クリスティ・ウィルコックス「毒々生物の奇妙な進化」

ヘビこわい。すべての霊長類がヘビを怖れる。産まれて間もない赤ん坊もヘビをこわがるという。ほとんど生理的ともいえるような、あの恐怖感は、いったいどこから来るのだろう?その答は本書のなかに記されている。約6000万年前に、この爬虫類に起きた、ある変化が、霊長類の祖先の脳に、あの根源的な恐怖感を植えつけたのだという。本書に登場する有毒生物は毒ヘビだけではないが、主役はやっぱり彼らだ。

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ヤマカガシ、チャドクガヒアリ

本書は、今年の初めに購入していたが、1ページも読まずに放ってあった。それを読む気になったのは、夏の初め頃、兵庫県伊丹市の小学生がヤマカガシに咬まれて意識不明になるというニュースが流れた頃だ。その少し前、僕自身も、左の二の腕に発疹ができて、またアトピーの再発か、と皮膚科へ行くと、チャドクガの被害だと診断された。同じ頃、各地でヒアリの発見が相次いだ。周りがなんとなく「有毒生物」で騒がしい、というわけでもないが、本書のことを思い出して、積ん読山から発掘してきて読み出した。読んでみると、有毒生物の研究が、今世紀に入ってから、急速に進んでいることに驚かされる。

昔から、ヘビには強い興味があった。怖いもの見たさというのだろうか。いまでも書店の生物学コーナーの爬虫類の棚は時々チェックしているし、新しい本が出ていれば、即購入する。わが家にはヘビに関する本が十数冊はあるはずだ。飼ってみようとか、触ってみようとは思わないが、とにかく目が離せないのである。

タイトルはB級ホラー映画みたいだが、有毒生物の博物誌。

それにしても本書のタイトルはひどい。「毒々生物の奇妙な進化」。まじめな本なのに、このB級ホラーっぽいタイトルのせいで敬遠されてしまうかもしれない。原題は “VENOMOUS” :「有毒の」「毒を持った」の意。サブタイトルが「地球上で最も致死的な生物がいかにして生化学をマスターしたか?」著者はハワイ大学に在籍する若い女性の研究者でミノカサゴの毒を研究している。彼女自身の「毒体験」を交えながら、有毒生物と人類の関わりの歴史をたどり、驚くべき有毒生物の生態を紹介していく。さらに世界中の有毒生物研究の現場を訪ね歩き、有毒生物研究の現在と未来を描こうとする。本書は「有毒生物の博物誌」といってもいい。有毒生物に関する知識が得られるのはもちろん、科学読み物としても楽しめる本だ。有毒生物たちのコワい生態をゾクゾクしながら読み進むスリルも味わえる。

カモノハシの毒。

有毒生物といえば、毒ヘビ。毒グモ、サソリなどを思い浮かべるが、著者は、本書を、有毒らしくない動物から語りはじめる。その動物は、なんとカモノハシ。世にも奇妙な形状と生態を持つこの哺乳類は、オーストラリア先住民の間では、恐ろしい毒を持つ動物として恐れられていた。しかしカモノハシを解剖したり、その生態を調査した研究者たちは、この哺乳類が有毒である証拠を見つけることができなかった。「カモノハシ無毒説」は、19世紀末まではびこっていたという。1895年、カモノハシの蹴爪から抽出した毒が、オーストラリア産の毒ヘビの毒と似通った特性を持っていることが確かめられる。雄のカモノハシのみに見られる毒は、季節により、その強度が変化するため、特定が難しかったという。繁殖期に雌を争って他の雄と争う時に、毒の強度がもっとも増すのである。1935年には、カモノハシの毒液が、「非常に弱い毒性を持つクサリヘビの毒液とよく似ている」ことが判明する。この毒液により、人間は、死に至ることはないものの、耐え難い痛みを長時間にわたり味わい続けるという。ある退役軍人が狩猟中に、怪我か病気で弱っているらしいカモノハシに出会い、抱きあげようとして刺された。親切が仇となり、彼は激痛の中で6日間も入院しなければならなかった。彼の治療に当たった医師たちは、最初の30分に合計30ミリグラムのモルヒネを投与したが、ほとんど効果がなかった。ふつうの痛み止めに用いられる量は、1時間あたり1ミリグラムだという。医師たちが神経ブロック剤で手のすべての感覚を麻痺させてはじめて彼は痛みから解放されたという。5千種以上の哺乳類の中で毒を持つのはたったの12種類しかいない。4種のトガリネズミ類、3種のチスイコウモリ類、2種のソレノドン(長い吻を持つ夜行性の哺乳類、中南米産)、一種のモグラ、一種のスローロリス、そしてカモノハシである。近年、遺伝子研究の進歩で、毒の研究が急激に進んでいるという。カモノハシとクサリヘビという、まったく隔たった種が同じような毒を持つようになることを収斂進化というらしい。

