T・マーク・マッカリー中佐&ケヴィン・マウラー「ハンター・キラー アメリカ空軍・遠隔操縦航空機パイロットの証言」

本書は無人機のひとつである「プレデター」のパイロットが書いた本である。数年前、フランスのパロット社の「ARドローン」を買って飛ばしてみて、物凄く大きな可能性を感じたことを覚えている。「無人機:ドローン」は、世の中に大きな変化を引き起こすイノベーションのひとつであると思っている。空撮や人間が入り込めない危険な場所での観測や作業、警備、空からの宅配など、様々な活用が期待されるいっぽう、盗撮、不法侵入、テロ、遠隔監視など、犯罪に悪用される可能性も小さくない。軍事分野では、早くから無人機の研究開発と実戦での利用が進んでいる。無人機の使用が報道されるようになった時、これによって「戦争」の様相が大きく変わっていくだろうと思った。案の定、最初は偵察のみだったが、ほどなくミサイルや爆弾を搭載し、攻撃に使用されるようになった。ISに対する空爆の映像などを見ていると、有人の戦闘機が出撃するシーンが多いが、実際には「無人機」による攻撃のほうが多いのではないかと疑っている。本書を読むと、それを裏づけるような記述が出てくる。2011年の米空軍における戦闘機、爆撃機の年間飛行時間は4万8千時間。これに対して無人機プレデターの飛行時間は50万時間を超えており、すでに10倍以上になっている。無人機による空爆が報道されないのは、国際的な人権団体などがそ無人機による空爆を非人道的であると抗議しているためではないか。さらに、何千キロも離れた無人機を遠隔操縦するパイロットはストレスが大きく、退役後、PTSD心的外傷後ストレス障害)に悩まされることが多いという。空軍の中でも、無人機のパイロットは、有人の航空機のパイロットに比べて人気がないらしい。戦争の様相を一変させるであろう、ドローンのようなテクノロジーが、実際の戦闘で、どのように運用され、どんな変化を戦場や兵士たちにもたらしているのか知りたくて、本書を購入した。タイトルの「ハンター・キラー」とは索敵と攻撃を別々の航空機が受け持ち、連携して行うもので、無人機では、両方を1機で行うことから。

無人機=ラジコン飛行機ではない。

無人航空機「プレデター」の姿を初めて見た時、何よりもまず不気味さを感じた。パイロットが乗るコクピットが無いという無機的なフォルムは、H.R.ギーガーのデザインによる「エイリアン」を思わせる異形そのものだ。無人航空機は、手投げで飛行を開始する「レイブン」から幅30mを超える巨大な無人偵察機「グローバル・ホーク」まで数多くの種類があるという。無線操縦のイメージから、ラジコン飛行機に毛が生えたようなものだと思ってしまうが、本書に登場するMQ-1プレデターはセスナ172とほぼ同 じサイズと重量で(全長約8.2m、全幅約14.8m、重量約512kg)エンジンはスノーモービル用エンジンを改良したターボチャージャー付4気筒の 115馬力。高度約7600mまで上昇可能で、燃料補給なしで24時間飛行可能である。

北米の操縦ステーションから静止衛星を介して世界中の無人機を操縦。

操縦システムは、北米の空軍基地に設置された操縦ステーションから静止衛星を経由して数千キロ離れ たプレデターをパイロットが操縦するものだ。離着陸時の操縦だけは現地の基地の操縦ステーションから行う。北米の基地から遠く離れた場所だと、操縦と航空機の動作には、最大数秒のタイムラグがあり、危険だからだ。プレデターの操縦は、機体を操縦するパイロットとカメラを含むセンサー類を操作するセンサーオペレレーターの2 名で行う。当初は偵察飛行のみだったが、9.11以降のミッションの中でミサイルを搭載できるように改造され、対戦車用のヘルファイアミサイルを2基搭載する。新しいMQ-9リーパー(死神)では、ヘルファイアミサイルを4基、225kg爆弾2個を搭載できる。

無人機=ロボット機ではない。

本書では無人航空機 "Unmanned Aerial Vehicle" やドローンと呼ばず、遠隔操縦航空機(Remotely Piroted Aircraft:RPA)と呼ぶ。無人機に対しての風当たりは強く、アムネスティ・インターナショナルなどの団体が、無人機によるアルカイダの要人殺害や地上部隊の支援を非難している。著者は、無人機といっても、空軍のパイロットが遠隔で操縦するシステムであり、ロボットのように自律的に動くわけではないので、これらの非難は不当であると不満を述べている。

