青山透子「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」

他の本を探していて、ふと目について、思わず買ってしまった本。

8月12日が近づいたある日、大型書店で別の本を探していて、偶然、本書に出会った。そうだ、もうすぐあの日がやってくる、と、本書を手に取った。帰りの電車の中で読みはじめ、帰ってからもベッドの中で読み続けた。いっきに読み終えた。

あの日、大事故は、僕のすぐそばをかすめていった。

あの日の夕方、成田からニューヨークに飛ぶはずだった飛行機が故障で飛ばず、旅行会社からはツアーが中止になる可能性があると伝えられた。もし中止なら、その日の夕方の便で大阪に戻ることになっていた。午後遅く、翌日の便が確保できて、1日遅れの出発になった。空港近くのホテルに泊まった。移動やツアーのメンバーとの食事でホテルに入るのが遅くなった。事故のニュースを見て、慌てて自宅に連絡すると「夕方の便で帰るかもしれないって言ってたから、あの飛行機に乗ってるかもって、みんなすごく心配した。なんでもっと早く連絡くれなかったのよ!とこっぴどく叱られた。ひょっとしたら、成田から羽田に移動して日航123便に乗っていたかもしれない。あの事故は、僕にとっても忘れられない大きな出来事になっている。

著者は、元日本航空国際線の客室乗務員。123便には彼女の国内線時代に同じグループだった同僚や先輩が多数搭乗していて犠牲になった。そんな先輩たちへの思いや事故原因への疑問をまとめて、著者は2010年、「天空の星たちへーー日航123便 あの日の記憶」を出版する。出版後、彼女のもとには新たな事実や目撃情報が寄せられるようになった。事故原因は、圧力隔壁の修理ミスだと公式発表されているが、現場で事故に関わった人たちの間では未だに腑に落ちない点が多数あり、今なお心の底に大きな疑問となって渦巻いているという。

 この著者は信用できる。

タイトルは、この手の本にありがちな「新事実」「目撃証言」「真実」という言葉を組み合わせた平凡そのもの。しかし、虫の知らせというのか、著者の名前の横に「元日本航空客室乗務員」という肩書きに目が止まった。「そうか、元日航のスチュワーデスが書いた本なのか。」あの事故を、日航の社員たちはどう見ていたのか。ジャーナリストやメディア側の視点ではなく、日航内部の、パイロットやクルーたちはどう感じていたのか、というポイントに興味を覚えた。それに、この著者、なんか信用できそうだ。3時間ほどでいっきに読み終えた。そして、今まで、この事件をちゃんと知ろうとしなかったことを後悔した。

スチュワーデスからの視点。

序章で、本書を執筆した動機、経緯、事故の概要を語った後、第一章は、当日のフライトをスチュワーデスの視点から再現している。123便の乗務員たちは、多くが著者の先輩であった。著者は国内線を飛んでいた頃、事故機のJA8119には何度も乗った経験があり、国際線に移動していなければ、事故に巻き込まれた可能性は高いという。公開されたボイスレコーダーの録音、生存者の一人で非番の客室乗務員であった落合由美さんの証言、乗客が遺書として書いた家族への手紙などから、当日の機内の緊迫した様子を再現する。激しく揺れる機内で、最後までパニックに陥らず、乗客を励まし続けた乗務員たちの態度が胸を打つ。著者の先輩で、機内アナウンスを担当していた対馬祐三子ASは最後尾の座席で手帳を開き、不時着後のアナウンスをメモしていた。そこに家族へのメッセージは書かれていない。最後の最後までプロとしての仕事を貫こうとしたのだろう。

