古川 日出男「馬たちよ、それでも光は無垢で」

友人に借りた本。友人は本書を読み始めたが「すごくしんどい。先に読んで」という。読んでみた。なるほど…。詩を思わせる、美しい、不思議なタイトルに惹かれる。著者の作品を初めて読んだが、一言で言うと、言葉のコードが違うという感じ。だから読みにくい、というより、いちいち頭の中でコードの変換をしないと意味が読み取れない。小説家が震災によって言葉を失ってしまう。その言葉を取り戻そうとする奮闘の記録、といえばいいか。震災と津波による圧倒的な被害は、小説家の言葉を根こそぎ奪いとってしまう。その言葉を取り戻していくのは容易ではない。震災の後も、著者は文章を書き続ける。震災を知り、テレビの報道を注視し続け、そして福島を訪れる。本書は、その体験を記した、いわば震災日記だ。そして、大きな余震が来る。余震が来るたびに、著者は原稿を徹底的に推敲する。どこからか「徹底的に推敲せよ」という声が聞こえてくるのだ。余震の度に書き直す。だから本書の中で、時間がまっすぐではない。「福島を訪れる体験記」を核にしながら、様々な時間が唐突に割りこんでくる。本書の読み辛さは、そのせいなのかもしれない。
神隠しの時間。
震災の瞬間から、著者はそれまでとは違う時間の中に閉じ込められてしまう。それを著者は「神隠しの時間」と表現する。人は神隠しに遭った時、7日間を半年と体験して、3カ月をわずか数秒、数十秒とも体験する。著者はテレビを注視し続ける。1時間に何度も涙がぼろぼろ落ちる。1時間、という単位が消え、1日が24時間でなくなる、テレビから区切りが、CMが消えている。そんな時間の中で著者は小説を書くべき言葉を失ってしまう。書く予定であった小説を書けなくなる。著者の作品を1冊も読んだことがない。Wikiで調べてみると、かなりユニークな作家活動を続けている人のようだ。村上春樹の作品RMXを書いたり、ミュージシャンやアーティストとのコラボレーションも盛んに行っている。著者の言葉が独特で、最初は戸惑う。冒頭に書いたように言葉のコードが違うからだ。最初はそれに混乱させられて、著者の意図を何度も読み損ねる。論理を見失う。それでも我慢して読み続けていると、著者の文章のユニークなコードが生み出す「世界」が見えてくる。それは詩を読む体験に通じるものがある。たぶん、この著者の感覚はナイーブすぎ、過敏すぎて、一般的な言葉では表現できないのだ。読者は、多感で鋭敏すぎる感受性を持った著者が、震災という容赦ない世界に放り込まれた時、どのような反応を示し、どのような言葉を紡ぎ出すのかを、固唾を呑んで見守っている。震災の前後の著者の行動が、時系列が混乱したまま語られていく。その中で著者は「声」に導かれて、福島へ行くことを決意する。そして実際に福島の地に立って、小説家の言葉を、詩人の言葉を、絞り出すように吐き出す。津波に襲われた街を語る著者の言葉は、報道やルポライターの言葉とは違った光景を描き出していく。それは時には祈りのように、時には格闘家が繰り出す拳のように響いてくる。「洗いざらいだ、と感じた。洗いざらいのパワーだと。」「こんなものはだだっ広すぎる、と私は誰かに言った。」瓦礫に覆われた街を延々と描写したあと、読者に向って「どこまで描写すればいい?」と問う言葉を投げつける。ヒリヒリするような痛みを伴う文章は、読んでいて辛くなるが、読むのを止めるわけには行かない。これこそが読みたかった文章なのだから…。
そして「馬」たち。
「野馬追い」で有名な相馬地方。そこには当然、馬がいる。相馬市の馬場で、著者は馬たちに出会う。津波に逐われ、避難してきた馬たちだ。NPO法人が運営する厩舎に彼らはいる。著者は、そこで馬たちを描写する。馬が一心不乱に食べている草の名前を特定できないことを誰にともなく詫びる著者。子供のように「馬語が欲しかった」と願う著者。そして馬たちに、放出されている放射線が見えないことを説明できない自分を攻める著者。「快晴のこの日の、この昼、見えない物質があってそこから見えない粒子が放たれていて、いまも天上から降っているのだとは説けない。そもそもは光だから、見えない。これほどの晴天なのに、いいや晴天だから。」福島の旅は続く。スーパーマーケット、ドライブイン、コンビニ…。そして南相馬市へ、原発へ向う道路を南下する。しかし時間の流れが混乱し交錯している。
「彼」の出現。
しかし、唐突に変化が起こる。著者たちが福島を移動するクルマの後部座席に「彼」が乗り込んでくる。「彼」とは、著者がメガノベルと呼ぶ長大な作品「聖家族」に登場する主人公の一人「狗塚牛一郎」である。本来、ドキュメンタリーである本書に、なぜ小説の主人公が登場してくるのか。それ以前にも、至る所で、この人物への言及はされているが、あくまで別の作品の中の登場人物の紹介にすぎなかった。しかし、ここから先、著者は、この人物と語りながら旅を続けていくのだ。「聖家族」を読んでいない自分には、いまひとつ「狗塚牛一郎」が登場する必然性がわからない。彼は著者に問う。「物語は必要か?」たぶん著者は、小説家として、小説を書きたいのだ。しかし、震災によって、小説の言葉が失われてしまった。著者は、書けない状況の中でもがき苦しみながら福島を描こうとした。著者の意識の深いところで、物語が生まれようとしていたのだ。意識下の世界と現実の世界を隔てる壁を突き破って「狗塚牛一郎」は、著者の前に現れる。そして語り始める。「狗塚牛一郎」は、格闘家の拳(こぶし)を持っている。彼は、そこから日本の歴史を「人殺しの歴史しかない」と断定する。戦国時代から現在に続く人殺しの歴史を語る。そして、そのような歴史を人間とともに生きてきた馬たちの歴史を語ったあと、本書の世界から退場する。後には、白い一頭の馬が残されている。場所は南相馬のどこか。遠くに白い防御服を着た人間たちがいる。白馬は牛舎の柵に閉じ込められた牛を救い出し、雑草を食べに近くの土手に向う。雑草を光が育てている。東に三キロ離れたところに海があり、海鳥が鳴いている。「死は確かに存在したが、この瞬間は死にかけない。ここで私の文章は終わり、はじまる。」本書を読んだのは、報道でもない、専門家でもない、市民でもない、一人の人間が、震災に向き合って、どう反応するのか。それが読みたかったのだ。本書は、その欲求を、かなりの部分で満たしてくれる。しかし本書の途中で、なぜ小説の主人公が登場してくるのか?また彼が語る、日本の歴史には「人殺しの歴史しかない」というロジックも、なぜここで語られるのか、自分には謎のまま、本書は終わってしまう。狗塚牛一郎が登場する著者の作品を読んでいれば、あるいは理解できたのかもしれないが…。本書を正しく読めた、という自覚はまったくない。友人には「むずかしかった。でも読んでよかったよ。」といって返却したい。