1万km離れたテロリストと向き合う。

著者は、2003年、空軍のプレデタープログラムに志願する。当時、空軍の中でのRPA部隊は人気が無く、集められたパイロットたちは有人航空機の搭乗からはじき出された落ちこぼればかりだった。自ら志願したのは、著者を含め、たったの4人だった。訓練を終えた著者たちは飛行隊に派遣され、アフガニスタンアルカイダの幹部を捜し出して殺害するミッションに就く。地上の部隊が得た情報をもとにアルカイダ幹部の潜伏先を見つけ出し、上空から旋回しながら24時間監視する。時には何ヶ月も監視を続けて、幹部の行動パターンを把握する。彼の行動パターンを把握できたら、次に襲撃場所を決めて、捕獲や襲撃のミッションを実行する。オサマ・ビン・ラディンらしい人物を見つけ出し、襲撃直前までいったミッションもある。勤務はシフト制で、シフトの間じゅうずっとディスプレイの中の幹部の日常を監視し続ける。そしてシフトが終わると平和な日常生活に帰っていく。本書の中で、妊娠中の女性がプレデターのセンサーオペレーターを務める場面が出てくるが、そんなことが可能なのも、RPAならではだろう。

無人機の操縦士は、退役後PTSDになることが多い。

無人機の操縦士には、自らが戦地に赴く有人機のパイロットとはまったく違うストレスが加わるようだ。例えば戦闘機のパイロットは最前線で戦うが、敵の人間の姿を直接目にする機会はほとんどないという。いっぽう無人機の操縦士は、長期間にわたって敵の一人を監視し、さらに殺害の瞬間まで相手の映像を見続けることになる。そのせいか、退役後、PTSDに陥るパイロットも有人機より多いという。著者自身も、最初にアルカイダ幹部を殺害した後、ショック状態に陥り、友人に助けを求めている。

著者は行方不明になったネイビーシールズ・チームの捜索に参加したり、陸軍や海兵隊の地上部隊との共同作戦に参加するようになって、経験を重ねてゆく。当初は、あまり価値を認めていなかった軍も、プレデターが成果を積み重ねるにつれ、その有用性を認めるようになり、活躍の場が広がっていく。著者は、RPAコミュニティから出た2番目の指揮官として第60遠征偵察飛行隊の指揮をとることになる。派遣先は、東アフリカのジブチ共和国。彼らはここを拠点に、イエメンに潜伏し、アラビア半島に影響力を拡大しつつあるアルカイダの指導者、アンワル・アル・アウラキを見つけ出す任務に就く。著者が指揮する飛行隊は、アル・アウラキを見つけ出し、監視し、ついに殺害に成功する。著者は、8年間にわたって、プレデターを操縦し続け、空軍を退役する。

戦争の無人化は急速に進んでいくだろう。

本書を読んで感じるのは、今後ますます兵器の無人化が進むのは間違いないということ。冒頭でも引用したが、2011年にはプレデターの年間戦闘飛行時間は50万時間を超えたという。一方、戦闘機と爆撃機の年間飛行時間は、非戦闘を含め合計4万8000時間だった。RPAの登場によって対テロ戦争は一変する。ヘリコプターが撃ち落とされる心配も、兵士が死傷する心配もない。人的被害のリスクが減ることが最大の要因となって、兵器の無人化はますます進んでいくだろう。現在は航空機が中心だが、今後は軍艦や戦闘車両の分野でも無人化は急速に進んでいくに違いない。その先には、自律モードで動くロボット兵器やロボット兵士の出現もありうるだろう。兵器の無人化は、今後、加速度的に拡大していくだろう。

非対称の戦争。

それと、もうひとつ気になることが、無人機などのハイテクで監視され、殺害される側の武器があまりに旧式であること。彼らが使用する武器は、ほとんどがカラシニコフAK-47だし、車両もトヨタ・ハイラックスなどのトラックやバイクが多い。それは、イラクでも、アフガンでも、シリアでも同じだ。アメリカや多国籍軍が、戦闘機やヘリコプター、無人機、暗視技術など、あらゆる最新技術を投入しているのに比べ、テロリスト側には旧式そのものの武器しかない。いわゆる非対称の戦争。それでも勝てない戦争があるのだ。

佐伯啓思「さらば、資本主義」

本書を読むきっかけになったのは、以前のエントリーでも紹介したNHKスペシャル「新・映像の世紀 第2集 グレートファミリー 新たなる支配者」。その中で紹介されたケインズの言葉。以下引用。

「今、 我々がそのただ中にいるグローバルで、かつ個人主義的な資本主義は、成功ではなかった。それは、知的でなく、美しくなく、公正でもなく、道徳的でもなく、 そして、善ももたらさない。だが、それ以外に何があるのかと思うとき、非常に困惑する」ケインズ 論文「国家的自給」(1933年)より。引用終わり。

この言葉が、今から80年以上も前に語られたことにまず驚かされる。現在の世界経済が抱える問題を表現した言葉として読んでもまったく違和感がない。資本主義を全否定しながら、それに代わる「◯◯主義」を提示できない現状…。なぜ80年も前の言葉が、今の時代を言い当てているのか?戦後の高度成長を含む70年とは、いったい何だったのか。それをきちんと語ってくれる本を探していた。「さらば、資本主義」というタイトルを見つけて、迷わず購入。著者は、経済学者で思想家。京大名誉教授。本書は月刊誌「新潮45」に連載していた「反・幸福論」(2014年9月号〜2015年6月号)に加筆し、新潮新書として出版された。

