第36回篠山ABCマラソン・ギリギリ完走記

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ゴールの関門閉鎖まであと3分!

篠山城の堀端の道から左へ折れるとゴールまで200mほど。コース脇の観客が「あと3分や!」と叫ぶ。動かない足を無理やり動かして、ペースを上げる。ようやく、やっと、ゴール!タイムは5時間7分55秒。未登録男子完走者5325人中5213位で完走。ひどいタイムだ。全行程が雨だった去年よりも20分近く遅い、36km関門にわずか10秒の差で間に合わなかった一昨年をのぞけば最悪のタイム。理由はわかっている。「練習不足」。それにつきる。この半年ほど、週1〜2回は走っていたが、いいかげんな練習しかしてなかった。今年に入って、20km超の練習は4回のみで 、そのうち30kmが1回だけ。以前ならレースの3ヶ月前から続けていた腹筋も、スクワットも、JRの北新地駅の階段登りも、自宅マンションの9階まで階段登りもほとんどやらなかった。それでも全行程雨という最悪のコンディションだった去年よりは、いいタイムが出るだろう、とタカをくくっていた。マラソンは正直だ。「走った距離は裏切らない」と高橋尚子は言ったが、「走らなかった距離のツケは必ず返ってくる」というのが、今回の教訓。

15回目のフル。練習のモチベーションが上がらない。

2011年の篠山での4時間35分が最速で、それ以降、自己記録も更新できずにいる。ちゃんと練習すればタイムは良くなるはずだが、練習に身が入らないのだ。去年の秋から週3回走ろうと決めたが、ほとんどできていない。近くのランニングクラブにでも入ろうかとも思うが、面倒さが先に立つ。マラソンは一人でできるスポーツだからいいのだ。不規則に仕事が忙しくなるのも練習ができない理由だが、そんなことは言い訳にはならない。要するに10年近くもランニングを続けてきて、マンネリに陥っているのだ。そしてモチベーションが上がらない理由がもうひとつある。

花粉症。

4年ぐらい前から症状が出始めた。2月になると、鼻と目がかゆくなり、鼻水が止まらないようになる。ランニングに出ると、3kmほど走ると症状が出てくる。マスクをして走ってみたが、とても走れるものではない。元々鼻が詰まり気味なので、走る時は口を開けたまま走っているらしく、マスクをすると呼吸困難になってしまう。一昨年の2月半ばに、突然の高熱と浮腫に襲われた。39度の熱が4日ほど続き、浮腫が引くまで1週間ほどを要した。去年も同じ頃、同じ症状に見舞われた。症状は同じだが、期間が半分ぐらいにとどまった。医者は花粉症を疑った。スギ花粉が飛び始めて、最初のピークの頃に発症するのかもしれない。今年は、念のために、花粉が飛ぶ前から薬を服用することにした。それが効いたのか、今年は高熱は出ずに、大会日を迎えた。しかし大会の数日前から花粉のピーク期がはじまり、マスクなしで出歩くと鼻の調子が悪くなった。練習に出る時はハンディティッシュを2〜3個はウエストバッグに入れてスタートし、1〜2kmごとに鼻をかみながら走っていた。フルを走るとどうなるか心配だ。

当日。

朝は、5時起き。洗面と食事を済ませ、6時30分ごろ、自宅を出発。篠山付近の天気予報は、午後の降水確率が40%。一応雨の装備も持っていくことにした。中国自動車道舞鶴自動車道は渋滞もなく、丹南篠山口まで30分ほどで到着。出口付近で少し渋滞。まっすぐに3年間使用している駐車場へ向かう。駐車場到着7時15分ぐらい。6割ほどが埋まっている。スタートが10時50分、ランナー集合が10時〜なので、時間がたっぷりある。昨年からゼッケン、シューズ用のICタグを事前に郵送してくるので、当日の受付は必要なくなったが、記念品のTシャツとプログラムをもらいに大会会場に行く。クルマに戻ると、まだ8時過ぎ。スタートまで3時間近くあるのでクルマの中で少し眠ることにする。1時間ほど眠って9時に起きる。トイレを済ませた後、着替える。気温はすでに15度を越えているので、トップは、防寒ではないCWXの薄手の長袖の速乾性Tシャツ1枚で行くことにする。ボトムは、サポート機能が無いミズノのタイツの上に膝丈のナイキのパンツを履く。シューズは、すでに500km近く走ったニューバランス。帽子は暑くなることを考慮してナイキのバイザーにする。ウエストバッグはハンディティッシュを6パックとジェルサプリを3本を入れるといっぱいになった。天気予報では午後の遅めから雨だが、雨の装備は持たずに行くことにする。左手にガーミンのGPSウオッチ、右手にはApple Watchを装着するが、iPhoneと通信するとiPhone側のバッテリーがもたないので、接続なしで使用する。念のため各関門閉鎖の時間を記した紙をiPhoneの背面に貼り付けておく。着替えを済ませて、荷物を預けに行くと、まだ9時半。しかたなく、会場そばの篠山城趾を散策する。10時前に集合場所に並ぶ。今年もCブロックだ。前方のほうでは開会式が始まろうとしている。篠山市長の挨拶の中で、完走メダルを今年から丹波焼にしたという。ゲストの有森裕子やかつみやさゆりの紹介と挨拶があり、ゲストランナーとしてタレントの野々村真が紹介される。早くから並んだせいもあり、今回はCブロックの2列目に並ぶ。今年は特別暖かいので、スタート前の寒さをしのぐビニールポンチョも必要なし。手袋も無しでスタートを待つ。

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レース。

10時40分に登録組がスタートした後、10時50分に未登録組がスタート。号砲が聞こえてからスタートラインを通過するまで3分を要した。スタート直後からどんどん抜かれる。事前に申請している目標タイムがサブ4ぎりぎりなので、こういうことになる。例年は、だいたい5kmぐらいまでは抜かれる一方で、5kmから10kmぐらいの間で周囲とのペースが一致してくる。しかし今年は、5kmを過ぎて、10kmを過ぎてもどんどん抜かれていく。第1関門の6.8 kmは12分の余裕で通過。昨年は15分の余裕だったので、ちょっと遅い。前半の15kmぐらいまでは、走る方向がころころ変わるため自分が今どちらを向いて走っているのか、わからなくなるの。それは6回目でもあまり変わらない。気がつくと鼻水が止まっている。5kmを越えたところで、1度鼻をかんだあと、数kmは鼻をかまずにすんだ。給水所で止まる度に鼻をかむが、それ以外は大丈夫だった。

