることができない「取り返しのつかない原罪」なのかもしれない。

閉じられた物語。

17歳の「僕」と16歳の「君」のピュアな恋。そして「君」の失踪。さらに「君」が語った「街」の物語。小説は、その輪の中で展開していくが、決してその外側に出て行こうとしない。「1Q84」で、外に向かって出て行こうとした著者が、本書では内に向かって再び世界を閉じてしまっている。著者がこれほどまでに「喪失の物語」にとらわれ続けるのはなぜだろう。きっと著者は、若い時に、決して忘れることができない出会いと喪失を体験し、そのトラウマに今も囚われているのだろう。本書の中で著者は、彼女が姿を消してしまう理由というか、そのきっかけに「性」の問題があったことを匂わせている。第二部で登場するコーヒーショップの女性も、「性」の問題を抱えている。

「街」と「風景構成法」。

本書に登場する「街」は、、三十数年前に読んだ「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の中の「世界の終わり」の部分で描かれた「街」とほぼ同じである。そして1980年に発表された「街と、その不確かな壁」の街ともほぼ同じである。その街は、彼女の頭の中に存在し、主人公が彼女から聞き出した架空の街である。彼女がいなくなった後も、主人公は、街の細部まで記憶している。今回、本書を読んで「世界の終わりと・・・」を読んだ時とは「街」の印象が違っていると感じた。「世界の終わりと・・・」では、街は、2つのパラレルワールドの一つとして描かれ、二つの世界はリンクしていた。しかし、本書の中では、「街」はあくまでも彼女と主人公の空想の中に存在するだけである。本書を読んでいて思い出したのが、以前読んだ最相葉月のノンフィクション「セラピスト」の中で紹介されていた心理療法のひとつである「風景構成法」という芸術療法のことだ。「風景構成法」とは、今年亡くなった精神科医中井久夫が考案した芸術療法の一つで、もともとは河合隼雄が日本に紹介した「箱庭療法」を中井久夫が発展させた心理療法である。セラピストが画用紙とサインペンを用意する。セラピストは画用紙に四角い枠を描いた後、クライアントに画用紙とサインペンを渡し、11のアイテム(川、山、道、家、木、人、花、動物、石、足りないと感じるアイテム)を伝え、好きなように描かせていく。さらにクレヨンで色を塗る。それ以前の精神医学では、医師とクライアントは、言葉によってコミュニケーションを取るしかなく、どうしても意味や因果律に縛られた診断や治療しかできなかった。それを意味や概念から解放された「イメージ」によって患者の心象を捉えてゆく。中井久夫は、この風景構成法によって統合失調症の治療に目覚ましい成果をあげたという。

街と壁の風景。

枠(壁)があり、川が流れ、道が伸び、家があって、人や動物がいる…。風景構成法で描枯れた、シンプルで抽象化された「風景」。それは、本書の中の「街」に似ていないだろうか。後半に登場する「イエローサブマリンのパーカを着たサヴァン症の少年」は主人公から聞いた「街」の話を精密な地図を描くことで主人公と対話しようとする。言葉ではない、視覚的な空間イメージによって描かれた「街」のイメージ。それは、かつて、恋人が主人公に必死に伝えようとした痛切なメッセージではないか。だからこそ彼は、街の記憶を繰り返し反芻し、子易さんやサヴァン症の少年に語りかけ続けたのではないか。「街」を通して、彼は通常の因果律が成立しない「地下2階の世界」=「黄泉の国」へ降りて行こうとしたのではないか。そこでは失われた恋人が今も生き続けているのかもしれない。

40年後の書き直し。

あとがきによると、本書は、1980年に雑誌「文学界」に発表された「街と、その不確かな壁」を核に執筆されたという。当時、著者はその作品に満足できず、書籍化せずに、いつか然るべき時期が来たらじっくり手を入れて書き直そうと思っていたという。著者はまた「この作品には自分にとって何かしらとても重要な要素が含まれていると感じ続けていた」という。

 

桂 幹「日本の電機産業はなぜ凋落したのか」

何が原因?誰の責任?

広告制作の現場から離れて10年近くになるが、いまだにわからないというか、納得できないことがある。それは「日本の電機産業が、なぜあれほど急激に凋落したか?」ということ。僕のコピーライターとしてのキャリア約40年のうち、家電メーカーの広告や販促に携わったのは30年以上。その前半である80年代から90年代、日本の電機メーカーは世界をリードしていた。テレビ、オーディオ、ビデオなどの電子機器はもちろん、半導体などの分野でも世界を牽引する技術や品質を誇っていた。CDに始まり、ビデオ、DVD、ゲームなど、新しい規格やプラットフォームを次々に生み出していった。それが90年代後半から急速に力を失っていく。2000年代になって薄型大画面テレビやブルーレイの開発などで一瞬復活するように見えたが、結局、あれよあれよという間に韓国や中国のメーカーとの競争に敗れ、後退していった。なぜ日本の電機産業は敗北したのか?何が敗北の原因だったのか?誰が、いつ、どこで間違ったのか?責任は誰にあったのか?その明快な答を知りたい。

電機産業の「中の人」に総括してほしい。

GAFAなど、成功した企業について書かれた本は数多くある。日本の電機産業についても、その隆盛を書いた本は数多くある。しかし失敗や敗北に焦点を当てて書かれた本は少ない。ジャーナリストや研究者が外部からの視点で書いた本は少しあるが、納得できるところまで描ききれていない。あの時、電機メーカーの内部で何が起こっていたのか?それを電機メーカーの中の人が検証し、総括すべきではないか?広告業界の片隅にいて、電機メーカーの隆盛と凋落をすぐそばで見てきた(影響も受けてきた)広告屋として切に知りたいと願っていた。本書の著者は電機産業の一つであるTDKの日本とアメリカで勤務した経験を持つ人だ。また著者の父親はシャープの元副社長である。世代の違う二人による電機産業内部からの視点は僕の願いに応えてくれるかもしれない。

2度のリストラを経験した著者。

著者は、この30年に起きた様々な変化を、自らの体験を例にあげながら悔恨と共に語っていく。著者は1986年にTDKという会社に入社した。当時、同社は電子部品事業と記録メディア事業の2枚看板であったが、著者は記録メディア事業の方に配属される。当時の主力商品はカセットテープやビデオテープ、フロッピーディスクだった。カセットテープはとても儲かる製品であり、記録メディア事業は全社の稼ぎ頭だった時代もあったという。しかしカセットテープに代わり、光ディスクが主力製品になると状況は激変し、収益性が一気に悪化する。赤字が常態化するようになった記録メディア事業は社内でお荷物となり、TDKは、2007年同事業の大部分をブランド使用権とともに米国企業のイメーションに売却する。当時、記録メディア事業の米国法人に出向していた著者は、事業とともに売却先のイメーション社に移る道を選ぶ。これが1度目のリストラ。その数年後、著者はイメーション社で日本のB2C事業の責任者となる。ようやく業績が好転しつつあった2015年、同社はグローバルで記録メディア事業から撤退することが決まる。同社が「モノ言う株主」との委任状争奪戦に敗れ、事実上経営を乗っ取られたためだった。著者は事業撤退を完了させ、部下から1ヶ月遅れで解雇となり、54歳にして2度目のリストラを経験する。その時、著者は徒労感と罪悪感に苛まれたという。なぜ記録メディア事業の凋落を止められなかったのか。どうして成長を持続できる事業構造に転換できなかったのか。退職後、著者は自らの記憶を辿って、その答を探し続けた。そこで浮かび上がってきたのが「5つの大罪」であったという。

著者の父も電機産業の人だった。

著者は自らの経験を補完するために、父の桂泰三のキャリアを追体験しようとする。父は1955年に、まだ小さなラジオメーカーだった早川電機(現シャープ)に入社。会社の急成長に合わせて多くの経験を積み、1986年、副社長に就任した。昭和の高度成長時代を体現したような人生だったという。滋賀大学で編集された父のオーラルヒストリーを読み込み、父から話を聞くことで、著者は「5つの大罪」が自身の個人的な体験のみならず、日本の大手電機メーカーに共通する問題、特に家電事業、半導体事業、液晶事業を凋落させた要因であったと確信する。

 

日本の電機産業が犯した5つの大罪。

著者は、日本の電機産業が凋落した原因を「5つの大罪」として断罪(懺悔?)する。

1.誤認の罪

80年代から90年代にかけて電機業界ではデジタル化が進展する。CDの登場に始まる第一のデジタル化のメリットを「高品質」「高性能」「高付加価値」と誤認し、より根源的なニーズであった「画期的な簡易化」の提供をおろそかにしたこと。