原発朝日新聞、地方の崩壊、不安定化する世界。

最初の4章は、時事的な話題から始まり、著者の目に映っている日本と世界の現状が語られていく。2014年公開されたハリウッド版「ゴジラ」から「原発問題」へ。朝日新聞の「集団的自衛権従軍慰安婦」の報道から「メディアの劣化」を。「地方創生」の話題から「地方と街の疲弊」。西洋に始まり、アメリカで発展した「近代化」がグローバル化によって逆に不安定化していく世界…。第5章「グローバル競争と成長追求」あたりから経済の話に移っていく。

アベノミクスの矛盾。

著者によるとアベノミクスの3本の矢の内、第一の矢である「超金融緩和」と第二の矢である「財政出動」は、マネタリズムケインズ主義という、犬猿の仲の相反する施策であり、両方を打ち出す政策は「矛盾している」という。また第三の矢である「成長戦略」も「グローバル競争に勝つための競争力をつける」というもので、日本経済が構造改革に明け暮れたこの20年ほどは、まさに「グローバル競争に勝つための競争力」をつけようとした壮大な実験であったという。その結果といえば、デフレの十数年であり、格差の拡大であり、停滞の20年だったではないかと指摘する。

トマ・ピケティの読み方

本書が俄然、面白くなってくるのは、第7章、「トマ・ピケティ『21世紀の資本』を読む」の章から。著者は、ピケティが主張する「資本格差によって所得格差は拡大する」という理論を、所得上位の1%の層が総所得に占める数字の増大によって検証する。確かに世界中で所得格差は拡大しているが、アメリカとヨーロッパでは事情が異なり、日本もかなり違っているという。それよりも著者が注目するのは、『21世紀の資本』が「資本主義はさして経済成長を生み出さない」という前提で書かれているということだ。ヨーロッパは戦後、70年代までは、一人あたりGDPで3〜4%で成長している。日本も高度成長期には高い成長を維持していた。しかし、その後は各国とも低い経済成長にとどまっているという。日本やヨーロッパでは、戦後の30年が例外であり、それは戦後の荒廃からの復興による成長であったのだという。その証拠に国内が戦場にならなかったアメリカでは、高度成長期はなく、同時期では2〜2.5%にとどまっているという。「r > g」という不等式で表される資本主義の元では、低い成長率しか望めず、資本収益率を下回るため、資本の所有者と労働者の所得格差は広がるいっぽうであるという。さらに経済成長率は、労働人口の増加率と技術革新による生産性の増加率によって決まるため、人口増加率が低下すると予測される将来は、所得格差が拡大するいっぽうであるという。グローバルな自由競争を肯定する新自由主義は、実のところ経済成長をもたらすことなく格差を拡大するばかりなのだという。

アメリカ経済学への批判

著者によるとピケティの「21世紀の資本」にはアメリカの経済学に対する厳しい批判が書かれているという。ピケティは、20代でアメリカに渡り、MITに職を得る。しかしアメリカの経済学研究に失望して、すぐにフランスに戻ったという。当時のアメリカでは、数学理論を駆使した、純粋理論的な手法が中心であり、経済学者の内輪だけの学問に陥っていたという。本来、経済は、その国の歴史や文化と深く関係しており、それらと切り離して研究することはできないという。しかし、アメリカでは、冷戦下、マルクシズムに対抗するため、自由経済体制の正しさを科学的に証明する必要があった。そこで経済学者たちは、経済のすべてを数字で表現する「経済科学」を確立しようとした。そこでは経済を形づくる様々な要素は、抽象化され、単純化されていった。社員のやる気や、企業イメージなど、数値化しにくいものはどんどん切り捨てられ、理想の市場理論モデルが作り上げられていく。「経済とは『自由競争」のもとで『効率よく」機能することで『成長」していくものである。」それは完結した経済科学となり、教科書が書かれ、世界中からやってきた学生たちが勉強し、アメリカ経済学のスタンダードとして世界に拡がっていった。それが、今日、グローバルスタンダードと呼ばれるものの正体である。いまや大きな経済成長が望めず、格差が拡大するいっぽうの現在において、有効ではない「資本主義」を考え直す時ではないのか?