6パック用意したハンディティッシュは結局2パックしか使わなかった。第2関門は18.2kmで13:05閉鎖。ここを13~14分ぐらいの余裕で通過した。期待したほど貯金できていない。第3関門の24.1kmを12分の余裕で通過。貯金が1分マイナス。20km過ぎから山沿いの集落を抜けてゆくが、細かいアップダウンがある。「あれ、この辺りはこんなに坂が多かったっけ?」と感じるのは、練習ができていない証拠である。しかも、気温がぐんぐん上がってきて、大量の汗をかいている。後半が心配になってきた。案の定、20kmを越えた辺りから、急に足が重たくなってきた。タイムのほうも25kmのキロ6分25分を最後に、キロ7分を越えるようになってきた。次の関門までは、山の中に入って谷道をだらだら登って行く、コース中いちばん辛い区間になる。 しし汁のコーナーを横目に見て、懸命に足を動かす。給水所では、できるだけ水をたくさん飲むようにする。山裾を縫うようにして続く道のはるか向こうまで延々とランナーの列が続いている。

貯金が減っていく。

30.6kmの関門は9分の余裕で通過。貯金が3分減っている。関門を越えてしばらく走って、ようやく折り返し地点。ここからは下る一方なので、少し楽になるはずだ。給水のタイミングでストレッチを行い、エアサロンパスをスプレー。2つ目のジェルサプリを摂って回復をはかる。しかし足の重さは変わらず、ペースが上がらない。一昨年は、30.6km関門通過で気を許してしまい、次の関門でアウトになった、苦い経験がある。ペースは上がらないが、足を止めないようにだけ心がけて、第5関門をめざす。36.3kmの第5関門を5分あまりの余裕で通過。貯金はマイナス4分。第5関門をギリギリで通過したランナーは、ほとんど全員が立ち止まって休んでいる。僕も立ち止まってストレッチなどをしながら休む。ゴールまで残り6km足らず。それを50分以内で走ればいいのだから楽勝だと、その時は思った。

関門閉鎖2分前。

最後のジェルサプリを飲み込み、念入りにストレッチをして、エアサロンパスをかけて、再び走り始める。しかし一度止まってしまうと、走り出してもなかなかペースが上がらない。思わず立ち止まってしまうのを無理やり動かして前に進む。篠山川沿いに出ると、あと5km。今年は、ここからが長かった。ペースが遅いから、よけいに長く感じる。最後尾に近いので、歩いているランナーが多い。しかし、ここで歩いていてはゴールに間に合わないことを彼らは知っているのだろうか?ゴール閉鎖は4時。現在時刻は3時20分。キロ7分なら間に合うが、キロ8分だとギリギリだ。さっきからペースはキロ7分後半に落ちている。今年初めて採用された丹波焼のメダルをもらうんだ、と自分に言い聞かせる。ようやく、ゴール地点の篠山城址が見えてきた。そして川沿いを離れ、北へ。堀端の道に出ると、観客から「あと4分」と叫ぶ声。もう大丈夫だと思うが、必死にペースを上げる。堀端の道から左に折れるとゴールまで200 m。沿道から「あと3分」の声がかかる。さらにペースを上げて数人を抜いてゴールした。丹波焼の完走メダルをかけてもらい、シューズのICチップを外してもらう。のどが異常に乾いている。水をもらおうと探すが、水のコーナーがない。完走したランナーの大半は、水をもらっているのに品切れらしい。しかたなく、手荷物を引き取って、クルマに向かう。もう道路の交通規制は終わっており、堀端の道を歩いて、クルマに戻る。途中の自動販売機でスポーツドリンクを購入、ようやく乾きを癒すことができた。今回は例年になく消耗している。不思議なことに、止まっていた鼻水が、戻ってきた。着替えて、トイレで顔を洗って、5時頃、駐車場を出る。舞鶴自動車道に乗るまでの道は、いつも混むので、農道のような細い道を抜けていく。しかし、交差点で事故があり、事故車が道を塞いでいて、先に行けない。しかたなく、後戻りして、別のルートを行くが、舞鶴自動車道への入口から遠ざかるいっぽうなので、諦めて国道176号線を南下する。三田まで戻ってきて三田西ICから乗ろうとするが、中国自動車道が宝塚を先頭に15kmの渋滞の表示を見て、176号のまま宝塚へ向かう。こちらも宝塚の手前で渋滞につかまり、家に帰り着いたのは、7時を過ぎていた。風呂に入って、ご飯を食べながら「真田丸」を見ているうちにウトウトしはじめた。10時前にベッドに入ったが、筋肉痛がひどく、なかなか眠れない。3日間、痛みがとれなかった。こんな風になるのは、最初にフルマラソンを走った時以来だ。それだけ練習が足りず、身体の準備が整ってなかったのだと反省。マラソンは、正直だ。

次はどうする。
これからも普段のランニングは続けると思うが、マラソン大会に出るかどうかは未定。15回もフルを走っているのに、タイムは変わりばえせず、マンネリ気味。ウルトラや、トライアスロン、トレランをやるべきなのかな。自転車にも興味がある。今年は、ランを控えめにして、別のことを考えてみようと思う。
結果:グロスタイム 5:07:55 ネットタイム 05:03:31 順位 5324人中5212位

 

牧村泉「梅ケ谷ゴミ屋敷の憂鬱」

友人の寺久保さんのおすすめ。著者は、コピーライターから作家に転身、2002年、「邪光」で第3回ホラー&サスペンス大賞を受賞。寺久保さんが開いた集まりで会ったことがあるかないか…。「邪光」は読んだ。主人公の女性の心理描写が巧みで、平凡な主婦がじわじわと壊れていく過程がリアルに描かれていて、並々ならぬ才能だと感じた。焦らしながら、読者を恐怖に追い詰めていく感じは、ちょっとスティーブン・キングを思わせた。これが4作目。寡作な人なのかな。