政治家たちの視点。

その後、墜落した日航機が御巣鷹山でどのように破壊されたかを、資料をもとに語った後、当時の首相であった中曽根康弘運輸大臣であった山下徳夫が、事故当時、どう行動したかを記す。夏休みを軽井沢で過ごしていた中曽根首相は、東京へ戻る特急の中で事故の報告を受けたという。そして結局、首相は、夏の間、墜落現場に行かなかった。事故の後、ゴルフは自粛したものの、テニス、水泳、読書にいそしんだという。彼が現場を訪れたのは3ヶ月後の11月4日だった。まるで事故など無かったかのようにのほほんと休暇を過ごす首相の行動がかえって不気味といえなくもない。いっぽう山下徳夫運輸大臣は、当日、なんと事故機のJA8119で福岡〜羽田を飛んでいた。客室乗務員も事故機と同じで、山下大臣が座った2階席を担当した木原ASは、三光汽船会社更生法申請問題で疲れ果てていた大臣を暖かくもてなした。「お孫さんにどうぞ」とジャンボ機のおもちゃ3個を機内用紙袋に入れてプレゼントしたという。その紙ぶくろを持ったまま空港から官邸に入った大臣は、事故のことを知らされ、自分が乗ってきた便と同じ客室乗務員が乗っていたこを知ると、思わず涙ぐんだという。12日夜、山下大臣を本部長とする日航機事故対策本部が設置され、23時に第一回会議が開かれた。翌13日、山下運輸大臣は、遺族の待機場所になっていた群馬県藤岡市内の小・中学校を回り、陳謝の言葉を述べた。同じ日、自衛隊のヘリで上空から墜落現場を視察した。

日本航空の視点。

18時33分に航空管制当局から連絡が入った。18時41分に、日航航空部から東京空港事務所に通報がいった。20時20分羽田空港に対策本部、羽田東急ホテルに乗客の家族控え室を設置した。そのホテルで乗客の家族に詰め寄られた町田直副社長は、思わず「北朝鮮からのミサイルに撃たれたのだ」と叫ぶ。運輸省からの天下りで元運輸次官だった町田氏は、社長候補であったが、その数日後、「遺体安置室にて扇子であおぐ姿」を写真に撮られて失脚する。21時25分、日本航空は、医師、看護婦、社員からなる180名の第一次現地派遣弾を結成して羽田を出発した。21時35分、渡辺信二広報部長が記者会見を行った。「日航123便墜落を確認した。炎上中」という内容だった。22時50分に高木養根社長が羽田東急ホテルにてご家族に陳謝。翌12日早朝、関西地区のご家族536名登場の臨時便を運航。9時48分には藤岡公民館に日航現地対策本部を設置。13時40分、高木社長が藤岡公民館にて陳謝した。一家族に対して二名の世話役が担当し様々なサポートを行った。この時の世話役の一人が、スチュワーデスから地上職に移り、女性課長の先駆者であったM.I.さんで、1ヶ月にわたり遺族との交渉や遺体の確認に奔走したが、10月11日、突然、くも膜下出血で死亡した。事故直後に世話役をした社員の中には体調を崩す者も多かったという。

様々な証言からわかってきたこと。

第2章からは、様々な人の証言がつづられる。2011年8月26日、著者は遺族の一人である吉備素子氏にインタビューを行っている。夫の吉備雅男さん(当時45歳)は塩野義製薬次長として出張中に事故に遭った。吉備氏は、最初の世話役のKさんに感謝しながらも日航や政府の対応に強い不満を感じていた。9月になって日航のほうから、身元不明の部分遺体や炭化が著しいもの、骨粉などは10月中に荼毘に付すとの連絡があった。検視の困難さを見ていた吉備氏は、それもやむえないと思っていたが、10月4日に群馬入りしたら、血液検査を頼んでいた主人のものと思われる右大腿部の大きなものまで荼毘に付されていた。驚いた彼女は、事前の連絡と違う、ひどいといって警察ともめだした。世話役が間に入って警察と掛け合ってくれたが、日航は警察の検視現場に入るなと言われていて、らちがあかなかった、こんな状態で10月中に全部荼毘に付すのはいかないと、本社の高木社長に直接会いに行った。社長室で高木社長と話をすると、彼は山中の墜落現場にも行ってない、黒焦げの遺体も見ていない、まったく現場を見ていない様子だった。吉備氏は、「あのような状態で、遺体を荼毘に付しては520名が浮かばれない。私と一緒に中曽根首相のところへ行って直訴しましょう。あんたの命をかけても首相官邸に行ってください。」と高木社長に迫った。そうすると高木社長はブルブルと震えだして「そうしたら私は殺される」という。普通に話ができないほど怯えている高木社長が頼りにならないと悟った彼女は気丈に「そんなら私が一人で行きます。」と言った。びっくりした高木社長は、しかたがないと、政府に対して口が利ける、公家さん出身の社員を同行させることにしたという。吉備氏や首相官邸に行こうとしているのに、連れていかれた先は運輸省だった。運輸省では、ある程度権限を持った官僚が出てきた。彼女は「あんな遺体の扱いではいけない。遺族は納得しませんよ。身元を確認していない人も多いのに、すぐ荼毘に付すとは、裁判でも何でもしますよ」と言った。相手は「僕は東大の法科を出ている。法学部出身者です」と、やれるものならやってみろという顔つきで言い返してきたという。吉備氏は、「ほんなら話しは早い、わかっているなら、なおさら」と答えた。彼女は、この運輸官僚に、まだ身元確認も終わっていない遺体をさっさと荼毘付そうとしている姿勢に意見を述べた。また、検査を依頼して、保存している遺体を荼毘に付したり、遺体を取り違えたりしている警察の失態を話しはじめたら、官僚は、ようやく善処すると答えた。吉備氏が群馬に戻ると、急に命令があったのか、荼毘に付す日は延期され、12月まで冷凍保存することになったという。

