藻谷浩介 NHK広島取材班「里山資本主義 日本経済は、『安心の原理』で動く」

本書を、7月に買い、8月に読み終え、感想を書こうと、いつも鞄に入れて持ち歩いていたら、10月になってしまった。2回は通読し、部分的には何度も読みかえした。おかげで本はヨレヨレ。先日、友人と食事をしていて、本書を鞄から取り出して、話をしていたら、別れる時まで友人が本を手にしたままだったので「返して」とも言えず、進呈することにした。本自体がヨレヨレになっていたので気が引けるが…。

感想が書けない理由。
本書は、速い人なら1日で読めると思うが、感想が書けないでいた。書けない理由は、テーマが、大きく、深く、そして驚くほど多岐にわたっていること。そして僕自身が関心を持っている様々な課題とつながっていることだと思う。著者は「デフレの正体」で知られるエコノミスト、藻谷浩介とNHK広島の取材班による共同執筆。藻谷の名は、コミュニティデザイナー、山崎亮との対談「藻谷浩介さん、経済成長が なければ僕たちは幸せになれないのでしょうか? 」で初めて知った。「デフレの正体」や本書のレビューを読むと、なぜか著者に対して辛辣なものが多い。名誉毀損で訴えられて敗訴したこともあるらしい。著者独特の、ちょっと飛躍のある、舌鋒鋭い言葉が、敵を作りやすいのかもしれない。著者が複数であるため、内容に重複があったりするが、本書の主張はおおむね間違っていないと思う。これからの日本が進むべき方向について、重要な指針を示してくれている。本書の主張をできる限り多くの人と共有し、議論したいと思っている。本書の主張には様々な側面があり、きちんと紹介するのは、とても難しい。内容は読んでもらうしかないが、自分に可能な範囲で、大雑把に紹介してみようか。
現在の世界経済を支配するのは「マネー資本主義」
里山資本主義」とは何か?それは「マネー資本主義」の反対概念である。では「マネー資本主義」とは何か。現在の世界経済を動かすシステムは、100年以上前に生まれた大量生産・大量消費を前提とする「アメリカ型資本主義」をベースとして、さらにその延長線上に生まれた「マネー資本主義」であるという。市場の変動を先取りして利益を得る証券などの金融市場は、80年代以降、急速に拡大していく。金融ビジネスは、デリバティブのような金融派生商品を次から次へと生み出し、ありとあらゆる経済の変動を投機の対象とするようになる。そして、いまや金融市場の規模は実体経済の100倍以上に膨らんでいる。その中で市場のリスクすらも投機の対象とする金融商品が売り出されるようになる。その最たるものが、サブプライムローンだった。返済が難しいかもしれない低所得者住宅ローンを組ませ、それを証券化して、証券会社に送る。証券会社は、これらのローンを集めて、金融工学という数学的な処理を加えて金融商品として売り出していたのだ。まやかしとしか言いようの無い、このリスキーな金融商品に、世界中の投資家たちがこぞって投資していたのだ。住宅の価格が上昇し続ける限り、このビジネスは、有効だと思われていた。しかし、そんなことはありえない。米国の不動産価格の上昇が止まり、下降に転じると、状況は一変する。無限の成長を続けるかに見えた金融経済のメカニズムが、逆転しはじめると、破綻は瞬く間に世界中に広がって行き、無数の金融機関が破綻した。各国は、破綻した自国の金融機関や証券会社を救済しようとして、財政出動に踏み切る。しかし今度は財政出動で弱まった国家の財政を、金融のモンスターたちが喰い物にしていった。最初に犠牲になったのはギリシアだった。ユーロ危機はそのようにして始まったのだという。その後遺症は、現在も続いている。いっこうに景気が回復しないアメリカ。そしてギリシアから、スペインへ、イタリアへと波及していったユーロ危機。中国も経済成長のスピードを維持できなくなっている。そして、わが国でも、経済は出口の見えない低迷を続けている。さらに国家の借金は危険なまでにふくらんでいるという。
みんなが不満を抱えて生きている。
そんな状況 の中で、人々の暮らしはどうだろう。若者は就職不安に怯え、中年はリストラの危機にさらされ、高齢者は年金カットなど、老後の不安に悩まされている。勝ち組といわれるビジネスマンですら、仕事に追いまくられ、高額の収入を使うゆとりがない。いま、自分のくらしや将来に不安を持っていない人などいるだろうか?戦後の高度成長から始まる経済の拡大は、私たちの生活をどれほど豊かにしたのだろう。いっぽう地方に目を向けると、限界集落といわれる村が各地で急増し、耕作放棄地と呼ばれる土地が拡大している。都市部でも古くからの商店街は廃れ、買い物難民と呼ばれる高齢者世帯が増えている。町でも村でも地域のコミュニティは失われ、人々は少ない世帯人数で、孤独な暮らしを続けている…。こんな状態をいったいいつまで続ける気なのか?と本書は問いかける。