今回はホラーじゃない。

今回はホラーではなく、ちょっと変わったホームドラマみたいなストーリー。主人公、珠希は、東京に住む主婦。広告代理店の営業マンである夫が突然、広告代理店をやめ、叔父夫婦が経営する大阪のソース製造の会社に就職することになり、夫の実家に引っ越してくる。姑が一人で住む実家は、足の踏み場もないほど、ガラクタで埋め尽くされていた…。今回は、ドタバタのホームコメディか、と思っていたら、けっこうシリアスな展開になっていく。それと、語り口が、どことなくホラーっぽい。ひょっとしたら、コメディとホラーは、紙一重なのかも…。

謎の姑。

ゴミ屋敷の主人である義母は、主人公をいじめるモンスター姑…。そこに戻ってきた、夫が前妻との間にもうけたヤンキー娘とヘビメタの恋人。主人公の友人の真理子から預かる子供、萌も、ヌイグルミに取り憑いた幽霊らしき存在と話している…。さらに夫の前妻までが出現する。典型的な大阪のオバチャンである姑も、前妻の子であるヤンキー娘も、なんとなくホラーの登場人物っぽい。姑にも、夫にも、その行動にどこか不自然なところがあり、奇妙な同居生活が始まる。家中を埋めつくすガラクタが鍵になって展開していくのかと思いきや、主人公の知らなかった、家族のさまざまな秘密が明らかになっていき、ドロドロの愛憎ドラマへと展開していく。

やっぱりホラーな展開へ。

著者は、夫婦や親子、恋人同士の愛憎など、パーソナルな世界のリアリティから物語を築き上げていくタイプの作家なのかもしれない。タイトルや導入部は、コメディを思わせ、ストーリーが進んでいくと、シリアスな展開に変化し、殺傷沙汰を含むクライマックスへ。このままホラー小説か、犯罪小説につき進んでいっても違和感なさそう、と思いながら読み進んでいく。ひょっとしたら、尼崎の監禁殺人事件みたいな話になっていくのかと思ったが、最後はホームドラマの枠の中に収まって、ジ・エンド。ちょっと肩すかしな読後感。でも、この作風は嫌いじゃない。しかし著者には、やっぱりホラーが合っているような気がする。バリバリの大阪のオバチャンがモンスター姑として登場するホラー小説を書いてほしい。きっとハンパないこわさだ。まだ読んでいない2作品「ファントムペイン」「ストーミーマンデー」も読んでみよう。

加藤典洋「村上春樹は、むずかしい」

友人である原さんのおすすめ。デビュー作「風の歌を聴け」から「女のいない男たち」まで、村上春樹の作家活動の全容を新書250ページ余りで一気に語りつくす。著者は村上春樹の作家活動を「初期」(1972〜82)、「前期」1982〜87)、「中期」(1987〜99)、「後期」(1999〜2010)、「現在」(2011〜)に分けて考察する。作品だけでなく、同時代に活躍した他の作家や、当時の社会現象や時代の空気まで含めて、詳細に考察していく。

村上春樹は、東アジアの知識人に読まれていない。

著者が本書を書こうしたきっかけが興味深い。村上春樹という作家は、日本の、いわゆる純文学の世界からは評価されていないが、若者を中心とした読者に圧倒的に支持 されており、海外でも多くのファンを持つ人気作家である。近年、ノーベル文学賞の候補になるなど、逆輸入という形で、国内でも、村上を評価する動きが出て きている。しかし著者は、東アジア圏の高度な読者たち(作家。研究者、翻訳家等)の間では、村上春樹が驚くほど読まれておらず、リスペクトもされていない ことを知って、ショックを受ける。本書は、著者が、あらためて村上春樹の文学的達成を検証しようとした試みであるという。

40年ぶりの再読。

本書を読むことは、村上春樹を継続して読んできた人間にとっては、20代から現在までの自分の人生をたどり直すような読書体験でもある。しかし「風の歌を聴け」をはじめとする初期作品を読んだのは30年以上も前のこと。ストーリーもほとんど覚えていないので、本書における著者の考察にいまひとつ納得できなかった。そこで、本書で取り上げられたいくつかの作品をもう一度読んでみることにした。初期の三部作「風 の歌をお聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」と、本書の中でも考察されている短編集「中国行きのスロウボート」、そして「ノルウェイの 森」を再読した。

30年以上前、最初に「風の歌を聴け」などの初期作品を読んだ時は「ヴォネガットブローティガンの真似じゃん」と反感を感じながら読んだことを覚えてい る。村上春樹の文章が、当時、第一次戦後派や第三の新人内向の世代などの作家たちを読み続けてきた僕の感覚とは、あまりにかけ離れていたせいだった。同 じ頃、SFファンだった僕は、ヴォネガットにハマっていて、その延長線上で、ブローティガンサリンジャー、アップダイクを読むようになっていた。だから、 村上春樹の文体にも、ほんとうは違和感はなかったはずだが、日本人がそんな文章を書くのは許せないと拒否反応を起こしてしまった。一度そう思いこんでしまうと、どの作品を読ん でも批判的に読んでしまう。そんな読み方が「アンダーグラウンド」の時代まで、実に20年以上も続いたのだ。今回、再読してみて、昔ほどの拒否反応は出なかったが、なぜ、この文体でなければならなかったのか、という違和感はやはりあった。

否定の否定」は「肯定の肯定」。

著者は、デビュー作「風の歌を聴け」を、日本の戦後の文学史に現れた、最初の、自覚的に「肯定的なことを肯定する」作品だったという。近代の文学は、国家や富者、身分制など、既成の権威や権力を否定するところから始まったという。ツルゲーネフの「父と子」から、明治維新における島崎藤村の「破戒」「春」などの自然主義文学、白樺派私小説、さらに戦後文学につながる純文学の系譜は、もとをただせば、否定性の一点から始まっているという。「肯定的なことを肯定する」とは、文学の否定性への依存を断ち切ることであった…。そして70年代の終り、否定的なことを無自覚に否定する、単に肯定的な気分が社会に支配的になっていく。否定性に依存する純文学の世界は、世の中から「古めかしいもの」「暗いもの」として忌避されるようになる。「風の歌を聴け」では、そんな否定性(鼠)の没落をいち早く受け入れながら、没落していくものを悲哀に満ちたまなざしで見送る。この作品は、その一点において新しかった、という。はるか昔に読んだこの作品に対する著者の考察は、一応理屈は通っているものの、完全に納得したわけではない。しかし、「鼠」が近代の否定性の象徴であり、その没落を描いたという指摘は、新しい視点だと思う。

