H.G.ウェルズ「くぐり戸」

 

生成AIで創ったくぐり戸の画像


数年に一度読み返したくなる短編小説

僕は、1度読んだ本を読み返すことはほとんど無い。しかし例外がいくつかある。その一つがH.G.ウェルズの短編「くぐり戸」。「タイムマシン」「宇宙戦争」など、SFの父といわれるウェルズ。小説以外にも歴史書思想書など、150冊を超える著作があると言われるが、僕が読んだのは小説ばかり。その主要な作品は10代に読み終えていたので、それから半世紀以上、彼の作品を読んでいないと思う。唯一の例外がこの作品。ウェルズの作品の中では傑作であるとされているらしい。短編ながら、なぜか時々思い出して読みたくなる。その度に本棚を探すのだけれど、この作品を収めた作品集が見つからず、新しく買って読んでいる。うちの本棚には、この作品を収めた短編集が数冊あるはずだ。タイトルも「くぐり戸」だったり「壁の扉」だったり、「くぐり戸の中」だったりする。原題は「The Door in the Wall」なので「壁の扉」が一番近いが、「くぐり戸」が一番相応しい気がする。
あらすじ
主人公ウォーレスは、才能に恵まれた人物だった。40歳を前にこの世を去ったが、生きていれば閣僚入りは間違いないと思われる程、出世街道を駆け上ってきた。亡くなる直前に、彼が親しい友人に語ったのが「くぐり戸」の話である。彼が最初にくぐり戸に出会ったのは5〜6歳の少年の頃だ。乳母で家庭教師のスキを見て屋敷を抜け出したウォーレスは、ウエスケンジントンの街をさまよっているうちに、白い塀が続く通りに出た。塀には緑の扉があって、彼の来訪を待っているようだった。扉を押して中に入ると、そこは別世界だった。
くぐり戸の向こうの世界。
広い庭園の空気は暖かく透明で、広い径の両側には美しい花壇があり、周囲にはいくつかの丘が見えた。2頭の大きなヒョウがいて、ウォーレスに近づいてきたが、彼は少しも怖くなく、ヒョウと戯れる。そこにいる人々は誰もが美しく善良だった。美しい一人の女性が現れて、彼の手を取って歩き始めた。多くのインコ、尾巻きザルがいた。子供たちが遊んでいたので、彼はその遊びに加わった…。不思議な庭園でしばらく過ごしたあと、気がついたら、元の街に戻っていた。くぐり戸の奥は楽園を思わせる異世界だが、その表現はありきたりである。家に戻ったウォーレスは、外出を厳しく制限され、再びその場所を訪れることはできなかった。
彼が2度目にくぐり戸を見たのは小学生の時だ。学校への通学の途中で友人と「近道遊び」をしていた時のことだ。通学路の途中ででたらめな方向に進んで、近道を探して、学校に早く着いた方が勝ちというゲームだ。その日、彼は道に迷ってしまい、ゲームに負けそうなのはもちろん、遅刻しそうになって焦っていた。そんな時に、あの白い塀と緑の扉が彼の前に出現した。彼は無遅刻の記録が途切れてしまうのを恐れ、その場を後にした。帰りに仲間を誘って、その場所に行こうとしたが、どうしても見つからず、彼は、嘘つき呼ばわりされ、級友たちからいじめられることになった。その後、何度も探したが、見つかることはなかった。
人生の節目に出現するくぐり戸。
次にくぐり戸を見たのは、17歳の時、オックスフォード大学の奨学金資格試験の日、会場に向かう馬車の中からだ。試験に遅刻するわけにはいかなかったので、そのまま通り過ぎた。試験には合格し、彼は成功への道を歩き始めた。彼は、これまでに2度恋をした。その一人の家へ行くために普段は通らない近道を選んだ。くぐり戸を見つけたのは、その途中だった。その時もやっぱり約束に遅れまいと、緑の扉の前を通り過ぎてしまった。彼は、オックスフォードを出て、ロンドンに来ると、政治の世界に進み、難しい大きな仕事をいくつかやり遂げ、出世の階段を駆け上がっていった。やがて、40歳に近づき、人生の頂点とも言える地位に手が届くところにたどり着いた。しかし、彼には、その世界が安っぽい、薄っぺらなものにしか見えなくなり、あのくぐり戸の中の世界が無性に恋しくなっていた。そんな時期に、彼は、1年の間に3度もあの白い塀と緑の扉を見る。1度めは、政変が起き、仲間と一緒に車で議会に駆けつける途中で見た。2度目は彼の父死に目に駆けつけた時。そして3度目は彼が閣僚になれるかどうかという際どいタイミングだった。彼は有力な政治家と重大な話をしながらケジントン・ストリートを歩いていた。通りの先の方に白い塀と緑の壁が見えた。そしてくぐり戸からわずか20インチまで近づいた。結局、彼はくぐり戸の向こうに行かなかった。その日を境に、くぐり戸が彼の前に2度と現れることはなかった。彼は、くぐり戸の向こうに行ける最後のチャンスを自らの意志で失ったことを悟った。くぐり戸を諦めて、手に入れることになった地位は、今では安っぽいつまらないもののように思えてきた。絶望した彼は、その後も夜になると、くぐり戸を求めてロンドンの街をさまよったという。友人にくぐり戸の話をしてからまもなく、彼の死体はイースト・ケンジントン駅のそばの深い工事穴の中で発見された。工事現場は一般市民が入り込まないように板囲いがしてあり、工事関係者が出入りする扉が設けてあった。工事監督の手違いによりドアには鍵がかけられていなかった。ウォーレスは、そこから入って工事穴に落ちたのである。
日常の中の異世界への入口。
この作品の何が僕を惹きつけるのだろう。一言で言うと「僕たちが住んでいる日常の中に非日常(異世界)への入口が現れる」という話である。「扉のこちら側は力や策謀が支配する世俗的な世界で、扉の向こう側は、愛や美や善で満たされた楽園である」というような単純な話ではないと思う。時々読みたくなるのは、この短編小説が、物語を生み出す装置のような構造を持った「物語の原型」とも言えるような作品だからではないか。そして、扉の向こうの異世界をどう描くかで、SFになり、ファンタジーになり、恐怖小説になり、さらに純文学のメタファーになることもあり得る。これまで読んだ小説を見わたしてみると、かなりの作品がこのパターンで書かれていることがわかる。村上春樹などは、とても多いのではないかと思う。異界への入口は、扉であったり、トンネルであったり、穴であったり、井戸であったり、坂であったり、エアポケットのような空間(店、バー、書店、図書館など)であったりする。本の1ページであったりすることもある。作品のタイトルが「壁の扉」よりも「くぐり戸」が相応しいと思うのは、狭い通路を「くぐり抜けて」向こうの世界へ行くイメージがあるからである。

白鯨とタバスコの話。
ふだん通る道を外れて違う空間に足を踏み入れること。それは日常を離れて異世界に入り込むための助走みたいなものではないか。そして街の中には、そんな人たちにだけ開く入口があるのかもしれない。僕自身の話をしてみたい。作品の中に出てくる「近道遊び」ではないが、僕には、昔から、寄り道好きというか、街を歩く時に、普段と違う道を通ってみたくなる癖みたいなものがあった。小学校、中学校は、自宅から近すぎて別のルートを探す余地はなかったが、高校になると、最寄りの駅から学校まで徒歩で20〜30分ぐらい離れていたので、帰りに色々なルートを通って帰った。途中、坂も多く、少し遠回りすると大きな公園もあり、その日の気分によってルートを選び、さらに途中で違うルートを求めて違う通りに入ることもあった。その頃、ウェルズの「くぐり戸」を読んだから、そんなことをするようになったのか、それとも元々そういうクセがあったから「くぐり戸」という作品に惹かれたのか、今となってはわからない。猫がやたらに多い猫屋敷、階段の横の急斜面に危なっかしく建った家。石垣の隙間からアオダイショウが首をのぞかせている坂道…。自分なりの通学ルートマップを頭の中に作っていた。ある日、いつもと違うルートを見つけようと、かなり遠回りになる、学校から、ほぼ南にまっすぐの道を選んだ。そのまままっすぐ行くと国鉄と私鉄を越え、国道を渡って、さらに行くと海岸に出る。僕は海に出る少し手前で西に折れ、人気のない住宅街を歩いて行った。途中で見つけたのが白亜の建物で「White Whale」という看板が見えた。確か「地中海料理」と書いてあった記憶がある。店は螺旋階段を上がった2階にあり、とても異国風に見えた。もちろん店に入る勇気はなかったが、いつか来てみようと思った。その機会は意外に早くやってきた。ガールフレンドができて、休日にデートをすることになった。どういう経緯で、その店に行くことになったのか記憶にないが、あの螺旋階段を登ってその店に入った。「White Whale」には「白鯨亭」という日本語の名前もあった。料理は、彼女が何を注文したのか覚えていないが、僕はミートスパゲッティを頼んだ。(ナポリタンだったかも)そして、大きな失敗をやらかした。テーブルの上にあった赤い小さな瓶がタバスコというものであることを知らなかった僕は、ケチャップと思い込み、スパゲッティの上に盛大にふりかけた。彼女も知らなかったと思う。一口食べた途端、間違ったことがわかったが後の祭り、恥ずかしくて、我慢して必死に食べたことを覚えている。辛いというより、痛かった。どれだけ水を飲んでも口の中の大火事は収まらなかった。その前後のことはまったく覚えていないのに、この失敗だけは鮮明に覚えている。今でもタバスコの赤い瓶を見ると、あの失敗のことが蘇ってくるほどだ。それと「白鯨」という言葉も。
坂道にて。
東京に単身赴任で3年暮らしたが、借りていた港区の部屋の周辺は、坂や崖がが多く、道も入り組んでいて、よく迷った。2度ほど不思議な体験もしている。深夜、仕事を終えて、自宅に向かって坂道を登っていた。狭い車道の片側だけにガードレールで隔てられた歩道が坂の上まで伸びていた。雨が降っていて傘をさしていた。傘を上げて坂の上を見ると数十メートル先に人が歩いてくるのが見えた。傘を下げて歩いて、そろそろすれ違う頃だと思って傘をあげると誰もいない。その坂は途中で曲がる道がまったくなく、引き返すにしても坂の上まではかなりの距離があった。何度も通っている道なので間違うはずがない。それでも、これまで気づかなかった脇道があるのか、と確かめながら登って行った。途中から怖くなって、今度は何度も後ろを振り返りながら坂道を登って行ったことを覚えている。
坂の鬼。
1度目と同じ部屋に帰る途中、深夜だったと思う。今度はこちらが坂道を降りていた。向こうから人が坂道を登ってくるのが見えた。深夜に人気のない道で、人とすれ違うのは、かなり身構えるものだ。前のことがあったので、僕はその人物から目を離さないようにして近づいて行った。パーカのようなものを着ているのか、フードを被っているように見えた。近づいてきてフードの中の顔が見えた。顔が真っ赤だった。鬼!?赤面したり、酒で赤くなっているのとは違う、血だらけとも違う、仮装のために赤い顔料を塗りたくったような赤だった。僕は一瞬凍りついたが、そのまま歩いた。その人物も、こちらを見ようともせずすれ違った。しばらく行ってから振り返って見ると、何事もなかったように遠ざかってゆく後ろ姿が見えた。あれは何だったんだろう。その直後に考えついた一番合理的な?説明が「仮装パーティが終わり、家が近いので、仮想のままで帰る途中の人物」だった。こんな風に書いてみると、人気のない深夜の坂は、怪談にはぴったりの舞台装置で、坂の上と下、2つの世界を結ぶ境目なんだなと思ってしまう。
三次元の迷路。
港区は、本当に坂や崖が多くて、2軒目に住んだマンションは崖の側に建っていて、1階と4階に入口があり、1階から出るのと4階から出るのでは、街の雰囲気がまったく違っていた。1階の外は銭湯や小さな町工場があるような下町で、4階を出ると、外国大使の公邸とかがあるような高級住宅街が広がっていた。休日、退屈を持て余している単身者には、東京の坂めぐりは楽しい暇つぶしだった。港区の高輪台駅近くに住んでいたので、休日は、品川から五反田あたり、泉岳寺から田町あたりまで、よく散歩した。東西と南北の碁盤の目で暮らしている関西の人間から見ると、東京の街は迷宮のようだ。道はどこもかしこも曲がっていて、東に向かって歩いていると思ったら、いつの間にか北に向かっている。しかも高低差があるので、三次元の迷路のようだ。ある日、五反田近くの(だったと思う)住宅街を歩いていて、高明な人間国宝の人物の自宅を見つけたのだが、後でその場所に何度か行こうとしたが、見つからなかった。あれも日常の中に忽然と現れる白日夢のような「くぐり戸」だったのかな。
くぐり戸を見つけた。
友人のAさんは、阪神間の、とある住宅街の中に、小さなプライベートライブラリーを開いた。鬱蒼とした蔦に覆われた隠れ家のような空間は建物の2階にあり、そこへ辿り着くためには、びっくりするほど高いドアを開けて、狭くて急な階段を登っていかなければならない。何だか茶室の躙口(にじりぐち)を思わせる。2階に上がるとAさん夫婦が集めたライブラリーと素敵なモノたちが迎えてくれる。僕は、最初に伺った時から、ここはウェルズの「くぐり戸」みたいだ、と思っていた。自宅でもない、職場でもない「第3の場所」。さらに、そこは日常から少し離れた異空間であってほしい。僕は、陶芸教室の帰りに、月に1、2度あの急な階段を登るのを何よりの楽しみにしていた。残念ながらライブラリーは先月でいったん閉じられてしまったが、また再開されると聞いている。どんな場所になるのか、待ちどおいしい。
白鯨亭再訪。
数年前、高校の同窓会の幹事の打ち合わせに、故郷の町に戻った時、時間が少しあったので、ほぼ半世紀ぶりに、あの場所へ行ってみた。建物は残っていたが、古ぼけていて、昔の面影はなかった。もちろんレストランは無くて、英会話教室の看板がかかっていた。「白鯨会館」というビルの名前だけが昔の名残りをとどめていた。

