中沢新一「大阪アースダイバー」

2005年に出版された「アースダイバー」はとても面白い本だった。
縄文時代の地図を頼りに現代の東京を探検するというアイデアは秀逸で、東京勤務時代、単身の退屈な休日に、この本を鞄に入れて、自転車であちこち走りまわった記憶がある。その「大阪版」を「週刊現代」に連載していることは知っていたが、あまり読もうという気にはならなかった。東京と同じ手法は大阪では通用しないだろうと漠然と感じていたし、そもそも縄文時代の大阪なんてほとんどが海の中で、ダイブすべきアース(大地)が元々無いではないか。しかも大阪は、東京に比べて、古代から様々な民族、政権、文化が複雑怪奇に入り組んで積み重なった土地であり、さらに京都や奈良や吉野、熊野等とも深いつながりがあり、それらを解きほぐし、整理するだけでも大変だろう…と。
前作の数倍面白くなっている!
しかし読んでみて驚いた。本書は「通用しない」どころか、「アースダイバー」より数倍面白い本になっている。僕が今まで読んだ著者の本の中でも一番面白く読めた。会う人ごとに本書を勧めているのは、この面白さをうまく伝えられえないからだ。読んでもらうしかないと思う。
「プロト大阪:原大阪」という方法。
著者が大阪の地を読み解く方法論も面白い。それを少しだけ紹介しておこう。古代、生駒山の山麓から西側は八十島と呼ばれる広大な海だった。唯一の例外は、現在の住之江あたりから北に伸びた幅1キロほどの半島だった。後に上町台地と呼ばれるこの半島の先端に、難波宮が建設された。この海に、淀川と大和川が運んできた土砂が堆積し、砂州が生まれ、島々へと成長していった。この島々に、航海や漁労を得意とする海民が住み着くことで大阪という都市がはじまったという。著者はさらに、大阪を成り立たせた2つの軸を発見する。その一つは上町台地の先端に建設された難波宮から南に伸びる難波大道、さらに南に位置する百舌鳥の大古墳群につながる南北の軸である。著者は、これをアポロン軸という。これは、いわば王の絶大な権力を現す軸である。そしてもう一つの軸が、生駒山の麓から西に伸びるディオニソス軸である。古代の生駒山の山麓は多くの横穴式古墳が存在する「死の場所」である。一方で生駒山は、そこから太陽が登る「生命誕生の場所」でもあった。つまり東西の軸は誕生と死が循環する生命の軸である。著者は、交差する2本の軸と、海中から生まれた八十島によって形づくられる「プロト大阪:原大阪」を定義することから、大阪のアースダイビングを始める…。
大阪がこんな風に語られたことは、かつてなかった。
「プロト大阪」の枠組みを構築した上で、著者は、奔放な想像力で大阪の様々な場所や文化を記述していく。それを紹介するのは難しいので、著者が本書で取り上げたテーマや場所をいくつか紹介するだけに留めておこう。かつて半島であった上町台地の中心に聖徳太子が建立した四天王寺が位置し、この寺の存在が、その後の大阪の性格を決定づけたこと。ナニワの砂州の上に海民によって造られ、発展した資本主義が、船場の商人と問屋街を生んだこと。上町台地の西側に広がる荒稜(あらはか)と呼ばれた広大な墓所は、非人をはじめとする都市の最下層の人々が暮らす場所だったが、のちに見世物小屋遊郭の街「ミナミ」へと変貌していき、漫才などの上方の笑いの文化もここから始まった。大阪のラブホテル街の多くは、墓所、または、そのすぐ近くにあり、寺や神社に隣接していることも多い。「大阪夏の陣」で焦土と化した大阪の街の復興のために生まれた瓦づくりの街が、松屋町の人形問屋街のルーツだったこと。古代、カヤと呼ばれた朝鮮半島の地域から大量の渡来人が日本にやってきて、新しい技術や文化を大阪の地にもたらしたこと。河内の盆踊りのルーツは仏教の伝来よりもはるかに古く、弥生時代の死者を弔う夏至の祭から来ていること。その他にも、四天王寺五重塔通天閣の比較論や、聖徳太子ビリケンさんの類似、「大阪のオバチャン」は、古代、コリアから渡来した人々にルーツを持つことなど…。様々な切り口から縦横無尽に大阪を語っていく。さらに著者は、大阪の歴史を語る時に避けて通ることができない、しかし語ることが難しい「差別」についても多くのぺージを割いている。その集団がいつ、どこで生まれたのか、そして差別はどのように始まったのか?この語りにくいテーマを、著者はアースダイバーという手法を用いることによって巧みに語ってしまう。