著者の「深読み」しすぎ。

こんな調子で、著者は村上作品を読み解いてゆく。その解釈は、時として「それは深読みしすぎだろう」というところまで展開してしまうが、一応ロジックは通っていると感じた。例えば、初期の短編「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が、学生運動の陰惨な内ゲバを表現しているという著者の考察は「深読みしすぎ」と感じるが、改めて初期作品を読んでみると、その背景に、学生運動の暗闘や、連合赤軍内ゲバのイメージが暗騒音のように響き続けているのは間違いないように思われる。

自閉と物語の希求。

僕自身の解釈を述べると、初期3部作における「鼠」の苦悩は、革命か何かのような、大きな物語を求めながら、そこに飛び込んでいけず、深い空虚を抱えて自滅していくしかない現代人の典型的な苦悩を描いたのだと思う。それに対して主人公は、自滅への道を選ばず、ビールを飲んだり、音楽を聴いたり、本を読んだり、女の子とつきあうという、日々の些細なルーティンを延々と続けることで、自閉しながら、自らは動かず、何かの物語を待ち続ける…。そして物語は、いつも外部からやってくる。それが「1973年のピンボール」おける伝説のピンボールマシン探しであり、「羊をめぐる冒険」における羊さがしの物語である。しかし、その物語は、あくまでお話であり、どこまでも寓話的であり、生々しいリアリティを感じることはできない。その点が、村上作品に対する大きな不満であった。そして、このお話の世界が、その後の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「ねじまき鳥のクロニクル」に展開されていったのだと思う。村上春樹が作り上げる、この「行動しない、自閉した主人公」とつながる「パラレルワールド」の世界を、僕はずっと受け入れることができなかった。変化が現れてきたのは、1995年の阪神大震災地下鉄サリン事件の後だった。村上春樹は、サリン事件の被害者たちに直接インタビューを行い、「アンダーグラウンド」として出版する。さらにオウム真理教の元信者たちにインタビューを行った「アンダーグラウンド2 約束された場所で」を出版する。このインタビューによって出会った、普通の人々や元オウム信者たちが、村上の自閉した世界の扉を開いていったのだと思う。

阪神大震災、オウム以降。

著者が転換期と呼ぶ「アンダーグラウンド」「神の子どもたちはみな踊る」「アフターダーク」などのを経て、後期に入った村上春樹は、「1Q84」という意欲作にとりかかる。僕は、この作品が、村上春樹が初めて、戦うべき「敵」を見つけだし、書こうとした作品だと思っている。著者によると、村上春樹は、書くべき大きな主題を見つけ、動き出したのだという。しかし、「1Q84」は未完のままに終わり、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」では、大きな主題は書かれていないという。後期以降の村上作品に対する著者の不満や期待は、僕も同調する。

この1カ月ほど、本書にはじまり、村上春樹に関する本ばかり読んでいた。最後に「村上春樹イエローページ」の1、2も読んでみた。その中での著者の「深読みぶり」は驚くばかりである。本書での、著者による、村上春樹作品の評価が正しいかどうかは僕にはわからない。また著者のいうように村上作品が漱石や大江につながる日本文学の到達点であるかどうかという点も納得できたとは言えない。しかし、自分と世代もそう離れておらず、ほぼ同時代を生きてきた作家として、村上春樹は、僕の中でこれからも大きな位置を占め続けるだろう。

 

P・W・シンガー&オーガスト・コール「中国軍を駆逐せよ!ゴースト・フリート出撃す」

最近、軍事関係のエントリーが多いかなあ…。実際には、読む本全体の1/10にもならないと思うが、最近のエントリーだけを読むと誤解されるかもしれない。潜水艦モノ、海戦モノ、ハイテク軍事スリラーはもともと好きなジャンルだけど、本書も、その類である。しかし、タイトルがひどい。いかにも軍事モノであることを強調するような紋切り型タイトル「◯◯を◯◯せよ!」はやめてほしい。原題である“GHOST FLEET”のほうがずっといい。カバーの絵を見なかったら絶対に買わなかった本だ。上巻のカバーに描かれているのは、実在するアメリカ海軍のステルス駆逐艦「ズムウォルト」。潜水艦じゃないのか、と思う程、異形のフォルムだが、2015年12月に初航行したばかりの最新鋭艦である。「ズムウォルトが出てくるのか」と興味を持って、カバーの紹介文を読んでみると、米軍の通信ネットワークが壊滅し、ハッキングの影響を受けにくい現役を退いた旧軍艦を集めた「ゴースト・フリート:幽霊艦隊」が結成され出撃する、という話。最近、試験航海を始めたばかりの最新鋭の「ズムウォルト」が、本書の中では「現役を退いた旧艦」にされてしまっている。これって一体いつの話なの?という疑問が…。少なくとも今から10年後の2025年ぐらいか。だから一読んでいて、一般的な軍事スリラーと少し違う印象を受ける。※読み終えてからカバーを見ると、2026年とある。本文の中には書かれていなかったように思うが…。

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未来の戦争の話

本書の中で描かれる世界は、現在とはかなり違っている。人々は普段からVIZグラスというウエアラブル端末を装着している。VIZグラスは、網膜に映像を直接投射するもので、現在見ている映像を自動的に記録するのはもちろん、様々なネットワークとつながって膨大なネット情報を利用できる。情報関係の仕事をしている者は全員が体内に情報セキュリティ用チップを埋め込んでいる。また、中国は、共産党がクーデターで倒され、軍と企業による独裁体制「董事会:ドンシーハイ」が支配している。兵器の無人化はさらに進み、航空機だけでなく、艦船も無人化し、さらに自律化(ロボット化)が進んでいる。またウォルマートが発売する家庭用3Dプリンターを使って兵器の部品や弾丸を製造するシステムなど、軍事産業自体も進化を遂げている。