記録メディアにおいては、アナログ時代、カセットテープには使用する磁性体によってノーマル、ハイポジション、メタルというグレードがあった。ビデオテープでも、スタンダード、HG、Hi-Fiがあり、それらの性能には、ユーザーにもわかる差があったという。しかしデータを0と1で記録する光ディスクになると、品質が均一化され、ユーザーには違いがわからなくなってきた。日本の数年後に光ディスクの生産を始めた台湾メーカーは、後発の強みを生かして、低価格の製品で市場に参入してきた。日本のメーカーは、品質が劣る台湾製の製品では高品質な日本製の敵にならないと対策を取らなかった。ほどなく台湾製品が低価格を武器に市場を制覇してしまう。同様のことはテレビや半導体でも起きていたという。90年代の終わり頃、日本の企業やメディアの間で「モノづくり」という言葉が流行りはじめる。価格競争では後発の台湾や韓国に勝てなくなった日本は「古来の匠の技を受け継ぐモノづくり」こそが日本の製造業の強みであり、繁栄の源であると、高品質、高性能、高付加価値の「三高路線」を邁進してゆく。その結果、液晶や半導体でも韓国や中国などにシェアを奪われてしまった。

2.慢心の罪

アナログ時代、世界を席巻した日本企業の圧倒的な強さ。その自信が慢心となり、台湾や韓国などの新興勢力の台頭を許したこと。光ディスクの場合、台湾が生産を始め、低価格を打ち出して市場に参入してきた時、TDKの社内では、台湾製品の品質の悪さを挙げて勝負にならないと言う意見が支配していた。しかし程なく台湾製品がシェアを拡大し、独占状態になっていく。TDK、マクセル、ソニーという御三家も台湾のメーカーから購入せざるを得なくなる。台湾製に変わっても日本のメーカーが懸念していたクレームなどは発生せず、日本国内生産での品質基準がオーバークオリティであったことがわかったという。液晶テレビで一時は世界シェアトップの地位に登りつめたシャープも、韓国などの後発メーカーの台頭により、その地位を奪われてしまう。

3.困窮の罪

80年代から90年代にかけて、日本企業を取り巻く環境が大きく変化する。1985年のプラザ合意による急激な円高、90年代に始まった経済の急激なグローバル化、1990年のバブル崩壊などにより、多くの日本企業が経営危機に見舞われる。電機メーカーは、リストラや製造拠点の海外移転などの対策に追われることになる。さらに2000年代になると米国流の経営手法である「選択と集中」を無批判に受け入れ、推進する中で、イノベーションを起こす力を自ら削いでしまったという。日立製作所NECは基幹であった半導体DRAM事業を切り離し、合弁会社エルピーダメモリーを設立する。その3年後には三菱電機DRAM事業も同社に加わる。NECはさらにプラズマディスプレイをパイオニアに売却。日立製作所もシステムLSIや携帯電話事業を本体から切り離している。2006年、パナソニックはMCAへの投資から完全に撤退。一方で選択・集中する動きも活発化する。東芝アメリカの原子力関連企業ウエスチングハウス社を巨額を投じて買収する。シャープも液晶への集中を宣言し、社内のリソースを半導体から液晶へ集中させた。著者がいたTDKも記録メディア部門を米国企業イメーション社に売却し、そのイメーション社も数年後には「モノ言う株主」に経営権を乗っ取られ、記録メディア事業から撤退してしまう。著者は、日本の電機メーカーが推進した「選択と集中」は失敗した事例が目立つと言う。東芝は買収したウエスチングハウス社の破綻をきっかけに東芝本体が経営危機に陥った。液晶で飛ぶ鳥を落とす勢いだったシャープも液晶事業の低迷にともなって破綻の危機に直面する。

このような、日本の電機産業が困窮しているタイミングで、インターネットという巨大隕石が落ちてきたと著者はいう。日本の電機産業は目先の課題に気を取られて、インターネットが引き起こしたIT革命に気づくのが遅れ、プラットフォーマーになるチャンスを米国に奪われてしまう。また選択と集中によって、次の時代につながるイノベーションを起こす力(人材、技術力、新分野に取り組む余裕)までも削いでしまったという。

4.半端の罪

米国流の「選択と集中」の掛け声の下、大胆な改革を実行しようとしたが、どれも中途半端に終わらせたこと。リーマンショックの後、日本の企業は、それまでの終身雇用を捨て、次々にリストラに踏み切っていく。真っ先にその対象になったのは2003年の労働者派遣法の改訂で解禁になった製造業の非正規労働者だった。改革は、既得権者(正社員、男性、経営側)にとって都合がいい改革にとどまり、公平性の欠落、ダイバーシティの遅れ、ベースアップの抑制という弊害を生じさせ、最終的には組織全体のエンゲージメントの低下につながったという。その結果、肝心の業績は回復せず、リコール隠し、品質不正、粉飾決算、不正会計など企業のモラルの低下を招くことになった。

5.欠落の罪

混迷する電機産業の組織でリーダーに求められるのは、明快なビジョンによって社員の使命感に火をつけ、行動変容を起こすことだが、日本のリーダーたちは、多少のリスクを取ってでも明快なビジョンを打ち出して組織を牽引しようとする気概が欠落していたこと。著者はシャープの液晶事業を例にあげてリーダーによるビジョン発信の大切さを語る。1998年、シャープの社長、町田勝彦氏が就任後初めての記者会見で「国内で販売するテレビを2005年までに液晶に置き換える」という大胆なビジョンを打ち出した。当時発売されて間もない液晶テレビは、サイズがようやく15インチ、価格はブラウン管テレビの4〜5倍もしていた。当初、無謀とも思えたこのビジョンだが、やがて絶大な効果を発揮し始める。目標が明快で期間もはっきり区切られていたため、全社を挙げてビジョンの達成に邁進するしかなかったからだ。その結果、開発・製造部門は技術的な課題を次々に克服していく。三重県亀山市に、コスト削減の切り札となる最新鋭工場も建設された。最大の懸念材料出会った歩留まりも5割を超え、競合企業を慌てさせたという。町田氏が目標にしていた1インチ1万円以下という売価目標も早々に達成された。マーケティング部門は亀山工場の製品を「世界の亀山モデル」と命名。このイメージ戦略は見事に成功し、世間では「亀山モデルは高品質」というイメージが広まり、指名買いするユーザーが急増した。町田氏が描いた野心的なビジョンは2005年の期限を前倒ししてほぼ達成された。ブラウン管テレビでは常に他社の後塵を拝してきたシャープが、薄型テレビでは国内トップブランドになった。ところが、飛ぶ鳥を落とす勢いだったシャープもリーマンショックを境に坂道を転げ落ちるように経営危機に向かっていく。国内のテレビを液晶に置き換えるという目標の1年前倒しで達成してからわずか7年後には3760億円という巨額の赤字を計上。その急激な転落の原因を、著者は、町田氏のビジョンの中に求めようとする。「国内で販売するテレビを2005年までに液晶に置き換える」というメッセージには、海外と液晶以外の事業が含まれていなかった。町田氏が社長を退任した2007年3月期でも、シャープの非液晶事業の比率、海外事業の比率はともに5割を超えている。町田氏が掲げた明快なビジョンは、売上高ベースで見ると、半数を越える社員には直接関係がなかった。また同じ液晶テレビでも国内ではシェア争いで独走していたが、海外ではそのポジションを失っていく。2004年にはグローバルで25%というトップシェアを誇っていたが、3年後には、サムスンソニー、フィリップスに次ぐ4位の10%まで落としている。シャープは、ビジョンの力を最大限に活用しながら、その力を持続できなかったのだと著者はいう。

 

提言:企業のダイバーシティを高める

著者は自らの体験を振り返って、問題の本質がダイバーシティに乏しい同質性の高い組織にあったのではないかと気づく。経歴、年齢、性別、出身校などが似ていれば、同じ思考回路に陥りやすく、さらに長年一つの組織に属していればどうしてもその組織が持つ独自の企業文化の影響を受ける。また、同質性の高い組織は内と外を峻別し、異端を排除する傾向を持つ。かつての日本企業の強みは、この同質性の高い組織が生み出す団結力やエネルギーだった。右肩上がりの高度成長時代には、この特性がが大きな強みとなった。しかし時代は変わり、ユーザーのニーズは多様化し、技術の進歩は速まり、戦う相手もさまざまな国の企業になり、取るべき戦略もM&Aやアライアンスなど多様で複雑になった。これまでと同じような思考や行動パターンを繰り返していては勝てるはずもないという。企業がダイバーシティを高めるには、どうしたらよいか。著者は、企業の経営陣が自らのダイバーシティを強力に推進することだという。日本の企業では、社長が実質的に自分の後任や取締役を選任するシステムが主流だ。このやり方では、社長と同じような思考、ルーツ、キャリアを持つ人材がバトンをつないでいく可能性を高めるだけだという。著者は、これを打開するためには社長自らが人事権を第三者に委ねるより他にない。それは本書の中にもある「指名委員会等設置会社」化を進めることだという。これまで社長の専権事項であった自分自身の出処進退、後継者の人選、報酬の決定に、社外取締役を中心とした指名委員会、監査委員会、報酬委員会が介入できる仕組みにすることであるという。

