トルーマン・カポーティ「冷血」再読


高村薫の「冷血」を読んで、その原点ともいえるカポーティの「冷血」を再読したくなった。本棚のどこかにあるはずだが見つからず、結局、新潮文庫で購入。新約らしい。以前に読んだのは、高校か大学の頃なので、ほぼ40年ぶりの再読になる。カポーティは、当時、サリンジャー、アップダイクなんかとともによく読んだ作家。映画「冷血」も日曜洋画劇場で観た。アメリカ中西部のカンザス州の小さな町で、裕福な農場主であったクラッター氏とその家族が二人組の強盗に惨殺される。カポーティは、この事件を綿密に取材し、5年余りの時間をかけて作品に仕上げた。著者はこの作品をノンフィクション・ノベルと呼んで一般的なノンフィクションと区別したという。本書のディテールは、もうほとんど覚えていないが、被害者の少女を気遣う態度を示しながら、冷酷に殺してしまう犯人の描写に、戦慄を覚えた記憶がある。あれは本だったのか、それとも映画を観てだったのか…。
世田谷でない。
この作品を読むと、高村薫版「冷血」は、2000年に起きた「世田谷一家殺人事件」よりも、この「冷血」のほうを意識して書かれたことがわかる。前科を持つ二人の男が裕福な一家四人(夫婦、娘、息子)を惨殺するという設定もそうだが、作品の構成も似ている部分がある。カポーティ版では、第1章で、被害者のクラッター一家やその周辺の人々、そして二人の犯人が、事件の直前まで、どのように行動していたかを詳細に語っている。しかし事件そのものは、第1章では描かれず、第2章の発見者の証言によって、現場の様子が初めて明らかになってくる。高村版でも、第1章は、事件直前までの被害者の一家の生活や、犯人の行動が、娘の中学生の視点と二人の犯人の視点で語られる。こちらでも実際の犯行の様子は語られない。犯行の様子が明らかになってくるのは、第2章の現場に最初に立ち入った警官の話や捜査官たちの報告を通してである。
冷血の構造。
高村版「冷血」は、意図してカポーティ版と同じ設定や構成を踏襲したのではないか。同じような設定と構成を踏襲すると、どのような効果があるのだろう。高村薫は、それによって作品が描き出す「時代」と「場所」の違いを際立たせようとしたのではないか。1950年代後半と2002年という時代の隔たり。そしてアメリカ中西部の片田舎と日本の首都近郊という空間の隔たり。大きく隔たった2つの事件を「家族四人惨殺」という共通点でつないでみると、見えてくるものは何だろう。カポーティ版「冷血」の事件が起きた舞台はカンザス州の片田舎の町。教会を中心にしたコミュニティが生活の基盤となり、住人どうしはみんな顔見知りである。その小さなコミュニティに、遠く離れた町から古いシボレーに乗ったよそ者(コミュニティから疎外された人間)が、フリーウェイでやってきて殺人を犯す。いっぽう高村版「冷血」の舞台となるのは東京の郊外である。著者はインタビューで、舞台は「16号線沿線」であると語っている。パチスロ、サウナ、中古車の解体場、ホームセンター、コンビニ…。日本中のどこにでもあるような都市郊外の荒涼としたロードサイドが、犯人たちが生きている風景だ。被害者の裕福な一家も、閑静な住宅街に暮らしているが、地域のコミュニティとのつながりは希薄になっている。
家族。
カポーティ版では、被害者、犯人、そして周辺の人々を描く時も「家族」という軸で描かれているように感じられる。犯人のひとり、ディックを描く時も、あくまでも彼を愛し、かばい続ける両親の姿が痛々しい。その中でただ一人、ペリー・スミスだけが、家族のつながりから切り離され、負のスパイラルに陥って転落していった人物として描かれる。ペリーは知能も高く、詩を書いたり、ギターを弾きながら歌を上手に歌うことができた。事件の夜、彼は縛りあげた一家と心を通わせ、気遣う態度を見せながら、結局は残酷にも全員を殺害してしまう。彼をそのような残虐な殺人に駆り立てたのは、決して得られなかった「家族の絆」であると作者は言いたかったかのようだ。教会を軸にした地域のコミュニティ、尊敬される父を中心に、誰からも愛された家族の絆、一家をめぐる地域の人々…。そのつながりが緊密であればあるほど、それらからことごとく疎外されたペリーの孤独や憎悪の深淵が際立ってくる。高村版「冷血」では、被害者一家ですら、どこか空々しい家族として描かれているのが印象的だ。犯人に至っては、家族の存在は、犯人たちの人格を歪ませ、犯罪に駆り立てた元凶としてしか描かれていないように思える。そしてあらゆるつながりが失われ、断片化した郊外のロードサイド。第二部の警察による大規模な捜査のディテールも、どこか不毛な印象を受ける。上巻の帯にも引用された「この身もふたもない世界は、何ものかがあるという以上の理解を拒絶して、とにかく在る。俺たちはその一部だ」という言葉が高村版「冷血」を表現しきっている。
紛れもなくノンフィクションであること。
二つの「冷血」のいちばん大きな違いは何だろう。それは当たり前のようだがノンフィクションであることだと思う。いかにカポーティが優れた作家であろうと、フィクションで「冷血」のような傑作を創造することはできなかっただろう。ペリー・スミスという人物も、フィクションでは、ここまで存在感がある人物像は創り出せなかっただろうと思う。高村版「冷血」は、モデルとなる事件は無かったと著者は語っているが、個人的には、そこがちょっと不満な点でもある。21世紀になって、世田谷をはじめ、秋葉原の事件など、これまでになかったタイプの事件が起きている。それらの現実の事件を見据えながら、新しいフィクションを創り上げて欲しかった。「レディ・ジョーカー」のように。