事故原因を追求すると戦争になる。

事故の原因は圧力隔壁の修理ミスと経年劣化による破壊とされていた。しかし、当時の関係者の間でもこの説に疑問を持つものが少なくなかったという。さらに「事故原因を追求すると戦争になる」という話が囁かれていた。吉備氏も、群馬県警察本部長で日航機事故対策本部長をを務めた河村一男氏から急に「戦争になる」という言葉が飛び出してきたことを覚えているという。その後、河村氏は、警察を退職し、再就職をして大阪に行き、さらに神戸に住まいを変えたという。吉備氏の名が新聞や本に出ると、電話をかけてきて、彼女を監視するためにわざわざ大阪に来たんや、ずっと見ているぞ、という感じの話ぶりだったという。著者は吉備氏へのインタビューの後、当時を知る広報や航務、社長秘書室などで働いていた複数の日航社員に確認をしたがという。いろいろと思い当たるようであったが、事故原因については「そういうことはねえ、今言っちゃいけないんだよ。私たちが死んだあと、ずっとずっと後にいつかはわかることだから。米軍が絡んでいるんでしょ?たぶんね」という返事が返ってきたという。このあと、事故直前に、福岡発羽田行きの事故機に乗っていた山下徳男運輸大臣へのインタビューがある。山下氏は、今回だけでなく、航空機事故で驚くべき体験をしている。1972年のインド、ボンベイ空港取り違え誤認着陸によるオーバーラン事故に遭遇していた。その時、隣の席に、日航123便の機長、高浜雅巳氏が座っていたのだという。機長は業務中移動でファーストクラスの空いた席に座ることが多かったという。その時、山下氏も全治1ヶ月の怪我をされたという。山下氏に事故原因や事故直前に機内から撮られた写真に写っていた物体の話をすると、肯定も否定もしなかった。別れ際に次の一言を語った。「あのね、日本は何でもアメリカの言いなりだからね。遺族が再調査を望むのであればぜひすべきだと思う」

