伊藤洋志「ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方」

平川克美「『消費』をやめる 銭湯経済のすすめ」を補完してくれる、もう1冊。前回エントリーの「フルサトをつくる」が「場所」をめぐる話だったが、こちらは「仕事」をめぐる話。著者は「フルサトをつくる」の著者のひとりである伊藤洋志。今、世の中で理想の働き方といえば「グローバルな能力を身につけて、グローバルな企業に就職し、グローバル市場で、世界のグローバル企業としのぎを削る」みたいなことになっているが、そういうのは著者によると「バトル型の人」の働き方であるという。では「バトル型でない人」にとって、どのような働き方があるかということを、バトル型でない著者が自らを実験台としながら奮闘した記録が本書である。
ベンチャー企業を肌荒れで退職。
著者は京大の大学院を終了後、東京の小さなベンチャー企業に参加するが、ストレスのせいか、肌荒れがひどくなり、退職。フリーライターを続けながら、「ナリワイづくり」をテーマに活動を開始。シェアアトリエ「スタジオ4」、京都の一棟貸し宿「古今燕」、「モンゴル武者修行ツアー」、「熊野暮らし方デザインスクール」等の企画運営をナリワイとして手がける。大学院時代は、全国の職人さんの見習いをしながら、弟子の技能の身に着け方と生計の立て方を調査。手仕事専業ではなく、農業や素材栽培も含め生業を営む染織工房がいきいきと働いている様子を見て、専業よりも、副業的生活に可能性を感じたという。著者のナリワイ志向は、大学院時代に培われたようだ。それにしてもユニークだ。以前に読んだ「ぼくは猟師になった」の著者である千松信也氏も、京大を出て猟師の生活を選んだが、京大というのは、ユニークな人物を生み出す土壌があるのだろうか。
職種の数は、大正時代の16分の1
本書の冒頭で、著者は、この数字を紹介する。大正9年の国政調査で国民から申告された職業の種類が約3万5000種。それが現在の厚生省の日本標準職業分類によると、2167種。90年間で16分の1以下に激減しているという。比較するデータに疑問はあるが、職業の種類が減少しているというのは本当だろう。日本は、様々な職業に分散していた労働力を大企業に集めることで生産力を高めていった。特に戦後は、労働力を、自動車、家電などに集約して高度経済成長を遂げていく。その過程で職業の多様性が失われていったという。60年代から80年代に大きく成長を遂げた企業の多くが、21世紀になると曲がり角を迎える。日本経済を牽引してきた製造業の業績不振、経営破綻が相次ぎ、かつて成長の花形だった家電メーカーや半導体メーカーも大規模なリストラを強いられている。その理由を、著者は仕事の専業化にあると指摘する。ひとつの仕事だけをやらなければならないから、どうしても競争が激しくなったり、その規模を無理矢理大きくしなければならず、努力のわりには結果が出なかったりする…。このあたりの理屈は、平川克美「消費をやめる」のほうが、すっきりと説明してくれる。
アメリカ発の大量生産/大量消費システム。
アメリカで生まれ、戦後日本に入って来た大量生産/大量消費の経済システムは、地方の労働力を呑み込んで大発展を遂げる。その過程で、地方の過疎化が進み、都市部でも零細企業や地域の商店街が駆逐されていった。そこにグローバル化が加わり、規模の大きな企業だけが生き残っていく。さらに企業は、売上拡大のために、より大きな市場への進出が不可欠となり、グローバル市場における、より強力なライバルとの競争に明け暮れることになる。しかも、その競争に生き残れるのは、ごく少数の勝者のみであり、多くの企業は、過酷な競争に負けて、結局は消え去ってゆく。その結果というべきか、かつて3万5000種もあった職種が2000種余りに激減してしまった。ニート非正規社員の急増は、このような社会変化に適応できなかった労働人口が顕在化しただけなのだ、と著者は言う。
ナリワイとは。
いちおう第1章の冒頭で、著者はナリワイを以下のように定義している。『個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事を「ナリワイ」(生業)と呼ぶ。』また「これからの時代は、一人がナリワイを3個以上持っていると面白い」とも語る。著者は、「ナリワイ」を明確に定義するのは難しいという。「ナリワイらしきものをダーっと並べてみたら、ナリワイっぽい雰囲気がにじみ出てくる、というものだ。」ということらしい。
それにしてもちょっとわかりにくい。著者は「ナリワイづくり十か条」を掲げている。
ナリワイ十か条

●やると自分の生活が充実する。

●お客さんをサービスに依存させない。

●自力で考え、生活できる人を増やす。

●個人ではじめられる。

●家賃などの固定費に追われないほうがよい。

●提供する人、される人が仲良くなれる。

●専業じゃないことで、専業より本質的なことができる。

●実感が持てる。

●頑張って売上を増やさない。

●自分自身が熱望するものをつくる。

うーん、何となくわかるような気もする、というのが正直なところ。著者も、自分でどんどん付け足してほしいと言っている。
人生における支出を点検し、カットする。
 ナリワイづくりを目指す者は、まず自らの支出を点検し、無駄な部分をカットしなければならないと主張する。現代の我々の社会は不要な出費が多すぎるという。東京に住む著者は、シェアハウスや物々交換で毎月の出費を10万円少々に抑えているという。出費の中で大きな割合を占めるのは住宅費、家賃であり、地方の山間部に行くと、住宅費が安いため、月3万円の収入で、月1〜2万円貯金している友人の例を紹介する。また会社を辞めたいのに辞められない理由の一つが、会社を辞めると、収入が無くなるという恐怖であるという。著者は、この「恐怖」をきちんと見きわて「危機感」に変換することが大切だと説く。人は未知の挑戦に対して恐怖を抱くが、要は、恐怖の正体を明かりで照らし出して、明らかにすればよいのだ。著者は一定期間、家計簿をつけることを推奨する。著者は、自分が、日当りのよい寝床があって、温泉があり、いい食事ができれば十分らしく、この3つを満たすためのコストを調べて把握しているという。普段、暮らしに困らないという安心感があれば「仕方なく身を削る仕事」をする時間を極力減らして「将来につながる仕事」だけに集中できるという。