クオータ制の導入

台湾の光ディスクが日本製品を脅かし始めた時、適切な対応をしなかった御三家と異なり、きちんと対応できた日本のメーカーがあった。それは太陽誘電というメーカーで、同社はCD-Rの開発を主導した企業の一つで、研究者の浜田恵美子氏は「CD-Rの母」として知られていた。彼女は台湾に講演で招かれた時に現地の企業を見学して回った。彼女はその後も台湾のメーカーの動向を把握するように努めていたため、御三家のような失敗をせずに済んだという。一人の女性が然るべきポジションにいたおかげで、太陽誘電は他の日本企業のような失敗をせずに済んだ。著者は、女性やマイノリティの登用の促進を企業任せにする時代は終わったという。行政レベルで女性の採用や管理職への登用を、定数で決めるクオータ制の導入を進めるべきだと主張する。

全社員の解雇のハードルを下げる。

もう一つの著者の提案は、非正規雇用者など、外部のみに負担をかけるのではなく、全社員に公平に負担をかけるべきだという。それはつまり全社員の解雇のハードルを下げ、雇用の流動制を高めることだという。逆説のように聞こえるかもしれないが、著者の経験から、企業側が社員を解雇しやすくすることにより、社員のエンゲージメントが向上する可能性が高いという。社員は、終身雇用(メンバーシップ型雇用)で放棄していた、自己決定権を取り戻すことができるのだという。

本書を読み終えて。

本書を読んで、80年代には世界のトップに立っていた日本の電機産業が、90年代以降、急速に凋落していった原因や経緯の全体像が、ようやく俯瞰でき、理解でき、さらに納得もできたと思う。それは、著者が体験した電機メーカーの失敗や敗北を、僕自身も広告制作の現場で身をもって味わっていたからだと思う。シャープが「世界の亀山モデル」を打ち出して絶好調であった時、僕はプラズマ陣営側の広告製作者の一人として悔しい思いを味わっていた。高品質・高性能・高付加価値という「三高」が日本のモノづくりの強みだということも真剣に信じていたし、広告表現でも「高画質」「高性能」「高機能」を訴え続けていた気がする。著者が大罪であると断罪した大きな過ちの中に僕自身もどっぷりと浸かっていたのだ。

本書に書かれた内容は、ほぼ間違っていないだろう。では、日本の電機産業が大罪を犯さずに正しい道を歩める可能性があったのかというと、僕には、ほとんど無かったのではないかと思える。本書が描いた過ちは、電機産業だけでなく、日本の多くの企業が、さらに言うと日本の国全体が犯していたのだと思う。日本が国を挙げて一つの方向に向かっている時に、誰がそれを止められるだろうか?唯一言えるのは、日本の企業が、失敗や敗北に陥った時、その原因をしっかり検証をしなかったことが凋落の大きな原因のではないかということ。本書の冒頭で著者もそのことについて触れている。以下引用「米国の企業ではリストラなどで退職する社員にもイグジット・インタビュー(出口聞き取り)と言う制度がある。退職の日を迎えた社員と面談を行うのだ。後腐れがなくなった彼ら、彼女らに会社が改善すべき点を尋ねるので、本音での回答が期待できるという。自己都合だろうが、会社都合だろうが、社員が会社を去る背後には何がしかの失敗があるものだ。アメリカ企業は、たとえ耳の痛い話になったとしても、その失敗を貪欲に利用しようとするのだ。」一方、日本の組織においては、失敗や敗北は「無かったこと」にされることが多い。失敗や敗北を語ることさえタブー視される。結局、いつまでたっても失敗の原因が追求されることが無いため、同じ失敗を何度も繰り返すことになる。本書によって「日本の電機産業はなぜ凋落したか?」という疑問に対する答はほぼ明らかにされたと思う。というより、疑問に答えるための材料がほぼ出揃ったと思う。後は、読者自身がその材料を用いて、自分が納得できる答を導くべきなのだ。

大阪マラソン2023完走記

大阪マラソン2023

2022年11月20日神戸マラソンから3カ月後の2月26日。5回目の参加になる大阪マラソンを走った。2022年の大阪マラソンの一般部門がコロナのせいで直前に中止になり、出走の権利が今年にそのまま持ち越された大会。追加募集があったらしいけど、コロナ禍のせいかな。各地のマラソン大会も定員割れが増えていると聞く。マラソンブームに乗っかって1回だけ参加してみたみたいな人が一巡して、本当にランニングが好きなランナーだけが残っているということかな。

神戸の後、練習再開が早すぎた。

神戸マラソンで久しぶりに完走を果たしたあと、気をよくして大阪では自己ベストを狙おうと、神戸を走った3日後から練習を再開。これがよくなかった。数キロぐらい走ったところで右脚の付け根に違和感を感じた。さらに走り続けると痛みが出てくる。走るのを止めて歩きだすと痛みが消える。走り出すと痛くなる。そのまま走り続けると、痛みが強くなってくる。大事をとって、その日は歩いて戻った。翌日、走り出すと、今度は1km行かないうちに違和感と痛みが出てきた。フルマラソンのあと、練習再開が早すぎたのかもしれないと思い、3日ほど休んで練習を再開すると、やっぱり同じように痛みが始まる。これはマズイと思い、まる1週間練習を休んだ。1週間ガマンして練習を再開したが、痛みはないものの、5km以上走ると違和感が出てくる。そんな状態がしばらく続き、12月はまともな練習ができなかった。本格的な走りこみは年が明けてからになってしまった。

いつものことながら練習不足で本番。

定年後、時間はたっぷりあるので、しっかり練習できると思うのだが、今回も走り込み不足のまま本番を迎えてしまった。元々寒いのが苦手で、冬はあたたかい室内でぬくぬくと読書やテレビ、昼寝するのが一番というタイプなので、冬期の練習がなかなか進まないのである。普段の練習場所である武庫川の河川敷コースは、車も通らず、信号もなく、片道10km以上走れる恵まれたコースだが、冬期はたいてい北西の風が吹く。自宅がある宝塚から走ると往路は追い風だが、復路は決まって向かい風になる。夏場なら向かい風で涼を取ることができるが、冬場は冷たい北西風(強風であることも多い)を受けながら走り続けることになる。自宅に戻ってくる頃には身体が冷え切って、指先もかじかんで玄関の鍵も開けられないこともしばしば。防寒装備で走ればいいと思うかもしれないが、厚着で走り始めてしばらくすると体温が上がってきて大量の汗をかく。すると今度はその汗が冷えて体温を奪うのである。本当に冬のランニング装備は難しい。厚着の装備で窮屈そうに走る僕の横をランニングシャツと短パンで軽々と追い抜いてゆくランナーたち。君たちはどういう神経をしてるワケ?さらに今年の冬は天候も不順で、走れない日も多く、1月の走行距離は200km程度にとどまった。2月になっても走行距離は150km弱と伸びなかった。

新コースは難コース!?

2019年からコースに変更があった。それまでは大阪城公園の西側をスタートして、ゴールは南港のインテックス大阪前だったが、今回は大阪城公園横を出発して、大阪城に戻ってくるコースになった。コース図を見ると、折り返しが5カ所もある。さらに30km付近に高低差が集中している。いわゆる上町台地のアップダウンである。ここは以前のコースでも通った場所だが、前半の元気があるうちに通過していたので、それほど辛くはなかった。しかし今回は30kmという後半に出会う難所なので辛いかもしれない。心して走ろう。

新型コロナ対応の手続きに戸惑う。

大会2日前の金曜日、1年前から通っている陶芸教室を午前中で切り上げ、南港のインテックス大阪に向かった。ランナー受付のためである。従来は大会事務局からゼッケンの引換証が送られてきて、大会の前々日と前日に開催されるマラソンEXPO会場に持っていけばゼッケンがもらえた。今回は引換証はネットでダウンロードし、印刷して持参するか、スマホの画面を見せればOKだ。さらにコロナ対策としてスマホにダウンロードした体調管理アプリで大会1週間前から体温や体調その他を記録して毎日送らなければならない。体調の記録と送信は大会後1週間まで続けることが求められた。何年かぶりのインテックス大阪。受付はスムーズに済み、マラソンEXPOの会場を回った。コロナのせいか、グルメコーナーも無く、ちょっと淋しい印象。ミズノをはじめとするスポーツメーカーやサプリなどのメーカーなどがお店を出しているが、価格が安いわけでなく、買う気にならない。塩タブレットを一袋購入したのみ。マラソン当日に着るウエアや装備は、あらかじめ練習の段階で身につけ不具合がないか試しておかないといけない。数年前の神戸マラソンで、前日のEXPOで買ったウエストバッグが走っているうちにベルトが緩んできて何度も締め直す必要があり、締め直すためにはわざわざ立ち止まってバッグを外さなければならず、そのためにかなり時間をロスしたことがある。それ以降、ウエアや装備は、事前に最低でも10kmは走って問題ないことを確認することにしている。帰りに梅田のヨドバシのスポーツショップに立ち寄って、大会に携行するジェルサプリを4パック購入。翌日の土曜日は、午後早い時間に歩いたり、走ったり、ストレッチをしたりしながら4kmを消化。夕食を早めの5時に済ませて、翌日の準備をし、午後10時にベッドに入った。しかし神経がたかぶっているせいか眠れず、最後に時計を見たのは午前0時過ぎ。

なんか雰囲気が違うぞ!