「答」は、過疎化が進む中国地方の山間部にあった。
「マネー資本主義」に対向する「革命」が、日本の中でも最も過疎化が進んでいる地域のひとつである、中国地方の山間部から始まっているという。アメリカ型資本主義、マネー資本主義、グローバリズムから取り残され、衰退の一途たどっていた地方から、静かで、力強いムーブメントが始まっているというのだ。著者たちは、それに「里山資本主義」と名付ける。最初に登場するのは、かつては林業、製材業で栄えた岡山県真庭市にある銘建工業という製材業。工場の敷地の中に「木質バイオマス発電」の発電所がある。発電のエネルギーは、製材の過程で発生する木くずである。この製材工場で生じる木くずの量は年間4万トン。これを燃料として1時間に2000キロワットの電力を発電。この電力で自社工場で使用する電力はすべて賄うことができる。さらに夜間に余った電力は、電力会社に売電するという。工場で使用していた電力、年間約1億円がゼロになった。また売電の売上は年間5千万円。さらに木くずの廃棄処分に要した年間2億4千万円がゼロになる。つまり4億円弱の節約ができたという。しかも余った木くずも「木質ペレット」という燃料に加工して販売している。木質ペレットを使用するには専用のボイラーやストーブが必要だが、燃料としてのコストは灯油と変わらないという。地元では自治体のオフィスや施設の冷暖房の燃料に木質ペレットを使用しており、一部の農家でもハウス栽培に欠かせない燃料となっている。木質ペレットのよいところは、コストも安いが、石油のように価格が変動しないことだという。自治体も一体となったこの改革によって、真庭市では年間の消費電力の11%が木質バイオマス発電によってまかなわれているという。国内における、いわゆる再生可能エネルギーが占める割合は平均1%足らずだから真庭の進みぶりがわかる。ただ、ここまで徹底しても、木材を直接加工して燃料を製造するのはコストが合わないという。あくまでも製材の過程で出た木くずを使うことが前提なのである。真庭市におけるこの成功事例は全国で注目され、同じく過疎化に悩む高知県の山村でも、銘建工業によるバイオマス発電の事業が始まるという。
全国で始まっている「里山資本主義」のムーブメント。
この真庭市の事例を皮切りに、本書は各地で始まっている「里山資本主義革命」を紹介していく。それにしても「革命」という言葉は大げさだ。ちょっとした運動と呼んだほうがいいかもしれない。広大な山林を所有し、毎日拾い集めた雑木を使い、手作りのエコストーブで料理を作って楽しむ自称里山革命家。都会からのIターンやUターンを積極的に推進している周防大島。住人が減り、耕作放棄地が拡大する山村でデイサービスを利用する老人たちが自ら作った野菜を買い上げて使用する福祉施設…。それらは決して新しい取り組みではない。地産地消。地元の農産物や自然を活用した町おこし。都会からの若者の受け入れ…。しかし、従来の地域再生の試みとは、何かが大きく違っている。従来と違っているのは、中央の主導で行われるのではなく、中央が救えなかった地域に暮らすことを決意した人々が、地域の財産を徹底的に見つめ直し、試行錯誤を繰り返しながら辛抱強く作り上げてきたムーブメントであることだろう。真庭市の銘建工業にしても、バイオマス発電の試みは30年以上も前から始めているのだ。著者の藻谷は「里山資本主義」が「マネー資本主義」に突きつける3つのアンチテーゼがあるという。その第一は、「貨幣を介した等価交換」に対する「貨幣換算できない物々交換」の復権。物々交換で成り立っていた原始的な社会が、貨幣経済社会に移行すると、一気に取引の規模が拡大し、分業が発達し、経済成長が始まるという。里山資本主義では、貨幣経済であると同時に、貨幣を介さない物々交換も重視する。2つ目は「規模の利益」への抵抗である。現在の経済では、需要をできるだけ多くまとめて、一括して大量に供給したほうがコストは下がり、無駄が減り、利益が拡大する。これこそ現代経済がここまで拡大した根本原理なのだが、里山資本主義では、「個人個人が雑木を燃やし、農産物を育てたほうがいい」というのだ。3つ目はリカードが発見した分業の原理への異議申し立てであるという。里山で暮らすには、様々な仕事を一人の人間が行うことが求められる。農業もすれば、山雑木拾いに行き、簡単な大工仕事もこなし、料理だってお手のもの。そんな生き方が求められるのだ。