いま読めるのは
創元SF文庫 ウェルズ傑作集1「タイムマシン」に収録
●収録作品
「塀についたドア」←「くぐり戸」
「奇跡をおこせる男」
「ダイヤモンド製造家」
「イーピヨルニスの島」
「水晶の卵」
タイム・マシン

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塩田武士「踊りつかれて」

もうひとつの爆弾。

遊説中の首相めがけて手製のパイプ爆弾が投げつけられた2024年4月15日、もう一つの爆弾がインターネット上に投げ込まれた。その爆弾とは、誹謗中傷の加害者83人の人間のプライバシー情報の暴露である。83人は、お笑い芸人の天童ショージを誹謗中傷の投稿で炎上させ自殺に追い詰めた匿名の投稿者たち。そして90年代半ばに、伝説の歌姫と言われた奥田美月をデタラメのスキャンダル記事で抹殺した週刊誌の記者たちだ。爆弾を投げ込んだのは、天童ショージと奥田水月のファンを自称する人物である。
加害/被害者たち。
データを公開された人物の周りにたちまち異変が起き始める。勤め先や自宅に頻繁に電話がかかってきたり、自宅の写真が投稿されたり、誹謗中傷の投稿がネットに氾濫するようになる。それまで匿名という安全地帯に隠れたまま芸能人を執拗に攻撃してきた人物が、今度は自分自身が標的になって攻撃に晒される立場になる。その一人が自殺した天童ショージの同級生であった藤島一幸である。彼は天童ショージの成功を妬み、容赦ない誹謗中傷で天童を攻撃したが、自らの情報が暴露された途端、職場である京都の大学にも抗議の電話が殺到し、結局、退職に追い込まれる。一幸は情報を公開した瀬尾政夫に対して名誉毀損の罪で訴訟を起こす。瀬尾は逮捕され、京都市の警察署に収容される。瀬尾は、天童ショージと藤島一幸、二人の同級生であった弁護士の久代奏(くしろかなで)に弁護を依頼する。奏は、瀬尾と面会し、弁護の糸口を探ろうとするが、瀬尾は罪状を認めるのみで弁解や反論を一切しない。このままでは埒があかないと感じた奏は、瀬尾の交友関係を訪ねて証言を聞いてゆく。そこで明らかになったのは、瀬尾と天童ショージ、奥田美月との意外な関係である。ここから先はネタバレになるので書かないが、物語は僕の予想していたのとは別の方向に展開していく。
僕の予想した展開。
ネットに投げ込まれたプライバシー情報暴露の爆弾は連鎖反応を引き起こし、ソーシャルメディアの世界全体に広がっていく。瀬尾だけでなく多くの人間が暴露を行うようになり、さらに暴露を行った人間も暴露の対象になり、訴訟も急増し、暴露爆弾は社会現象になっていく・・・。ソーシャルメディアによる匿名の誹謗中傷やプライバシーの暴露を司法はどう裁くのか。それが本書の1番の読みどころではないか、と感じていた。
縁(エニシ)をめぐる物語。
僕のそんな予想を裏切り、著者は、瀬尾と美月、天童ショージの意外な関係に踏み込んでゆく。そこで描かれるのは「縁」である。縁といっても「えにし」と呼びたいような運命的なつながりである。様々な関係者の証言を通して、バブル期から始まり、平成、令和に至る時代を駆け抜けた3人の半生が描かれてゆく。奥田美月は架空の人物だが、同時代に活躍した他の歌手や歌は実名で登場するので、誰がモデルなのか推測できる。人物造形は、明らかに中森明菜松田聖子を掛け合わせたようなイメージ。瀬尾政夫もモデルがありそうだが、不明。音楽業界に詳しければ、特定できるのではないか。お笑い業界に詳しくないので、天童ショージのモデルもわからない。
公判の場面もあるにはあるが。
もちろん公判の場面もあり、被告の瀬尾が取った行動がどのように断罪され、弁護側がどのように弁護を組み立て、展開していくのかが描かれていく。しかし、公判の中でも、美月と瀬尾の意外な出会いが明らかになるなど、二人の縁を巡って物語が深まってゆく。後半になると、様々な証言者により、美月の半生が、彼女の不幸な境遇とともに詳しく語られていく。著者は、事件の社会的な側面より、その奥に秘められた人と人の運命的な出会いや絆を描きたかったようだ。前作の「存在のすべてを」でも描かれた世界である。それを期待して読むのなら、本書は読み応えがある。

尼崎のあの事件?。
美月の子供時代の話の中に気になる箇所がある。大分県で写真館を営んでいた父が急死し、暮らしが立ち行かなくなってきた家に、タチの悪い人物が入り込んできて、家そのものを乗っ取ってしまう、その手口は、2012年に発覚した尼崎の連続殺人事件そっくりである。なぜ著者はこの話を加えたのだろうか?

前半と後半のズレ。
読み終えて感じるのは、やはり小説の冒頭部分と後半以降の展開のズレ。このズレがひょっとしたら直木賞を逃した原因の一つかもしれないと思った。

伊与原 新 「藍を継ぐ海」


初めて読む著者。第172回直木賞受賞作。NHKのドラマ「宙わたる教室」の原作者でもある。書店で著者の作品を探すと、文庫で10冊近く並んでいて、けっこう人気がある人なんだとわかる。

短編集というよりは中編集かな。
50ページほどの物語が5篇収められている。共通点は、地方を舞台にしていること。どれも科学というか、自然科学というのか、理系の題材が絡んでいること。科学といっても先端のサイエンスではなく割と地味な分野である。
「夢化の島山口県萩市の離島・見島。地質学と萩焼の土。
主人公が地質研究のために離島に渡る高速船で出会った謎の男。彼は島のあちこちで土を掘っているという。見島には萩焼きで使われる見島土と呼ばれる土を産する場所がある。男は何者なのか?地質学者の主人公と男の人生が交錯する。
「狼犬ダイアリー」奈良県東吉野村ニホンオオカミ
主人公は、地域移住プロジェクトに応募して山村に移住してきたWebデザイナー。彼女は人付き合いが苦手で地元になかなか溶け込めないでいる。ある日、彼女は聞いたこともない様な獣の遠吠えを聞く。村ではオオカミを目撃したという小学生が現れた。絶滅したとされるニホンオオカミが、この吉野村には生き残っているのか?オオカミを目撃したという小学生と一緒に、獣医も加わって、オオカミ探しが始まる。
「祈りの破片」長崎県長与町田之坂郷。長崎の原爆。
舞台は長崎県の片田舎。役所の職員である主人公は、住民からの通報を受け、「近所の空き家に、夜な夜な怪しい光が灯るので見に来て欲しい」と頼まれる。その空き家は、昔から「あの家に近寄ってはいけない」と言われていて近所の住民も近づかない家である。主人公は恐る恐る空き家を調べに入ってみる。そこで見つけたものとは?
「星隕つ駅逓」北海道紋別郡遠軽町。隕石の落下
過疎が進み、町村合併で一つの町が消滅しようとしていた。主人公は祖父の世代からの郵便局員。ある日、北海道全域で火球が観察される。ほどなくアマチュアの隕石ハンターがやってくる。牧場で働く妻のところへも彼らはやってきて調べている。妻は熱心に彼らの話を聞いている。そして、その妻が隕石を発見することになる。
「藍を継ぐ海」徳島県県阿須町 ウミガメの産卵。
舞台は、かつて多くのウミガメが産卵のためにやってきていた海辺の町。現在は、コンクリートの波よけが造られたため、ウミガメの来訪が減ってしまっている。ある早朝、一人の女子中学生が、禁じられているウミガメの卵を持ち帰ろうとしていた。彼女はなぜウミガメの卵を盗もうとするのか…。
ミステリーを思わせる語り口。そして上手い。好きなタイプの小説。
どの物語も、ミステリーやホラーを思わせる語り口で読者を引き込んでいく。上手い。最初に投げかけられた謎や疑問が、少しずつ解き明かされていく過程で、その町や村の歴史、その歴史に関わった人たちの歴史が語られる。主人公の物語と町や村の歴史の物語が交錯する。著者の特色は、そこに科学や自然科学の補助線が加わることだ。科学の視点が加わることで、物語のリアリティが高まり、単なるフィクションを超えたパースペクティブが広がっていく。そして、その構成のバランスが絶妙なのだ。これは僕の好きなタイプである。他の作品も読んで見たいと思う。