起床は4時45分のアラームが鳴る3分前に目が覚めた。パンと紅茶の朝食を済ませ、顔を洗い、装備を身につける。関西圏のマラソンの場合、走る装備を身につけ、その上に防寒着などを着て出かけることが多い。6時10分頃、自宅を出る。宝塚発6時31分の新大阪に乗るつもりだったが、すでにホームに東西線に入る27分初の快速電車が止まっており、宝塚発なので、座って行けるため、こちらに乗り込む。ランナーらしき乗客もチラホラいる。宝塚を出て、川西池田、伊丹と停車する度にランナーらしき乗客が乗り込んでくる。シューズに測定用のスマートタグを装着しているので参加者だと知れる。尼崎で大阪行きに乗り換え。このまま東西線で京橋まで行けるが、各駅停車になり時間がかかるので大阪駅まで行く。大阪駅で地下鉄御堂筋線に乗り換え、本町まで行って中央線に乗り換え、森ノ宮まで行くつもりだった。というのは前回の大阪マラソンで、大阪駅での環状線への乗り換えが混雑し、さらに降車する京橋や大阪城公園駅でも改札を出るのに時間がかかった記憶がある。しかも今回はスタートとゴールが大阪城公園のため、森ノ宮駅がいちばん近くなる。地下鉄の乗り換えようと改札に向かいながら、環状線のホームを見ると、全然混んでいないではないか。急遽、ルートを変更して環状線ホームに向かう。混んではいないと言っても大阪マラソン参加者で電車はすぐ満員になった。京橋駅で少し、大阪城公園駅で大半のランナーが降りていく。残ったランナーは森ノ宮下車を選んだ人たちだ。森ノ宮では混み合っているが、前に進まないほどではない。大阪城公園に入ってしばらく歩くと検温ゲートがあり、検温を受け、検温ずみのリストベルトをもらう。右手の方に進むと更衣テントがあり、中をのぞくと空いているようなので、入って着替える。着替えると言っても防寒ウエアを脱ぎ、リュックにしまって手荷物袋に入れるだけ。手荷物エリアに移動して手荷物を預ける。以前は南港がゴールだったので、トラックがずらりと並んでいたが、今回はゴールも大阪城公園なので、大きな台車を並べて荷物を保管してくれる。トラックで運ぶ手間やコストがかからず、こちらの方が合理的かもしれない。手荷物を預けた時点で8時過ぎ。スタートブロックに向かう。途中でトイレを済ませておこうとトイレの行列に並ぶ。これが長かった。30分以上かかったと思う。比較的早めに会場に入ったにもかかわらず、トイレを済ませて、スタートブロックに並んだのは9時前になった。今回の大阪マラソンは、全体にトイレの数が少なすぎた。スタートしてからも仮設トイレが少なくて、どこでも長い行列ができていた。トイレ不足は競技に少なからぬ影響を与えていたと思う。

装備メモ。

装備を記しておこう。シューズは神戸でも履いたアシックス・マジックスピード2の2足目。カーボンプレート内蔵の厚底だがクセが無くて初心者でも履きやすい。色をオレンジからブルーに変更。薄めの防寒タイツの上にに膝丈のパンツを重ねる。トップは10年以上着続けているワコールCWXの長袖シャツに2019年の宝塚ハーフマラソンの参加賞の半袖速乾Tシャツを重ねる。帽子はAirpeakのベンチレーションキャップ。帽子の前面と側面に空気取り入れ口を設け、風を内部に誘導して蒸れを防ぐスグレ物だが、ツバの部分の芯材のプラスチックが割れてしまったために再度購入して今回に間に合わせる。手には10年使って穴が空きかけたスマホ対応の防寒グローブ。時計はGARMIN ForeAthlete55。もう数年以上使いつづ受けているウエストバッグには、ハンディティッシュ2個、サプリのジェルを3個、塩タブレット3個、iPhoneを収納。最後に防寒用の使い捨てのビニールポンチョを被ってスタートを待つ。

知事も市長もいない。応援の有名ランナーもいないスタート。

スタートブロックに並んで待っていると、何か雰囲気が以前の大会と違う。大規模な市民マラソンでは、オープニングセレモニーというのか、知事や市長などの自治体トップをはじめ、タレントや有名なランナーがゲストに呼ばれ、賑やかに始まるのだが、スタートラインからかなり離れているせいか、セレモニーらしき音が全然聞こえてこない。今回はコロナ禍に始まったウエーブ方式のスタートで、3波に別れて出発する。僕は第2ウエーブ。第1ウエーブがスタートしたらしく集団が前に移動すると、ようやくタレントの森脇健児らしき声が聞こえてきた。彼の賑やかな応援を聞きながら少しずつ前へ進む。そしてスタート!以前の大会だと号砲を鳴らすのは知事や市長など、自治体のトップであることが多かったが、今回の陸連の幹部がピストルを鳴らした。集団がゆっくりと動き出した。府庁前のスタート地点を通った時、応援スタンドの方を見るとIPS研究所の山中伸也氏の姿が見えた。しかし他には知事も市長もゲストのタレントやランナーも見えないので、なんだか地味な印象。

スタート直後、いきなり渋滞。

前回は南に向かってスタートしたが、今回は北向き。道が緩やかに下ってゆくのは、このあたりは上町台地の北端に位置しているためだ。ウエーブスタートのせいか、割と早く歩きからランに移行した。ペースは6分台後半とゆったりめ。大阪城公園の西側を北上し、寝屋川を渡り168号線に出て東へ向かう。片町で京阪本線のガード下をくぐって野田東の交差点へ向かう。交差点の手前で急に集団が止まった。交差点を曲がるところで急に道が狭くなっているために、渋滞が発生したらしい。2〜3分のロスになった。国道1号を西へ。ランに戻って桜宮の橋を渡り、造幣局のそばを通って西へ向かう。3kmを過ぎたあたりで、周囲を見回す余裕が出てきた。前方に、着物に裸足という女性ランナーが走っている。薄っぺらなサンダルやソールが全く無いシューズで走っているランナーを時々見かけるが、裸足でフルマラソンを走りきろうという彼女は、相当の猛者と見た。南森町の交差点左折し、谷町筋を南へ。天神橋を渡り、右折して土佐堀通りを西へ。淀屋橋で右折し、大江橋の手前で左折して渡辺橋へ向かう。渡辺橋の南詰を左折して、四つ橋筋に出るが肥後橋を渡ったところで左折して土佐堀通淀屋橋方面へ向かう。何度も忙しく交差点を曲がるので、土地勘の無いランナーはどこを走っているかわからなくなってしまうだろう。淀屋橋で右折すると、ようやく御堂筋に入る。給水コーナーがあったのでスポーツドリンクを補給。ついでにずっと身につけていたビニールポンチョが暑くなってきたので、脱いでゴミ箱に放り込む。結果的に、この選択は失敗だった。

賢い!自作ポンチョ。

5kmの手前、土佐堀通を走っている時に、面白いポンチョを身につけたランナーを発見。普通の透明なゴミ袋に穴を開けただけのよくあるポンチョだが、背中や脇の部分に切れ目が入っていて、空気がこもらずに背中に抜けていくようになっている。しかも切れ目の周囲は養生テープで丁寧に補強してある。ゴミ袋を利用したポンチョは寒い時期のマラソンに威力を発揮するが、身体が温まってくると、汗が発散されず蒸れて不快になるので、大抵はスタート後しばらくすると脱いで捨ててしまうことが多い。同じような自作ポンチョを身に付けたランナー(しかも色違い)がすぐそばを走っていた。

トイレの行列で10分ロス!

御堂筋を南下し、難波で千日前通裏を西へ向かう。このあたりは昔の職場に近く、土地勘もあるので、街並みの変化を楽しみながら走れる。ペースは1km/6分30〜45秒をキープ。大正橋で京セラドームを左に見ながら右折。松島球場のそばまで行って最初の折り返し。すぐ右折して京セラドームの北側を西へ向かい、みなと通りに出る。みなと通りをしばらく走ると2度目の折り返しを通過。そのまま同じ道を戻って、大正橋、千日前通りに戻ってくる。地下鉄の桜川駅の手前で右折してなにわ筋を南へ。南の端の岸里で折り返す10kmほどの区画は、真っ直ぐで単調な風景が続く。ここまで通過したすべての給水所でスポーツドリンクor 水を補給してきたが、気温も上がらないため、あまり汗をかかず、そのせいかトイレが近くなってきた。仮設トイレの前を通る度に並んでいる行列をチェックするが、どこも長い行列である。普通、コースの後半になるほどトイレに並ぶ行列は短くなってくるが、気温が低いせいか、20kmを過ぎても行列が縮まらない。仕方なく、折り返し点を過ぎてから、23kmあたりのトイレの行列に加わる。再び走りはじめるまで10分を要した。このこともあって、後半は水分の補給を控えるようになったが、最後の最後にその影響が出てきたと思う。

文字通り30kmの壁!