最凶の殺戮者は誰だ。

著者は、次に、有毒生物たちが人類に与える影響について語る。毒の強さを科学的に測る方法の中で最もよく使われるのが「半数致死量」で、LD50という数値だ。毒液を投与された動物(ラットとマウスが最も多い)の半数が死ぬ量で、体重1kg当たりのmgで表される。地球上でいちばん致死的な動物と言われるオーストラリアウンバチクラゲではLD50は、0.011。このクラゲに刺されると耐え難い激痛に襲われ、刺された場所の壊死、視力低下、呼吸困難、心停止などの症状が現れ、1〜10分で死に至るという。近年、本州沿岸でも確認されようになったヒョウモンダコも、フグと同じテトロドトキシン0.0125(LD50)を主成分とする毒を持つが、毒液まるごとはいまだに検査されていない。毒ヘビの中では、オーストラリアのタイパンが、0.013で、もっとも殺傷能力が高いとされる。しかしLD50は、ラットやマウスによる検査が主であり、現実には種によって毒液に対する耐性が異なっている。そこで有毒生物の致死性を表すデータとして症例全体に占める死亡率が注目されている。上記のオーストラリアウンバチクラゲに刺されて死亡する人は毎年0.5パーセント以下である。恐ろしいナイリクタイパンでも1956年に抗毒素が作られて以来、死亡者はいなくなった。(それ以前はほとんど100パーセントが死亡していた)毒ヘビ全体での死亡率は2パーセントだが、インドアマガサヘビ(死亡率60〜80パーセント)とキングコブラ(死亡率50〜60パーセント)では、毒液そのものは強くないが、ひと噛みで注入される毒の量が圧倒的に多く、また夜行性のため、噛まれても、毒ヘビであることがわからず、痛みも少ない場合が多く、治療が遅れ、死に至るケースが多くなるという。著者によると、ヘビは、今日でも世界トップクラスの殺人生物であるという。インドの4大毒ヘビ、ラッセルクサリヘビ、サメハダクサリヘビ、インドコブラ、キングコブラは、他の毒ヘビと比べて毒液の強さは1/30〜1/110にとどまるが、毎年、何万人もの人間を殺している。その生息地は主要な人口密集地の内部や周辺にあり、頻繁に人間と接触すため、咬まれる機会が多い。4大毒ヘビの抗毒素はすべて手に入るが、そのような場所は貧しい人々が多いため、医療サービスが制限され、治療できる症例でも死に至る場合が少なくないという。サハラ以南のアフリカでも、同じような事情で何万人もの人間がヘビに咬まれて死亡している。もっとも致死的な毒を持つヘビ(タイパンなど)は辺境地に生息し、人間の多い場所とは距離を置く傾向があるため、彼らに咬まれるなどということはめったに起きないという。

人間の脳と視覚は毒ヘビから逃れるために進化した?

人間に限らず、すべての霊長類がヘビを恐れるという。赤ん坊でも同様にヘビをこわがる。多くのヘビが、まわりの環境に自らを巧みに溶け込ませるカモフラージュの能力を身につけている。しかし人間は、それを素早く見分けることができるという。「人間の脳と視覚は毒ヘビから逃れるために進化した」という説を唱える研究者がいる。約6000万年前、人類の祖先が、キツネザルなどの初期霊長類から別れる頃、ヘビ類の中に、より強力な毒液を持ったクサリヘビ科とコブラ科が出現したという。クサリヘビ科には、マムシ、ハブ、ガラガラヘビ、そして恐ろしいクサリヘビがいる。コブラ科にはナイリクタイパンや、ブラックマンバという地球上で最も猛毒なヘビがいる。これらの科が出現したことにより霊長類とヘビ類の関係が変わる。捕食者となったヘビ類は狩りの方法も変え、最後の瞬間までじっと動かず待ち伏せするようになった。この強力な毒を持つヘビに対する恐怖が、進化を促す圧力となって、霊長類の視覚を進化させ、視覚情報を処理するための脳が発達した。巧妙に身を隠した捕食者を見つけ出すことができる「立体視の能力」を身につけた霊長類は、生き延び、繁殖することができたのだという。実験によって、コンピューターのスクリーン上に気がつかないほどの短時間、ヘビの画像を表示させると、私たちは生理的に不安を感じるという。私たち自身がヘビを見ていると自覚するより前に、その存在を認識している。クモなどの危険な生物では、このような反応は起こらないらしい。僕らがヘビに対して感じるいわれのない恐怖感、ほとんど生理的ともいえる嫌悪感は、猛毒のヘビから生き延びるために霊長類が身につけた特殊な能力の一部なのかもしれない。

