ジェイムズ・P・ホーガン「星を継ぐもの」

そうか。もう30年も前に読んだ作品なんだ。大型書店で、復刊フェアで平積みしてあったのを見つけて再読してみようと、自宅の書棚を探したが、見つからず、やむなく再購入。読んでみると、やはり古さを感じるのはなぜだろう。クラークの「幼年期の終り」とかを今読んでも、まったく古さを感じず、同じように感動できるのに「星を継ぐもの」は、その古さが気になって、昔のように感動できなかった。その原因は、ストーリーを支える科学理論が、少々粗雑であるところかな。月面の採掘現場で、宇宙服を着た人類の遺体が発見される、しかし、その遺体は、5万年前のものであることが判明する。そして木星の衛星ガニメデでも氷原の下から巨大な宇宙船の残骸が発見される…。ストーリーは、この謎をミステリーのような手法で解き明かしていく。ミステリーのトリックは、時間も空間も桁違いのスケールで展開されるから、楽しめないはずはない。生物の中では特異とも言える知能を、人類が、なぜ身につけるに至ったかというタネ明かしも面白い。最後まで読んで、なぜ「古さ」を感じるのか、思いあたった。本書のタイトルにも現れている「人類こそが、この宇宙の継承者である」という考え方かもしれない。今読むと、傲慢そのものに感じられる。本書の続編とも言える「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの惑星」も読んでみたくなった。今でも読みたくなるのは、やはりベースとなるアイデアがユニークで優れているせいだと思う。それと「造物主(ライフメーカー)の掟」も…。
巻末の解説を読むとさらに懐かしくなる。60年代、クラーク、アジモフなど、古典といわれるSFへの批判が活発になり、ニューウエーブと呼ばれるムーブメントが始まる。宇宙旅行、異星人、タイムマシンなど、いわゆる空想科学のアイデアではなく、より文学的ともいえるテーマで書かれた作品群が登場する。一番未知の惑星は「地球」だと宣言する作家がいたり、SFがいま描くべき宇宙は、人間の心の中の「スペース」であるとのたまう作家がいたりで、バラード、ディッシュ、ル・グインなどの作品が注目を集めた。なんというか、宇宙人とかタイムマシンみたいな子どもだましではなく、大人が読むに耐えるようなSF小説を書こう、みたいな時代の空気だった。しかしニューウエーブ・ムーブメントはやがて下火になり、いわゆる古典的なSFを再評価する動きも出てきた。そんな時期に現れたのがJ.P.ホーガン、フレデリック・ポール、グレゴリーベンフォードなどの新ハードSF作家たち。「ハードSF」とは。SFの原点とも言える科学技術をモチーフにしたフィクションの世界。シュールで小難しいニューウエーブ作品に退屈しきっていたファンは、この新しい「ハードSF」を熱烈に歓迎した。本書も、その初期に出てきた作品である。だから本書には「ハードSFを思う存分書けるぞ」という喜びに溢れている。空港で借りられる「エアカー」や巨大な「木星探査船」など、SF的なディテールもたっぷり楽しめる。
新世代ハードSFの作家の中では、どちらかというと、物理学者でもあるグレゴリー・ベンフォードのほうが好きなのである。理由は、ホーガンのほうが、昔のハードSFそのままの世界に戻ろうとしているのに対して、ベンフォードは、ちょっとだけニューウエーブの尾っぽを残しているというか、テーマが文学的・哲学的だったりするせいかもしれない。ベンフォードの傑作「夜の大海の中で」は、SFのマイベスト5に入る、大好きな作品だ。