エネルギーをめぐる戦争

戦争のきっかけは、中国がマリアナ海溝で大規模なガス田を発見したことから始まる。中国は、このガス田の利権を確保するために、太平洋において大きな影響力を持つアメリカの排除に動く。まずは、宇宙ステーションから高出力レーザーを使用してアメリカの軍事用衛星をことごとく破壊する。そして密かに同盟を結んだロシア空軍が沖縄嘉手納基地の米戦闘機群を急襲。さらにパナマ運河を破壊し、ハワイ オアフ島太平洋艦隊を壊滅させ、オアフ島を占領する。また、発見が難しいミサイル原潜を見つけ出し、破壊してゆく。しかも軍事用の様々な機器に使用されている中国製チップにはマルウエアが仕込まれており、あらゆる軍事用ネットワークはハッキングされてしまった。太平洋における支配力をほとんど失いつつある米国は、ハッキングの影響を受けにくい退役した艦船を集めて「ゴースト・フリート:幽霊艦隊」を結成し、圧倒的な優位に立つ中国海軍と戦うために出撃する。

中国軍へのテロ攻撃。

オアフ島では、島を占領した中国軍に対して、生き残った海兵隊が抵抗を続けていた。彼らは「ノースショア・ムジャ・ヒディン」を名乗り、爆弾によるテロを中国軍に対して仕掛けていく。本来ならテロと戦うはずの米軍が、自らテロリストとなってハイテクの中国軍と戦うという皮肉。海兵隊を狩るのは、無人の武装クワッドコプターだ。

戦争の切り札。

ゴースト・フリートの中心となるステルス駆逐艦「ズムウォルト」には戦争を左右するかもしれない兵器「レイルガン」が搭載されている。しかし「レイルガン」は膨大な電力を必要とし、「ズムウォルト」の電気供給システムには大きな不安があった…。レイルガン以外にも、本書には様々な軍事技術が登場する。軍事衛星を破壊する高出力の化学レーザー。海中深く潜む原潜の原子炉のチェレンコフ効果を捉えて発見する技術。兵士の心身を強化する数々の「ドーピング技術」。中国製コンピュータチップに仕込まれたマルウエアによる様々なハッキング技術。むき出しにした脳に電極を差し込んで意志をコントロールする尋問。人体の赤外線輻射を遮断し、無人機による監視を騙すマントなど…。

民間の力。大富豪、宇宙海賊、3Dプリンター。

本書でもうひとつ面白いのは、様々な民間の人間が米軍に味方をして、中国軍と戦うことだ。大富豪が観光用の宇宙船を買い取り、宇宙海賊として、中国製宇宙ステーションを乗っ取る。ウォルマートは大量の3Dプリンターを配布して、一般市民による巨大な武器製造体制を構築する。ハッカー集団「アノニマス」は、中国軍ハッカーセンターをハッキングして、中国軍の破壊工作を妨害する。

ふたりの著者は、国防総省のプロジェクトのまとめ役。

著者の一人、P.W.シンガーはニューアメリカ財団の戦略家で、国防総省や米国情報コミュニティ、様々なハリウッドのプロジェクトのコンサルティングを行っているという。もう一人のオーガスタ・コールは、ライターで、アナリスト。シンクタンク「大西洋評議会」の非常駐シニアフェローとして、フィクションを通じて未来の戦争を探求している。二人とも国防総省のNextTec(次世代テクノロジー)プロジェクトのまとめ役を務めているという。アメリカには、そんな仕事があって、それでちゃんと食べていける人がいるのに驚かされる。

エンターティンメントだが、リアル。

本書はもちろん、軍事スリラーというエンターティンメントだ。しかし、二人とも軍事関係の仕事に就いているせいか、未来のテクノロジーの描写に妙なリアリティーがある。軍事、テクノロジーだけではなく、ベテランのロシアスパイ、美貌の殺人者、ユニークな大富豪なども登場して、小説的な面白さも抜かりない。

T・マーク・マッカリー中佐&ケヴィン・マウラー「ハンター・キラー アメリカ空軍・遠隔操縦航空機パイロットの証言」

本書は無人機のひとつである「プレデター」のパイロットが書いた本である。数年前、フランスのパロット社の「ARドローン」を買って飛ばしてみて、物凄く大きな可能性を感じたことを覚えている。「無人機:ドローン」は、世の中に大きな変化を引き起こすイノベーションのひとつであると思っている。空撮や人間が入り込めない危険な場所での観測や作業、警備、空からの宅配など、様々な活用が期待されるいっぽう、盗撮、不法侵入、テロ、遠隔監視など、犯罪に悪用される可能性も小さくない。軍事分野では、早くから無人機の研究開発と実戦での利用が進んでいる。無人機の使用が報道されるようになった時、これによって「戦争」の様相が大きく変わっていくだろうと思った。案の定、最初は偵察のみだったが、ほどなくミサイルや爆弾を搭載し、攻撃に使用されるようになった。ISに対する空爆の映像などを見ていると、有人の戦闘機が出撃するシーンが多いが、実際には「無人機」による攻撃のほうが多いのではないかと疑っている。本書を読むと、それを裏づけるような記述が出てくる。2011年の米空軍における戦闘機、爆撃機の年間飛行時間は4万8千時間。これに対して無人機プレデターの飛行時間は50万時間を超えており、すでに10倍以上になっている。無人機による空爆が報道されないのは、国際的な人権団体などがそ無人機による空爆を非人道的であると抗議しているためではないか。さらに、何千キロも離れた無人機を遠隔操縦するパイロットはストレスが大きく、退役後、PTSD心的外傷後ストレス障害)に悩まされることが多いという。空軍の中でも、無人機のパイロットは、有人の航空機のパイロットに比べて人気がないらしい。戦争の様相を一変させるであろう、ドローンのようなテクノロジーが、実際の戦闘で、どのように運用され、どんな変化を戦場や兵士たちにもたらしているのか知りたくて、本書を購入した。タイトルの「ハンター・キラー」とは索敵と攻撃を別々の航空機が受け持ち、連携して行うもので、無人機では、両方を1機で行うことから。