ロシアの「ダーチャ」を思い出した。
この部分を読んでいて、ロシアの庶民の別荘「ダーチャ」のことを思い出した。ソ連が崩壊し、その後ロシアになっても、経済は低迷を続け、失業、給料の未払い等で、食料の調達も難しくなった時、市民を救ったのは、ソ連時代、郊外に大量に作られた庶民のための安価な別荘「ダーチャ」だった。ダーチャの畑で作られた自給自足の農産物を都市に持ち帰ることで市民は命をつないだという。「里山資本主義」は都市の大量生産・大量消費のシステムや「マネー資本主義」を原理主義的に真っ向から否定するわけではないのだという。現在の経済をほんの少し補完するサブシステムとして機能すればよいのだと。電気もガソリンも自動車もインターネットも使えばいいのだ。しかし燃料の一部は雑木を使い、食品は、畑や棚田で採れる米を食べる。それによって支払う燃料代が減り、食事代も下げることができる…。
かつて中国地方の山間地は、森林利用の中心地だった。
かつて中国地方の山間部は、林業のメッカであったという。古代から中国地方の山間部では、「たたら製鉄」と呼ばれる製鉄業が栄え、燃料として多くの木材を必要とした。江戸時代には「鉄師」と呼ばれる人が藩から製鉄業と森林の維持管理を任されていたという。木を切るだけなく、木を植え、炭焼などの産業を産み出し、流通させるための道を整備した。中国山地で生産された木炭は、近代以降。瀬戸内海沿岸に栄えた造船や製鉄をはじめとする工場で働く労働者たちの生活を支える燃料となり、さらに販路を拡大して、関西の都市部にまで市場を広げていった。戦後の高度成長期まで、中国山地の森は日本の燃料の生産地でもあったのだ。しかし、その後普及していく石油、ガス、電気に、燃料としての地位を奪われていく。それと同じ頃に、盛んであった製材業も、安い輸入木材に市場を奪われ、衰退していく。雇用が失われ、里山から若者を中心に住民が去って行く。そして過疎化、高齢化が急激に進んだ。
地域再生の三種の神器も効果がなかった、中国地方山間部。
交通インフラの整備、工業団地の誘致、観光資源の開発という地域再生の三種の神器も中国地方山間部には、ほとんど効果はなかった。山陽や山陰の沿海部ではなく、中国地方の山間部を貫く「中国自動車道」も、沿線地域の発展にはつながらなかった。観光開発は、結局、瀬戸内や山陰の観光地にまさる魅力を創りだすことはできなかった。逆に便利になった高速道路を通じて、若者たちは、広島や岡山といった都市へ出ていったという…。工場団地の誘致は少しは効果があったようだが、過疎化の流れは止められず、この地域の人口は、減り続け、高齢化が加速していったという。中央主導の地域活性化施策の恩恵をほとんど受けなかったことが、地元の資源に目を向けさせ、その有効活用を考える「里山資本主義」のムーブメントにつながったのかもしれない。
里山資本主義の先進国、オーストリア
里山資本主義は日本だけの専売特許ではない。ユーロの中でも安定した経済成長を続けるオーストリアは、実は日本よりはるかに進んだ里山資本主義先進国なのである。人口1千万人というオーストリアは、ユーロの中でも、安定した経済成長を続けている。国民ひとりあたりのGDPは、日本よりも多いという。このオーストリアが、十数年前から取り組んでいるのが、木質バイオマス発電。日本以上に資源にめぐまれず、エネルギーも輸入に頼っていた。1970年代、完成して稼働を待つばかりだった原発に激しい反対運動が起こり、国民投票でその是非を決することになった。その結果、反対50.5%対賛成49.5%の僅差で否決された。その後、チェルノブイリ事故が起こり、反対運動は更に盛り上がり、原子力利用そのものを憲法を禁止するに至る、そこで国は、国土の6割という森林の活用に力を注ぐことになる。国土は北海道ほどの大きさ。森林面積は日本の15%ほどに過ぎないが、生産される丸太の量は、日本全国で生み出される量より少し多いという。オーストリアでは、企業が、林業と木材の活用に積極的に取り組み、真庭市の銘建工業のような木質バイオマス事業をもっと大規模に行って、地域経済を支えている。また木質ペレットを利用する家庭用のペレットボイラーも、燃焼効率の向上により、石油よりも大幅に安いコストを実現しているという。バイオマス利用を拡大するためには、大量の木くずが必要になり、そのベースとなる木材の需要拡大が欠かせない。木材の建築材への利用を拡大するために、オーストリアでは、木造の高層建築を可能にするCLTという技術を開発する。板の繊維の方向を直角に交わるように組み合わせた集成材で、建築材としての強度は、鉄やコンクリートに引けを取らないほど高まるという。政府は、同時に木造建築を規制していた法律も改正。従来まで2階までしか建てられなかった木造建築を9階建まで建てられるようにしたという。CLTによる高層建築は、オーストリアだけでなく、イタリアやイギリスでも始まっているという。