千日前通りに戻ってすぐ25kmを通過。足はまだ動いているが、ペースは7分台に落ちてきた。国立文楽劇場を過ぎてすぐ右折し、松屋町筋を南下。4度目の折り返し点に向かう。天王寺公園の手前で折り返し、北上。千日前通りに戻った途端、目の前にコース最大の難関が立ちはだかる。文字通り30kmの壁だ。大阪市内はほぼ平坦だが、唯一南北に伸びた「上町台地」だけが20mほどの高低差を持っている。天王寺七坂、阿倍野七坂と呼ばれる坂は、この台地をめぐる坂なのである。迷わずペースを落とし、ゆっくり登っていく。30km過ぎから35km手前まで、上町台地の高低差がランナーを苦しめる。しかも、この頃から冷たい風が吹き始めたため、早々と捨ててしまったポンチョのことを後悔する。32km付近で再びトイレの長い行列に並ぶ。やっぱり10分のロス。

ありがとうバナナマン

5度目の折り返し点を過ぎて35〜36km付近で、元会社の同僚だったU君がランナー仲間の応援に来ていると事前にFacebookで投稿していた。何とか彼のいる地点まで行き着こうと最後の力を振り絞る。四天王寺のそばで最後の折り返しを済ませ、勝山通りで右折し、35km地点へ向かう。途中、コースは道路の右半分のみを走ることに。従って応援は道の右側の歩道に集中している。応援の中にU君を探すが見当たらない。ふと反対側の歩道にポツンと奇妙な人物が立っている。バナナの仮装!「U君だっ!」しかし中央分離帯があって反対側には行けない。分離帯の切れたところまで戻るにはかなり戻らなければならない。コース前方に交差点があるがかなり先である。仕方がない。えいやっと分離帯のフェンスを跨ぎ越えようとするが、35kmを走り続けてきた足は思うように上がらず、攣りそうになる。それでも無理やり足を引っ張り上げてフェンスを乗り越え、U君の元へ向かう。皮をむいた一本のバナナを全身で表現したオリジナルの仮装が見事。このマラソンで唯一の知り合いの応援に元気をもらって、残り数kmに向かった。

初めて経験する痛み。

勝山通りから左折し、コース最長の直線区間となる今里筋を北上する。冷たい北風が正面から吹いていて、寒かった。スタート後に捨てたポンチョを捨てずに持ってくればよかったと、少し後悔した。U君の応援をもらった後は、楽勝で行けると思っていた。5時間以上走ってきた脚の疲労は極限に達しているものの、まだ動いているし、ひどい痛みもない。ところが、しばらくするちょうど右側の肋骨の奥のあたりが痛み始めた。横隔膜のあたりがこわばるような痛み。あと少しだから、と無視して走り続けると痛みが強くなり、耐えられず思わず立ち止まってしまう。走るのをやめ、しばらく歩いていると痛みが治ってくる。痛みが治ったところで走り出すと、またすぐに痛みがぶり返してくる。結局、ゴールまでこの繰り返しが続いた。フルマラソンを20回以上参加しているが、こんな痛みを体験したことはない。長い距離を走り続けてきたせいで脚、腰、背中などの筋肉や関節の痛みはお馴染みだが、今回は様子が違っている。

学研都市線の高架をくぐり左折すると、前方にOBPのビル群が見えてきた。あと2km。城見通りを歩いたり走ったりしながら西へ向かう。OBPを抜け、大阪城公園に入って、最後の200mほどを全力で走る。そしてゴール。タイムは5時間51分40秒。マラソン完走も20回を越えると、最初の頃のような感動はなく、淡々とフィニッシュラインを越える。タイムにも見るべきところは無いから、達成感も少なめ。ランニング仲間もいないので一緒に完走を喜び合うこともない。5kmごとのラップを残しておこう。

区間タイム

0〜5km:35:30

5〜15km:1:09:18(なぜか5〜10kmのタイムがない)

15〜20km:35:40

20〜25km:47:58

25〜30km:39:28

30〜35km:53:45

35〜40km:46:53

40〜Goal:23:08

42.195km:5時間51分40秒

帰りの電車で痛みが再発。

ゴール後、タオルというよりブランケット、完走メダル、スポーツドリンクなどを受け取り、そのまま手荷物預かりに向かう。手荷物を受け取ると、すぐそばの芝生で着替えることにする。早く帰りたいので、走ってきた装備そのままで上に防寒ウエアを着る。シューズだけは柔らかいスニーカーに履き替え、荷物をまとめて駅の方に向かう。南東の公園出口から出て地下鉄中央線の森ノ宮駅へ。ゴールしてから20分ぐらいで地下鉄に乗車していた。本町駅まで行き、四つ橋線に乗り換え、西梅田まで行く。JR大阪駅が始発の福知山線新三田行き快速に乗車してようやく座ることができた。ウエアを着替えずにそのまま防寒着を羽織っただけなので、汗が冷えて寒くなってきた。尼崎を出てしばらくすると、先ほどの痛みがぶり返してきた。じっとしているにも関わらず痛みが強まってくる。痛いだけでなく何だか気分が悪くなってきた。冷たい汗が出てきて、視界も霞んできた。これはまずいぞ。次の伊丹駅で降りて駅員に助けてもらおうか。4人掛けの向かいの席に座っている若者に声をかけて介抱をお願いしようか。スマホで家人に連絡しなければ…。スマホを取り出してLINEを開いてみるが、視界が霞んで画面が見えない。目を閉じてじっと耐えていると、痛みが少しずつ薄らいできた。いつの間にか電車は伊丹駅も通り過ぎ、次の中山駅も過ぎて、宝塚駅に向かっていた。気分はかなり回復してきている。宝塚駅で降りると、構内の多目的トイレに入って、ゴールしたままだったランニングウエアを脱ぎ、タオルで汗を拭いて暖かいセーターとジャージに着替えた。別に駅で休むこともなく、そのまま10分ほど歩いて自宅に到着。痛みは完全に消えていた。風呂に入って夕食を済ませ、コタツで「どうする家康」を観た。10時過ぎに就寝。寝るまえに体重を測ると52kg台で、なんと20代の数値。

あの痛みは何だったのだろう。その後。

20年近くランニングを続け、マラソンも20回以上参加しているが、今回のような痛みは初めての体験である。ひょっとしたら心臓か何かの疾患?と思って、念のために病院に行くことにした。すぐに予約が取れず、2週間ほど経ってから循環器の医院で検査を受けた。結果は異常なし。医師から「元気な、いい心臓です」と褒められ、握手までしてもらった。他の部分に原因があったかもしれないが、2週間経ってそのダメージが回復している可能性もあるが、再現できないため、わからないという。当日、気温が低くて、トイレに並ぶのが嫌で、20km以降水分を摂らなかったせいで軽い脱水症状になっていたことが原因かもしれない。その後も100km以上走っているが、あの時のような痛みは体験していない。

 

 

神戸マラソン2022完走記

2022年11月20日9時15分スタート(第2ウエーブ)天候:曇り一時雨。記録:5時間24分47秒(グロス)5時間24分41秒(ネット)

ポートアイランドに向かう橋の上

2020年。もうマラソンに出るのを止めようかと思っていた。

2018年の神戸マラソンで完走したのが最後。それ以降、完走すらできない大会が続いていた。完走できない理由は明らかに練習不足で、練習不足の理由はモチベーションが保てなくなっているせいだ。マラソン参加も20回を越え、だんだんマンネリ化してきている。記録も2011年の篠山マラソンで出した4時間34分を超えられず、最近では5時間を越えることも多くなっている。

数年前から「自分はマラソンに向いてないのでは?」と思い始めた。

中学で陸上部に入った時、迷わず短距離種目を選んだ。小学校高学年から足が速かったこともあったが、いわゆる持久走が苦手だった。同じ学年で中距離以上を目指す部員は、最初から持久走が明らかに速かった。彼らは、それまでに持久走のトレーニングなどしたことがなかったから、元々心肺機能が優れていて、中長距離に適性があったのだと思う。マラソンを始めてからも、練習量は僕とほとんど変わらないのに、サブ4やサブ3.5の記録を出せる知人が何人かいる。彼らは元々心肺機能が高く、筋持久力が優れていて、長距離走に適した身体を持っているのだと思う。もちろんそうではない僕のような普通のランナーでも練習を積めば、ある程度の記録を出せるようになるのだろう。しかしそれは、本来の自分に適していない競技に無理やり自分を合わせているのではないか?そんなことも考えたりするようになってきた。それと60代後半になって、体力が目に見えて落ちてきていることも、モチベーションが下がる原因の一つになっていると思う。