無人機=ラジコン飛行機ではない。

無人航空機「プレデター」の姿を初めて見た時、何よりもまず不気味さを感じた。パイロットが乗るコクピットが無いという無機的なフォルムは、H.R.ギーガーのデザインによる「エイリアン」を思わせる異形そのものだ。無人航空機は、手投げで飛行を開始する「レイブン」から幅30mを超える巨大な無人偵察機「グローバル・ホーク」まで数多くの種類があるという。無線操縦のイメージから、ラジコン飛行機に毛が生えたようなものだと思ってしまうが、本書に登場するMQ-1プレデターはセスナ172とほぼ同 じサイズと重量で(全長約8.2m、全幅約14.8m、重量約512kg)エンジンはスノーモービル用エンジンを改良したターボチャージャー付4気筒の 115馬力。高度約7600mまで上昇可能で、燃料補給なしで24時間飛行可能である。

北米の操縦ステーションから静止衛星を介して世界中の無人機を操縦。

操縦システムは、北米の空軍基地に設置された操縦ステーションから静止衛星を経由して数千キロ離れ たプレデターをパイロットが操縦するものだ。離着陸時の操縦だけは現地の基地の操縦ステーションから行う。北米の基地から遠く離れた場所だと、操縦と航空機の動作には、最大数秒のタイムラグがあり、危険だからだ。プレデターの操縦は、機体を操縦するパイロットとカメラを含むセンサー類を操作するセンサーオペレレーターの2 名で行う。当初は偵察飛行のみだったが、9.11以降のミッションの中でミサイルを搭載できるように改造され、対戦車用のヘルファイアミサイルを2基搭載する。新しいMQ-9リーパー(死神)では、ヘルファイアミサイルを4基、225kg爆弾2個を搭載できる。

無人機=ロボット機ではない。

本書では無人航空機 "Unmanned Aerial Vehicle" やドローンと呼ばず、遠隔操縦航空機(Remotely Piroted Aircraft:RPA)と呼ぶ。無人機に対しての風当たりは強く、アムネスティ・インターナショナルなどの団体が、無人機によるアルカイダの要人殺害や地上部隊の支援を非難している。著者は、無人機といっても、空軍のパイロットが遠隔で操縦するシステムであり、ロボットのように自律的に動くわけではないので、これらの非難は不当であると不満を述べている。

1万km離れたテロリストと向き合う。

著者は、2003年、空軍のプレデタープログラムに志願する。当時、空軍の中でのRPA部隊は人気が無く、集められたパイロットたちは有人航空機の搭乗からはじき出された落ちこぼればかりだった。自ら志願したのは、著者を含め、たったの4人だった。訓練を終えた著者たちは飛行隊に派遣され、アフガニスタンアルカイダの幹部を捜し出して殺害するミッションに就く。地上の部隊が得た情報をもとにアルカイダ幹部の潜伏先を見つけ出し、上空から旋回しながら24時間監視する。時には何ヶ月も監視を続けて、幹部の行動パターンを把握する。彼の行動パターンを把握できたら、次に襲撃場所を決めて、捕獲や襲撃のミッションを実行する。オサマ・ビン・ラディンらしい人物を見つけ出し、襲撃直前までいったミッションもある。勤務はシフト制で、シフトの間じゅうずっとディスプレイの中の幹部の日常を監視し続ける。そしてシフトが終わると平和な日常生活に帰っていく。本書の中で、妊娠中の女性がプレデターのセンサーオペレーターを務める場面が出てくるが、そんなことが可能なのも、RPAならではだろう。

無人機の操縦士は、退役後PTSDになることが多い。

無人機の操縦士には、自らが戦地に赴く有人機のパイロットとはまったく違うストレスが加わるようだ。例えば戦闘機のパイロットは最前線で戦うが、敵の人間の姿を直接目にする機会はほとんどないという。いっぽう無人機の操縦士は、長期間にわたって敵の一人を監視し、さらに殺害の瞬間まで相手の映像を見続けることになる。そのせいか、退役後、PTSDに陥るパイロットも有人機より多いという。著者自身も、最初にアルカイダ幹部を殺害した後、ショック状態に陥り、友人に助けを求めている。

著者は行方不明になったネイビーシールズ・チームの捜索に参加したり、陸軍や海兵隊の地上部隊との共同作戦に参加するようになって、経験を重ねてゆく。当初は、あまり価値を認めていなかった軍も、プレデターが成果を積み重ねるにつれ、その有用性を認めるようになり、活躍の場が広がっていく。著者は、RPAコミュニティから出た2番目の指揮官として第60遠征偵察飛行隊の指揮をとることになる。派遣先は、東アフリカのジブチ共和国。彼らはここを拠点に、イエメンに潜伏し、アラビア半島に影響力を拡大しつつあるアルカイダの指導者、アンワル・アル・アウラキを見つけ出す任務に就く。著者が指揮する飛行隊は、アル・アウラキを見つけ出し、監視し、ついに殺害に成功する。著者は、8年間にわたって、プレデターを操縦し続け、空軍を退役する。

戦争の無人化は急速に進んでいくだろう。

本書を読んで感じるのは、今後ますます兵器の無人化が進むのは間違いないということ。冒頭でも引用したが、2011年にはプレデターの年間戦闘飛行時間は50万時間を超えたという。一方、戦闘機と爆撃機の年間飛行時間は、非戦闘を含め合計4万8000時間だった。RPAの登場によって対テロ戦争は一変する。ヘリコプターが撃ち落とされる心配も、兵士が死傷する心配もない。人的被害のリスクが減ることが最大の要因となって、兵器の無人化はますます進んでいくだろう。現在は航空機が中心だが、今後は軍艦や戦闘車両の分野でも無人化は急速に進んでいくに違いない。その先には、自律モードで動くロボット兵器やロボット兵士の出現もありうるだろう。兵器の無人化は、今後、加速度的に拡大していくだろう。