26年にわたり自分の身体にヘビの毒を注射しつづけた男。

動物の中には毒に耐性を持つ種が存在する。毒ヘビを食べるマングースは、自らの免疫を進化させ、毒への耐性を身につけたという。同じ哺乳類である人間も、毒への耐性を高めることができるのか?26年にわたり、ヘビの毒を自分の身体に注射しつづけた男がいる。著者は「自家免疫実践者」と呼ばれる人々のことを紹介する。彼らは科学者ではなく、自らの身体でコブラ科やクサリヘビ科の、様々な毒ヘビたちの毒液を混合した毒液を静脈注射で自らの身体に送り込む。彼らのSNSでは、ブラックマンバなどの猛毒のヘビを素手で扱ったり、咬まれたりしている画像が投稿されている。彼らは、自ら毒液を投与することで毒に対する免疫力を強化し毒への耐性を作りあげようとしているのだ。一般に毒ヘビの血清は、馬、羊などに毒液を注射して作るが、別の動物の血液であるため、その副作用も問題になっている。人体を使って、同じように血清を作ることができれば、副作用の少ない毒被害の治療を行うことができるはずだという。彼ら「自家免疫実践者」と研究者が協力して毒に対する人体の耐性を高める研究が始まっているという。毒に対して人間が耐性を身につけるメカニズムは、免疫の仕組みと大いに関わりがある。ミツバチなど、無害な毒に免疫システムが過剰反応し、死に至ることもあるアナフィラキシーを引き起こすアレルギーは、実は様々な毒に対する生体の防衛反応ではないかという説がある。アナフィラキシーは、人体が、命がけで毒と戦う最後の防衛線であるかもしれないという。血圧や心拍数を急降下するのは、毒による激しい出血を抑えるためかもしれない。激しい嘔吐や下痢も、体内の毒物を急速に排出しようとする反応かもしれない。このアレルギーを引き起こす免疫の仕組みをコントロールすることが可能になれば、人類が、マングースのように、有毒生物の毒に対する耐性を手に入れられるかもしれないという。

人生を変える激痛。

昆虫学者のジャスティン・シュミットは「刺されると痛い昆虫ランキング:シュミットの疼痛指数」を作るために、アリやハチなど78種に自ら刺され、0.0(無痛)から4.0(底知れない苦痛)までの段階を定めた。それによるとホオナガスズメバチは、2.0で、世界最大のハチであるオオベッコウバチが、4.0である。(最近話題になっているヒアリは、1.2)。ランキングのトップに立つのは南米のサシハリアリで、4.0+とされている。その痛みは「踵に7〜8センチの釘を打って、真っ赤な炭の上を歩くようだ」と表現されている。英名を(bullet ant)といい、このアリに刺されるのは、銃で撃たれるようなものだという。被害者によると激しい苦痛が3〜4時間続くだけでなく、完全に痛みが鎮まるまで丸一日もかかり、震え、吐き気、発汗などの副作用が伴うという。アマゾンには、このアリの苦痛を、若者の通過儀礼に用いる部族がいるという。その儀式では、村の長老たちが森の中から100匹ほどのサシハリアリを集めてきて鎮静作用のある薬草で眠らせる。そして葉っぱで作った手袋の中に、針が内側に来るように編み込んでいく。目を覚ましたアリはひどく興奮し、触れてきたものは何であれ刺してやろうと身構えている。部族の少年は、「男」になるために、サシハリアリの手袋を身につけて、何百回も刺されるのに耐えなければならない。少年の手は棍棒のように腫れ上がり、体は痛みのために震えはじめる。毒液が回っても、少年は声をあげることも涙を流すこともできない。もし声をあげれば、儀式をはじめからやり直さなければならないからだ。この部族の少年は12歳から始めて、生涯で最大25回も儀式を行うという。部族以外にも、これまで多くの勇敢な俳優や映画製作者たちがこの儀式をやり遂げようと試みた。オーストラリアのコメディアンは、手袋に、わずか2、3秒しか手を入れられなかった。そしてあまりの苦痛に倒れてしまい、病院で何時間も過ごす羽目になった。ナショナルジオグラフィックチャンネルの司会者は、5分間完全にやり遂げたが、錯乱状態に陥り、数時間喋ることができず、体の震えが止まらなかったという。サシハリアリの毒が正気を保てないほど痛いのは、獲物を捕えたり、消化するために毒素を使うヘビやクモと違って、自らの防衛を目的にしているからである。激しい痛みを生み出すのは、ポネラトキシンと呼ばれる小さなペプチドのせいである。この化合物は、ニューロンのナトリウムチャネルに作用し、神経伝達を狂わせる。筋肉は制御不能になり、痛みのメッセージを伝えるニューロンが執拗に刺激されるのだ。大きな傷もないのに激しく痛んだり、火傷もしていないのに熱を感じたり、アリやハチの毒が生み出す苦痛は、「あっちへ行け」という、捕食者への手厳しいメッセージなのだ。

血液毒と神経毒。

有毒生物の毒は、大きく血液毒と神経毒に分けられる。血液毒は、ヘビでいうと、マムシ、ガラガラヘビなどのクサリヘビ科の毒。神経毒はコブラ科の各種コブラ、タイパン、ブラックマンバなどの毒である。血液毒と神経毒は2元論的に分けられるものではなく、あらゆる有毒生物の毒は、どちらか一方のカテゴリーに入るというわけではなく、この2種類の毒からなる連続体のどこかに位置づけられるという。もっとも致死的な毒液は、そのほとんどが神経毒からなるものであるという。神経信号のブロッックや過剰刺激を通じて、横隔膜、胸壁、心臓などの生死に関わる筋肉を麻痺させるのである。それに対して血液毒の要素の強い毒液は、それほど致死的ではないが、出血と壊死をもたらすという点ではより残酷であるという。