ランニングは好きだが、マラソンは好きじゃない。

それと、マラソン大会への参加そのものが苦痛になりつつあることもモチベーションが保てない理由の一つであるかもしれない。ランニングの良いところは「自分一人で、好きな時に、好きな場所を、好きなように走れる」ということだ。他のスポーツのように相手やチームの仲間のことを気にしなくてもよくて、自分の都合だけ考えればいいのである。しかし、マラソン大会に参加するとなると、決められた場所、決められた時間に、決められたルールで走らなければならない。大規模な市民マラソンになると何万人のランナーが参加するため、受付や集合の時間、場所、手続きなどが厳密に決められている。会場の行き帰りも、長い行列に並んだり、混み合った場所で着替えたりするのは当たり前である。僕は、元々人混みや行列が苦手で、行列ができるレストランなどはまず行こうと思わない。多くのマラソン大会ではトイレに行列ができるのは当たり前で、10分〜30分の待ち時間は普通である。スタート前の整列も数十分は待たされるのは普通である。この数年、高齢になってトイレが近くなったせいもあり、大集団での行動がますます苦手になりつつあり、そこにコロナも加わって、もうマラソンに参加するのを止めようと思ったこともある。大会に参加せずにランニングだけを楽しむのも「あり」だと思っていたが、やはり何の目標もなく走るのは味気ないと感じる。ネットで大会の募集が始まると、どうせ当たらないだろうと応募してしまう。それで当選したのが今年の2月の大阪マラソンだった。当選したものの、コロナで中止になるだろうと思って練習にも身が入らなかった。しかし年が明けても、中止の発表はなく、これは開催するかもしれないと、あわてて練習を始めたが、直前になって一般参加の部は中止になった。大会が中止になると、大抵翌年の大会に参加する権利が得られる。一年先なら、コロナもおさまって、練習もしっかりできるだろうと思って参加することにした。

神戸はどうせ当たらないだろう。

神戸マラソンも、どうせ当たらないだろうと思い、安易に応募した。秋に開催されるマラソンの難しさは、主な練習が夏の暑い時期になってしまい、最近のように猛暑日が続くような夏には充分な走り込みができないことである。来年2月の大阪マラソンを目指して、夏の練習は程々にしようとのんびり構えていた8月のはじめに、神戸マラソンの当選通知のメールがきた。5回目の当選。今回が10回目の大会なので2回に1回は当選していることになる。神戸の抽選の倍率は4倍弱と言われているので、結構高い確率だと思う。マラソンの神様が気に入ってくれてるのかな?しかし練習が間に合わない。猛暑日が続く中、思うように距離を伸ばせないまま10月を迎えてしまった。ちょうど大会1ヶ月半前に30kmに挑戦したが、暑くて、軽い熱中症・脱水症状になってしまい、25kmしか走れず、最後の5kmは歩いた。翌週にも距離を伸ばそうとしたが、25kmにとどまった。距離を踏めないまま、本番を迎えることになった。

新しいシューズの貢献。

10月半ばにランニングシューズを購入。それまでは、フィット感とクッション性を重視したナイキの初心者用のモデルを履いていた。6月にスポーツショップのバーゲンで買ったのだが、ソールが柔らかすぎて、足首の安定感が足りないように感じていた。新しく買ったのはアシックスのMAGIC SPEEDという新製品だ。カーボンプレートが入っていて適度な反発力があり、違和感ない程度の厚底も好ましかった。自宅近くのスポーツショップで試し履きしてみて良かったので、1週間後に買いに行ったら、品切れで次の入荷も未定とのこと。大阪市内に出かけた時にグランフロントのアシックスストアで買うことができた。このシューズは効果抜群で、前のシューズと同じよう感覚で走っていても、1キロで30秒は速くなる感じ。ソールもしっかりしていて、足首の不安もかなり解消されたと思う。新しいシューズのおかげで10月は気持ちよく練習できて、走破距離は250kmを越えた。唯一の心配は天候。週間予報は「曇り一時雨」から「曇り時々雨」に変わっていた。

当日。天気は曇り時々雨。

目覚まし時計は4時半に設定していたが、4時前に雨の音で目が覚めてしまった。仕方なく4時に起床。朝食は、紅茶とトースト1枚、バナナ1本、ゴマ団子1個。ランニングの装備を着て、その上にナイロン+フリースのジャケットとジャージのパンツを履いて、予定より半時間ほど早く6時前に家を出る。気温は10度ぐらいで、ちょっと寒い。雨は小降りになっていたが、駅に向かう途中で雨足が強くなり、傘をさして駅に向かう。会場の受付は7時からなので、かなり余裕がある。阪急の神戸三宮駅に6時半すぎに到着。改札内のトイレは数人の行列ができており、その列に並ぶ。改札を出て、サン地下の通りに降りて南に向かう。

第2ウエーブスタート。

国際会館の前から地上に出ると、そこにゲートが設けられ、検温のスタッフが待機している。数分で7時になり、検温を受ける。検温を済ませると手首に巻く紙のリングが渡され、その場で身につける。僕が手荷物を預ける場所は、さらに南の「みなとのもり公園」なので、南に向かって歩いていく。雨はほとんど止んでいて、傘を刺さずに歩く。途中にも検温ゲートが設けられ、手首の検温ずみリングを見せないと通れないようになっている。前回までは手荷物預かりは東遊園地周辺だったが、今回はウエーブスタートとなり、第2ウエーブスタート組は、もう少し遠くなっている。阪神高速神戸線の下をくぐると公園の入口で、ここでゼッケンを見せて中に入る。公園を取り囲むように荷物トラックが停車している。どこで着替えようか?更衣用ののテントが見えたので、中を覗いてみると満員状態で、しばらく待たないと空きそうにない。諦めて他のスペースを探すことにする。手荷物預かりのトラックの近くに広場があり、ベンチもあるので、そこで着替えることにする。着替えるといっても、すでにラン用のウエアを着ているので上着やジャージのパンツを脱いで手荷物袋に入れるだけ。寒い。凍える程ではないが、風がかなり強くて、体温を奪っていく。使い捨てのビニール製ポンチョを取り出して頭から被る。スタートまで1時間以上あるが、手荷物をトラックに預けてスタートブロックに向かう。その途中、駅から会場に向かうランナーの行列を見て、その多さに驚く。スタートブロックはJで第2ウエーブの先頭だ。時間が早いので、前から3列目あたりに並ぶ。スタートまでまだ1時間以上ある。いつも大会当日は余裕を持って行動するようにしているが、その代償として長い待ち時間を我慢しなければならない。最近は待ち時間に周りのランナーと話すことで時間を潰すことにしている。「神戸は初めて?」「どちらかから来られました?」「雨は大丈夫そうですね」と話題には事欠かない。今回は関東から全国のマラソンに参加しているベテラン女性ランナーと神戸は初めてという姫路から来た女性ランナーと会話を楽しんだ。ブロックに並んでいる時に後ろのほうから男性の叫び声が聞こえてきた。整列ブロックそばのビルの駐車場から出ようとして道路が封鎖されているので怒って叫んでいるのだ。警備員だけでなく、並んでいるランナーに対しても怒鳴っている。その筋の人の典型的な恫喝だ。叫んでいるだけでは飽き足りなくなったのか、クルマ(メルセデスSUV:黒)に戻ってクラクションを鳴らし始めた。うるさい。怒りのあまり、ランナーの列にクルマでランナーの列に突っ込まれたら怪我人が出るかもしれない。クラクションが鳴るたびに周囲もざわつく。10分ぐらいして係員がやってきて、道路封鎖の一部を開け、クルマを動けるようにして、一件落着。周囲のランナーもホッとしている。

装備の記録。

装備を記録しておこう。シューズはアシックスの新製品「MAGIC SPEED2」カーボンプレート入りの厚底で、適度な反発力とクッションで最初から違和感なく走ることが出来た。ボトムはIGNIOの膝丈・透湿速乾パンツ。トップはノースフェイスで透湿速乾の長そでTシャツ。帽子は雨に降られることを考慮して、モンベルゴアテックス防水キャップ。使いふるしてロゴもかすれて見えないウエストバッグには、雨が強く降ってきた時に着るモンベルの超薄&超軽量ウインドブレーカー、3回分のジェルサプリ、塩タブレット3個、ポケットティッシュ2個、現金5千円と小銭300円を収納。スタート前の寒さ対策で、ビニールポンチョを被る。