森の利子で生きる。
オーストリアの森林利用の原則は「森林の利子で生きる」ということ。森は成長している。森林の伐採は、1年間に森が成長したぶんだけ行うという。いわば森の利子だけを受け取って元本には手を付けない方法。毎年伐採した木のぶんだけ木を植え、森林を維持していくという。それでも毎年伐採できる木材の100%を使いつくすところまで至っていないと思う。「持続可能な経済」とかいうけれど、まさに持続可能な森林利用のしくみを実践しているのだ。
スマートタウンとの類似。
著者によると、里山資本主義の考え方は、現在、いくつかの場所で、ゼネコンやデベロッパー、電機メーカーなど、共同で実証実験が始まっている「スマートシティ」と共通点があるという。電力のネットワークと情報のネットワークを合体させ、燃料電池等による自家発電、蓄電、売電を行い、町単位での省エネを実現する。また各家庭を結んだ高速通信のネットワークにより地域のコミュニティも復活させることができるという。正直にいって、この部分の話はあまり納得できなかった。地域に眠っている森林や耕作放棄地などの資産を有効に活用しようという発想と、上記のようなスマートシティの発想がどれだけ共通点があるのか、もっと具体的に書いて欲しかった。都市における里山資本主義は、隈研吾が「新ムラ論・TOKYO」で考察したような、高円寺のような街に自然発生的に生まれつつあるのではないか。
本書は、時代の潮流のひとつ。
本書は、真庭市以外でも多くの事例を紹介している。それらをいちいち紹介するのは止めておこう。それよりも、過疎が進む地方で始まった「里山資本主義」のムーブメントは、僕たちの周辺で起きている様々な潮流と同期しているような気がする。それについて書いておきたい。「大量生産ー大量消費ー大量廃棄」というサイクルを脱して、製品、資産、サービス等を共有することで持続可能な生活に変えていこうという「シェア」の発想。さらには山崎亮たちがが実践する「コミュニティ・デザイン」等の地域再生のムーブメント、さらに隈研吾らが主張している都市の中の「ムラ」論。宮崎駿が対談の中で語っていた「日本の財産は、森と水」という気づき…。それらの延長線上に本書はあると思う。本書は、山崎亮の本を読んで、いまひとつ納得できなかったこと、「それで、本当に地域の経済は再生するの?」という疑問にある程度答えてくれる本でもある。上記の山崎亮との対談の中で、山崎が「中国地方の限界集落と言われる山村で、お年寄りが、とても幸せそうに暮らしているが、あれはどういうことなのか?」と問いかけている。山村の高齢者たちが、自分の畑で採れた野菜など、食材を持ち寄っては毎週のようにパーティーをしている。彼女たちは、畑仕事や、都会に暮らす子どもたちに食材を送ったりと、けっこう忙しく、楽しそうに暮らしている。それはいったいなぜか?山崎は、自分自身の疑問に答えるために、上記の対談を企画したのかもしれない。その時は「里山資本主義」という概念も言葉もなかったのだろう。はっきりした答は出ていなかったと思う。それに対する答が本書で示されているのかもしれない。藻谷浩介は、本書の中で、アベノミクスをはじめとする経済政策を痛烈に批判している。こんなに激しく批判すれば、敵をたくさん作ってしまうだろうにと思う。「マネー資本主義」を声高に激しく攻撃したあと、「里山資本主義」を語る著者のトーンはぐっと抑えめになって、穏やかになる。本書に登場する里山資本主義の革命家たちも、全員が例外なく、戦うというよりは笑顔で静かに語っている。この事が、このムーブメントの本質を語っているような気がする。地域の人々が一丸となってグローバル経済と戦うというよりも、個人の中で起きたささやかな意識革命が、いつの間にかつながって大きなムーブメントになっていこうとしている。その意識革命は、日本中の、あらゆる層の、あらゆる世代の中で、起きているのだと感じる。それらがつながって、やがて大きな潮流になって、世界を変えていく力になることを望んでいる。
本書の感想はやはりうまく書けていない。紹介も支離滅裂で、著者たちが読んだら怒り出すかもしれない。ごめんなさい。僕のブログを読んだ人が一人でも多く、この本を読んでくれることを願っています。