骨まで食い尽くす毒。

壊死をもたらす毒液は、皮膚や脚一本を丸ごと腐らせ、壊疽を引き起こし、血液、膿、腐敗臭を滲出させる。血液毒は、血液や組織をターゲットにする毒である。ガラガラヘビは獲物を制圧するためだけではなく、毛や骨までを食べ物に変えるために血液毒を使う。中央アメリカ南アメリカ北部に生息するテルシオペロ(クサリヘビ科ヤジリハブ属の毒ヘビ)とその近縁種は、破壊的な壊死を引き起こすことで知られている。著者によると、これらのクサリヘビ類が、世界でも貧しい地域で人間と共存していることが問題であるという。そうした場所には、医師はわずかしかおらず、しかも遠く離れたところにしかいない。毒ヘビに咬まれた人たちが病院に運ばれ、治療を受けられるのは、数週間後、脚のほとんど、あるいはすべてが壊死してからだという。現地の大衆紙は、壊死した脚を無情にも「黒い棒」と呼ぶ。その姿は著者のように鈍感になった生物学者にとっても吐き気を催させるものだという。

壊死をもたらす毒液は、ヘビの牙によって注入された瞬間に仕事を始める。金属プロテアーゼが、血管の細胞同士をしっかりと結びつけている接着タンパク質を含む、血管と組織の重要な成分をバラバラにしていく。それによって、毛細血管が出血を始めると、局所的な浮腫が起こり、体液によって膨れあがる。そして毒素は骨格筋へ働きかけながら組織への攻撃を継続する。同じようにホスホリパーゼという毒素も筋肉細胞を攻撃し、最終的には筋壊死をもたらす。一部のホスホリパーゼは膜に穴を開けて、細胞壁を形成しているリン脂質をバラバラに切り離す。さらにヒアルロニダーゼやセリンプトテアーゼを含む毒素も虐殺に加担する。毒液注入箇所での戦いが激しさを増す一方で、他の毒液化合物は戦闘から離脱して、全身を駆け巡る。そして血管を広げて血圧を急降下させ、ショック状態、さらに死さえももたらす。骨格筋全体が死ぬ横紋筋融解症になると、大量の筋タンパク質ミオグロビンが放出され、腎臓の尿細管が詰まり、深刻な腎不全を発症してしまう。そして、これらの症状は序の口にすぎない。毒液の成分は、私たちの細胞も巧妙に騙して同士討ちさせるのだという。金属プロテアーゼによる腫瘍壊死成分の放出と、ホスホリパーゼによる生理活性をもつ脂質の放出が起きると、傷口に大量の免疫細胞が押し寄せる。細菌やウィルスに対してめざましい効果をあげる免疫細胞も、毒液化合物を見分けることができない。そのため、白血球やその他の免疫細胞は、炎症を強めるべく、インターロイキン6のようなサイトカインを生産・放出し、免疫系に対して、さらなる猛攻を呼びかける。しかし溶解させる細菌や異物は存在しないため、免疫系は侵略軍を踏み潰していると思いながら、自らの組織を殺し続ける、誤爆を行ってしまうのだ。抗毒素の投与も、こうした壊死に対しては有効ではないという。逆に体の免疫反応を抑える薬を用いることで壊死を大幅に少なくできることが明らかになってきたという。しかし、抗毒素以外の治療法は研究の歩みが遅く、十分な研究助成金が必要であるという。このような壊死性の毒液はクサリヘビ類に限らず、あらゆる有毒生物がもっているのだ。コブラ科のヘビは一般に神経毒をもっているとみなされているが、毒液を吐くタイプのコブラなどは相手の組織に深刻な損傷与えることがある。クラゲ類の中でも、致死性の毒をもつハコクラゲ類も、皮膚に深刻なダメージをもたらすという。