スタートまで。

8時45分。ようやくスタートセレモニーが始まる。ゲストや招待選手、ゲストランナーの紹介が延々と続く。そしてお約束の黄色手袋による万歳。9時。第1ウエーブスタート。号砲は斉藤知事。目の前をランナーたちが通過していく。なかなか途切れない。5分ぐらいでようやく第1ウエーブのスタートが完了。ブロックの先頭にいたスタッフがロープを持ちながらランナーを誘導していく。フラワーロードを神戸市役所の前まで進む。進む間に、道路脇のゴミ箱にビニールポンチョと万歳用の手袋を捨てる。先頭から5列めぐらい。これならスタート時点のロスタイムは数秒足らずだろう。「スタート30秒前」のアナウンス。号砲は久元市長だ。先頭に近いので最初から速いペースで始まる。すぐ左に折れて西国街道を西に向かう。大丸の前を左折し、南京町の入り口を通り過ぎ、すぐ右折。栄町通りを西へ向かう。最初の1kmは6分27秒。少し速い気はするが、6分30秒〜50秒あたりを維持できればいいことにする。神戸中央郵便局の前を右折し、JRの下をくぐり、すぐに左折して西に向かう。まもなく5km。当然のごとく、気持ち良いほどどんどん抜かれていく。走り込み不足を自覚しているので、同じリズムで走ることを心がける。須磨の手前で国道2号線に入る。山陽電車須磨駅あたりで10km通過。しばらく走ると海沿いに出る。ここから先は海を左に見ながら走る。淡路島と明石大橋が遠くに見える。折り返しはまだまだ先だ。神戸マラソンのコースはシンプル。往路はひたすら西に向かい、明石大橋のたもとを過ぎて折り返し、復路はひたすら東に向かう。4回目にもなると、通る街並みもほぼ覚えてしまい(地元なので土地勘もある)コースが単調に感じられる。

20kmの壁。

「応援navi」というアプリによると5kmごとのラップは以下の通り。

5km:33分59秒。

10km:33分57秒

15km:33分19秒

20km:35分09秒

25km:33分51秒

30km:38分25秒(トイレ)

35km:40分46秒

40km:48分21秒

42.195km:18分06秒

「20kmの壁」

よく「30kmの壁」と言われるが、今回は「20kmの壁」だった。長い距離は4週間前に25kmを走ったのが最長で、折り返してからが苦しくなると予想していたが、明石大橋の先で折り返してからやっぱり足が止まった。風が北東で向かい風になったことも影響しているかもしれない。20kmを過ぎたところで一旦止まってストレッチングとサプリ補給を行なった。少し元気が出てラップも回復している。しかしその後のラップは落ちる一方でキロ7分も切れなくなっている。30kmの手前、須磨の先で往路から外れ、市街地に入るが、この区間が一番きついと感じる。市街地ではあるが、工業地域で殺風景なのと、道がまっすぐで単調なので、余計に疲れを感じてしまう。5kmごとの休憩とサプリ摂取をご褒美にして、無理やり足を動かす。ようやくノエビアスタジアム中央市場、ハーバーランドなど、わかりやすいランドマークのある区間を過ぎると、最後の難関、浜手バイパスに入る急坂にかかる。ここは迷わず歩く。足の裏全体が痺れるような感覚になり、接地感がない。坂を登り切ったところから再び走り出すが、長くは続かない。歩いたり、走ったりで自動車専用道路の単調な景色の中を進む。ところどころ、側壁が切れて、ゴールであるポートアイランドが見えるのが救い。

ゴール。

道は右にカーブしてポートアイランドに渡る橋に出る。高さもあるので眺めは良い。振り返ると、六甲の山並みと神戸の市街地、神戸港が一望できる絶景ポイントだが、風景を楽しむ余裕はない。橋の上で40kmを通過。坂を下ってポートアイランドに入る。以前は島に入ってからが結構長くて心が折れたが、今回は少しだけの遠回りでゴールに向かう。最後のカーブの外側で有森裕子さんが声をかけてくれる。そしてゴール。5時間24分41秒(ネット)。記録は例によって大したことはないが、とりあえず完走できた。タオル、完走メダル、ドリンクを受け取って手荷物コーナーへ向かう。向かいの建物に更衣スペースが用意されているが、みんな屋外で着替えているようで、僕もスペースを見つけて着替える。着替えると言っても走ってきたTシャツを脱ぎ、フリースのシャツに着替え、ジャージのパンツを履くだけ。靴もスニーカーに履き替える。5分ほどで着替えを済ませ、会場を出る。ポートライナーの駅に向かおうとすると、待ち時間が20分以上の表示。シャトルバスは10分の待ち時間になっているので迷わずシャトルバスの方へむかう。幸い、バスは待ち時間なしで乗車できた。前回もシャトルバスを利用したが、乗車してからが随分長くかかった記憶がある。今回は15分ほどで三宮の神戸市役所前に到着。そこから歩いて阪急の神戸三宮駅に向かう。駅に向かうランナーの中には足を引きずっている人も多い。30分あまりで宝塚に到着。宝塚南口で降りるはずが寝落ちして、宝塚まで行ってしまった。自宅に戻り、ぬるめの風呂に入って手足をほぐす。夕食はボージョレーヌーボーで完走を祝う。寝る前に血圧を測ると83/46と異常に低かった。水分はしっかり摂ったつもりだが、脱水症状になっているのだろう。筋肉痛は翌々日まで残った。1週間は休養して、2月の大阪マラソンの練習に入る。

逸木 裕「電気じかけのクジラは歌う」

前回投稿の「風を彩る怪物」の著者による音楽SF or ミステリー?。

個人的には音楽を題材にしたSFだと思うが、現在では普通の小説とSF小説の壁は融解しつつあり、本書ぐらいの近未来設定であればもうSFと呼ばないほうがいいのかもしれない。

AIが音楽を創り、作曲家は失業。

舞台は、AIが社会のあらゆるところに浸透している近未来の日本。AIがリスナーに合わせて好みの音楽を作ってくれるサービス「Jing」が開発され、人気を集めている。「jing」の普及により作曲家という職業が消滅する。主人公の岡部も、かつては作曲家として活動し、仲間の作曲家二人とユニットを組み、ライブ活動をしていた。しかしJingの出現により、作曲の仕事を続けられなくなった彼は、ユニットを解散し、jingのAIに、自分が音楽を聴いた時の反応を提供する「検査員」となっていた。「検査員」とはAIの機械学習における「教師」のようなものだろうか。ヘッドホンで様々な音楽を聴き、身体に取り付けた生体モニターで採取した自身の反応データをAIに提供する仕事である。ある日、岡部は、かつてのユニット仲間であり、解散後も作曲を続けていた天才音楽家の名塚が自殺したことを知る。名塚は自分のスタジオの外壁に遺作となる曲を記録したメモリーシールを1枚だけ貼り付けて公開していた。(メモリーチップみたいなモノ。シールにスマホをかざすだけで音楽をダウンロードできる)岡部の元にも別の曲が入ったメモリーシールが送られてくる…。名塚はなぜ自殺したのか?彼の遺作は何のために公開されたのか?岡部に送られてきたシールは何を意味するのか?

AIが人間の創作活動を奪う!?

本書はミステリー作品であり、ネタバレになるのでこれ以上のストーリー紹介はしないでおこう。本書の一番の読みどころは、AIによる音楽の創作が進化すれば、人間による創作活動を奪ってしまうかもしれないという思考実験だ。これまでにもテクノロジーの進歩によって多くの職業が消滅してきたが、本書では、AIによって人間の最後の砦とも言える創作活動が奪われていく。世の中に流通するような音楽のほとんどはjingによって提供されるようになる。唯一の例外は天才作曲家の名塚によるもので、AIでは創り出せない音楽を作り続けることで、かえって人気が高まっていく。一方、主人公の岡部は、ゲームや劇伴などの作曲で収入を得ていたが、jingの普及で仕事を失っていく。彼が仕事を奪われていく様子は、とても身につまされた。

新しいテクノロジーによって仕事が消滅していくやるせなさ。

分野は全然違うが、僕のような広告のコピーライターが新聞・雑誌などの印刷メディアの衰退によって仕事が激減していった状況と似ていると思った。ちょっとだけ本文引用「仕事が減っていくというのは、想像していたよりはるかに苦痛だった。自分の居場所がなくなっていき、お前の代わりなどいくらでもいると日々通告されている感覚。自分を支えていたプライドや自信が、少しずつひび割れて不安定になっていく苦しさ。(中略)ひとつ仕事を失うごとに、指を一本ずつ切り落とされているような感じすらした。」引用終わり。広告コピーの場合、仕事がAIに奪われたわけではなく、インターネットやWebの登場によって仕事の舞台である印刷媒体が衰退していったのと、SNSの普及で、大勢の人に「広く伝える」という広告の手法が通用しなくなったことが原因なのだが、メディアの変化によって、仕事が失われてゆく過程は似ているのかもしれない。もう数年前のことだが、知り合いのネットショップを運営している会社が、AIを使って商品説明のコピーライティングを行うシステムを開発していると聞いたことがある。そのシステムは、すでに稼働しているかもしれない。別の知り合いから聞いた話だと、AIによるコピーライティングは実現可能だが、その開発には少なからぬコストがかかるため、人間のライターに書かせたほうが安く上がるため、わざわざ開発する必要が無いのだという。