現代のイノベーションは大きな成長をもたらさない。

第9章で著者が指摘する動向で、とても気になることがあった。それは現代のITによるイノベーションが大きな経済成長をもたらすわけではない、ということ。2010年の時点で、グーグルの雇用者は約2万人、フェイスブックが1700人、ツィッターが300人。これはかつて膨大な雇用を生み出した自動車や電機などによる経済効果からすれば微々たるものだという。もはやイノベーションによって経済成長ができる時代は終わったのだと、著者はいう。今、我々に求められているのは「成長戦略」ではなく、「脱・成長主義社会への移行」であると。

本書の中に「答」は書かれていない。

残念ながら、本書の中に「答」は書かれていない。僕らは果たして「資本主義」に代わる「◯◯◯主義」を見つけ出すことができるのだろうか。「成長をめざさない経済」、「グローバル市場で競争しないビジネス」、「最大効率を求めない事業」。この時代に、そんなことが可能なのだろうか。高度成長期以来、親たちも、僕たちも「成長」を当たり前のことだと信じて生きてきた。そして「進歩すること」「新しいこと」が「善」だった。広告の世界に入ってからは「新しいこと」がいちばんの褒め言葉だった。「古い」と言われたらおしまいだった。そんな生き方をいまさら変えることができるのだろうか。資本主義は間違っているという。その理屈はわかる。しかしそれで納得して、今日から自分の生き方をどう変えていけばいいのか見当がつかない。コピーライターをやめて、自分に何ができるというのだ。それともコピーライターとしてできることがあるのだろうか?この年齢になって、自分がこんなに悩んだり迷ったりするとは思わなかった。最近の若い人の行動を見ていると、僕らの世代とは明らかに違う価値観を持った人が出てきたような気がする。大学を出て猟師になろうとする人。大企業を飛び出し、限界集落とも言えるような山奥に移り住む可能性を探る若者。Iターンで、地域に移住して、農業を始める若者…。そこに可能性がなくはないような気がする。

 

 

「STAR WARS/ジェダイの覚醒」

時間を忘れて楽しんだ。しかし。

遅ればせながら「STAR WARSジェダイの覚醒」2D字幕版を鑑賞。2時間を超える長さを感じることなく、退屈せずに最後まで楽しめた。一緒に観た友人も「面白かった」という感想。ミレニアム・ファルコン号、ハン・ソロが登場してくると「待ってました」という感じで見ているほうのテンションが上がる。救援に来たX-Wing飛行隊の登場もかっこいい。レア姫の変貌にショックを受け、C3POR2D2との再会を喜んだ。映画は、宇宙の酒場や宇宙船の墓場など、エピソード4〜6へのオマージュに満ちている。シリーズの中でエピソード4〜6を愛する僕としては大いに満足した。J.J.エイブラムス監督は、よい仕事をした。SWの監督として合格だ。しかし…。

映画の興奮が冷めてくると、「ちょっと待てよ」と思い始める。

観終わった後、冷静になってくると、ちょっと待てよ、と思い始める。このストーリー、エピソード4に似すぎてないか?砂漠の惑星で、自らの出自を知らずに、廃品回収で暮らすジェダイの子供達、秘密を隠し持ったロボット、ダークサイドに堕ちたダースベイダーの後継者、惑星破壊兵器デススターをさらに強力にしたスターキラー…。BB8以外は、新しいロボットも、新しいメカもで出てこない。帝国軍は、あいかわらず宇宙戦艦と、タイファイター、ストームトルーパーだし、対抗する反乱軍もX-Wingだ。もちろん戦闘シーンのVFXの精度は格段に向上しているが、最近のCGに慣れた目には、もうあまりインパクトがない。舞台となる惑星も、砂漠、森、湖、海など、現在の地球のようで、鮮度が無い。そんな風にあげつらっていくと、キリがないのでやめよう。

これはSWコミュニティのためのSWなのだ。

要するに、これはJ.J.エイブラムス監督がSWコミュニティーに受け入れられるために作り上げた作品なのだ。ここでまったく新しいストーリーやアイデアを見せるよりは、「僕はSWをこんなに愛している。ほら、エピソード4の懐かしいアイテムや人物やキャラクターを、ちゃんと理解しているだろう」と主張したかったかのようだ。その意味では、この作品は「合格」と言えるだろう。問題は、次の作品。2017年に公開されるという次回作では、新しいアイデア、新しいメカ、新しいストーリーが問われると思う。期待して待ってます。

SFとしての「STAR WARS

SFとして考えるとSTAR WARSは、いわゆる「スペースオペラ」という、ハードSFファンからはかなりレベルが低くみられるカテゴリーに入る。「帝国」「共和国」「反乱軍」「皇帝」「姫」「騎士」といういわば「中世の世界」に「フォース」という魔法の力をめぐって「光」と「暗黒」が戦う。いわば中世と魔法の物語を、宇宙を舞台にして描いただけの物語である。「宇宙英雄ペリー・ローダン」「銀河パトロール隊レンズマン」「火星のプリンセス」などがある。僕は小学生の高学年になってSFを読み始めたが、それを知った近所の塾の先生が貸してくれたのが、「火星のプリンセス」シリーズだった。生意気にもクラークやアジモフなどのハードSFにのめり込んでいた僕は、1、2冊読んで「こんなもん、SFじゃない」と突っ返したことを覚えている。おとなげないことをしたと思う。だから1977年に公開された最初のSTAR WARSも、けっこうタカをくくっていた。しかし、映画の冒頭、帝国のデストロイヤーが、共和国の宇宙船を追って、スクリーンを延々と通り過ぎていくシーンで、僕は完全にノックアウトされた。ロボットやメカの造形にもすっかり魅了されてしまった。ストーリーなんかどうでもよくなった。その世界観にはまってしまったのである。エピソード4は、劇場で数回観たと思う。自分が観たいこともあったが、「こんな凄い映画があるよ」ということを人に教えてあげたくて、誘ったのである。その中に母もいた。彼女が映画を観てどう感じたか、聞いたと思うが、今ではもう覚えていない。それ以来、ずっと劇場で鑑賞している。新しいシリーズがはじまったことを喜んでいる。製作陣からルーカスがいなくなったことは残念だが、J.J.エイブラムスをはじめ、新しいスタッフたちは、彼の意志を受け継いでくれるだろう。

