小野不由美「残穢」

怖すぎて、家に本を置いとけない。
友人のおすすめ。小野不由美の最高傑作かもしれないという。また「怖すぎて、家に本を置いとけない」とのこと。残穢:「ざんえ」と読む。僕自身は小野不由美ファンではない。スティーブンキング並の重厚な長編「屍鬼」を読んだことがある。家人が「十二国記」の小説を全巻読み、アニメを熱心に見ていたのを横目で見ていたぐらい。「屍鬼」は、その長さに、展開のスローさに閉口しながら読んだ記憶がある。ストーリーが走らず、執拗なまでにディテールを描きこんでいくのはキングに似ていると思った。少しずつ、じれったいぐらいにジワジワと恐怖を高めていくのが、著者の手法なのか?

実話?、ドキュメンタリー?
語り手である「私」の自己紹介から始まる。「私」は、「作家で、最近では大人向けの小説を書くこともあるが、主な居場所はライトノベルで、そもそもの出自は少女小説だった…。かつては小学生から中学生向けの文庫本レーベルでホラー小説を書いていたこともある。」また、京都在住、夫も同業である等、「私」とは、つまり著者である小野不由美のことである。「あれ?これって実話なの?」と訝りながら、読み始める。著者は、昔のシリーズのあとがきで、読者に対して「怖い話」を知っていたら教えて欲しい、と、呼びかけたことがある。20年も前のあとがきに、いまでも時折、手紙が来ることがあるという。
何の変哲もないマンションの小さな怪異。
2001年末、「私」の元に、読者から手紙が送られてくる。手紙の主は30代の女性で、都内の編集プロダクションにライターとして勤務している。彼女は、首都近郊のマンションに引っ越したばかりだった。彼女は、その部屋に何かがいるような気がするという。深夜、リビングの仕事机で原稿を書いていると、何かの音が聞こえてきた。畳の表面をサッと擦るような音。振り向いても音がするようなものは何もない…。何の変哲もない都会のマンションで起きた怪異…。ホラーとしてはむしろ控えめに物語は滑り出していく。「私」と、手紙の主との間で交わされる手紙やメール、電話等によってストーリーが地味目にゆっくり進んでいく。手紙の主の女性は「私」のアドバイスを受けながら、怪異の原因を調べはじめる。彼女のリサーチによって、その部屋の前の住人や、そのマンションにまつわる事実が、少しずつ明らかになっていく。しかし、それと同時に新たな怪異の存在が次々に明らかになっていく。出現する怪異は、上記の音のほかに赤ん坊の泣き声、床下を何者かが這い回る気配など、まあ、怪談としては、ありがちの怪異ばかりだが、相互に「つながり」がある。ネタバレになるので、これ以上書かないが、この「つながり」こそが本書のアイデアなのだ。
「つながりの連鎖と恐怖の仕掛け」
話の大半が「つながり」を探って時間をさかのぼることに費やされる。今世紀にはじまり、前世紀、高度成長期、戦後、戦前へ…。周囲に畑しかなかった土地に、家が建ち、工場が建ち、人が住み始める。古くからの住民のコミュニティに、新たな住民が加わり、住民間、世代間で、断絶が生まれる。核家族化で地域のつながりが失われ、隣近所とつきあいのない都市の流民たちが増えていく。リサーチによって浮かび上がってくる社会の変遷や土地利用の変化を、「私」は研究者のように冷徹に分析していく。それもドキュメンタリーっぽく読ませようとした手口のひとつかもしれない。この「私」=「著者」という図式が本書をさらに怖いものにしている。後半に進むに従って、怪異の「つながり」が、手紙の主から「私」にいつ伝染ってくるのかをびくびくしながら読み進むことになるからだ。しかも「私」=「著者」は、フィクションではなく現実の人物であり、読者と同じ世界に生きている。つまり「著者」と「本書」を媒介に本の中の怪異が読者に「つながる」かもしれないからだ。エンディング近く、怪異は、遂に「私」にも起こり始める…。それは深夜の電話を通じて伝染って来ようとしているかのようだ。さあ、ここからが本書の怖さが始まるぞ、と読者が構えたところで、怪異はそれ以上拡大せず、あっけなく収束に向かうのだ。ちょっと肩すかしだ。本書に描かれた話は、かなりの部分、事実が含まれていて、これ以上書くことを著者にためらわせたのかもしれない。しかし、想像力豊かな読者なら(あるいは霊感の強い読者なら)本書が穢れに汚染されていると感じるかもしれない。本書を教えてくれた友人が「その本を家に置いておきたくない」と言ったのは、こういう理由からだ。読み終えて、残念ながら、そこまでの恐怖は感じなかった。それは僕が著者のことをよく知らないからだと思う。
すでに巨匠の風格がある。
玉ねぎの皮を剥いても中から別の皮が次々に出てくる、そんな構成で最後まで読者を引っ張っていく筆力は大したものだ。ライトノベル出身というが、著者の構成力・文章力にはもはや巨匠の風格がある。ストーリーがなかなか進まず、わざと筆の走りを抑えているようなリズムは「屍鬼」に近いと感じた。本書の中にホラー作家の平山夢明福澤徹三が実名で登場する。怪談文壇というのか、怪談業界というのか、その内情も描かれていて面白い。ほぼ同時期に出た「鬼談百景」も読んでみよう。