無痛だが致死的。ヒョウモンダコの神経毒。

コブラ科のヘビがもつのは致死性の神経毒だ。著者は神経毒を語る章を、小さなヒョウモンダコから始める。小さなオウムのような嘴によって開けられる小さな二つの穴は、せいぜい針で刺されたか、つままれたかという程度の痛みしか与えない。出血していることでようやく被害に気づく人もいるくらいだ。それは確かに無痛だが、致死的である。1970年代、ヒョウモンダコの毒液からきわめて致死的な成分を単離した。その成分はマクロトキシンと呼ばれ、ラットやウサギに注射すると、血圧と心拍数が急降下し、呼吸器系は完全に麻痺した。その8年後、マクロトキシンが、フグ類から発見されたものと同じ化合物であることが確認された。かの悪名高きテトロドトキシンである。テトロドトキシンは、知られている限り、もっとも致死的な化合物のひとつであるという。砒素、シアン化物、炭疽菌より猛毒であり、コカインよりも12万倍、メタンアンフェタミンよりも4万倍、致死率が高い。テトロドトキシンは、他の致死的化合物と同じように神経毒である。血液毒と違い、神経毒は即効性をもつ殺し屋であると著者はいう。神経毒は細胞間のコミュニケーションを阻害することによって相手を麻痺させる。著者は、ここで、私たちの細胞のコミュニケーションの仕組みについてレクチャーしてくれる。細胞のコミュニケーションの中でもっとも速いのは電気的な信号を通じてのものである。細胞は本質的には小さなマイクロ電池であり、2つの異なる電荷をもつ溶液を細胞膜が障壁となって隔てている。この細胞膜の内外の電荷の差を膜電位と呼び、これを利用して、ニューロン細胞を経由して信号を瞬時にやりとりしているのだ。細胞膜には、イオンチャンネルと呼ばれる回路があり、イオンを出し入れすることで電気信号を伝えていく。私たちのあらゆる感覚もあらゆる筋肉の運動も、すべての伝達は、電気信号の連鎖反応を生むイオンチャンネルによって生み出される。そして、このイオンチャンネルこそ、神経毒が攻撃する標的なのである。テトロドトキシンは、イオンチャンネルのうちのナトリウムチャンネルを阻害する毒素である。ヒョウモンダコに咬まれると、テトロドトキシンがが神経信号を停止させ、痺れが放射状にひろがっていく。吐き気、嘔吐、下痢が伴い、やがて脱力と麻痺が訪れる。脳は筋肉に動くように命じることができなくなる。呼吸でさえ電気信号を必要とする。横隔膜の運動を遅くさせ、最終的には完全に停止させてしまう。毒液に一定以上の量があれば、心臓も動かなくなる。

麻痺毒の王様、イモガイ

毒液には私たちの神経信号伝達システムのあらゆる段階に影響を与えられるよう、さまざまな神経毒が含まれている。テトロドトキシンのように、きわめて重要なチャンネルを閉じさせるものもあれば、逆にこじ開けるものもあるという。貝などの海生軟体動物がもつ毒素は、それぞれが非常に特異的な分子標的をもち、またその正確さによって知られている。そうした巻貝類は、熟練したバーテンダーのように、獲物を正確に動けなくする、独特で複雑な毒液カクテルをこしらえるという。著者が住むハワイの潮だまりには神経毒をもつ危険な動物はいっぱいいるが、なかでもイモガイ類は、研究者たちの再三のの警告にもかかわらず、子供たちが手にしているのを見かけるという。この危険な捕食性海生軟体動物は、銛(もり)に似た形のの変形版の歯のようなもの(歯舌)をもっていて、これが細い管で毒腺につながっている。彼らは攻撃を受けると、この針のような銛を敵に向けて発射する。すると管を通って毒液が吸い上げられ、敵の体内に撃ち込まれるのだ。毒液は、ほぼ瞬時に麻痺を引き起こす。フィリピン生まれの研究者、バルドメロ・オリヴェーラは、イモガイの一種であるアンボイナガイの毒液からテトロドトキシンに似た強力な毒素、コノトキシンと、コブラに見られる毒素とよく似たものを発見する。さらに実験によってコノトキシンは、驚くほど複雑で多様な混合物であったことが明らかになる。あるペプチドはマウスを跳び上がらせたり、体をねじらせたりし、別のペプチドはマウスをグルグル回らせたり、眠らせたりした。最新の素晴らしい装置によって、コノトキシンは麻痺だけでなく、信じられないほど多様な症状を引き起こすことができる化合物であることが判明。1980年代のはじめ、一人の学生が、身震いペプチドと名付けた化合物を精製した。それは現在ではプリアルト(重度慢性疼痛治療薬)という名前で、イモガイの毒液由来として初めてFDAに認可された薬品として知られている化合物である。イモガイの毒液化合物が、なぜ人の薬品になるのか。それはこの毒液化合物が獲物である魚類をターゲットにした、非常に特殊なものであるため、この毒が人間に麻痺を引き起こすことはないという。しかし、私たちは、魚の筋肉と非常によく似たイオンチャンネルを実は持っている。それは筋肉に働いて運動を制御するのではなく、痛みの伝達回路において重要な役割を果たしている。プリアルトは、痛みを感じるニューロンの末端でイオンチャンネルを完全に閉じてしまい、痛みの信号を脊髄に送れなくするのである。イモガイ類は、どうして、このような特殊な毒を持つようになったのだろう。イモガイ類の中には同じペプチドをもつ種は2つと存在しないという。それぞれの種が自分たちだけの独自のセットを持っているのだ。イモガイ属には500種以上がおり、海の中では、他のどの属よりも多いという。しかしそれは氷山の一角にすぎない。イモガイの拡大家系図を見ると、この地球上には1万種以上の、毒液をもつ海産巻貝類がいて、それぞれが二、三百から数千の種類の異なった毒素を持っていると推定される。しかし、そのほとんどは研究室で調べられたことがない。彼らの多くは2〜3センチの大きさしかなく、さらに浅瀬ではなく、簡単には近寄れない海域にすんでいるからだ。先の計算が正しいとすると、まだ発見されず、解析されていない毒性ペプチドは、30万〜3000万種類もあるかもしれないという。

