三浦展「これからの日本のために『シェア』の話をしよう」


この本を読みはじめた時に、東日本大震災が起きた。
被災地の報道を目にして、言葉を失った。発生から2週間以上経過しても失語症状態は続いている。震災の報道を見ているだけで体調が悪くなったり、うつ状態になったりすることがあるという。阪神大震災の時も、地震が発生した瞬間より、数時間後、電気が回復して、テレビをつけた時に、飛び込んできた被災地の映像を見た時から、軽いうつ状態に陥ってしまった記憶がある。人は、災害の報道に接するだけでPTSD心的外傷後ストレス障害)に陥ってしまうことがあるらしい。自分の周囲では、いち早く行動を起こした人が何人かいて、その行動力と勇気には感服している。
阪神大震災の時もそうだったが、この震災以降、いま世の中で進行しつつあるいくつかの「変化」が一気に加速されると思う。この本の著者が主張している「シェア」という概念も、そのひとつだと思う。
本書が主張する「シェア」の概念は、現在、ソーシャルメディアCGMによるコミュニケーションのキーワードとして注目されている「シェア」の意味よりも、もっと広く、深い。生活者の価値そのものが大きく変わろうとしている。それは「Have」から「Share」への転換だと、著者は主張する。著者の三浦展は、いま自分が最も信頼する論客の一人である。著者がパルコ出版時代、編集者であったマーケティング情報誌「アクロス」も購読していたし、「ファスト風土化する日本」「下流社会」「シンプル族の反乱」隈研吾との共著「三低主義」「高円寺 新東京女子街」など、つねに新しい視座や新しい概念を提供してくれている。
著者がいう「シェア型消費」とは、何もかも所有するのではなく、本当に必要なものだけを所有し、そうでないものは、共有や共同利用で済ます。あるいはレンタルしたり、中古品を買って済ませる。そして、それを積極的に楽しむという消費行動であるという。しかも経済的だとか、合理的だとかという理由でシェアするのではなく、人とシェアすることで、新しいコミュ二ケーションや新しいコミュニティのような価値が生まれることが重要であるという。著者のアンケートによると、シェアしてもいいものとして、「自動車」「ドレス」「ラグジャリーブランドのバッグ」「住居」が上がってくる。これらはバブルの時代のシンボルともいえる製品ではないか。
脱・マイホーム。脱・マイカー。
戦後の日本は、アメリカをお手本に、国を挙げて「所有するライフスタイル」を推進してきた。その代表が「マイホーム」であり、「マイカー」だった。国家も企業も、広告も、そして消費者も何かを所有することを「豊かさ」「幸福」として突き進んできた。いい家に住み、高級車に乗って、高級ブランドを身につける生活。一億総中流と言われた時代、それが理想の生活だった。団塊の世代は、故郷を出て、東京で働き、郊外に家を建てた。そして、その到達点ともいえるのが80年代後半のバブル時代だった。バブルの崩壊以後、日本は、長い停滞のトンネルに入り込み、いまだに抜け出せずにいる。余力を失った社会は、今度は、弱い部分を切り捨てることで生き延びようとした。地方を切り、高齢者を捨て、非正規労働者にリスクを押し付けることで、この20年をサバイバルしてきたのだ。その結果、地縁は失われ、血縁も薄れ、さらに社縁も弱まり、いまや「無縁社会」と言われるまでになってしまった。すべては、商品を「所有する」ために突き進んできたことだった。
ここ数年、所有商品の横綱が売れなくなっていきている。若者はクルマに興味を失っている。分譲マンションや戸建住宅が売れにくくなっている。20年におよぶ経済の停滞は、消費し、所有することを好まない「嫌・消費世代」のような層を生み出している。これに対して企業や国が何の施策も打ち出せないのを尻目に、若い世代は、新しい生活のスタイルを生み出し始めている。それが「シェア」だという。
高齢化社会は「ケアのシェア」が不可欠。
シェアが必要なのは若者だけではない。日本がやがて迎える超高齢化社会では、高齢者をケアするコミュニティが求められる。今後、いわゆる夫婦と子どもからなる世帯は減少していき、若者から高齢者まで単身世帯が増える。従来、家族が担ってきたケアを、これからは自分自身で行わなければならなくなる。それを支えるのは、ケアをシェアするコミュニティであるという。「私腹から福祉へ」と著者は語呂合わせのような概念を提唱する。「ケアのシェア」とは福祉のことでもある。老人ホームとかケアハウスを作るばかりがケアではない。高齢者たちが、できるだけ自立できて、しかも相互にケアし合えて、さらに若い世代もケアに参加しやすいコミュニティを作ること。そしてコミュニティとは、場所があって、自然があって、街があるという中で生まれてくるものだという。行政は、都市政策福祉政策を別のものとして捉えてきたが、街全体のあり方から考え直さないといけないという。
シェアはエコである。
シェアに関心がある人は当然のことながら環境問題への意識も高い。共有、レンタルへの志向は強く、不必要な物は買わないのはもちろん、必要なものでも、少しこわれてもできるだけ修理して使おうとする。また不要になったものでも、フリーマーケットなどのコミュニティがあれば、捨てずに有効活用してもらえる。最近、デパートの中にある高級クリーニング店の売上が伸びているという。洋服のリフォームや靴の修理をする人が増えてきて、新しい雇用が生まれているという。
情報がシェアを加速する。
シェア型の価値観や行動を促進した土台としてインターネットなどの情報化がある。情報はタダであり、みんなでシェアするものだという意識は、インターネットから始まった。また見知らぬ人と簡単に友達になれることも、人とコミュニケーションしたい、共感したい、というニーズを満たしてくれる。twitterなどのソーシャルメディアも、自分と同じ関心、好み、価値観の人と新たにつながりやすいため、共感の感情を増幅しやすい。情報によるシェアというと中古品のオークションのようなモノのシェアの拡大をイメージするが、本当に重要なのは、関心、好み、価値観を共有できる人と出会い、そこから新しい事業やビジネスが生まれてくることだという。
読みながら、少し元気が出てきた。
昨年「無縁社会」という番組や本に衝撃を受けて以来、その反論というか、自分たちがどうすればいいのかを、ずっと考え続けてきた。この本には、一つの答が提示されていると思った。そして、本書を読んでいく内に、なぜか自分が勇気づけられていることに気がついた。今回の震災に対して、多くの人々が、組織が、国が、支援のために立ち上がっている。それは、被災者の苦しみや悲しみをみんなで共有しようとする思いから始まったのだと思う。喜びを分け合うシェアがあるなら、悲しみや苦しみを分け合うシェアもある。世界が、日本の痛みを「シェア」しようとしている。