数多久遠(あまたくおん)「黎明の笛」kindle版

前回エントリーの「深淵の覇者」の著者のデビュー作。著者は航空自衛隊の元幹部自衛官。本書に先立って2008年に軍事シミュレーション小説「日本海クライシス2012」をネットで発表。その後、本書の原型となった「黎明の笛 KDP版」を個人出版。それが出版社の編集者の目にとまり、改稿の上、祥伝社から出版されたという。紙の本でも読めるが、Kindle版で読んだ。

「深淵の覇者」がハイテク軍事スリラーだとすると、本書は軍事ミステリーか。

冒頭、自衛隊の隊員らしき人物が何者かに殺害されるプロローグから始まる。彼は何かのグループに属しており、そのグループのメンバーに殺害された模様だ。主人公は航空自衛隊・航空総隊司令部の情報課情報班の倉橋日見子三等空佐。彼女は、陸上自衛隊の特殊作戦群に属する秋津和生二等陸士と2年越しでつきあっており、先週、プロポーズを受けたばかりである。彼女は、上司である情報課長の浜田から、秋津と結婚すれば、彼女の「防適」(防衛適格性)が失われるため、結婚を考え直すように言われる。防衛適格性とは、防衛秘密にアクセスする資格の基準であり、情報課に属する彼女の仕事には不可欠の資格であった。「防適」を失えば、彼女は、秘密に接する必要がない総務や広報、教育職などに配置転換されることになる。納得できない倉橋は、自分が「防適」を失う理由を調べようと決意する。「防適」剥奪の理由は、婚約者である秋津にあるはずである。そして気がつくと彼女の周辺には監視者が出没するようになっていた。倉橋は部下の安西の協力を得ながら、婚約者の情報を探っていく…。ミステリー仕立てで始まる物語は、秋津が関わる或る計画へと急展開していく。秋津をリーダーとする陸自の特殊作戦群の部隊が韓国が実効支配する竹島を上陸占領。国内の演習場からは37名の自衛官とともに数台の軽装甲車と武器が姿を消していた。

2つの謎解き

物語は、空自の情報課員である主人公が、様々な情報をもとに事件の謎を解き明かしていく過程として描かれていく。秋津たちの意図は何なのか?空自が関わって何をしようとしているのか?主人公はなぜ事件に巻き込まれたのか?ここから先はネタばれになってしまうが、この謎解きの面白さが、本書を単なる軍事シミュレーション小説以上のエンターティンメントに仕立てている。

女性の主人公

本書の主人公と彼女を監視する情報保全隊の隊員、杉井は、女性である。女性を主人公にした理由は、著者によると「女言葉を使うことで、主人公のセリフを認識しやすくできるのではないかという、なんとも言い訳がましい消極的なもの」ということらしいが、彼女たちのキャラクターはなかなか魅力的だ。軍事小説で、女性が主人公の作品は多くないが、あることはある。ステルス駆逐艦の活躍を描いたJ.H.コッブ「ステルス艦カニンガム出撃」などに登場する女性艦長アマンダ・ギャレットは、美人なのに知略に長けた戦士という設定で、とても魅力的である。本書の倉橋も、メタルフレームの眼鏡をかけた切れ長の眼が「冷たくはないものの、きつい感じのする目だ」と表現され、存在感がある。本書では彼女の頭脳がフル回転して謎を解き明かし、彼女が次々に繰り出す大胆な作戦が物語を急展開させていく。迫るタイムリミットと緊迫した状況が、彼女に大きなプレッシャーをかける。しかし彼女は微笑すら浮かべて、それを楽しんでいる…。

自衛隊とは軍隊である。

本書を読んでいちばん強く感じたのが、当たり前のことだが「自衛隊は軍隊である」ということ。いままで自衛隊自衛官を主人公にした小説をほとんど読んだことがなかったので、よけいにそう感じたのかもしれない。なんというのか、著者が元自衛官であるせいか、自衛官たちの日常というか、生活感のようなものが感じられ、それが僕たちの日常とはまったく違うものだという気がした。いままで自衛隊といえば、専守防衛に徹した、軍隊ではない、中途半端な組織というイメージがあった。しかし本書を読むと、いざ戦闘という場面になれば、ためらうことなく戦闘に突入していく臨戦態勢にある軍隊というイメージを持った。そこには米国の軍人が書いた軍事小説と共通する空気がある。それが良いとか悪いとかいうのではなく軍隊とは本来そういうものなのだろう。外国から見れば、れっきとした軍隊を、国が「自衛隊」という名称で覆い隠しているにすぎない。その事実を突きつけられて、僕らは愕然とする。本書はエンターティンメント小説であるが、色々と考え込んでしまった。