巻貝類はこの世でもっとも進化速度が速いDNA配列を持っている。

毒液を持つ巻貝は、なぜこれほど多くの毒素を生み出すことができたのだろう。それは彼らが持っている遺伝子は、この世でもっとも進化速度の速い遺伝子配列のひとつなのだという。それによって彼らの遺伝子の変異率は、哺乳類で報告されているもっとも高い突然変異率よりも5倍、ショウジョバエで見つかったもっとも高い突然変異率よりも3倍にあたるという。この進化速度の速さを活かして有毒巻貝たちは、考えられないような毒素の多様性を生み出してきた。毒素の進化速度がこれほど速いのは、新しい獲物を攻撃するためではない。時間が経って、獲物が毒に対する耐性を身につけた時に備えるためなのである。かつてイモガイ類は、ゴカイなどの環形動物を食べていた。その頃、海の食物連鎖の頂点に立つ魚類が捕食者となってイモガイ類の脅威となっていた。高速で進化する毒素遺伝子が、この軟体動物に、捕食性の魚類を撃退する武器を与えた。毒素はしだいに強力になり、魚類が死ぬようになった。それを好機として、イモガイ類は魚類は食べ始めた。食物連鎖の逆転が起きたのだ。

主役登場

有毒生物の系統樹を見ると、ほとんどすべての枝に神経毒生物がいる。しかし、人類の誕生以来、私たちに恐怖と魅力を刻みつけてきた1つの種に光を当てることなく、神経毒について語ることなどできない、と著者は言う。それは人類の眼と知性が進化する原動力になったと言われる種であり、各時代の文明において物語の主役を演じている種であり、今日でも、地球上でもっとも見分けのつく動物のひとつだ。著者が最後に語ろうするのは、コブラ科のヘビのことである。クサリヘビ類は相手の体を制圧し、血まみれにし、跡にはズタズタに切り裂いた遺体を残す。しかし、コブラ科は、時には、徹底的な病理解剖がなされるまで咬まれたことに気づかない人さえいるのだ。世界に存在する致死的なヘビのほとんどはコブラ科に見られる(コブラ、マンバ、アマガサヘビ、タイパン、デスアダー、ウミヘビ、サンゴヘビなど)。彼らはイモガイと同じように獲物を麻痺させるために強力なペプチドを用いる。イモガイ類と違って、彼らが獲物にするのはふつう哺乳類であるため、その毒液が人間にとって致死的なのは不思議ではないという。コブラ科のヘビたちが持つ神経毒のなかでもっとも致死的なのは、αニューロトキシンである。この毒素は、筋肉細胞にある神経伝達物質の受容体を阻害し、麻痺によって死をもたらす。しかし一部のコブラ科の毒液は、麻痺を引き起こす一方で、私たちの体に別の影響を及ぼすという。これらのヘビは、私たちの筋肉を麻痺させるだけでない。彼らは、はるかに邪悪で、不気味にも、私たちの心を操るのだという。

 コブラに咬ませてハイになる。

インドのデリでは、2、3百ドルほどの金額でコブラの毒液を体験することができるという。ある人たちによれば、世の中に出回っている薬物のなかで、もっともハイになれるものだという。K-72あるいはK-76と呼ばれる、粉末にした毒液は、インドでは他の不法薬物の5倍から10倍の値段で売られているという。少々のコカインと同じように感覚をハイにして、エネルギーを高める、この高額商品は、インドの裕福な若者たちのあいだで人気が高いという。密輸業者たちは、毒液1リットルで2000万ルピー(30万ドル以上)も稼げるという。毒液に法外な金額を支払えない、あまり裕福ではないが、スリルを求める人は、もっと直接的な方法で毒液を手に入れる。インドの幾つかの都市では、娯楽目的でヘビに咬ませる体験を商売している売人たちがいる。売人たちは単独で商売をしているか、「ヘビ窟」と呼ばれる怪しげな娯楽施設に属しているか、どちらかであるという。ヘビ窟では、咬傷によってもたられる朦朧状態のなかで、数時間を過ごすことができる。ヘビ窟のいくつかでは、多様なヘビの品揃えを自慢にしていて、効果の緩やかなものから、激しいものまで選べる。体験者によれば、彼らはコブラアマガサヘビなどの、コブラ科のヘビに咬まれるサービスを受けたという。著者は、自ら求めてヘビに咬まれた人たちの体験を紹介する。30種類以上の麻薬を経験したことがある52歳のミスターPKDは、放浪しているヘビ使いの協力を求めて、適正な値段で、2週間に2度、ヘビに前腕を咬ませた。恍惚感は、目眩と視野のかすみから始まり、それに続いて「高揚した覚醒感と幸福感が2、3時間にわたって持続したという。それはアヘンで体験するよりも、ずっと気持ちの良いものだった。ケララ州で逮捕された19歳の男は、定期的にヘビに咬まれるために100マイル近い旅行をした。彼は最大で40ドルを支払って、小さなヘビの頭を舌の裏に押し付け、咬ませることで、数日間持続する恍惚感を得たという。快楽のためのヘビの毒液について書かれた記述には、咬まれた場所に腫れが見られないという驚くべき一貫性がある。これは使われたヘビが、基本的に血液毒性をもたず多様な神経毒性をもつこと「つまりコブラ科であること」を示している。著者は研究者のなかで、誤って毒ヘビに咬まれ、ハイになった人たちの体験も紹介している。オーストラリアのブライアン・フライはピルバラデスアダーに咬まれた時の体験を回想録に書いている。彼は全身が麻痺し、人工呼吸器によって命が保たれていた。しかし、彼はまったく気にしていなかったという。彼の体験に一部を紹介しておこう。「それはもっとも強力な、1000倍の笑気ガスを吸ったときのようだった。体を動かす能力をまったく失ってしまうと、私は人工呼吸器につながれた。感覚はもう一段上のレベルへ行き、なんの心配もなく、私は頭上高くの世界を漂っていた。(略)時間をワープしていた。何十億年も私は、満ち足りた気持ちで、宇宙のなかを移動し、はるか彼方の土地や遠くの銀河を探検した。(略)」インドコブラに咬まれたジム・ハリソンは、感受性が研ぎ澄まされ、自分が毒液に反応しているという感覚を覚えた。「部屋中のすべてのものが光り輝やいているように思えた。すべてを感じるんだ----誰かがしゃべっているのも、その他あらゆることも」。神経毒と、咬傷に付随する「ハイ」を直接結びつける研究はないため、毒液の毒素に「ハイ」にする効果などほとんどないと主張する人もいる。「しかし、もしかしたら」と著者は語る。「この化学的なカクテルが実際に、何かとてつもなく素晴らしいことをおこなえる----血管脳関門を越えて、私たちの脳に影響を与えられる-----神経毒を含んでいると考えるほうが当を得ているかもしれない」