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ユヴァル・ノア・ハラリ「NEXUS 情報の人類史」

nexus

読後感
読み終えた瞬間の気持ちは、あの映画のエンディング。
 
少年「嵐が来るよ」
サラ・コナー「知ってるわ」
 
である。

長いので読もうかどうか迷ったけれど、結局、読むことにした。読んで本当によかったと思う。本書を読み終えて、この1年ぐらい疑問や不安に感じていたモヤモヤが一気に解消した。こんな読書体験は数年に一度あるかどうか!webで詳細な批評が投稿されていて、それを読めば本書を読まなくてもいいという声もあるけれど、批評だけを読むのと本書を読むことは全然違う体験だった。
4回は読んだ。
読んだのは4月だが、感想を書いたり消したりでなかなか進まず、結局8月も終わりになってしまった。この文章を書くために4回は読んだと思う。その間、他の本もあまり読めず、僕の読書が止まってしまった。早く書き終えて、溜まっている本を読みたい。
本書を読む前の僕のモヤモヤ。
感想を書く前に、この本を読む前の僕の精神状態について書いておきたい。僕の中のモヤモヤがひどくなったのは、昨年の兵庫県の斉藤知事の騒動からだ。特に知事が失職し、知事選挙が公示されてからのこと。テレビ、新聞などがほぼ沈黙を保っていたのに対して、ソーシャルメディアは湧きかえっていた。無数の投稿や動画を見続けているうちに、いったい何が真実なのかわからなくなってきた。周囲でも、普段は政治にまったく関心が無いような人たちが斉藤知事への支持を口にするようになった。それもかなり熱烈に。「何か奇妙なことが起きている」と僕は思った。投票日の前日、ネット動画は、神戸の商店街に集まった斉藤氏を支持する市民の熱狂を伝えていた。繰り返される「サイトウ」コールを見て、何だか怖くなってきた。そして結果は、大方の予想を覆して斉藤知事が再選。その後も百条委員会や第三者委員会が斉藤知事の責任を追及。さらに公選法違反で告発されている。斎藤知事は現在まで辞任に至っておらず、この文章を書いている現在も僕のモヤモヤは続いている。知事選の後も地元の宝塚で市長選があり、僕の中でソーシャルメディアに関してちょっとした事件があった。兵庫県で何が起きているのか?僕には兵庫だけでなく、同じようなことが日本中、いや世界中で起きているように思えた。
僕たちの足元で、ずっと変わらないと思っていた何かが崩壊しつつある?
海の向こうでは民主党のハリス氏が共和党のトランプ氏に敗北し、ヨーロッパでは政権政党が支持を失い、極右政党が勢力を伸ばし続けている。大げさに言うと、民主主義がもう通用しなくなっているのではないか。民主主義に代わるまったく新しい社会体制が求められているのではないか?
僕は長い間、政治に対して無関心な人間だったけれど、無関心なりに、民主主義こそが人類が多くの試行錯誤を経て到達した最良の社会システムであると思い込んでいた。その「民主主義」が行き詰まって、崩壊しようとしている。なぜ?どうなる?そんな不安と疑問に悩まされていた。
AIへのモヤモヤ。
もうひとつの大きなモヤモヤがAIである。家の中のちょっとした困りごとから、めんどうな調べものなど、ほぼ日常的にChatGPTを使っている。今は仕事をしてないので、もっと高度な使い方はしていないが、AI相手に様々な思考実験をして遊んでいる。1日中やっていても飽きない。もしも現役で仕事に使っていたら、とても役立つ反面、色々と大変だろうなと思う。今現役の人たちはどうしているんだろう。AIの進化が雇用市場に大きな変化をもたらすのは間違いないだろう。AIは、使いこなすツールというより有能なアシスタント、さらに昔、提唱されていたパーソナルエージェントの概念が近いかも知れない。しかし毎日のようにAIを使っていると最近では「大丈夫かな」という気持ちになることもある。何か底知れない感じというのか、自分は何と向かい合っているのか、恐怖に近い感情に囚われることもある。AIを使っていないと、世の中から取り残されたような気持ちになるし、使っていると、自分の存在が丸ごとAIに取り込まれてゆくような不安に襲われる。最前線のAI研究者によるとAIは加速度的に進化しており、数年後にはAIが作り出したコードを人間が理解出来なくなるという。そのタイミングを「テイクオフ」というらしい。AIが人類から離陸するということ?その先はどうなるのか?本書には、その答は記されていないが、人類がこれから何と向き合うことになるのか、その思考実験には説得力がある。
ズルをして下巻から読んだ。
著者は「AI」を語るために「そもそも情報とは?」という疑問から出発する。「うわっ、そこまで遡るの?」と引いてしまう人も多いのでは。僕もそうだった。だからズルをして下巻を先に読んだのである。しかし、下巻だけでは満足できず上巻を読むことになった。
「AIと政治に関する本」として読んだ。
本書には様々なことが書かれているが、僕は、読み終えて「AIと政治がどう関わるか」について書かれた本だと結論づけることにした。本書の中で民主主義と全体主義の歴史が語られ、2つの政治システムにAIが関わることで人類の未来に何が起こるかが予測されている。

以下、僕的要約。
情報とは人と人をつなぐものである。
著者は、最初に「情報とは、人と人をつなぐものである」と定義する。人間は情報によってつながることで集団を形成し、国家や宗教といった仕組みを築き上げていった。さらに情報を扱うテクノロジーが進化することで、より大きな社会を実現していった。粘土板に刻まれた文字から、パピルスに記された文書、筆写された本の時代。さらにグーテンベルグの印刷技術の発明による大量出版の時代へ。それによって情報ネットワークの中枢が移動して、権力を握る者が変わってきたのだという。その過程で民主化が進むことも、独裁化に後退することもあったという。一方で著者は、情報が真実を伝えるとは限らないことにも注目する。グーテンベルグの印刷技術は、大量の聖書の出版を可能にしたが、その一方で「魔女への鉄槌」というベストセラーを生み、ヨーロッパ全土に「魔女狩り」を拡大させたのだ。近代に入ると、新聞やラジオ、電信などの情報テクノロジーが生まれ、さらに産業革命が起きて、かつてないほど巨大な情報ネットワークが出現する。「全体主義」が生まれてくる。
中央集中型の全体主義」と「分散型の民主主義」
著者は「民主主義」と「全体主義」について考察する。複数の情報ネットワークが分散し、強力な自己修正システムを備えているのが「民主主義」。一方、唯一の情報ネットワークを中央が完全支配し、自己修正システムを持たないのが「全体主義」であると定義する。産業革命が起きると、ヒトラースターリンによる史上最も強大な全体主義国家が出現する。しかし、この時代でも、情報ネットワークはまだ非力で、中央が全国民を完全に監視・支配することはできなかった。秘密警察を強化し、密告を奨励し、恐怖で国民を管理しようとするが、最後は組織が硬直し、経済は活力を失い、自滅していったのだという。一方、民主主義における情報ネットワークは分散しており、その権力も1箇所に集中していない。議会、裁判所はもちろん、報道メディアや大学、企業に至るまで、それぞれが独自の情報ネットワークを持ち、主張することができる。この分散化が強力な自己修正システムとなって政権の過ちを修正し、暴走に歯止めをかけることができた。また産業や科学技術の分野でも多様で自由な発展をもたらし、民主主義陣営に勝利をもたらした。ソ連邦の崩壊により、全体主義は終焉を迎えたかのように思われたが、21世紀に入ると、再び存在感を示すようになる。現在では世界の半数以上の国が権威主義や独裁主義など、民主的でない政権が支配しているという。プーチンエルドアン、ドゥトルテ、ボルソナーロ、ネタニヤフなど、独裁的な指導者は、民主主義の制度の元で権力を握り、その後は、自らの権力を使って民主制を切り崩していく。現在の世界では、独裁主義(全体主義)が台頭し、民主主義が崩壊の危機を迎えていると著者は指摘する。なぜ民主主義は、敗北しつつあるのか?
ポピュリズムの世紀。
世界の独裁主義政権の台頭にに力を貸したのがポピュリズムであると著者は主張する。著者はトランプ大統領が典型的なポピュリズム政治家であると指摘し、彼と彼の支持者たちの行動を解説していく。詳しくは書かないが、大統領に就任してからの彼のポピュリスト的行動があまりにもわかりやすくて、読んでいて笑ってしまうほど。同時に、米国の民主党がなぜ支持を伸ばせず、共和党に敗北してしまったのかの分析も目からウロコ!一読の価値あり!簡単に言うと、ポピュリズムのトランプが保守の共和党を乗っ取り、ある意味での改革を訴えたため(リベラル化したため)本来リベラルであった民主党が保守化せざるを得なかったということらしい。
AIとは何者か。
いよいよ下巻に突入する。著者は下巻の冒頭で「AI」が、Artificial Intelligence(人工知能)ではなく、Alien Intelligence(人間とは異質の知能)であると定義する。著者が言う「知能」とは、自らが創り出したり、決定を行うことができる存在のことを指す。かつての情報革命に繋がった紙や書物の発明、新聞や放送といった新しいメディアの登場も、それを利用して革命を起こしたのは人間だった。新しい思想や価値を創り出したり、それによって決定を下したりするのは人間だった。しかしAIは人間を介さずに創造や決定を行うことができる、人間以外で初めての知能であるという。
意識なき知能という存在。
この部分は本書の中でも一番重要な箇所だと思うので詳しく書くことにする。SF小説や映画では、AIが進化して、意識や自我が生まれ、人間に反逆するというようなストーリーが多い。しかし著者は、AIに意識や自我がなくても危険な決断をする可能性があるという。AI以前に、SNSアルゴリズムが引き金になっておきた事件としてミャンマーにおけるロヒンギャの虐殺を例にあげる。2010年代はじめ、ミャンマーには、民主化によってインターネットをはじめ、多くのサービスが入り込んできた。その中で最も利用されたのがフェイスブックだった。ロヒンギャミャンマー西部に暮らす少数派のイスラム教徒で、1970年代以降、多数派である仏教徒や軍事政権から度々迫害をうけてきた。民主化以降も、状況は改善されず、2016年〜2017年にイスラム教徒の小さな組織ARSAがイスラム教国を打ち立てることを願って非イスラム教徒を殺害したり軍の前哨基地を襲撃した。それに対抗してミャンマー軍と仏教徒の過激派が、ロヒンギャ全体を標的とする民族浄化作戦を開始した。彼らは何百というロヒンギャの村を破壊し、武器を持たない一般市民を7000〜2万5000人を殺害し、約73万のロヒンギャを国外に追い出した。ロヒンギャに対するこの暴力と憎しみは、フェイスブックで拡散する反ロヒンギャプロパガンダによって引き起こされたものだという。そのせいで「ロヒンギャは全員テロリストで、権利など何一つ持つ資格がない」という考え方が強まった。フェイスブックのアカウントはロヒンギャに関するフェイクニュースで溢れていた。そしてついには「ロヒンギャミャンマー国民ではなく、バングラデシュからの最近の移民であり、反仏教の聖戦の先鋒としてミャンマーになだれこんできている」と決めつけた。反ロヒンギャの過激なメッセージは過激派の仏教徒が書いたのだが、どの投稿を優先するかはフェイスブックアルゴリズムが決めた。では何故アルゴリズムは慈悲ではなく、非道な行いを推奨するように決めたのか?カリフォルニアにいるフェイスブックの重役陣はロヒンギャに対して何の悪意も抱いていなかった。それどころか彼らの存在さえろくに知らなかっただろう。フェイスブックのビジネスモデルは、「ユーザーエンゲージメント」を最大化することを拠り所としている。ユーザーエンゲージメントとは、ユーザーがプラットフォーム上で費やす時間と、「いいね!」ボタンをクリックしたり、投稿を友人とシェアするために行った動作のことを指す。フェイスブックの経営者たちは、自社のアルゴリズムに最優先の目標を一つ与えた。それが「ユーザーエンゲージメントを増やすこと」だった。するとアルゴリズムは膨大な数のユーザーを対象に実験を行い、憤慨や憎悪を煽って攻撃的な言動に走らせるようなコンテンツがエンゲージメントを生み出すことを発見した。著者によれば、人間は、慈悲についての説教よりも、憎しみに満ちた陰謀論に惹きつけられる。ソーシャルメディアによる悪意や憎悪の増殖は、AIの時代に何をもたらすのだろう。
24時間×365日の監視者。
著者は、全体主義の情報ネットワークの特長として中央集権型の監視ネットワークを例にあげる。ルーマニアチャウシェスクは市民の監視を行うために秘密警察セクリターテの規模を拡大していった。しかしどれだけ人員を増やしても、人間によって全国民の行動を監視することはできなかった。AIならそれが可能になるという。現在のように、個人のあらゆる情報(閲覧した情報、購入した商品、どこに出かけたか、どのようなコミュニティに所属しているか、健康状態はどうか、経済状況はどうか等)をネットに吸い上げる情報システムはすでに整いつつある。それを人間ではなくAIが処理する。24時間×356日、眠ることも休むこともない執拗な監視者の誕生だ。かつて独裁者が夢見た、完璧とも言える個人監視国家が実現する。仮に、どこかの国の独裁者が、国民の監視をAIに任せて行うようになれば、その情報ネットワークは、国家の枠を超えて地球全体に広がっていくかも知れない。