 

数多久遠「深淵の覇者」

大好きな海戦&潜水艦モノ。

舞台は、尖閣諸島付近や沖縄トラフなど東シナ海。著者は航空自衛隊の元幹部自衛官。帯に「これはただのフィクションではない。警告の書だ!」とあるが、「尖閣諸島をめぐる日中の紛争」という点では、設定にリアリティが足りず、かわぐちかいじの「空母いぶき」のほうが説得力がある。しかし海戦モノ、あるいは潜水艦どうしの戦闘という点では、半端じゃないリアリティとスリルがあり、読み応え充分。僕の中での本書の位置づけはハイテク軍事スリラー。トム・クランシー「レッドオクトーバーを追え」から始まったジャンルだ。土日で一気に読んだ。

新型ソナー兵器と5年前の潜水艦事故。

2016年、防衛省技術研究本部が開発した新型ソナー兵器「ナーワルシステム」の完成が近づき、そうりゅう型潜水艦「こくりゅう」での実用試験が始まろうとしていた。開発の中心である防衛省の技官、木村美奏乃は、システムに細工を施し、自分が「こくりゅう」に載らなければ試験が行えないようにしていた。彼女は、5年前の潜水艦事故で恋人の橋立真樹夫を亡くしており、その事故の真相を探ろうとしていた。その頃、中国では人民解放軍に動きがあり、海軍が何らかの軍事行動を目論んでいるとの情報が入ってきた。「こくりゅう」がナーワルシステムの試験を続けている頃、尖閣諸島に中国駆逐艦「石家荘」が接近。日本政府は海自の護衛艦「あきづき」を派遣する。魚釣島近海で国籍不明の潜水艦を追跡していた「あきづき」が消息を断つ。「こくりゅう」は実用試験を中止し、尖閣諸島へ向かう。

「見えない潜水艦」VS「最速潜水艦」

潜水艦「こくりゅう」が実用試験を行っている「ナーワルシステム」は、オーディオのノイズキャンセルと同じく、敵艦から照射されたアクティブソナーを検出し、それと逆位相の音を発して音を消すシステム。ナーワルシステムが機能している間、敵の艦船や対潜航空機からは位置が特定できず、「見えない潜水艦」として、戦闘で優位に立てる。この「こくりゅう」と戦う中国の潜水艦は、ロシアのアルファ級原潜に改造を加え、60ノットというありえないような高速航行を実現した「長征十三号」。魚雷でも追いつけないほどの高速移動により、戦闘をリードする「最強の潜水艦」を自負する艦である。この「見えない潜水艦」VS「最速潜水艦」の戦いが本書のクライマックスである。

女性総理の決断。

中国は、空母遼寧」を核にした機動部隊を尖閣諸島に派遣することにより領海権を主張しようとするが、日本の御厨首相(女性)は、「遼寧」を撃破することにより中国軍の意図を阻止することを決意。「こくりゅう」の艦長、荒瀬に空母攻撃を命じる。

潜水艦事故の謎。

5年前の事故の真相を探ろうとする美奏乃は、事故が起きた潜水艦の副長であった荒瀬に接近する。海自の発表では、潜水艦「まきしお」は海溝壁に衝突し、その損傷で魚雷室に浸水し、そこにいた水雷長の真樹夫が溺れ死んだことになっていた。しかし真樹夫の遺体には、全身に打撲の傷があり、単に溺死では説明がつかなかった。美奏乃は、真樹夫の弟で、兄と同じ潜水艦乗りになっている嗣夫の協力を得て、事件の真相に近づいていく。

息詰まる戦闘シーン。

本書の面白さは戦闘シーンのリアリティと迫力に尽きると思う。海戦、潜水艦戦を描いた小説は数多く読んできたが、海外作品でもここまでの迫力は表現できていないものが多い。新しい才能の出現だと思う。著者の前作「黎明の笛」も読んでみよう。

 

 

沢木耕太郎「キャパの十字架」

いやあ面白かった。400ページ近いボリュームにも関わらず、一晩で読了。本書の内容は、2013年にNHKの番組で放送されたものと同じだと思うが、残念ながら見逃している。文庫になって購入したが、この内容なら単行本で買ってもよかった。