脳の防御壁を突破し、中枢神経に入り込む。

実際、そうした効能を持つと知られている毒液成分はいくつか存在するという。ミツバチの毒液成分であるアパミンは、カルシウム依存性カリウムチャネルを遮断して、ニューロンにインパルスを発射しやすくさせる働きをもっている。大量に投与されると震えや痙攣を引き起こすことがあるが、少量では興味深いことが起きる。ラットで行われた実験では学習・認知能力が改善されることが示されているという。また、アパミンは体内に注射されても血管脳関門を通り抜けて、脳の報酬系に働きかけることができるのだ。ヘビの毒液は、アパミンを含んでいない。ヘビの神経毒の「ほとんど」は、はるかに大きいタンパク質とペプチドであり、そう簡単に脳内に入ることはできない----ただし、ここで大事なのは「ほとんど」という部分である。少なくとも一部のヘビの毒液には、血管脳関門を通過できる分子が含まれているという証拠がしだいに増えてきているという。ミナミガラガラヘビの毒液をマウスの体に注射すると、2時間後には脳内から毒液が検出される。同じくミナミガラガラヘビの毒液から単離された毒素、クロトキシンとクロタミンも、中枢神経に働きかけて鎮痛作用をもたらすという。

獲物をゾンビ化する毒。

脳に働きかけてマインドコントロールする毒の働きを示すために、著者は、この章の最初に、エメラルドゴキブリバチを紹介する。このハチは数倍の大きさを持つゴキブリに、頭上から急降下して、ゴキブリを口で掴み、毒針で胸部の第一歩脚のあいだを刺す。この一撃でゴキブリを一時的に麻痺させ、今度は2箇所の神経節(昆虫の脳に相当する部分)に毒液を送り込む。ゴキブリバチの毒針は、ゴキブリ用にぴったり調整されていて、脳のどの部分に毒液を注入すべきかなのか感じ取ることができる。毒針は、機械的、化学的な手がかりをもとに、ゴキブリの脳の中を探ることができて、神経節鞘(血管脳関門に相当する組織)を通り抜ける経路を見つけだし、正確に毒液を送りこむ。すると、驚くべきことに、犠牲者はまず身づくろいを始める。一時的な麻痺から前肢が回復すると、ゴキブリはただちに、30分ほどかけて綿密に体をきれいにする。体をきれいにしたいという突然の欲求は、ゴキブリの脳内へドーパミン流入させることによって誘導できるという。ゴキブリが体をきれいにしている間に、ゴキブリバチは、自分の子供と、その生贄になるゾンビゴキブリを置いておける、人目につかない場所を探しにいく。およそ30分後、ゴキブリバチが戻ってくると、毒の効果で、ゴキブリは逃げ出すという意志を完全に失っているのだ。このゾンビ状態は、一週間ほど続くという。ゴキブリの運動能力は無傷で残るのだが、彼らはそれを使いたがらない。ゴキブリの翅や脚に触るといった、普通なら回避行動を促すような刺激を与えると、脳に信号は送られるものの、行動上の反応が引き起こされない。毒液が特定のニューロンを弱めて、ゴキブリの活性と反応性を低下させる。ゴキブリは突然、恐怖感を失うのだ。ゴキブリが動かなくなると、ゴキブリバチは、その触角を噛み切り、甘くて栄養のある血液を飲むことでエネルギーを補充し、残った触角を騎手が手綱を扱うように操作して獲物を墓場まで導いていく。巣穴の中に入ると、ゴキブリの体に卵を1つ産みつけ、入り口を塞いでしまう。そしてゴキブリバチは、ここで最後の一撃を加える。ゴキブリの代謝速度を低下させる。獲物が確実に長生きして、新鮮なままむさぼり食われることができるように…。エメラルドゴキブリバチの毒液は、ほんの一例で、彼らの属するセナガアナバチ属には、何種類かの心理操作を行うものがいる。彼らはゴキブリだけでなく、クモや芋虫、アリなどに寄生する。そのすべてがゾッとするような生活様式もっているという。