まるで見て来たように語る人。中沢新一という幻視者。
本書を読むと、著者には、その土地やモノに息づく地霊や精霊と交信し、その声をじかに聞くことができる、超能力ともいえるような力が備わっているのではないかと思えてくる。きっと柳田国男折口信夫も、そのような能力を持っていたのではないかと思っている。古代の巫女が先祖の霊や死者たちと交信するように、著者は、ある時は、死者を弔う弥生人となって夏至の祭を踊る。またある時は、大陸からやってきた使節の一人になって、住之江の沖から百舌鳥あたりに建設された壮大な古墳に目をみはる…。本書の中で「アースダイバーは鳥であることを、思い出していただきたい」(間奏曲)という文章がある。あれ、そうだっけ?アースダイバーの視点は、鳥の視点なの?どこで語っていたっけ? 空の高みから、塔や屋根の上、さらに地表まで、自由に移動して様々なスケールの視点から語ることできるということか…。それはその通りなのだが、アースダイバーの手法とは、鳥の視点に留まらないと思う。空間だけでなく、時間すらも自由に行き交うことができるのはもちろん、歴史学者や民俗学者、人類学者、さらに詩人や文学者など、まったく次元の違う視点を自由に切り換えながら現象を捉えていくのが、著者の方法であると思う。
大阪に興味がわいてきた。
正直に言うと、今まで大阪という町がそれほど好きではなかった。播州の田舎から出て来た吃音持ちのよそ者にとって、大阪人特有の会話のリズム、呼吸は、緊張を強いるものだったし、仕事場がミナミに近い西区にあった時も、猥雑で騒々しいミナミを通過し、キタの新地や梅田に出て遊ぶことのほうが多かった。今でも夜のミナミに出かけて行く時には、ちょっとした勇気をふるい起こす必要がある。本書が描く飛田など、恐ろしくて近くに行ったことすらない。しかし、本書を読んで、見慣れた大阪が、少し違って見えてきた。ふだん何気ない会話に出てくる〇〇島、〇〇洲、〇〇江など、海にちなんだ地名も、かつて、この辺りが「くらげなす八十島の海」であったことを、何かの拍子に意識するようになった。大阪は、京都や奈良以上に古代からの歴史を秘めた都市である。しかし古都ではない。それは中世や近世、近代、現代に至るまでダイナミックに変貌し続ける都市なのである。僕らが大阪に暮らしていて無意識に感じている様々な感覚が実は遠い古代からつながっているのだという発見。現在の大阪の町にも、幾層にも重なった歴史の地層があちこちで地表に露出している。しかし、それは一見しただけではわからない形で存在している。アースダイバーという視点を通して初めて知ることができる。けばけばしい遊郭、猥雑な飲み屋街、そしてラブホテル街やビリケンさん、大阪のオバチャン…。そこにはとてつもないく古い大阪が息づいている。誰か、「大阪アースダイバーツアー」を企画してくれないかな。
大阪の応援歌である。
著者は、本書で大阪を絶賛している。その一方で、近年の大阪の衰退ぶりを懸念してもいる。船場の問屋街や東大阪の町工場街は空洞化している。大阪の地で生まれた多くの企業も、グローバル化にともなって東京に本社を移している。大阪の笑いも、かつてのようなパワーを失っている、と著者は言う。大阪府大阪市の選挙で圧勝した大阪維新の会と橋下市長が進もうとする方向にも著者は疑問を感じているという。著者によると大阪のオバチャンたちも、橋下氏が進もうとする方向に「何だか違うぞ」という疑問を持ち始めているらしい。
答は書かれていない。
本書の最後の「エピローグにかえて」という文章を、著者はこう締めくくっている。「私は現代の大阪に、この「大阪の原理」「大阪の理性」が力強く目覚めることを切に願って、『大阪アースダイバー』を書いたのである。」この文章が具体的にどのようなことを示しているのかは正直に言ってよくわからない。しかし、だからといって本書に書かれたことが空疎な妄想だとは決して思わない。ここから先は、大阪人自身が答えを見つけ出し、行動していくしかないのだ、と思う。
まずは著者を大阪再生のアドバイザーに招くべきである。