写真「崩れ落ちる兵士」の謎。

「死の瞬間」または「崩れ落ちる兵士」と呼ばれる写真がある。1936年、スペイン内戦において、共和国軍の兵士が反乱軍に頭部を撃たれて倒れる瞬間を捉えた、あまりに有名な写真である。無名の青年だったキャパを一躍有名にしたこの写真は、ピカソの「ゲルニカ」と並んで、ファシズムとの戦いのシンボルとされるようになる。それにも関わらず、この写真が、いつ、どこで撮影されたのか、撃たれた兵士は誰なのか、という詳細が一切不明。キャパ自身も、この写真についてほとんど何も語っていないため、多くの謎が残されたままであった。後に、場所についてはコルドバのセロ・ムリアーノとされ、兵士についても、歴史家が、身につけていた弾薬入れから個人名を特定し、一応の決着がついたとされている。しかし、あまりに完璧に死の瞬間を捉えていることや、兵士の頭部に負傷が見られないことから、写真の真贋が問題になっていた。その後、バスク大学の教授が、撮影された場所が、セロ・ムリアーノではなく、56km離れたエスペホであることを発見する。そのエスペホにキャパが滞在していた間、戦闘は起きていないことが判明している。つまり「崩れ落ちる兵士」は実際の戦闘で死んだのではなく、演習中に転んだか、キャパたちに頼まれて、撃たれるポーズをしているだけではないか、という疑惑が生まれてきたのである。また、キャパが使っていたライカでは、残されている写真の縦横比は不可能で、一緒に行動していたゲルダが持っていたローライフレックスによって撮影されたという可能性も浮上してきた。この写真は、本当にキャパが戦場で撮影したものなのか。キャパの伝記を翻訳したこともある著者は、この世紀の謎解きにもう一度挑戦してみようと決意する。関係者に取材したり、現地に何度も出かけていったり、軍隊経験のある作家の大岡昇平に取材したり、ライカに詳しいカメラマン田中長徳に相談したり…。著者は、気の遠くなるような推理と検証を繰り返しながら真実に近づいていく。それを読むのは、よくできたミステリーを読むようなスリルと感動がある。これ以上内容に踏み込むとネタばらしになるので書かないが、著者がたどり着いた「崩れ落ちる兵士」をめぐる結論は驚くべきものだ。

「十字架」の意味。

この写真は、よくも悪くも、その後のキャパの人生を決定づけてしまう。キャパは、その後も、憑かれたように危険な最前線に飛び込んでいく。まるで「崩れ落ちる兵士」を超える戦争写真を撮ろうとしているかのように…。女優、イングリッド・バーグマンと恋をするが結婚には至らず、戦場へと還っていく。1954年5月、第一次インドシナ戦争の取材中に地雷に触れ、死亡。本書の中で、キャパは、生涯自宅を持たず、ホテル暮らしだったことが紹介されていて、興味深い。著者が、キャパが撮影した場所をたどる「キャパへの追走」も読んでみよう。

宮本喜一「ロマンとソロバン-----マツダの技術と経営、その快走の秘密---」

11/19のエントリーでマツダの広告について書いたが、

マツダの「Be a driver.」キャンペーンに感じたこと。 - 読書日記

マツダに何が起きているのか、俄然、興味が湧いてきた。企業が外部から見えるほど変化している時、その内部では驚くほど大きな変化が進行しているものだ。ちょうど、よい本を発見。マツダの全社革命ともいえる大改革を克明に描いた本だ。読み終えて、NHKの人気番組だった「プロジェクトX」を思い出した。中島みゆきの、あの歌をバックに、あの独特のナレーションが聞こえてくるようだ。こんな風に始まるだろうか。「マツダは出遅れていた。」「時代はエコカーを求めていた。しかしマツダにはエコカーと呼べるクルマがなかった。」「独りの男が立ち上がった。常務執行役員、金井誠太。金井は技術者たちに向かって、こう語りかけた。」「君たちにロマンはあるか?」「世界一のクルマをつくろう」 「最初は半信半疑だった技術者達も金井の情熱と本気に真剣になっていく。」「金井はさらにヨーロッパから戻ったばかりの商品企画ビジネス本部長であった藤原清志をチームのリーダーに選んだ。」「金井は思った。世界一のクルマには世界一のエンジンが必要だ。」「社内の研究部門で定年が近い独りの技術者がいた。彼の名は人見光夫。人見には一つのアイデアがあった。」「それはターボやモーターなどの機器を付加することなくエンジンの燃焼効率を飛躍的に高める『高圧縮』の技術だった。」「プロジェクトのリーダー藤原は、人見のアイデアに賭けることを決意する…。」