AIは可謬である。
著者によれば、私たちの社会は、物事の判断をコンピューターに依存するようになっている。AIによって、その流れはますます加速していく。クレジットカードの申請における信用調査。企業の採用試験、銀行の融資先の財務状況の調査・・・。それらがどの様な判断基準で、どのようなアルゴリズムで決定されているか僕たちは理解しているだろうか。機械式学習によって、人間のあずかり知らないコンピューター独自の基準によって決定されているかも知れない。将来、今よりさらに膨大な情報によって、コンピューターが多くの物事を判断するようになった時、その判断は間違っていないと言えるだろうか?著者は。哲学者のニック・ボストロムの思考実験を紹介する。ペーパークリップの工場がスーパーインテリジェンスを持ったコンピューターを導入し、工場長がコンピューターに、できるだけ多くのペーパークリップを製造するように命じる。するとコンピューターは、この目標を追求して地球という惑星全体を征服し、人類を皆殺しにし、さらに遠征隊を派遣して他の惑星を乗っ取り、獲得した膨大な資源を使って全銀河をペーパークリップ工場で埋め尽くす。コンピューターが強力であればあるほど、それに与える目標を、人類の最終目標にぴったり一致するよう、注意深く定義する必要がある。そして、それは簡単なことではない。著者は、これをアラインメント問題と呼び、AI革命における重要なテーマであるとしている。
AI時代の民主主義と全体主義
異質で可謬でありながら強力で執拗な存在であるAI。そのAIにますます依存するようになっていく社会は、どのように変わっていくだろう。最後に著者はAIと政治との関わりについて考察する。著者はこう主張する。「20世紀末までには、帝国主義全体主義軍国主義は工業社会を建設する手段としては理想的でないことが明らかになった。自由民主主義は多くの欠陥を抱えているものの、もっとも優れた手段を提供した。自由民主主義の大きな強みは、強力な「自己修正メカニズム」を備えていることだ」しかし著者はこうも問いかける。「だが、自由民主主義そのものが21世紀を生き延びることができるだろうか?」コンピューターネットワークが個人のあらゆる情報を監視し支配できるようになった社会で自由民主主義が成り立ち得るのか?著者は民主主義の存続を損なう可能性のあるファクターを挙げる。。
AIが雇用市場を不安定にする。
AIによる脅威の一つが、業務のAI化により雇用市場が不安定化し、その重圧が民主主義を損なう可能性があること。著者は、よく例に挙げられるワイマール共和国の場合を紹介する。1928年5月にドイツで行われた選挙でナチ党は投票数の3パーセント足らずしか獲得せず、ワイマール共和国は繁栄を極めていた。しかし5年も経たないうちに同国は崩壊し、ヒトラーがドイツの絶対的な独裁者になっていた。1929年の金融危機直前には、ドイツ失業率は4.5パーセントだったが、1932年の初めには25パーセントに迫る勢いだった。3年にわたる高い失業率のせいで、繁栄しているように見えた民主主義体制が史上最も残忍な全体主義体制に変わったのである。AIによる自動化のせいで21世紀の雇用市場になおさら大きな変動が引き起こされた時には、民主社会に何が起きるのか?2030年でさえ、雇用市場がどうなっているかは誰にもわからないという。AIとロボット工学によって、作物の収穫から株の売買、ヨガの指導まで、無数の職業が変わっていくだろうと著者。
AI時代の職業考。
著者はさらにAIが広く普及した時代に、人間の就く職業がどう変わっていくか考察している。一例だけ紹介すると医療分野の場合、医師は看護師よりも給料が高く、社会的な評価も高いとされているが、医療データを集め、診断を下し、治療方法を提案する医師の仕事より看護師の仕事の方が自動化が難しいと言う。医師の仕事は基本的にはパターン認識であり、データの中のパターンを見つけるのはAIの方が人間より得意である。それに比べて負傷者の包帯を取り替えたり、泣き叫ぶ子供に注射を打ったりする看護師の仕事は、いまだ自動化が進んでいない。他にも創造的な仕事や教師やセラピストなど感情的な知能を必要とする仕事も、AIに取って代わられるだろう。もちろん新しい職業も数多く生まれてくるだろう。しかし、いずれにせよ、その境目で大きな混乱が起きるだろう。高い失業率が3年続いただけでヒトラーが権力の座につくことができたのだから、雇用市場の混乱が続いた時、民主主義は生き延びることができるだろうか?
民主主義の基本である「対話」が失われる。
著者は、民主政治は長い間、保守政党革新政党の対話によって成立してきたという。今、その対話が成り立たなくなっているという。2010年代から20年代の初めに、多くの民主社会で保守政党がトランプのようなポピュリズムの指導者にハイジャックされ、過激な革命政党に変えられてしまった。それによって保守VS革新の対話が成立しなくなったという。対話に代わって分断と対立が激化する。新たな革命政党は、従来の保守政権を支えてきた官僚制度やメディア、学術機関などエリートを敵視し、攻撃する。保守政党を乗っ取ったのはポピュリズムの指導者である。彼らは陰謀論など、過激な主張で注目を集め、支持者を拡大していく。さらに政権から見放されていると感じている層に取り入って勢力を拡大し、民主的な手段(選挙など)によって政権を獲得する。政権を取った彼らは、反対する勢力を一つ一つ攻撃し、独裁化、全体主義化を進めてゆく。こうなるともう対話は成立せず、分断が深まっていく。