2機のファントムと赤い物体が貼り付いた日航機を目撃。

ここまでは、政府や日航の不可解な対応ぐらいの話だが、以下の目撃証言あたりからは、荒唐無稽といってもいいような内容が浮かび上がってくる。それでも著者は注意深く、陰謀説や安易な憶測を避けて、目撃証言や事実を積み重ねていく。藤枝市の運輸会社に勤めていた女性の目撃証言が興味深い。仕事を終え、タイムカードを押してオフィスの外に出た瞬間、「キャーン、キャーン」と2度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞く。驚いて頭上を見上げると、目の前を右斜めに機体を傾けながら低く飛行しているジャンボジェット機が見えた。駿河湾のほうから、富士山が見える方向に、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓が見えるほど低い高度だった。飛行そのものは安定している感じだったという。そしてその時、あることに気づいた。長いけど引用してみる。「それは、機体の左下のお腹です。飛行機の後ろの少し上がり気味の部分、お尻の手前ぐらいでしょうか。貨物室のドアがあるような場所、そこが真っ赤に抜けたように見えたんです。一瞬火事かな、と思ったけど、煙が出てる様子もない。ちょうど垂直尾翼のあたりがグレー色でギザギザのしっぽみたいだったので、それがしっぽに見えたけど…。煙ならたなびくけど、それは動かなかった。今思うと、千切れたしっぽのギザギザが煙のように見えたんですね」真っ赤というと火事と思いきや、そうではないという。「そのお腹の部分、つまり飛行機の左側のお腹の部分、4〜5メートルくらいになるのかなあ。貨物室ドア2枚ぶんぐらいの長さでしょうか。円筒形で真っ赤。だ円っぽい形でした。濃いオレンジ、赤という色です。夕日を浴びて赤い、という感じでもない。夕日は機体の背を照らしていたので、逆にお腹はうす暗く見えました。円筒形のべったりした赤色がお腹に貼り付いているイメージ、言葉で伝えるのは難しいけど、絵に描くとこんな感じかなあ」引用終わり。その機体を見た後、いつもどおりの道を車に乗って帰宅途中、今度は目の前を飛ぶ2機のファントム(F-4J)を見た。時間は先ほどのジャンボジェット機を見て5分くらい過ぎてからだという。浜松の方向、西の位置から飛んできたと思われるファントム2機はジャンボジェット機が飛び去った方向に向かい、それを追うようにして、今では新東名(第二東名)高速の方向、山の稜線ギリギリの低空飛行で飛び去っていった。時間は18時35分頃である。まだこの時点で日航機は墜落していない。しかも公式発表で19時5分出動となっているファントムが、すでに実際に飛んでいたことになる。2機のファントムに関する証言は、群馬県警察本部発行の冊子「上毛警友」昭和60年10月号の日航機墜落事故特集号に掲載された自衛官の手記でも記述されている。自衛隊第十二偵察隊(相馬原)の一等陸曹、M.K.氏は、事故当日、実家に不幸があり、吾妻郡東村に帰省していた。午後6時40分頃、突如として実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常と違う感じがしたという。午後7時20分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知り、これは出動になると直感し、部隊に電話をしたが、回線がパンク状態で連絡がつかなかった。タクシーで向かったが、所属部隊はすでに20時半に第一次偵察隊として先遣されていたという。この自衛官の証言は、上の藤枝の女性の証言と辻褄が合う。ファントム2機は、墜落の瞬間まで日航機を追跡し、墜落現場も特定できたはずである。にもかかわらず、一晩中墜落場所不明としたのはなぜなのか?また墜落前に飛んでいたファントム2機の存在を隠し続けているのはなぜなのか?どうしてもそうしなければいけない理由があったとしか考えられないと著者はいう。さらに目撃証言は続く。

小学生・中学生の目撃証言から。

事故の年の9月30日に発行された群馬県上野村立上野小学校148名の児童による日航機事故についての文集「小さな目は見た」がある。もう一冊は、同年10月1日に発行された群馬県上野村立上野中学校87名による日航123便上野村墜落事故特集「かんな川5」。

ここでも墜落前に「2機の小さなジェット機が1機の大きなジェット機を追尾して低空で飛んでいた」様子が目撃されている。さらに「真っ赤な飛行機が飛んでいた」という証言。墜落前後は「稲光のような閃光と大きな音を見聞きした」という証言。「墜落場所は上野村と特定できて報告したにもかかわらず、テレビやラジオでは場所不明または他の地名を放送し続けていた」という証言。「墜落後、多数のヘリコプター、自衛隊の飛行機、自衛隊や機動隊の車を目撃した。」「ヘリコプターは墜落場所をサーチライトのような強い明かりで照らしながら多数行き来していた」「煙と炎の上がった山頂付近をぐるぐると回りながら何かをしている何機ものヘリコプターがぶんぶんと飛んでいた。