終章:有毒生物と人類の未来。

かつて有毒生物が注目されたのは、彼らがもたらす「死 」のためであった。死をもたらす力は、尊敬と崇拝を集めた。しかし今、彼らが注目を集めているのは、毒液が命を救う力によってであるという。1990年代の初めごろ、ブロンクスの退役軍人病院で働く内分泌学者であったジョン・エングは、アメリカドクトカゲの毒液に含まれるエキセンジンと呼ばれる救命化合物を発見した。それは糖尿病の治療に革命をもたらした。そして、その合成版を開発し、製薬会社のイーライリリー社に売った。その結果できた製品、バイエッタ は、2006年のアメリカ製薬市場でヒット商品になった。この薬品に含まれるエキセナチドという合成分子は、血糖値が高い時のみインスリンの放出を促すので、定期的なインスリン注射と違い、事故によるインスリン昏睡が起こらないという。バイエッタは、数年にわたり10億ドルの年間売上をもたらした。

バイエッタが出た直後、カプトプリルが登場する。この薬はハララカというブラジルのクサリヘビに由来するもので血圧を降下させる働きをもつ。他にも抗血液凝固成分として作用するヘビ血液毒性を利用したインテグリリンとアグラスタットも登場。今日の市場には、6種類の毒液由来の薬剤が出回っているという。1980年代や1990年代には、「毒液を薬の基にすべきだ」と言う人はいなかった。それが2000年代に入ると、科学者たちは核磁気共鳴分光法など、いままでとは違うやりかたで毒液を調べはじめた。今や誰もが「毒液は複雑な分子の図書館だ」と言い始めているという。

ミツバチに刺されて難病が完治した女性。

有毒生物の毒による治療は、昔から民間療法として行われてきた歴史を持つ。最古の毒液治療法のひとつはアピセラピー(ハチの毒を用いる治療)で、ギリシア、中国、エジプトの古代文明で採用されていた。伝統的なインド医学であるアーユルヴェーダでも治療法としてヘビの毒を用いたという。今日でも毒液による治療の研究は順調に進んでいる。著者は、ライム病で死にかけていた女性がミツバチに刺されて、病気が完治した例を紹介している。ライム病とは、シカダニに咬まれることで、その毒液に含まれる螺旋菌んい感染することで発症する。感染しても、ほとんどは抗生物質で簡単に治療することができるが、なかには細菌が生き残り、神経変性をもたらす場合がある。優れた物理学者であった、その女性は、この感染症によって行動能力を奪われた、かろうじて立ち上がったり、考えをまとめることができるだけで、正常な暮らしなど、とてもできなかったちう。どの医師にかっかても、どの治療法を試しても、つねに病気はぶり返した。絶望した彼女は死に場所を求めてカリフォルニアに移った。新しい場所に住みはじめて数日経ったある日、彼女はミツバチの群れに襲われた。彼女は、子供のころ、ハチに刺されて命の危険があるほどのアレルギーを引き起こした経験があったため、これでもう終わりだと思った。彼女は、「これは、一刻も早く苦しみから解放するための、神の思し召しです」と友人に語って、あらゆる処置を拒んだ。数日間、彼女は、想像できる限り最悪の痛みに苛まれた------しかし、死ぬことはなかった。そして彼女を苦しめたライム病は完治していた。後に彼女は、ミツバチの毒にもっとも多く含まれるメリチンが強力な抗生物質であることを発見する。彼女は、その後、ミツバチの毒液を用いる化粧品の会社を立ち上げたという。

ミツバチの毒でHIVを殺す。

ここ10年で、医療のための毒液研究が急速に進んでいるという。最近ではミツバチの主要毒液成分のひとつはHIVを攻撃し、殺せることが発見されたという。他にもマラリア、心臓病、血液疾患、癌など、様々な病気の治療に、毒液の成分を用いる研究が始まっているという。 

感想

本書を読んで驚かされるのは、今世紀に入ってからの毒の研究が、かつてないほど広がり深まっていることだ。それによって生物における毒液の成分が解明されるようになると、単一の種でも、数百から数千もの成分が含まれ、その多くが、いまだ解明されていないという。「動物の毒には血液毒(出血毒ともいう)と神経毒があり、ほとんどの有毒生物は、血液毒と神経毒からなる連続体のどこかに位置している」というぐらいの、今までの僕の認識は、「毒」の実態の、ほんの表面をなぞっているだけにすぎなかった、ということに気づかされた。毒液に含まれる、多様で、複雑な毒素には、生命の進化の歴史が凝縮されている。そこには、私たちに「死」をもたらすだけでなく、「命」を救う力を持った多くの物質が、発見を待っている。