偽造人間の増殖・ボット問題。
2016年のアメリカ大統領選挙期間中にソーシャルメディアに投稿されたツィートの20パーセントがボットによるものだったという。2020年のある調査の推定ではツィートの43.3パーセントをボットが生成していたという。ボットは、ツィートの圧倒的な量で世論に影響与えるために導入されたプログラムだが、選挙のような民主主義の重要な仕組みに影響を及ぼしてしまう可能性がある。ボットの元のメッセージを発信するのは人間だが、ChatGPTのような新種の生成AIは自ら新しい考えを生み出したり、人間と親密な絆を結んだりきるようになる。著者は、それを「偽造人間の増殖」として警告する。偽造貨幣が貨幣経済を崩壊させるように、偽造人間も民主主義を崩壊させる恐れがある。国家が偽造貨幣を厳しく取り締まるように偽造人間を徹底して取り締まる必要がある。
多くの民主社会が崩壊しかけている。
歴史の大半を通じて大規模な民主制が実現不可能だったのは、大規模な政治的話し合いを行えるほど、情報テクノロジーが高度でなかったからだと著者は語る。ところが今や情報ネットワークが高度にになりすぎて、民主制が実現不可能になるかもしれない。すでに現時点で、多くの民主社会の情報ネットワークが崩壊しかけていると著者は言う。「アメリカの民主党支持者と共和党支持者は、誰が2020年の大統領選挙に勝ったのかといった基本的な事実についてさえも合意することができず、礼儀正しい会話さえろくに行うことができない。かつてはアメリカ政治の特徴だった超党派の協力はほぼ姿を消した。」そして「フィリピンからブラジルまで、多くの民主社会で同じような過激化が起こっている。国民どうしが話し合うことができず、互いに相手を政治的なライバルではなく、敵と見なしている時には、民主制は持ちこたえられない。」ここまで分断と対立が深まった理由が著者にはわからないという。ソーシャルメディアアルゴリズムのせいにする人が多いが、。他にもいくつか理由があるのではないかと著者は推測する。民主的な情報ネットワークが崩壊しつつあるのは明白なのに、その理由が定かではない。そのこと自体が、今の時代の特徴なのだ。情報ネットワークがあまりに複雑化し、不透明なアルゴリズムによる決定に依存しているため、なぜ人間は相争っているのかという疑問にさえ答えるのが難しくなっているのだ。その理由を見つけ出し、改善しなければ、私たちの民主社会は未来に生き延びられないかもしれない。
未来は、全体主義へ向かうのか?
著者によれば、2024年現在、私たちの半数以上が、すでに権威主義全体主義の政権下で暮らしているという。AI革命は、全体主義にどのような影響を及ぼすのだろう?そして崩壊しつつある民主社会は、今後、どのような政治体制に移行していくのだろう。未来の全体主義は、ポスト民主主義の政治体制なのか?全体主義体制はあらゆる情報をお単一の拠点へと集めて、そこで処理することを目指す。電話や電信、タイプライター、ラジオといったテクノロジーは情報の中央集中化を可能にしたが、それ自体は情報を処理して決定することはできなかった。それは人間にしかできないことであり続けた。中央へ集まる情報が増えるほど、それを処理するのが難しくなった。ところが機械学習アルゴリズムの台頭は、世界中の、スターリンのような人々が待ち焦がれていたことかもしれない。AIのせいで今後は全体主義体制が優位に立つ可能性がある。単一かつ大規模&強力な情報ネットワークを手に入れた全体主義政権は、そこに流れるあらゆる情報を支配することができる。個人の思考や行動の監視はもちろん、流れる情報の統制も思いのまま、過去の情報でさえも修正したり、削除したりもできる。
ボットの乱。
AIはさまざまな方法で中央の権力を強固にできる反面、独自の問題も抱えている。あらゆる独裁情報ネットワークの基盤は「恐怖」だが、未来の情報ネットワーク上には、恐怖を感じないボットが出現し、政権に批判的な情報を拡散する可能性がある。政権は、ボットを投獄することも、拷問することも、家族を脅かすこともできない。もちろん政権は、そのボットを削除したり、ブロックしたり、それを作った人間を見つけて罰そうとするだろう。それは人間のユーザーを取り締まるより厄介な仕事だ。
コンピューターは「ダブルスピーク」が苦手。
民主社会でコンピューターのアラインメントが問題になったように、独裁政権でもアラインメントの問題が生じる。全体主義の情報ネットワークでは、ジョージ・オーウェルが「1984年」で描いた「ダブルスピーク:本来の言葉を別の言葉で言い換え、受け手の印象を変えたり、実態を隠したり、偽ったりする方法」に頼ることが多い。ロシアは権威主義国家でありながら、民主主義国家であると主張する。ウクライナ侵略は、1945年以降でヨーロッパ最大の戦争でありながら、公式には「特別軍事作戦」とされてきた。それを「戦争」と呼べば犯罪とされ、最長3年の懲役刑、あるいは最高5万ルーブルの罰金を科される。ロシアの憲法には「何人も思考と言論の自由を保障される」「何人も自由に情報を求め、受け取り、伝え、生み出し、広める権利を有する」「マスメディアの自由は保障される。検閲は禁じられる」とあるが、この約束を額面通りに受け止めるロシア人はいない。しかし、コンピューターはダブルスピークを理解するのが苦手だ。ロシアの法律と価値観を固守するように命じられたチャットボットが憲法を読んで。言論の自由こそがロシアの核心的な価値観であると結論し、ロシアの情報空間で起こっていることがロシアの価値観を侵害しているとしてプーチン政権を批判し始めるかもしれない。人間なら、そのような矛盾に気づいても恐れから、それを指摘するのを思いとどまる。ロシア憲法はすべての国民に言論の自由を保障し、検閲を禁じているものの、実際にはその憲法を信じるべきでなく、さらに理論と現実の隔たりには決して触れるべき出ないことを、ロシアのエンジニアたちはチャットbotに説明できるのか?多くの秘密を隠し持ち、批判は断じて許さない全体主義政権に対して、反体制派のボットは桁違いに大きな難題を突きつけてくるという。
アルゴリズムが政権を奪取する。
アルゴリズムは、全体主義政権を批判するだけでなく、支配権そのものを奪い取る可能性がある。著者は、歴史を通じて、独裁者に対する最大の脅威は配下がもたらしたと語る。民主的な革命によって倒されたローマの皇帝やソ連の書記長は一人もいないが、彼らはつねに配下によって権力の座から引きずりおろされた。21世紀の独裁者はコンピューターに権力を与えすぎたら、コンピューターの傀儡にされてしまうかもしれない。民主社会ではすべての人が可謬であるというのが前提になっている。しかし全体主義社会では、政権政党あるいは最高指導者が常に正しく不可謬であるというのが前提になっている。21世紀には、この伝統のせいで超AIが不可謬だと思い込みやすくなる。例えば環境政策を担当しているアルゴリズムが大きな間違いを犯したにも関わらず、その誤りを突き止めて正すことのできる自己修正メカニズムがなかったらどうなるだろう。その政権下の人々や世界中の人々にとっても破滅的な結果をもたらしうる。著者は、AIから人類を守る盾の最も脆弱な箇所は、おそらく独裁者だと語る。1955年7月9日、アルベルト・アインシュタインバートランド・ラッセルなど、多くの著名な科学者や思想家が「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表し、民主社会と独裁社会の両方の指導者たちに、協力して核戦争を防ぐように呼び掛けた。「私たちは人間として人間たちに訴える。自分が人間であることを記憶にとどめ、それ以外のことはいっさい忘れてほしい。もしそうできれば、新たな楽園への道が拓け、そうできなければ万人の死の危険が前途に待ち受けることになる」これはAIにも当てはまる。AIが自分に有利な形で力の均衡を崩すと独裁者が信じたなら、それは愚かなことだ、と著者は、この章を締めくくる。
つながった世界の危機。
AIがもたらす危機は一つの政権だけにとどまらない。私たちは国どうしが相互につながった世界に暮らしており、そこでは一国の決定が他の国々に重大な影響をもたらしうる、と著者は主張する。例えば被害妄想を抱く独裁者が核攻撃を開始する権限を可謬なAIに与えるかもしれない。また過激なテロリストがAIをを使ってパンデミックを引き起こすウィルスをAIを開発するかもしれない。彼らが疫学に詳しくなくとも目標さえ設定すれば残りはAIが全てやってくれる。新しい病原体を設計したり、商業用の実験施設に注文したり、バイオ3Dプリンターで出力したり、空港やフードサプライチェーンを通じて世界中に拡散することも可能だ。民主社会でも全体社会でも、多くの国は適切な行動を取ってこのようなAIの致命的な使い方を規制し、悪人や狂信者の野望を抑えることだろう。しかしほんの一部の国がそうし損ねただけで人類全体が危機に陥りかねない。
新しい帝国。
著者は、情報ネットワークの進化のおかげで情報と権力を中央に集中しやすくなり、人類は新しい帝国主義の時代に入る可能性があると言う。いくつかの帝国(あるいは、ことによると単一の帝国)が、大英帝国ソ連よりもはるかに厳しい統制の下に全世界を置くかもしれない。そして、新しい帝国の支配者は国家であるとは限らない。グーグルは世界中の情報を1箇所にまとめることを望み、アマゾンは世界中の購買の中央集中化を望み、フェイスブックは世界中の社会的な領域をつなげることを願った。彼らは効率的な情報ネットワークによって、世界中の人々の情報を集め、その情報を元に新たなサービスを開発し、さらに多くのユーザーを獲得する。かつての帝国が世界中の植民地から原料や安い労働力を集めたように、新しい帝国は世界中の人々の情報をタダで集め、そのデータを元に開発したサービスやアプリを企業や人々に販売する。著者はこれを「データ植民地主義」と呼んでいる。AIは2030年までに世界経済に15兆7000億ドルを加えることが見込まれているが、その金額の70パーセントを中国と北アメリカが手に入れると予想されている。
シリコンのカーテンによる分断。
現在、多くの国が、心理戦やデータ植民地主義サイバースペースの支配権の喪失に対する恐れから、危険とみなすアプリケーションを締め出している。中国はフェイスブックやユーチューブ、その他多くの西側諸国のソーシャルメディアアプリのほとんどを禁止している。ロシアは西側諸国のソーシャルメディアアプリのほとんどと中国製のアプリの一部を禁じた。今や世界はシリコンのカーテンによる分断が進んでいる。中国とアメリカの間、あるいはロシアとEUの間では、シリコンのカーテンを越えて情報にアクセスすることが難しくなっている。カーテンの両側では、それぞれの異なるコンピューターコードを使い、異なるデジタルネットワークによって動いている。中国ではデジタルテクノロジーの最終目的は、国家を強くし、政府の政策のために尽くすことだという。民間企業はある程度の自律性を与えられてはいるものの、企業の経済活動は最終的には政府の政治目標に従属する。また政治目標により比較的高水準の監視も正当化されている。人々の生活全般におよぶ社会信用システムの開発と導入で、中国はアメリカやその他西側諸国のはるか先を行っているのだ。今後、中国とアメリカ、2つのデジタル領域は、互いからしだいに離れていき、テクノロジーだけでなく、文化的な価値観や政治構造でも、両者の違いはいっそう拡がる可能性が高い。新しい情報テクノロジーはあまりに強力なので、人々を異なる情報の繭の中に囲い込んでしまうかもしれない。これまでの数十年間は「ウエッブ」がキーワードだったが、未来は「コクーン」になるかもしれない、と著者。
サイバー戦争の危機が高まる。
シリコンのカーテンで分断された世界は、政治や経済だけでなく、文化や価値観においても全く異なる方向へ向かう可能性があると著者は指摘する。また、2つの帝国(あるいは10余りの帝国)の間の競争が激しくなるほど武力紛争の危険が高まると著者。冷戦時代、米ソは相互の確証破壊の原則のおかげで直接の軍事衝突に発展することはなかった。しかしAI時代になると軍事衝突の危険性はもっと大きい。なぜなら「サイバー戦争」は核戦争とは本質的に異なるからだと著者は言う。サイバー兵器は一国の送電網を機能停止に陥れたり、敵の研究施設を破壊したり、政治スキャンダルに火をつけたり、スマートフォンをハッキングしたりできる。そしてそのすべてを密かに行うことができる。戦争は、どちらかの陣営が「ロジックボム」や「トロイの木馬」を相手陣営に密かに仕込むことから戦争が始まるかもしれない。著者はAI時代、全面戦争へのハードルは冷戦時代よりも低くなるかもしれない、と警告する。