ライスワークに気をつけろ。

著者は、さらに警告する。ランニングコストのためのライスワークで稼いで、理想の仕事を「ライフワーク」で行うというのは一見現実的に見えるが、それは甘いという。ライスワークだとたかをくくってやっている感覚が染み付いて、自分の理想の仕事をする感覚を鈍らせるという。感覚はあっさり鈍化するのものである。「学生の頃に面白かった先輩が、数年後に会ってみたら業界のネタしかしゃべれないつまらない人間になっていた、ということはザラにある」という…。

こんな調子で、著者の主張をたどっていくときりがないなあ。最近はポストイットを持ち歩いて、気になった部分に印を付けているが、本書は、ポストイットだらけになってしまった。あとは本書を読んでもらったほうがいい…。ここには、企業に就職することに背を向け、自らを実験台としてナリワイづくりを実践してきた著者にしか語れない言葉が語られている。

ナリワイをつくろう。

では、どうやってナリワイをつくるか、という第3章。そこには魔法のような手法があるわけではなく、普通にアイデアを出す鍛錬の方法の紹介である。その一つは「未来を見る」であり、もう一つは「日常生活の違和感を見つける」だという。具体的には作業仮説の手法やKJ法を使ったりと、けっこうまっとうだ。ただ、著者が、これらの方法を使って、いくつかのナリワイを立ち上げ、成功させてきたケーススタディが描かれているので、説得力がある。

ナリワイをやってみる。

やるべきナリワイが見つかり、そのディテールが見えてきたら、次はそれを実行する段階になる。そこで著者は、自分のプランを友人知人に話し、忌憚のない意見をもらうことも重要だという。その際、最初は、なるべく前向きな意見をくれる人に会うようにしたほうがよいという。何事にも否定的な意見を言う人はいるもので、実績ゼロの段階でボコボコに否定する意見に出くわすと、あっさり心が折れてしまうことがあるらしい。お金よりやる気のほうが現代では貴重な資産であると著者は言う。さらに、ある程度実態が見えてきた段階では、とりあえず1回実行することが重要だという。実際に実行してみると、計画段階では決して得られなかった一次情報が手に入ることが何よりも貴重であると、著者は主張する。一次情報を得ることで、初めて二次情報が生きると。シェアハウスを始めた友人を見ていて「自分にもできそうな気がしてきた」というのは、まさにそういうことだと…。

社会の常識を疑え。真のリスクとは。

著者は最後の章で、リスクについて問いかける。会社を辞めることはリスクなのか?では、今の会社に居続けることで何かにチャレンジする機会を失っているという、見えないリスクもあるという。では、そういう時、何で決まるか。「嫌か嫌じゃないか」そんなもんで決まると、著者は言う。さらに「これは嫌だな」と思ったとき、「じゃあ、こうしよう」と行動できるかどうか、その判断の俊敏性は、会社に入ってしまうと磨くのが大変だという。自分が動くべき時に動けるような状態を保つということが最大のリスクヘッジになるのではないか、と著者は主張する。

市場経済社会からの完全脱出を目指していない。

著者は、自分の試みが、現在の市場経済社会から完全脱出を目指す、単なる自給自足志向ではなく、逆に、このグローバル化する市場経済の中で、経済的なチャレンジを仕掛けて行く基盤になるのではないかと考えているという。いざとなっても困窮して死ぬことはないし、ぼちぼち楽しい暮らしはできる、という最終的な心の余裕があるから、何かにチャレンジできるのである、と著者は結論づける。

皮膚感覚の確かさとしなやかな強靭さ。

「フルサトをつくる」でも書いたが、著者に感じるのは、皮膚感覚が優れていること。(だから仕事のストレスで肌荒れになった!?)それと、「戦わない派」でありながら、なかなかタフなところだろうか。というより、皮膚感覚のレーダーが鋭くて、危険を事前に察知して避ける能力が優れているのかもしれない。内田樹が、どこかに「未来の社会が必要とする人物は、現在の社会には適応できずに、どこかで埋もれている可能性が高い」というようなことを言っていた。きっと時代が、著者のような人物を必要としているのだと思う。これからは、世界のあちこちで、彼のような新世代が生まれてくるのだろう。その声に、僕らは耳を傾けなければならない。

8月はじめ、著者の監修による「小商いのはじめかた」という本が出た。「『消費』をやめる」を書いた平川克美に「小商いのすすめ」という本がある。偶然だろうか。また佐々木俊尚の新刊「自分でつくるセーフティネット」もアプローチは違うが中身が似ていると感じた。次に読むべき本が芋づる式につながっていく、ちょっと不思議な体験。