双眼鏡病に感染したかも。

仏像鑑賞旅行のために超小型の双眼鏡を入手したのが運のツキだったかもしれない。

ほとんどの仏像は、お堂の中の暗がりにお立ちになって、真っ黒だったりするものだから、ほとんど顔が見えなかったりする。以前、法隆寺の夢殿「救世観音像」の公開に勇み立って行ってみたものの、肝心の仏様は、お堂の暗がりの中にかすかに輪郭がわかる程度で、お姿を見たという実感すらなかった。すぐ側でガイドをしていたおっちゃんがふとどきにも懐中電灯で照らした一瞬、聖徳太子をモデルにしたのではないかと言われるお顔の一部が幻影のように浮かび上がった。以来、お寺や博物館などに行く度に、美術鑑賞用のコンパクトな双眼鏡の必要性を感じていた。今回の、百体を越える「奈良仏像巡りツアー」実行にあたり、思い切って購入に踏み切ったのである。
ひと目惚れ、復刻版銘機「ミクロン」
入手したのは、ニコンのミクロン6×15CFという超小型双眼鏡。ニコン双眼鏡史上に残る銘機の復刻版であるそうな。プリズムの形や構成がそのままデザインされたような、コンパクトでズシリと手応えのある金属&光学のカタマリ感にひと目惚れだった。しかし本当の凄さは覗いてみるまでわからない。大昔、街のカメラ屋さんのワゴンセールで手に入れた、数千円の名も無き双眼鏡しか知らない自分は、ただただ驚くしかなかった。どこまでも明るく鮮明。しかも自然で澄み切った視界。お堂の奥に佇む仏様の表情までくっきりと鑑賞できたのだ。双眼鏡は、今回の旅では十分以上にその役割を果たしてくれた。しかしである。このミクロンという双眼鏡、問題が無かったわけではない。
発病?
超小型化とプリズムそのままのデザインが災いしてか、使い込むにつれ、この双眼鏡の「持ちにくい」という欠点が明らかになってきた。親指と2本の指で「つまむ」感じで保持しないといけないのだ。光学機器というものは、手にしっくりと馴染んで安定するべきでものであると信じている自分にとって、これはかなり由々しき事態なのである。一度そう感じ始めると、先ほどまで、チャーミングに見えていたフォルムも、ゴツゴツと不恰好なバッドデザインに見えて来るから不思議。それとストラップで首から下げると、ストラップを通すホールの位置が悪いせいか、中途半端な傾きでぶら下がるのも鬱陶しい。もう少し大ぶりでもよいから、手にしっくりと馴染んで保持しやすい双眼鏡が欲しくなってくる。旅行から帰った翌日には、Web上で「そこそこコンパクトで、しかも持ちやすく、手になじみそうな形の双眼鏡」を探している自分を発見した。
双眼鏡病の大先輩たちがいる。
双眼鏡偏愛好家の先輩諸氏のブログなどを拝見していると、双眼鏡病の泥沼は留まるところを知らないらしい。幾多の双眼鏡遍歴を経て、国産の高級双眼鏡を手に入れたマニアが、ある日友人のカールツァイスの双眼鏡を借りて一目覗いた瞬間、上には上があることを思い知らされ愕然とする。そうなると後は、さらにハイスペックな世界へ、カールツァイス、ライカ、スワロフスキーなど、ヨーロッパメーカーの見え味へ…、果てしない遍歴の旅が続くのだ。
中古カメラ病という同種の病気がある。
昔、中古カメラ病には、ハマりかけたことがあるが、その世界の入口付近(デパートの中古カメラフェア)で、あまりの瘴気の強さに恐れをなして、かろうじて逃げ帰った記憶がある。一瞬覗いたそこは魑魅魍魎が跋扈する、一端入り込んだら決して生きて戻れない、黄泉の国であった。それ以来、中古カメラフェアに遭遇しても近寄らないようにしているし、カメラはコンデジと決めている…。双眼鏡病は、中古カメラ病ほどではないと思われるが、入りやすいぶん、かえって危険かもしれない。しかもニコンやらキャノンやら、ライカやら、カールツァイスやら、カメラの世界と隣り合わせていることも危険な匂いがする。安い双眼鏡を手に入れようと思ったら、量販カメラ店やホームセンターなどで、2〜3千円で手に入れることができるだろう。その数倍の金額を投資して手に入れた双眼鏡は、まったく次元の違う世界を見せてくれる。しかし、さらにその上があることに気づく。このような病気は、他にもたくさんあると思う。例えば自転車がそうだ。1万円のママチャリと5万円のクロスバイクの差。さらに数十万円とのモデルとの差…。
いま、この瞬間にも、自分は瀬戸際に立たされているのだろうか。いや、すでに泥沼に足を取られて抜け出せずにいるのかもしれない。この病気の苦しみはようくわかっているつもりだが、わかっているからといって、この病気から逃れられるわけではない。一連のリサーチの結果、候補機はほぼ絞りこまれてきた。投資金額は、ミクロンの倍近いのである。