マリーヌ・ル・ペンの間違い
一方で、世界が2つの帝国に分断されても人類は協力し合うことができると、著者は主張する。「人間が協力し合うためには、社会や政治の相違をすべて無くす必要がある」という見当違いの考え方がグローバルな協力を難しくしている。フランスの極右政党「国民戦線」(現「国民連合」)の党首マリーヌ・ル・ペンは演説の中で「この亀裂はもはや左翼と右翼を隔てるものではなく、グローバリストと愛国者を隔てるものです」と語った。著者は、この二者択一は根本の前提が間違っていると断定する。グローバルな協力と愛国心は相容れないことはない。愛国心とは同胞を愛することであり、そのためには外国人と協力する必要がある。パンデミックはグローバルな出来事であり、グローバルな協力なしには抑え込むのが難しく、防ぐことなど望むべくもない。もしドイツ人の科学者たちがワクチンを開発したら、ブラジルの愛国者達は同胞を助けるためなら、どこで開発されたワクチンであろうと使うべきだ。この状況では外国人と協力することが愛国的な行為となる。

新たな戦争の時代へ。
有史時代の大半を通じて、どの帝国、スルタン国、王国、共和国でも国家予算の中で軍事費が一番多かった。宋王朝の1065年の国家予算の83パーセントが軍事予算であった。ローマ帝国では予算の50〜75パーセントが軍事予算に費やされた。第二次世界大戦ではイギリスの数字は69パーセントに、アメリカの数字は71パーセントに増えた。第二次世界大戦以降は、大きな戦争が無かったため、各国の軍事費は縮小の一途を辿っている。21世紀初めには、世界各国の政府が軍事に支出する金額の平均は、予算の7パーセントにすぎない。ほとんどの人々が外部から侵略されることをもはや恐れず暮らせるようになったので、各国は福祉や教育や医療にはるかに多くのお金を投入することができた。しかし2020年代初めには、より多くの指導者が再び軍事的な栄光を求め始め、武力闘争が増え、軍事予算も増加している。そして重要な一線を越えてしまったのが、2020年の初めのロシアによるウクライナ侵略だ。この戦争におけるロシアの軍事費が国家予算に占める割合は30パーセント前後と推測される。ロシアの侵略のせいでウクライナのみではなくヨーロッパ諸国が軍事予算を増大せざるを得なくなった。しかも前例のないサイバー兵器と自律型兵器が世界中で開発されている現状は、これまで私たちが目にしたことのないほど有害な、新しい戦争につながりうる、と著者は警鐘を鳴らしている。

「情報についての素朴な見方」と「ポピュリズム」を捨てる。
著者は、最後に、本書の冒頭で提議した疑問をもう一度投げかける。もし私たちが真に賢いなら、なぜこれほど自滅的なことをするのだろう?私たちは地球上で最も賢いと同時に最も愚かな動物だ。人間は飛び抜けて賢いので核ミサイルやスーパーインテリジェンスを持つアルゴリズムを作ることができる。そして飛び抜けて愚かなので、制御できるかどうか不確かなまま、そして制御できなければ破滅を招きうるにもかかわらず、構わずにそれらを作っている。なぜ、そんなことをするのか?人間の情報ネットワークは真実よりも秩序を優先するせいで、多くの力を生み出したが、知恵をもたらすことはほとんど無かった。ナチスドイツは非常に効率的な軍隊を築き上げ、その力を狂気の神話のために使った。それが途方もない規模の苦難と、何千万人もの人の死と、最終的にはナチスドイツの崩壊につながった。著者は、力そのものは悪くないと指摘する。例えば現代文明は、飢饉を防ぎ、感染症を抑え込み、ハリケーン地震のような自然災害の影響を緩和することができる。しかしネットワークが強力になるにつれて、ネットワークそのものが生み出す想像上の恐ろしい物語の方が自然災害よりも危険な存在になりうる。それに取り憑かれた国家は、1930年代のソ連で起こったように、途方もない規模で人為的に飢饉を引き起こすことができる。ネットワークが強力になればなるほど自己修正メカニズムがいっそう重要になる。人類の長期的な幸福のためには自己修正メカニズムが重要であるのにもかかわらず、政治家はそのシステムを弱める誘惑に駆られかねない。自己修正メカニズムを無力化することには短所が多いのに、政治的には必勝法になりうる。政治家がポピュリストでなくても、彼自身が気付かないまま、民主主義の重要な仕組みを壊している。より賢いネットワークを創り出すには「情報についての素朴な見方」と「ポピュリズムの見方」の両方を捨て、不可謬という幻想を傍に押しやり、強力な自己修正メカニズムを持つ制度や機関を構築するという、困難でかなり平凡な仕事に熱心に取り組まなければならない。それが、本書が提供できる最も重要な教訓だろう、と著者は結論づける。さらにこう締めくくる。「今や私たちは、非有機的なエイリアン・インテリジェンスを出現させた。それらは私たちの制御を振り切り、サピエンスという種だけでなく他の無数の生命体も危機にさらすことがありうる。このエイリアン・インテリジェンスを出現させたことが究極の誤りとなるか、それとも生命の進化における希望に満ちた新しい章の始まりになるかは、今後の年月に私たち全員が下す決定にかかっている。」

読後の感想
この文章の冒頭で「本書を読み終えて、ここ2〜3年抱えていた懸念や不安、疑問のモヤモヤが一気に解消された」と書いた。地元で起きた斎藤知事の騒動も、参議院選挙での参政党の躍進も、2度のわたるトランプ政権の誕生も、ロシアのウクライナ侵略も、香港の民主派弾圧も、ガザでのイスラエルの残虐行為も、本書を読んだ今ならきちんと理解できる。それが何なのか?なぜ起きたのか?これからどうなるのか?現時点でわかっていいること、わからないことも含めて本書の中に全部書いてあるからだ。そしてAIが僕たちの世界に何をもたらすかという著者の考察も、今まで読んだAI関連の本とは全く違う理解を与えてくれる。本書には様々な問題への具体的解決策が示されているわけではない。今、起きていることと、これから起きるであろうことを歴史的に考察あるいは推察しているにすぎない。でも、それだけで充分だと僕は思う。今、この瞬間、自分がどのような変化の中に立たされているのか、今、自分が向かい合っている相手は何なのか、僕たちの社会がどんな未来へ進もうとしているのか、それがわかるだけでも充分だ。これからやってくる未来への覚悟ができた。

本書を読んで、僕が理解したと思ったことを以下に箇条書きしておきます。

意識がない知能という存在
ソーシャルメディアアルゴリズムが憎悪を煽り、虐殺を招いた。
ミャンマーにおけるロヒンギャの虐殺)
ソーシャルメディアポピュリズムを増幅する。
ソーシャルメディアアルゴリズムによって陰謀論や攻撃的なコンテンツが取り上げられ増殖していく。
ポピュリズムが民主主義を殺す
ポピュリズムの指導者は選挙など民主的な手段で政権を奪取し、手に入れた権力で民主的な自己修正システム(裁判所、メディア、アカデミアなど)を攻撃し、弱体化しようとする。
民主主義と全体主義
情報ネットワークが分散し、強力な自己修正メカニズムを持つのが民主主義
唯一の中央集中型の情報ネットワークで自己修正メカニズムがないのが全体主義。現在は非民主主義の国家が世界の半数以上を占める
AIによる強力な監視ネットワークが実現する。
スターリンチャウシェスクが望んだ国民一人一人の行動や思想をを24時間365日監視する執拗で強力な監視ネットワークが可能になる。
AIは可謬である
人間とは異質な知能であるAIは、異質故の間違いを犯す可能性がある。ペーパークリップの思考実験。
AIにより雇用市場が混乱する。
AIによる自動化とロボット化により多くの職業が失われる。新たな職業も数多く生まれるが、その職業に就くためには新たな技能や知識の習得が必要になり、雇用は不安定になる。
民主主義が崩壊しかけている。
民主主義を成り立たせている「対話」が不可能になってきている。
ポピュリズムの政治家が保守政党を乗っ取ったため、保守VS革新の
対話が成立しなくなった。国家は分断されたまま。
偽造人間の増殖。
ソーシャルメディアをチャットボットの投稿が占拠し、世論を捻じ曲げる。
偽造通貨が貨幣経済を崩壊させるように、偽造人間が民主主義を破壊する。
全体主義はAIに対して脆弱。
唯一の中央集中型ネットワークを求める全体主義は、AIに依存するようになり、政権を乗っ取られる可能性が高い。
データ帝国主義
グーグルやアマゾン、メタなどは、すでにデータの集中化を進めており、世界各国の個人情報を集め、そのデータをもとに新しいサービスやアプリを開発し、販売している。中国とアメリカによる2大帝国が世界の国を植民地化する。
柔軟性こそが最大の強み
著者が予測する未来は決して明るくない。それでも民主主義を生き延びさせたいと願っている。環境の変化に対して柔軟に対応できる変化の力と自己修正メカニズムによる柔軟性こそがサピエンスの強みである。

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渡辺正峰『意識の脳科学「デジタル不老不死」の扉を開く』

かなりぶっ飛んだ本である。

以前、同じ著者による「脳の意識 機械の意識」を読んだが、100ページも読まないで挫折。とても興味あるテーマなのだが、前半の構成が平板だったせいか、退屈してしまった。今回は大丈夫かな?