一方、ビジュアルの分野では、現実に、AIによる画像生成ソフトが出現し、それを利用して作品を作り出し、発表するクリエイターがすでに現れているという。いずれはアートに限らず音楽や文学の世界でも、AIによる創作が広がっていくのだろう。本書で描かれる音楽業界はかなり単純化されており、現実にはこの通りにはならないと思うが、近い将来、同様のことは起きるような気がする。

天才 vs AIの闘い。

自殺した天才作曲家の名塚は、Jingが普及してからも作曲活動を続けていて、その作品は人気を集めていた。天才のみがAIに対抗できるということなのか。そして彼の自殺はAIへの敗北を意味するのか。音楽における創造性とは何なのか?さらに音楽とは何なのか?主人公の岡部は、ある意味で根源的な問いかけをしながら天才の自殺の謎を探っていく。本書は、天才とAIとのせめぎ合いを描くと同時に、岡部のように、天才ではないが、音楽を愛し、音楽を知り尽くしていながら、AIに仕事を奪われていく音楽家と名塚のような天才との葛藤も描かれている。

控えめな近未来の表現。

本書における近未来の表現は、かなり控えめである。AIによる音楽サービスJing以外は、ほとんど現在のままだと言ってもいい。パソコンもタブレットスマホも登場するし、そのインターフェイスも現在と大きく変わっていないようだ。その中で大きく変化しているのはタクシーとコンビニ。タクシーは自動運転による無人化が進み、都内ではほぼ無人タクシーになっている。コンビニも電子決済や画像認識による決済でレジがなくなり、無人店舗が増えているという設定。新しいテクノロジーが世の中に浸透していく過程のリアリティが絶妙だ。フリーランスのウエブエンジニアという著者の職業から来るものなのかもしれない。さらに他の作品も読んでみよう。

逸木裕「風を彩る怪物」

ほぼ一年ぶりの投稿になってしまった。本はそこそこ読んでいるのだが、年齢のせいか、感想を書く集中力が不足しているのが主な原因。久しぶりなので書けるかどうか心配だ。

オルガン小説?

本書は、帯の「『蜜蜂と遠雷』以来のスペシャルな音の洪水。」というコピーに釣られて買ってしまった。音楽小説。著者は2016年に横溝正史ミステリー大賞を受賞している。主人公は二人の女性であるが、本当の主人公は「オルガン」と言ってもいいほど、オルガンやオルガンで奏でられる音楽の描写が素晴らしい。西洋でオルガンといえばパイプオルガンのことを指すらしい。(以下、オルガンと表記) 。日本でもオルガンのあるコンサートホールや教会は珍しくないが、ちゃんと演奏を聞いたことは一度もない。そもそもクラシック音楽をあまり聴かないし、その中でも宗教音楽やバロック音楽にはさらに縁がない。本書は、そんなオルガン素人の僕をオルガンの世界へ否応なく引きずりこんでくれる。

主人公はフルート奏者を目指す名波陽菜19歳。

彼女は音大受験の前に、腕試しでコンクールに出場する。そこで彼女は他の出場者の個性溢れる演奏にショックを受け、自信を失ってしまう。それ以来、フルートを吹こうとすると唇が震えて上手く吹けなくなってしまい、結局、音大受験に失敗する。陽菜は、静養のために、東京と山梨の県境の町、奥瀬見でカフェを開いている姉のもとで過ごすことになる。ある日、フルートを練習していた彼女は不思議な音を耳にする。音の正体を確かめようと森の奥へ歩いていくと、倉庫のような建物があった。音はその中から聴こえてきた。建物の中では一人の若者が何かのパイプを持って作業をしていた。そこはオルガンを作る工房だった。陽菜は、そこで著名なオルガン製作者の芦原幹(あしはらみき:60歳)と出会う。陽菜は彼が演奏するオルガンの音に魅了され、オルガンという楽器に興味を覚える。

ピアノとオルガンの違い。

ピアノとオルガンは同じ鍵盤楽器であるが、ピアノはハンマーで弦を叩く「打楽器&弦楽器」であり、オルガンはフイゴで風を作り、その風をパイプに送り込んでパイプの共鳴によって音を出す「管楽器」である。そしてオルガンの鍵盤は音を出すスイッチに過ぎず、ピアノのように鍵盤のタッチによって音の強さをコントロールすることができない。鍵盤を押せば、常に同じ音量、音程の音が出る楽器である。オルガンにはピアノもフォルテもないのだ。そのかわりに数百から数千にもなるパイプの音を組み合わせて様々な音色を創り出すことができる…。

耳の良い主人公。

工房の中で整音(音の調整)をしているパイプの音が不自然なことを陽菜が指摘したことから、芦原は、彼女の耳の良さを知り、自分のオルガンづくりに参加してくれないかと誘う。芦原幹は、元々音響工学の研究者で、大手楽器メーカーの研究所で働きながら、オルガン工房で修行をし、30歳で独立し、専業のオルガンビルダーになり、その後、自分の故郷である奥瀬見に「芦原オルガン工房」を作った。その4年後、フランスに渡り、アルザスに工房を構え、15年ほど活動し、ヨーロッパのあちこちで教会やコンサートホールのオルガンを作った。7年前に帰国し、元の場所で工房を始めた。しばらくは既存のオルガンのメンテナンスなどをしていたが、最近になって新しいオルガンを作り始めたという。芦原の旧友が所有する、奧瀬見にある私設のコンサートホールのためのオルガンだという。

もう一人の主人公。芦原朋子。

陽菜は、翌日からオルガン工房に通うようになる。芦原幹は、陽菜に、自分の娘の朋子(19歳)と力を合わせてパイプの整音作業を進めるように求めるが、朋子はなぜか反発する。この朋子が本書のもう一人の主人公である。名波陽菜と芦原朋子、二人の人物を軸に物語は展開してゆく。音響学の研究者であり、著名なオルガンビルダーである芦原幹、野心的なオルガン演奏者の神宮寺、カフェを経営し、趣味でホルンを演奏する姉の亜季。工房を手伝う森林レンジャーの三原。芦原のかつての弟子であり、現在は役所に勤めながら、アマチュア楽団でオーボエを演奏する細田…。工房でのオルガン制作が進んでいくに従い、陽菜は、自身の音楽やフルート演奏への思いが変化していることに気づく。一時は自分が目指す道はオルガン製作ではないかと思いさえする…。

音楽ミステリー?

著者がミステリー作家であるせいか、緩やかなミステリー仕立てとも言える謎が仕掛けられ、ストーリーは進んでいく。朋子が陽菜に冷たく接する理由は何なのか?芦原幹がフランスから持ち帰ったという小さなオルガンに記されたPour Mikiという文字。そしてオルガン演奏者であった芦原幹の妻、美紀。さらに蝉風(せみかぜ)という奥瀬見特有の暴風が吹くと森から聴こえてくるという不気味な声…。第一章の終わり、オルガニストの神宮寺と、オルガニストを馬鹿にする天才ピアニストのギィ・デルヴォーの対決は圧巻、前半のクライマックスでもある。ちょうど、その頃、奥瀬見では、衝撃的な事件が起きていた。ここから物語は大きく展開していく。

本書はミステリーでもあると思うので、ここから先のストーリーの紹介はしないことにする。ストーリー展開も面白い。しかし本書の読みどころは、オルガンという楽器の仕組みや歴史、そしてバッハをはじめとするオルガン音楽の紹介、さらに随所に出てくるオルガンの演奏の描写だろう。巻末でオルガン製作者やオルガン演奏者、フルート演奏者への謝辞が述べられているが、著者自身がオルガンやオルガン音楽に造詣が深いことを感じさせる。

オルガン音楽が聴きたくなった。

本書を読み終えて、実際にオルガンが聴きたくなった。ちょうど僕の住む宝塚には、ベガホールという小さいけれど音が良い市民ホールがあり、そこに小ぶりのオルガンがあることを覚えていた。しかも定期的にオルガンコンサートが開かれている。早速、チケットを購入。10月の半ばの金曜日に聴きに行った。クラシックのコンサートでは何度か行ったことのあるホールだが、オルガンを聴きに行くのは初めて。バッハの曲を中心に、オルガンの音楽を堪能した。演奏の後、オルガンを間近で見学できるオルガン見学会も行われているが、こちらは定員に達しており、参加できず。次回は、ぜひ参加したい。

著者への興味。

著者の逸木裕氏の略歴を見ると、「フリーランスのウエブエンジニア業の傍ら、小説を執筆」とある。最近、プログラミングやウエブなど、IT系の人が小説を書いて成功するケースを目にすることが増えているような気がする。著者による、AIが作曲するアプリにより作曲家が絶滅した未来を描いた「電気じかけのクジラは歌う」も読んでみたい。