小松左京「虚無回廊1・2・3」

小松左京の最後の長編ともいえる作品。宇宙と人類の未来をテーマにした名作「果てしなき流れの果てに」「神への長い道」「ゴルディアスの結び目」等の系譜につながる壮大なテーマ作品だ。最初に刊行された時に「1」は読んだと思う。再読してみて、ストーリーが甦ってきた。設定からして壮大だ。
直径1.2光年、長さ2光年の物体が出現!
地球から8.9光年離れた空間に、直径1.2光年、長さ2光年という円筒形の巨大物質SSが突如出現する。SSとは何なのか、人工の物なのか、人工だとすれば誰が何のために造ったのか、科学者の間で議論が沸騰する。そして遂にSSから有意の信号が発信されている事実が判明するに及んで、人類はSSへの探査計画をスタートさせる。しかし片道70年以上も要する恒星間の航行を有人探査機で行うのは極めて困難である。そこで当時研究が進んでいたAE(Artificial Existense:人工実存)計画に白羽の矢が立った。
AIからAEへ。
AEとは、本書の執筆当時盛んに研究が行われていたAI(人工知能)を小松左京がさらに発展させた概念である。単なる知能ではなく、人間と同じような自我を持ち、人間と同じように高度な判断やできる人工の実存。初代のAEは、研究者のヒデオ・エンドウの人格を移植されたため、頭文字をとってHE2と呼ばれた。このHE2を乗せて探査機は、SSに向けて旅立たつ。航行の間、HE2は、ヒデオ・エンドウを介して人類とコミュニケートし続けるが、太陽系から遠ざかるにつれ、通信のタイムラグが大きくなっていく。そして70数年後、探査機がSSに到達する直前に、AEの開発者であるヒデオ・エンドウが死んでしまい、HE2との通信が途絶えてしまう。しかし実は地球との通信が途絶えた後も、HE2は航行し続け、SSに到達。HE2は自らの中に6人の異なるVP(バーチャルパーソナリティ)を作り出し、彼らと一緒に独自の探査を続けていた。そして、遂に、まったく人類とはまったく違う知性体とコンタクトする。
異質な知性体との遭遇。
「虚無回廊Ⅱ」からは、HE2がSSの内部に入り込んで、様々な文明とコンタクトする話と、SSの謎を解明していく話。そこでは様々な形の文明や知性体のありかたが提示される。母星の文明が滅びてしまっても、宇宙探査を続ける機械生命体、1億年以上の寿命を持つ生命。巨大な都市そのものが知能を持っている知性体。森の生態系そのものがひとつの知性体である生命体…。しかし、このあたりのアイデアは、そんなに驚かない。レムの作品に出てくる、惑星の海が知性を持つ「ソラリス」や、機械が進化して、巨大化と極小化を遂げた機械生命の未来を描いた「砂漠の惑星」などの延長線上にあるような世界だし、「ソラリス」における「人類とあまり異質すぎてコミュニケーションが成り立たない知性」という設定のほうが圧倒的にリアリティと衝撃があった。次々に出現する様々な知性体とのコミュニケーションも、妙に擬人化されてしまって軽く描かれているのも気になる。そして「虚無回廊3」になると、人類よりもはるか以前にSSを発見し、探査し、研究してきた種族が登場する。彼らから、主人公のHE2とVPたちは、SSの秘密の一端を聞かされる。最後のほうは、新しい宇宙理論や量子力学の世界に入りこんでいくため、自分にはちんぷんかんぷんだ。ビッグバン、インフレーション理論、宇宙ひも、ヴォイド…。著者は新しい宇宙理論を駆使しながら、宇宙がどのように生まれ、どのように進化してきたかを語ろうとする。それと同時にSSは、いつどこで生まれ、どのように進化してきたかを導き出そうとする。
「虚無回廊」の意味。
その中でSSは虚宇宙と実宇宙をつなぐ回廊の役割を果たしている…。少し引用すると『「虚」と「実」の間をつなぐ「無」という概念を媒介にし、「位相的空無:トポロジカルエンプティ」をはさむ事によってはじめて理解し得る。「回廊」の「回」は、ある時、円環型のトーラスであり、直線型の「廊」とはトポロジカルに違うが「転換子」を挿入することによって、どちらも等価であり得る。「無」を媒介として「虚宇宙」と「実宇宙」をつなぎ、しかもそのつなぐルートは「回」でも「廊」でも、どちらでも「位相的に等価であるような存在、「虚無回廊!」』。この文章、理解できますか?著者は、最後のほうで、このような、もはや文学作品とは言えないような文章を読者に読ませようとする。しかも、この部分が、この長編のタイトルの種明かしになっている…。自分は、何となくの概念の輪郭ぐらいが把握できるのみで、理解するどころではない。まして感動するところまで行かなかった。
著者の焦り。
著者は、読者がもはや理解できないような世界に踏み込みながら、強引にその先へ突き進もうとする。この辺りに、著者のどうしようもない焦燥を感じた。本書の最後は、SSそれ自体が知性を持った存在であることが判明し、集まった知性体たちは、SSへののコンタクトを試みようとするところで終わっている。小松左京は、もちろん、この続きを書くつもりだった。しかし書きあぐねている間に、壁にぶつかってしまったという。すでに、この時点でも最新の宇宙理論や物理学が、一般人の感覚からかけ離れていき、もはやSFのテーマとして取り上げることが難しくなっていたのだと思う。それでも強引に書こうとすると、作品から引用した文章のように、難解そのものの文章になってしまう。著者は、それでも、読者についてきて欲しいと願いながら、この文章を書き続けたのかもしれない。そして、著者は創作意欲そのものを失ってしまったという。その時、阪神大震災が起き、その詳細なルポを書くことに追われ、結果、体調と精神のバランスを失ってしまう。今世紀になって、何とか元気を回復したものの、結局、本書を完結させることはなかった。本書には、未完ながら小松左京が進もうとした困難極まりない道が見える。彼が仮にそれを書き続けたとしても、たぶん、ここから先の世界を理解できる読者は、自分も含めて、ほとんどいなかっただろうという気がする。次は自伝を読んでみようと思う。そして「果てしなき流れの果てに」を再読して、尊敬するSFの巨人への個人的なお別れとしたい。さよなら、ありがとう。