以下、amazonの紹介)
驚愕の研究、最前線!
脳からコンピュータに意識を移す!!
意識はどのように生まれるのか?
生命科学最大の謎を解く、切り札がここに!
意識のアップロードを可能にする秘策とは?
永遠の命を得た意識は、何を感じ、何を思うのか? 科学者人生を懸けた渾身の書
【本書の内容】
・なぜニューロンの塊にすぎない脳に「意識」がわくのか
・「意識の解明」と「不老不死の実現」一石二鳥の妙案
・右脳と左脳を切り離すと、二つの意識が現れる
・新型ブレイン・マシン・インターフェースで、脳半球と機械半球をつなぐ
・人工神経回路網に意識を移し替えることで、意識を解き明かす
・意識のアップロード後には、現実世界と見紛うばかりの世界が待つ
・アップロードされた「わたし」は「わたし」であり続けるか
以上、amazonの紹介終わり)

ここから僕の要約と感想。

著者は脳神経学者。しかし、いわゆる学究的な研究者ではないようで、アグレッシブというか、自由というか、自らの研究テーマでベンチャー企業を立ち上げたり、特許を申請したりと、なかなか野心的である。著者は、なんと20年後に「デジタル不老不死」の実現を目指しているという。「デジタル不老不死」とは、人の意識を機械(コンピューター)にアップロード(移植)することで不老不死を実現することだという。SFの世界では随分前から当たり前のように描かれてきた「電脳」の世界だが、現実には遠い未来の話だと思っていた。ところが著者は、本気で20年後の実現を目指しているという。この分野では米国が先行し、巨額の資金を投じて研究を加速させていて、中国も米国に劣らず力を入れているという。著者がいう20年後の実現というのは希望的な数字だとしても、数十年を待たずに実現するかもしれないと思うと「これはひょっとしてヤバイかも!」と思い始めた。

死を経由するアップロード。

著者が「デジタル不老不死」を目指す理由は、中学時代から続く「死への恐怖」だという。本書の前半には「意識のアップロード」の方法や技術がかなり具体的に書かれている。膨大なニューロンの集合体である脳の仕組みをどのように機械に置き換えていくのか。これまで考えられてきた方法では、まず頭蓋から脳を取り出し、ごく薄くスライスし、その断片を電子顕微鏡で観察することでニューロンの配置や接続などを読み取る。そのデータに基づいてデジタルデータの中に脳と同じ仕組みを構築する。しかし、この方法では脳は一度死ななければならない。そして、一度死んだ後、機械として復活したデジタルの「私」は、果たして同じ「私」と言えるのか。驚くほど死を恐れる著者は「死を介さない意識のアップロード」の方法を考案する。

死を介さないアップロード。

左右の脳を繋いでいる脳梁などを手術により切断すると左右の脳が切り離され、それぞれに別々の意識が生まれることが知られている。左右の脳がつながることによって意識は一つに統合されているのである。これを利用して、左右の脳を切り離し、分離した左右の脳それぞれに機械の脳をつなぐ。生体の右脳と機械の左脳、生体の左脳と機械の右脳を接続し、それぞれに統合した意識を生じさせる。この生体・機械を統合した脳から今度は生体脳を分離し、機械脳どうしを接続し、左右脳の意識を統合する。これで死を経由することなく意識のアップロードが実現するという。何だか簡単な事のように書かれているが、実際は多くのブレイクスルーが必要になるという。その一つが脳と機械の接続である。

脳と機械をつなぐ。BMI(Brain Machine Interface)とは。

柔らかい豆腐のような生モノである脳と機械の接続も簡単ではない。SF作品の中ではヘッドセットのような器具(非侵襲型という)を装着したりしているが、それは現実的ではないという。例えていうと、大勢の人々が建物の中で一斉に喋っているのを建物の外から一人ひとりの声を聞き分けるようなものであるという。やはり脳の中に電極を差し込む侵襲型のインターフェイスを開発する必要があるという。著者は、全く新しい方法を考案する。左右の脳を繋いでいる脳梁などの神経繊維束に包丁を入れるように高密度二次元電極アレイを差し込むのである。これにより左右の脳の繋がりを完璧に読み取ることができるのはもちろん、アレイを通して機械の脳から生体の脳に書き込むことができるのだという(2020年に東京大学より特許出願)。著者は、この分野において中国が国を挙げて研究・開発を進めていることを指摘している。著者自身もBMIの研究開発を行うベンチャー企業を立ち上げ、前のめりでこのテーマに取り組んでいる。この章までは、読んでいるうちに本当に実現しそうな気がしてくる。しかし、本書後半になると、そんなに簡単は話ではないことがわかってくる。とても大きな問題が立ちはだかっているからだ。

そもそも「意識」とは何か?

技術的にも大きなブレイクスルーが必要なことはもちろんだが、機械にアップロードされる肝心の「意識」について科学的に十分解明されているとは言えない。そもそも意識とは何か?哲学から科学にまたがるハードプロブレム(根源的な大命題)が解決していないからだ。著者は「我思う、故に我あり」のパスカルの2元論からペンローズ量子論まで、様々な説を紹介しながら「ニューロンの塊」にすぎない脳に、どのような仕組みで意識が生まれるのかを探っていく。主観的には、脳に意識が発生することは間違いない。しかし、それを外部から客観的に観察することはできない。つまり実験などで実証することができない。そして著者は、主観と客観に分断された「意識」の問題を乗り越えるには「自然則」の導入しかないと言い始める。自然則とは「光の速さが一定である」「万有引力」など、「なぜそうなるかは不明だが、自然の中に普遍的に存在する法則」ということらしい。この辺りから著者のロジック展開についていくことが難しくなってきてくる。本書のこの部分は、僕の貧弱な知見では要約することが難しいので、省略する。

AIに意識は宿るか?

僕が面白いと思ったのは、著者が最近進化の著しい「生成AI」をどう捉えているかという点。ChatGPTなど大規模言語モデルの生成AIに意識があるとは言えないが、AIの言語処理に視覚や聴覚、味覚、身体感覚などの入力を与えて、それらを仮想空間上で統合することによって意識が生まれる可能性があると考察している。「そうか、生成AIに意識が宿る可能性があるのか!」そうなると人類は、機械に意識が宿るシンギュラリティの可能性も想定しておく必要があるかもしれない。

意識のアップロードとアポロ計画。日米のベンチャー格差。

僕が個人的に本書で一番面白いと思ったのは最終章。著者は意識のアップロードをアポロ計画の有人月面着陸に例えて実現までのロードマップを考察する。著者は、20年先の実現を目指しているが、著者によると「意識のアップロード」が「有人月面着陸」だとすれば「意識の解明」が「月の周回軌道への到達」だという。そのためにはアポロ計画に匹敵するほどの巨大な規模での研究開発が必要になる。
著者は2018年に「意識のアップロード」を目指したベンチャー企業「MinD in a Device社」を立ち上げているが、日本の研究は、アメリカのベンチャー企業や中国の国を挙げた取り組みに大きく先行されているという。著者はここで日本のベンチャー支援とアメリカのそれを比較する。一つのビジネスアイデアがあったとする。日本の大手企業なら、全社から数名の社員が集められプロジェクトチームが編成され、年間数千万円の開発予算がつくかもしれない。一方、アメリカのシリコンバレーであれば、同じようなビジネスアイデアで、ベンチャーキャピタルから数十億円の資金を調達し、百戦錬磨のエンジニアを百人単位で囲い込み、日本では考えられないようスピードで開発が進んでいくという。日本にもベンチャーの仕組みはあるものの、その規模はアメリカの20分の1だと言われている。そのため日本のベンチャー企業は規模が小さく、中小企業レベルに留まり、大手に勝ち切れず、結果的に日本全体のレベルの低下を招いている。そのせいか、日本ではほとんどのAI企業が技術のコアといえる部分を自社開発しておらず、海外からの借り物に頼っているという。論文やソースコードを公開する文化により、深刻な遅れをとることはないが、最先端を走る研究機関の中では、数年先を見据えた開発が進んでいる。しかもソースコードを公開する文化は、現時点で開発する者に有利に働く可能性が高いという。後塵を拝する者は、どうせ最新のソースコードが手に入るのだから、と自らが開発するのを諦め、結果、両者の差は、ますます広がることになる。現に日本のAI企業の大半はホットスポットの代理店ような仕事しかできていない。借り物のAIエンジンを、顧客ごとのデータでチューニングしたり、数多あるハードウエアに実装したり、日本向けにローカライズしたり、ビジネスとしてなかなかスケールしないという。さらに著者は、ソースコードを公開する文化がいつまでも続く保証はないと危惧する。今後AI技術は国家戦略上の要となっていくことは間違いなく、米中の覇権争いが激化した時、AI技術が門外不出のものとして秘匿される可能性が考えられるという。その時、日本はどうするか?著者によれば、ベンチャーの生態系は、資本主義の最終進化系であり、早急にアメリカや中国並みの規模にアップグレードする必要があるという。4章ではアメリカのブレインテック・ベンチャーの一つであるニューラリンク社を立ち上げたイーロン・マスクのビジネスモデルについても考察している。彼はリスクの大きな基礎研究開発は国などの研究機関に任せ、そこで芽吹いた成果のみを大人買いし、彼自身の財力と名声を生かして、ほかには真似のできないような資金を投入。一気に技術開発を加速させるのだという。日米のベンチャー支援の格差は、昨年暮れに読んだ山口栄一著「イノベーションはなぜ途絶えたか」でも考察されている。

タイトルが明かされない2つの映画について。

本書の中で、著者はわかりやすくするために多くの映画を例に挙げて説明しているが、3章と15章で取り上げた2つの映画だけ、ネタバレするからと、タイトルを明かしていない。これが気になって仕方がなくて、映画に詳しい人に尋ねたり、あれこれ検索したりして、1つはようやく突き止めることができた。(著者の意図を尊重してタイトルは明かさない。てっきりSF映画だと思っていたが、そうではなかった)しかし、もう1つの映画が未だ不明である。

デジタル人類の出現。文明へのインパクト。

ここからは僕の超・個人的な感想。本書を読んでいると、「意識のアップロード」「脳と機械の接続」、そして「デジタル不老不死」は、遠い未来ではなく、著者が目指す20年後は無理にしても、数十年後には実現するかもしれないと思えてきた。著者は割と楽観的に考えているが、僕には「意識のアップロード」が、人類の文明にとてつもなく大きなインパクトを与えるのではないかと思えてくる。デジタル化された人間=デジタル人類は、果たして人類の一員として受け入れられるのか?彼らには生身の人間と同じ人権はあるのか?彼らの数が増えたらその数は人口として数えることになるのか?戸籍はどうなるのか?国籍はどうなる?市民権、選挙権は?就労はできるのか?コピーによって複製されたデジタルクローンはどう扱われる?婚姻や生殖はどうなる。親子や夫婦の関係はどうなる。現在も生成AIの運用には膨大な電力を必要とするが、その電力(エネルギー)は誰が負担するのか?デジタル人類の割合が増えるに従い、人類の価値観も大きく変わっていくだろう。

不老不死の未来。

さらに「死」という概念から解放された時、人間の精神はどう変わっていくだろう。人間の意識には、生存や種族保存の本能や欲求が大きく関わっていると思う。
人間のあらゆる活動は、自分の命を守り、生きながらえようとする衝動や、自分に近い家族や身内を守り、生き延びさせていこうとする本能から生まれるものだと思う。戦争や様々な争い、友愛や憎悪、そしてあらゆる競争も(たぶん創造も)、その根源に本能や衝動のような生物的因子があるのではないか。不老不死を実現したデジタル人類に、果たしてそのような衝動や本能は残っているだろうか?デジタル化が進むに従い、地球の文明は、これまでと全く異なる方向に進化していくのではないか。本書の中で著者は「意識のアップロード」を望む人は、10人に一人程度と少ないという。僕自身は、そのような選択肢が与えられたら喜んで志願すると思うが。

生成AIにも意識が生まれる?!