ガソリンとタールの臭いと炭化遺体の謎

小中学生の文集から浮かび上がってくるのは、墜落後、山頂付近で見られた何機もヘリコプター。テレビでは一晩中、墜落場所は不明と報道されていた。もしもこれが本当なら、何機ものヘリは何をしていたのだろう。著者は、翌朝、現場に漂っていたというガソリンとタールの臭いに注目する。そして乗員4名乗客1名を司法解剖した群馬大学医学部の古川研教授の証言を紹介する。「(機体)前部の遺体には損壊や焼損が目立ち、衝撃のすさまじさと主翼の燃料タンクの火災の影響を受け、焼損遺体の中には部位も判然としないものがあり、通常家屋火災現場の焼死体をもう一度焼損したように見えた(略)」著者は医師、歯科医師消防団に取材した際、「それほどジェット燃料はすさまじいのか」と逆に質問を受けたという。著者は、日航機事故のことを伏せて「ガソリンとタールの臭い」と骨まで炭化した遺体」について、元自衛官、軍事評論家、大学の研究者に質問している。「ガソリンとタールの臭いが充満長時間燃え続ける物質は何か。その結果、人間の体が炭のようになる状態のものは何か。」という質問に対して共通する答えは次の通りであった。「ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料である」質問:「なぜそれが人間の体を炭にするのか」答え:「化学薬品によってゲル状になったガソリンであるため。これが服や皮膚に噴射されて付着するとそのすべてが燃え尽き、結果的に炭状になる」質問:「これはどこで手に入るのか」答え:「一般にはない。軍用の武器である。その武器は、燃料タンクを背負い、射程距離は約33mで歩兵が用いるものである。第二次世界大戦で使用された。M1、M2の2種類がある。昔の武器というイメージがあるが戦後は米軍から自衛隊に供与されていた。現在も陸上自衛隊普通科に携帯放射器として配備されている。これはM2型火炎放射器の改良型である。噴射回数十回まで可能。噴射用圧縮空気タンクを連結している。今でも駐屯地祭でデモンストレーションしている」質問:「それはどこにあるのか」答え:「陸上自衛隊普通科歩兵、科学防護部隊で、相馬原普通科隊にもある可能性が高い」

あれは「事故」ではない。「事件」だ。

あの事故の記憶を風化させないために、著者は20年以上経ってから、当時の報道や証言を丹念に読んでいったという。最初は自衛隊による誤射やミサイル攻撃、米軍の関与などの言葉を聞くだけでも不愉快であったという。しかし当時の経緯を丹念に追っていくうちに、浮かび上がってきたのは、事故調査委員会の公式発表とは違った事故の姿だったという。この著者は、きっと、真実にたどり着くまで、事件の探求を止めないだろう。

1995年に公開された米軍パイロットの証言。

僕も、墜落の原因として、自衛隊による誤射やミサイル説など、極端な陰謀説が出回っていることは知っていたが、興味は持てなかった。しかし1995年米国で公開された米軍パイロットの証言はよく覚えている。本書にも書かれているが、彼は123便がレーダーから消えた直後、現場上空に直行し、墜落現場を発見、横田基地に連絡した。さらに米海兵隊の救援ヘリコプターを墜落現場まで無線で誘導。乗員を地上に降ろそうとしたその時、日本側の救援機が来たからという理由で即刻基地に帰還を命じられ、しかたなくヘリを引き揚げさせた。彼が日本の救援機を見たのは21時20分、安心してその場を引き揚げて横田基地に帰還し報告をした。彼の上官は「ごくろうだった。このことについてマスコミには一切他言無用」と命じられた。翌日、報道が「一晩中墜落場所不明」となっていたことに驚いたという。この報道を見て、僕は、日本側の、ある種の縦割り主義というか、一番乗りの手柄を米国に取られたくない「お役所仕事」のせいだと腹を立てたことを覚えている。しかし自衛隊の誤射やミサイル説などはとうてい信じる気にはなれず、疑問を持つことなく今日まで過ごしてきた。しかし今日からは、著者と同じように、あの「事件」をもう一度、ゼロから見つめ直そうと思う。