哲学者、オオカミと暮らす。
この本の存在は友人に教えてもらった。新聞の書評欄でも読んだ記憶がある。読むまでは「オオカミ」というのは比喩だと思っていた。本書は、そうではなく哲学者が現実にオオカミと一緒に暮らした話なのである。「オオカミなんて飼うことができるのか?」とか、「それって違法じゃないのか?」「ソローみたいに人里離れた山小屋に住んで、オオカミが生息する環境で暮らしたってこと?」などと思ってしまうが、どれも違っている。著者は、「96%のオオカミの子供売ります」という新聞広告を見つけ、クルマに飛び乗って買いに行く。自宅に連れ帰って早々、オオカミの子供は、リビングのカーテンを引きずり落とし、地下室の空調設備のパイプを噛みちぎってしまう。著者は、このオオカミをブレニンと名付け、10年以上にわたって一緒に暮らした。大学の准教授であった著者は、大学の講義にも、ラグビーの試合にも、パーティーにもブレニンを連れていく。さらに北米から、アイルランドへ、南仏へ、著者と一緒に移住する。いわば、現代の文明社会の中にオオカミを連れ込んで生活させようとしたのである。哲学者である著者は、野生そのものであるオオカミとの生活を通して、人間という生き物を思索するようになる。この思索こそが本書を読む醍醐味だ。
「サル的な魂」と「オオカミ的な魂」
ここで著者はユニークな考察を展開する。人間の中には「オオカミ的な魂」と「サル的な魂」が併存している。「サル的な魂」とは「物の価値を、それが自分に役立つかどうかで測る性質であり、そのために他人を欺くことができる性質である」と断定する。そして「サル的な魂」こそが「人間の邪悪さ」のルーツになっているのではないかと考察する。では「オオカミ的な魂」とは何か?その論理の展開が難解でわかりにくいのだが、本書に出てきた言葉を拾ってみると…。
『サルにとって「所有」することが最も重要であるが、オオカミにとって重要なのは「存在」することである。』『サルは時間的な動物であり、オオカミは瞬間的な動物である。』『このオオカミは光であり、この光が投げかける影の中に、わたしは自分を見ることができた。』『時間はわたしたちが所有できるあらゆるものを奪うが、最高の瞬間にあった時の自分だけは奪えない。』
たぶん、これらの文章を読んでも、依然としてわかりにくいと思う。そこで僕は、次のように解釈することにした。オオカミとは、生命そのもの、自然そのものであり、それに触れることは、人間の意識の深層に眠っている「野生」を覚醒させる。「野生」は、何も所有せず、何もたくらまず、誰も偽らない。そして「幸福」や「希望」「未来」のような人間的な価値からは超越している。
エコロジー原理主義。
前にも書いたことだが、本書には、最近読んだ何冊かの本と共通する空気が流れている。それはエコロジーの原理主義ともいうべきラディカルな姿勢である。産業革命以降、人間は自分たちの利益のために自然を搾取し続けてきた。それによって自然は取り返しがつかないほど損なわれ、失われてしまった。効率と規模の拡大のみを最優先してきた文明がたどり着いた終着点、それが現在である。生半可な方法では、この壁を乗り越えることができない。様々な分野の先人たちが、そのことに気づき、根本的な方向修正に取り組み始めている。奇跡のリンゴを生み出した自然農業家の木村秋則氏、頑なに自然養蜂にこだわるカーク・ウエブスター、大学を卒業して猟師になった千松信也氏。メキシコの走る先住民、タラウマラ族に惹かれ、彼らが住む秘境に移り住んで、走り続ける白人、カバーヨ・ブランコ…。本書の著者も、分野は違うが、オオカミというむき出しの野生を文明社会の中に持ち込むというラディカルな行動を選んだ。彼らの発言や行動を見ていると、未来から送られてきたエヴァンジェリストのように思えてくる。