曽野綾子「老いの才覚」


「老い」「老後」「高齢者」などの言葉に敏感になっているこの頃。自分自身が年をとってきて、そして親が後期高齢者になって認知症とか介護の問題に直面しているせいだろう。新書で、この手の本をあまり買う気はしないのだが、タイトルの「老い」と「才覚」という言葉の組み合わせの違和感に引っかかり、つい買ってしまった本。
本書の主張は、かなり辛口だが、正論である。正論も突き詰めると過激になっていくという見本みたいな本。本書の主張は明快そのものだ。「いまの日本の老人は老いる才覚を失ってしまっている」という痛烈な批判から始まる。老いるためには、ある種の才覚が必要であり、昔の老人にはそれがあったという。その才覚が、基本的な苦痛がない豊かな時代によって、そして戦後の教育によって失われてしまった。いまの老人たちは老人であることが特権のように思い、周囲や社会から優遇されるのが当たり前のように思い込んでいるという。次に「老いる才覚の基本は自立と自律」であると断定する。経済的な自立。日常生活での自立。食事と洗濯と掃除など、日常の営みは人任せにしないことが重要であるという。また「老年になると、自己過保護型になるか、自己過信型になるか、どちらかに傾きがちだが、青年や壮年の時とは違う、年齢相応の生き方を創出していかなければならない」とも。この辺りの主張は、ある意味、常識的と言えるかもしれない。面白いのが、その次の主張。「人間は死ぬまで働くべきである」これは世の中の方向と少し違っている。しかし正しいと思う。例えば農業や漁業、自営業を続けている高齢者は、働かなくなった高齢者よりも、若々しいことが多い。同じ仕事を続けろというのではなく、ボランティア等、老人ができる仕事を見つけていけばいいという。また「お金」に関する意見も独特である。「お金で得をしようと思わない」楽してお金を儲けようとするから悪徳商法に引っかかったりするのだ。「得をしようと思わなければ95%は自由になれる」という主張には激しく賛成する。その他、「一文無しになったら野垂れ死にを覚悟する」「老人の仕事は孤独に耐えること、その中で自分を発見すること」など、著者らしい歯切れのいい断定が痛快だ。耳の痛い話がかなりあり、考えさせられるが、なぜか老いを迎える勇気も出てくる、不思議な本である。