「X」であれば、こんな風に語られただろうか?それにしても「X」の「語り」の手法はよくできていたなあ。これならスイスイ語れそうだ。続けてみよう。

「多くの困難を乗り越えて、画期的なエンジンが生まれる。このエンジンを核にして、マツダのクルマは生まれ変わろうとしていた。」「開発、生産、デザイン、販売が一丸となって『世界一のクルマ』が生まれようとしていた。」「その時、思いもよらない事件がマツダを襲う。2008年9月の『リーマンショック』だ。」「消費はいっきに冷え込み、業績は悪化、売上は27%減少、経常利益、当期利益も大幅な赤字に転落した」「引退を考えていた社長は、資金調達に奔走しなければならなかった。」「2011年、3月、追い打ちをかけるように『東日本大震災』が発生。生産が止まった。」「しかし、マツダには過去に多くの困難な状況を乗り越えてきた底力があった。2011年5月には生産台数が前年比90%を確保。6月にはほぼ通常通りの生産体制に復帰していた。」「2012年2月、ついに運命の日がやってきた。スカイアクティブエンジンを搭載した最初のクルマ、『CX-5』がデビューする。」「山内社長兼CEOは発表会で静かにこう宣言した。『マツダはこの新世代商品の第一弾であるCX-5によって、新しい市場を創造します。社運を賭けております。』」「CX-5」は予想を裏切る大ヒットなる。そして9ヶ月後の11月、第二弾の「アテンザ」も1ヶ月で7300台を受注した。マツダの業績も劇的に改善していった。」

以上「X」風終了。最後のメキシコ工場完成のあたりでは、エンディングテーマ「ヘッドライト、テールライト」が流れてきそうだ。

これは日本のモノづくりの物語である。

長々と「X風」で紹介してきたのは、本書が描いたマツダの革命が、日本のお家芸である「モノづくりの物語」であったと思うから。困難を抱えて行き詰まる企業や組織。その中から不屈の男たちが立ち上がり、様々な障害を乗り越えて奇跡の大逆転を起こす。60年代〜80年代、日本中のあちこちでモノづくりのドラマが生まれていた。マツダにも、ロータリーエンジン車の開発や、小型オープンスポーツの発売など、多くの「日本のモノづくりのドラマ」があった。本書が描く大改革も、その延長線上にあると思う。

自動車産業は、日本のモノづくりの最後の砦かもしれない。

かつて、モノづくり王国、日本のもうひとつの象徴であった家電、電子機器、通信機器の分野では、日本企業の優位性は、とっくに失われてしまっている。それはビジネスの勝敗が、モノ=ハードの品質によって決まるのではなく、サービスやソフトウエア、プラットフォームなど、別のルールによって決まってしまうからだ。家電メーカーのライバルは、家電メーカーではなく、マイクロソフトや、GoogleAmazonAppleといった新しいグローバル企業になってしまい、そこでは競争のルールが全く違っていたのだ。そう考えると自動車産業は日本のモノづくりにとっての最後の砦なのかもしれない。

自動車の基本形は、100年以上変わっていない。

化石燃料を燃やす内燃機関によって動力を作り出し、人間が操縦して走らせる」自動車の基本形は、この100年変わっていない。動力の一部が電気になったり、水素になったりはしているが、依然として多くの自動車が石油をベースにした燃料で走ることに変わりはない。またナビゲーションにGPSやインターネット経由の情報を利用しているといっても、運転は、結局、人間が行っている。自動車は基本的にスタンドアローンな製品なのである。そしてエンジンや車体の技術もきわめて複雑で、いまだに進化を続けている。また、製品が人の生命に関わることもあり、高度な安全性が求めらる。以上のようなことから、他の分野からの参入が難しいことも幸いしているかもしれない。自動車は、日本のモノづくりの優位性を保つことができる数少ない分野なのだと思う。

10年、20年先のライバル企業

本書の中で、マツダは第二世代のスカイアクティブで、今後の5年間で、燃費をさらに20%改善するという。驚くべき数字だが、たぶん実現可能なのだろう。問題は、その先だ。「より少ない燃料で、より遠くまで、速く、安全に、移動できるクルマ」という100年間変わらない「クルマの基本概念」の中で、マツダは画期的なイノベーションを実現することができた。今、その基本概念が変わろうとしている。東京モーターショウで見た未来のロータリースポーツのコンセプトカー「RX-VISION」も、その延長線上で提案されたものだ。あの美しくエモーショナルな、そしてレトロフューチャーなデザインは、ガソリンエンジンで走る車の歴史への最後のオマージュのように見えた。今年の東京モーターショウを見る限り、他のメーカーは「自動運転」や「コネクテッドカー」のコンセプトを打ち出しているケースが多かった。米国テスラは、電気自動車で自動車に参入してきた。Apple電気自動車への参入を計画しているという。国内でも電気自動車のビジネスに自動車メーカー以外から参入する動きが始まっている。Googleはすでに自動運転の公道実験を始めている…。その変化は、言うまでもなく動力源が単にガソリンから電気に変わるだけではない。まったく違うビジネスモデルによる競争になっていくのだ。トヨタや日産は、そんな時代を見据えたビジョンを描いているように思える。10年先、20年先、自動車メーカーのライバルは、自動車メーカーではなく、きっとGoogleAppleマイクロソフトなどのIT系企業やロボティクス企業になる時代がやってくる。その時、マツダは、どんなロマンを語っていくのだろう。