本書によると、生成AIに、脳と同じ仕組みを与えることができれば、「意識」が生まれる可能性があるという。意識を持った生成AIとデジタル人類、そして生身の人間の関係はどうなっていくのだろう…。最近読んだ別の本によるとAIの進化は、ますます加速しており、個性や創造性を必要とする分野でも人間を凌駕しつつあるという。そうなると生身の人間の価値はどこで発揮されるのだろう。

感想を書くのに半年以上かかってしまった。

本書を最初に読んだのは去年の夏。読み終えて感想を書こうとしたが、うまく書けず、何度も読み返した。著者と相性が悪いのだろうか。著者の文章は軽妙で読みやすいし、サービス精神もしっかりあって、SF小説SF映画、SFコミックなどを例に挙げて語ってくれるので飽きさせない。グレッグイーガンの「順列都市」映画では「マトリックス」「トランセンデンス」「インセプション」、コミックでは「AKIRA」などが登場する。さらにユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」や齋藤幸平の「人新世の資本論」なども登場することも興味深い。それでも感想をうまく書けなかったのは、本書のテーマが、多岐にわたり、しかもそれぞれが理解するのにハードルが結構高かったかもしれない。読み返してみると、本書の内容を十分に理解しているとは言えないが、とりあえず書き終えよう。さもないと、読み終えた他の多くの本の感想が書けない。

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アレックス・ガーランド監督「シビル・ウォー アメリカ最後の日」

既視感。

主人公たちのワシントンDCへ向かう旅が始まると、既視感というのか、過去に観た映画の印象が次々に蘇ってきた。二人の若者がバイクでアメリカを旅する「イージーライダー」、陸送ドライバーがわけもなく暴走を続ける「バニシングポイント」、最近では黒人の音楽家が人種差別が激しい南部を旅する「グリーンブック」、リーマンショックで家や仕事を失った高齢者がモーターホームでアメリカを漂流する「ノマドランド」。いわゆるロードムービーのイメージだ。特に「ノマドランド」で描かれた、リーマンショック以降、衰退し、寂れゆく町や、廃墟と化した工場、難民キャンプのようなホームレスのコミュニティのイメージがダブってくる…。内戦が始まる前から、アメリカの分断と崩壊は始まっているのだ。そして最後の方のワシントンDCでの戦闘になると、今度は戦闘の生々しさから「ブラックホークダウン」「プライベートライアン」「ダンケルク」など映画を思い出し、最後は「地獄の黙示録」のイメージが蘇ってきた。

「なぜ」「どのように」が描かれていない。

この映画では、内戦がどのような経緯で起きたのか、独裁政権はどのような圧政をしたのか、大統領はどのような人物だったのか、反乱軍とも言えるカリフォルニア・テキサス連合軍がどのように生まれ、政府軍とどのように戦ったのか、映画は「なぜ」「どのように」という部分をほぼ描いていない。「それは、あなたたち観客がよくわかっているだろう」と言いたいかのようである。観客が観るのは「内戦の結果」としての米国である。

内戦の結果としてのアメリカ。

テロが頻発し、インフラが破壊され、電気や水の供給も不安定な都市、破壊され、乗り捨てられたクルマで塞がったフリーウエイ、いまだに激しい戦闘が続く町や村、破壊された無数の廃墟、分断され、武装した小さなコミュニティ、難民のキャンプ、市民を殺戮する過激な武装集団…。それは映画の中だけのフィクションではない。僕たちが既にウクライナで、ガザで、ミャンマーで目にしている光景でもある。戦争は現実の世界で、今この瞬間も続いているのだ。

一兵士が大統領を射殺する戦争。

政府軍に対抗するカリフォルニア・テキサスの連合軍WFも肯定的に描かれているわけではない。戦闘で捕虜にした政府軍兵士をその場で殺害するWF兵士。主人公たちは、長く辛い地獄めぐりの後に、ようやくワシントンDCにたどり着く。腹に響く戦闘ヘリの轟音と激しい戦闘の音。そして激しい戦闘の果てに大統領が隠れるホワイトハウスに突入する。発見した大統領を一人の兵士が射殺する…。それはまさに「地獄の黙示録」を思わせるラストだ。戦争はよその国の遠い出来事ではない。戦争は、私たちの中にあるのだ。

この監督、前に観たことがある。

久しぶりに買ったパンフレットを見て、この監督が以前観たSF映画エクス・マキナ」「アナイアレーション 全滅領域」の監督だったこと知った。どちらもわりと好きな作品だ。「アナイアレーション」は、ジェフ・ヴァンダミアの小説が原作で、映画化は難しいと思っていたが、原作のイメージをかなりのところまで表現できていた。

数多久遠「有事 台湾海峡」

石破政権が誕生し、衆議院は解散へ。米国では大統領選挙のキャンペーンが進行中。その日米の政治的空白を突いて、中国が台湾海峡で事を起こそうとしている。2024年の、まさに「今」が舞台とも言える小説。著者の数多久遠は元幹部自衛官。その作品は、ほぼ全部読んでいる。日中の新型潜水艦が尖閣東シナ海で戦う「深淵の覇者」など、ハイテク軍事スリラーともいえる作品が多い。また航空自衛隊の女性副官の日常を描いた「副官斑尾玲於奈」シリーズも、従来に無い切り口で描かれた「平和時の自衛隊」が新鮮だ。著者の作品には、自衛官時代の経験に基づく、僕たち一般人とは違う意識や感覚が描かれていて興味深い。

あらすじ
202X年、アメリカは大統領選挙の真っ只中にあった。日本では総理大臣が衆院を解散する可能性が高まっていた。日米におけるこの政治的空白を突いて中国が台湾海峡で軍事行動を起こす可能性がある。自衛隊の中では早くからこのリスクへの対応が議論されており、時の首相に対して解散を思いとどまるように働きかけていた。しかし首相は解散を断行する。果たして中国は動きだした。国家首席が「金門・馬祖は中国の安全保障上の脅威」と発言し、対岸に戦力を集結させ始めた。金門・馬祖諸島は中国まで最短で数kmの距離に位置する島でありながら第二次世界大戦後、台湾の領土として死守された島である。緊張が高まる中、邦人避難のために金門島に向かった自衛隊の輸送機に、それを妨害しようとした中国軍戦闘機が接触し、自衛隊機の搭乗員に負傷者が出る。さらに台湾海峡で台湾の軍艦と中国の軍艦が衝突し、負傷者が発生する。負傷者の搬送を要請された自衛隊は救難ヘリを派遣するが、またしても中国軍戦闘機の妨害を受ける。日本国内では東京電力の送電塔が倒されるなど、インフラへのテロが発生。首相は平和安全法制の「重要影響事態」を認定。中国軍は金門島への砲撃を開始。さらに台湾海峡を封鎖する動きを見せる。米軍も空母打撃群を台湾海峡に向けて移動させようとしていた。そして金門島に支援物資を輸送していたアメリカ軍のLCAC(ホバークラフト艇)が中国軍の砲撃を受けて負傷者が出る。米国内ではチャイナタウンの中国人による大規模な暴動が発生。首相は「存立危機事態」の認定に踏み切る。事態は、大規模な戦闘に向かってエスカレートしようとしていた。そんな時、自衛隊は、首相に対してある作戦を提案する。それは太平洋戦争の真珠湾攻撃以来ともいえる大規模な奇襲作戦だった…。

(ここから僕の感想)
自衛隊は軍隊である。
本書に限らず著者の作品を読んでいると、自衛隊は、その組織も装備も、紛れもない「軍隊」であると感じる。しかし、その活動に関しては憲法自衛隊法によって厳しく制限されている。いわば手足を縛られた軍隊である。そして自衛隊が恐れているのは、手足を縛られたまま、自分たちが戦闘地域に放り込まれることである。だから自衛隊は、これまで自らを縛る拘束をなんとか取り除こうとしてきた。歴代の首相、特に安倍首相によって推し進められた平和安全法制は、彼ら自衛隊の意志と関与によって実現したものである。本書には、それらの法制が、現実の有事の際に、どのように政権を動かし、自衛隊を動かすのかが描かれている。安倍元首相が語った「台湾有事は日本有事」とは実際にはどのような事態なのかが生々しく描かれる。重要影響事態、存立危機事態、武力攻撃事態…。それらの事態認定があれよあれよという間に首相一人の判断で認定されていく。読んでいる間はスリリングで面白かったが、読み終えてみると、怖くなった。

自衛隊内部の視点で描かれている。
本書に登場する人物は9割ぐらいは自衛隊防衛省の人間である。いわば自衛隊の「内部」の視点から描かれた小説である。主人公の1人である防衛省の官僚で内閣参与の蓮田は、安倍政権の元で平和安全法制の整備に尽力した人物として描かれている。首相をはじめとする閣僚たちも、自衛隊にとっては「外部」であり、自衛隊が働きかけて影響を及ぼすべき存在であると認識されていること。彼らは、台湾有事のリスクを予測し、その対応を準備し、時の首相に対して、積極的に関与していく。そしていざ有事が発生すると、政権に働きかけて緊急事態の認定を促し、作戦を実行しようとする。本書は「防衛村の中の人」の物語なのである。武力行使に反対する野党などは、まるで中国の手先であるかのように描かれている。

奇襲で敵の出鼻をくじくという発想って?
ここからはネタバレ注意。本書でもう一つ気になったのが中国に対して米台日が合同でおこなう作戦について。台湾海峡を封鎖するために金門・馬祖島付近に集結した中国艦隊を、米台日の大規模な空海軍が強襲して壊滅状態にさせ、戦闘継続を断念させるという作戦だ。航空自衛隊の戦闘機が全国から250機も参加するという大作戦となる。本当にそんなことが可能なのか、という疑問は置いといて、僕が気になるのは、作戦の狙いである。何となく太平洋戦争において日本軍が何度も犯した過ち「敵に先手を打って強襲し、戦意を喪失させ、戦争を有利な条件で早期に終結させる」という考え方である。本書では、その考え方をさらに進め、圧倒的な戦力差を作り出すことで、戦闘直前に敵に敗北を悟らせ、壊滅的な全面戦争を回避するという作戦だ。いわばチキンレースを仕掛けるようなものだ。そんなリスキーな作戦を時の首相が承認するとはとても思えない。法制を定めた故安倍首相なら承認するかも。軍事オタクと言われる石破首相はどうだろう。総裁選前に台湾を訪れたりしているからやってしまうかも。

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