非対称の戦争。

それと、もうひとつ気になることが、無人機などのハイテクで監視され、殺害される側の武器があまりに旧式であること。彼らが使用する武器は、ほとんどがカラシニコフAK-47だし、車両もトヨタ・ハイラックスなどのトラックやバイクが多い。それは、イラクでも、アフガンでも、シリアでも同じだ。アメリカや多国籍軍が、戦闘機やヘリコプター、無人機、暗視技術など、あらゆる最新技術を投入しているのに比べ、テロリスト側には旧式そのものの武器しかない。いわゆる非対称の戦争。それでも勝てない戦争があるのだ。

佐伯啓思「さらば、資本主義」

本書を読むきっかけになったのは、以前のエントリーでも紹介したNHKスペシャル「新・映像の世紀 第2集 グレートファミリー 新たなる支配者」。その中で紹介されたケインズの言葉。以下引用。

「今、 我々がそのただ中にいるグローバルで、かつ個人主義的な資本主義は、成功ではなかった。それは、知的でなく、美しくなく、公正でもなく、道徳的でもなく、 そして、善ももたらさない。だが、それ以外に何があるのかと思うとき、非常に困惑する」ケインズ 論文「国家的自給」(1933年)より。引用終わり。

この言葉が、今から80年以上も前に語られたことにまず驚かされる。現在の世界経済が抱える問題を表現した言葉として読んでもまったく違和感がない。資本主義を全否定しながら、それに代わる「◯◯主義」を提示できない現状…。なぜ80年も前の言葉が、今の時代を言い当てているのか?戦後の高度成長を含む70年とは、いったい何だったのか。それをきちんと語ってくれる本を探していた。「さらば、資本主義」というタイトルを見つけて、迷わず購入。著者は、経済学者で思想家。京大名誉教授。本書は月刊誌「新潮45」に連載していた「反・幸福論」(2014年9月号〜2015年6月号)に加筆し、新潮新書として出版された。

原発朝日新聞、地方の崩壊、不安定化する世界。

最初の4章は、時事的な話題から始まり、著者の目に映っている日本と世界の現状が語られていく。2014年公開されたハリウッド版「ゴジラ」から「原発問題」へ。朝日新聞の「集団的自衛権従軍慰安婦」の報道から「メディアの劣化」を。「地方創生」の話題から「地方と街の疲弊」。西洋に始まり、アメリカで発展した「近代化」がグローバル化によって逆に不安定化していく世界…。第5章「グローバル競争と成長追求」あたりから経済の話に移っていく。

アベノミクスの矛盾。

著者によるとアベノミクスの3本の矢の内、第一の矢である「超金融緩和」と第二の矢である「財政出動」は、マネタリズムケインズ主義という、犬猿の仲の相反する施策であり、両方を打ち出す政策は「矛盾している」という。また第三の矢である「成長戦略」も「グローバル競争に勝つための競争力をつける」というもので、日本経済が構造改革に明け暮れたこの20年ほどは、まさに「グローバル競争に勝つための競争力」をつけようとした壮大な実験であったという。その結果といえば、デフレの十数年であり、格差の拡大であり、停滞の20年だったではないかと指摘する。

トマ・ピケティの読み方

本書が俄然、面白くなってくるのは、第7章、「トマ・ピケティ『21世紀の資本』を読む」の章から。著者は、ピケティが主張する「資本格差によって所得格差は拡大する」という理論を、所得上位の1%の層が総所得に占める数字の増大によって検証する。確かに世界中で所得格差は拡大しているが、アメリカとヨーロッパでは事情が異なり、日本もかなり違っているという。それよりも著者が注目するのは、『21世紀の資本』が「資本主義はさして経済成長を生み出さない」という前提で書かれているということだ。ヨーロッパは戦後、70年代までは、一人あたりGDPで3〜4%で成長している。日本も高度成長期には高い成長を維持していた。しかし、その後は各国とも低い経済成長にとどまっているという。日本やヨーロッパでは、戦後の30年が例外であり、それは戦後の荒廃からの復興による成長であったのだという。その証拠に国内が戦場にならなかったアメリカでは、高度成長期はなく、同時期では2〜2.5%にとどまっているという。「r > g」という不等式で表される資本主義の元では、低い成長率しか望めず、資本収益率を下回るため、資本の所有者と労働者の所得格差は広がるいっぽうであるという。さらに経済成長率は、労働人口の増加率と技術革新による生産性の増加率によって決まるため、人口増加率が低下すると予測される将来は、所得格差が拡大するいっぽうであるという。グローバルな自由競争を肯定する新自由主義は、実のところ経済成長をもたらすことなく格差を拡大するばかりなのだという。

アメリカ経済学への批判

著者によるとピケティの「21世紀の資本」にはアメリカの経済学に対する厳しい批判が書かれているという。ピケティは、20代でアメリカに渡り、MITに職を得る。しかしアメリカの経済学研究に失望して、すぐにフランスに戻ったという。当時のアメリカでは、数学理論を駆使した、純粋理論的な手法が中心であり、経済学者の内輪だけの学問に陥っていたという。本来、経済は、その国の歴史や文化と深く関係しており、それらと切り離して研究することはできないという。しかし、アメリカでは、冷戦下、マルクシズムに対抗するため、自由経済体制の正しさを科学的に証明する必要があった。そこで経済学者たちは、経済のすべてを数字で表現する「経済科学」を確立しようとした。そこでは経済を形づくる様々な要素は、抽象化され、単純化されていった。社員のやる気や、企業イメージなど、数値化しにくいものはどんどん切り捨てられ、理想の市場理論モデルが作り上げられていく。「経済とは『自由競争」のもとで『効率よく」機能することで『成長」していくものである。」それは完結した経済科学となり、教科書が書かれ、世界中からやってきた学生たちが勉強し、アメリカ経済学のスタンダードとして世界に拡がっていった。それが、今日、グローバルスタンダードと呼ばれるものの正体である。いまや大きな経済成長が望めず、格差が拡大するいっぽうの現在において、有効ではない「資本主義」を考え直す時ではないのか?

現代のイノベーションは大きな成長をもたらさない。

第9章で著者が指摘する動向で、とても気になることがあった。それは現代のITによるイノベーションが大きな経済成長をもたらすわけではない、ということ。2010年の時点で、グーグルの雇用者は約2万人、フェイスブックが1700人、ツィッターが300人。これはかつて膨大な雇用を生み出した自動車や電機などによる経済効果からすれば微々たるものだという。もはやイノベーションによって経済成長ができる時代は終わったのだと、著者はいう。今、我々に求められているのは「成長戦略」ではなく、「脱・成長主義社会への移行」であると。

本書の中に「答」は書かれていない。

残念ながら、本書の中に「答」は書かれていない。僕らは果たして「資本主義」に代わる「◯◯◯主義」を見つけ出すことができるのだろうか。「成長をめざさない経済」、「グローバル市場で競争しないビジネス」、「最大効率を求めない事業」。この時代に、そんなことが可能なのだろうか。高度成長期以来、親たちも、僕たちも「成長」を当たり前のことだと信じて生きてきた。そして「進歩すること」「新しいこと」が「善」だった。広告の世界に入ってからは「新しいこと」がいちばんの褒め言葉だった。「古い」と言われたらおしまいだった。そんな生き方をいまさら変えることができるのだろうか。資本主義は間違っているという。その理屈はわかる。しかしそれで納得して、今日から自分の生き方をどう変えていけばいいのか見当がつかない。コピーライターをやめて、自分に何ができるというのだ。それともコピーライターとしてできることがあるのだろうか?この年齢になって、自分がこんなに悩んだり迷ったりするとは思わなかった。最近の若い人の行動を見ていると、僕らの世代とは明らかに違う価値観を持った人が出てきたような気がする。大学を出て猟師になろうとする人。大企業を飛び出し、限界集落とも言えるような山奥に移り住む可能性を探る若者。Iターンで、地域に移住して、農業を始める若者…。そこに可能性がなくはないような気がする。

 

 

「STAR WARS/ジェダイの覚醒」

時間を忘れて楽しんだ。しかし。

遅ればせながら「STAR WARSジェダイの覚醒」2D字幕版を鑑賞。2時間を超える長さを感じることなく、退屈せずに最後まで楽しめた。一緒に観た友人も「面白かった」という感想。ミレニアム・ファルコン号、ハン・ソロが登場してくると「待ってました」という感じで見ているほうのテンションが上がる。救援に来たX-Wing飛行隊の登場もかっこいい。レア姫の変貌にショックを受け、C3POR2D2との再会を喜んだ。映画は、宇宙の酒場や宇宙船の墓場など、エピソード4〜6へのオマージュに満ちている。シリーズの中でエピソード4〜6を愛する僕としては大いに満足した。J.J.エイブラムス監督は、よい仕事をした。SWの監督として合格だ。しかし…。

映画の興奮が冷めてくると、「ちょっと待てよ」と思い始める。

観終わった後、冷静になってくると、ちょっと待てよ、と思い始める。このストーリー、エピソード4に似すぎてないか?砂漠の惑星で、自らの出自を知らずに、廃品回収で暮らすジェダイの子供達、秘密を隠し持ったロボット、ダークサイドに堕ちたダースベイダーの後継者、惑星破壊兵器デススターをさらに強力にしたスターキラー…。BB8以外は、新しいロボットも、新しいメカもで出てこない。帝国軍は、あいかわらず宇宙戦艦と、タイファイター、ストームトルーパーだし、対抗する反乱軍もX-Wingだ。もちろん戦闘シーンのVFXの精度は格段に向上しているが、最近のCGに慣れた目には、もうあまりインパクトがない。舞台となる惑星も、砂漠、森、湖、海など、現在の地球のようで、鮮度が無い。そんな風にあげつらっていくと、キリがないのでやめよう。

これはSWコミュニティのためのSWなのだ。

要するに、これはJ.J.エイブラムス監督がSWコミュニティーに受け入れられるために作り上げた作品なのだ。ここでまったく新しいストーリーやアイデアを見せるよりは、「僕はSWをこんなに愛している。ほら、エピソード4の懐かしいアイテムや人物やキャラクターを、ちゃんと理解しているだろう」と主張したかったかのようだ。その意味では、この作品は「合格」と言えるだろう。問題は、次の作品。2017年に公開されるという次回作では、新しいアイデア、新しいメカ、新しいストーリーが問われると思う。期待して待ってます。

SFとしての「STAR WARS

SFとして考えるとSTAR WARSは、いわゆる「スペースオペラ」という、ハードSFファンからはかなりレベルが低くみられるカテゴリーに入る。「帝国」「共和国」「反乱軍」「皇帝」「姫」「騎士」といういわば「中世の世界」に「フォース」という魔法の力をめぐって「光」と「暗黒」が戦う。いわば中世と魔法の物語を、宇宙を舞台にして描いただけの物語である。「宇宙英雄ペリー・ローダン」「銀河パトロール隊レンズマン」「火星のプリンセス」などがある。僕は小学生の高学年になってSFを読み始めたが、それを知った近所の塾の先生が貸してくれたのが、「火星のプリンセス」シリーズだった。生意気にもクラークやアジモフなどのハードSFにのめり込んでいた僕は、1、2冊読んで「こんなもん、SFじゃない」と突っ返したことを覚えている。おとなげないことをしたと思う。だから1977年に公開された最初のSTAR WARSも、けっこうタカをくくっていた。しかし、映画の冒頭、帝国のデストロイヤーが、共和国の宇宙船を追って、スクリーンを延々と通り過ぎていくシーンで、僕は完全にノックアウトされた。ロボットやメカの造形にもすっかり魅了されてしまった。ストーリーなんかどうでもよくなった。その世界観にはまってしまったのである。エピソード4は、劇場で数回観たと思う。自分が観たいこともあったが、「こんな凄い映画があるよ」ということを人に教えてあげたくて、誘ったのである。その中に母もいた。彼女が映画を観てどう感じたか、聞いたと思うが、今ではもう覚えていない。それ以来、ずっと劇場で鑑賞している。新しいシリーズがはじまったことを喜んでいる。製作陣からルーカスがいなくなったことは残念だが、J.J.エイブラムスをはじめ、新しいスタッフたちは、彼の意志を受け継いでくれるだろう。