古井由吉「やすらい花」


20代の頃、最も傾倒した作家の一人だった。自分の生涯の読書歴の中で作家の番付表を作るとすれば、間違いなく大関以上、ひょっとしたら横綱の位置に来る人かもしれない。「内向の世代」と呼ばれた作家群の中心的存在。おそろしいほど緻密な、それでいてしなやかな、「心の襞に分け入っていくような」と評された文章は、そこに書かれなければ決して気づくことさえないような、微かな心のゆらぎや感情の震えまでも鮮明に描き出した。最初に読んだのは、初期の代表作である「杳子」。単独登山の山中で出会った神経症的な女子大生との恋愛の物語である。題材のせいか、触れればこわれてしまいそうなクリスタル細工のように繊細で透明な作品だったと思う。その後、作品が出版される度に必ず読んできた作家だが、緻密で粘着力の強い文章は、一種の饒舌体というか、想念が想念を呼び、増殖していくような文体に変化していった。描かれる空間も、私小説的な世界にあえてとどまり続け、モチーフは、一貫して男女の愛、性、死、病いなどを描いた。その世界観は、生死の境界が失われ、過去と現在がつながり、自己と他者の区別がつかなくなるような、いわば集合無意識的な、神話的な世界だ。現在の生活を描きながら、物語空間は、中世の説話や古典の世界と地続きになり、読経を聞いているような、中世の語りを聞かされているような、行間から線香の香りが漂ってくるような読書体験になっていった。1989年の「仮往生伝試文」を最後に、古井作品から遠ざかっていた。
20年ぶりに買った。
先週、立ち寄った書店の日本文学のコーナーに平積みされているのを見つけて、ほぼ20年ぶりに読んでみようと思った。読み始めると、時間が止まってしまったのかと思う程、世界が変わっていない。テーマは、男女の愛、性、知人の死、空襲の記憶、病気…。例の人称や時空間が交錯する文体も、健在というか、いっそう奔放に走ってゆく。20年前と違うのは、70歳を越えた著者の「老いの視点」が全編を支配しているところだろうか。久しぶりの文体になかなか馴染めず、気を抜くと、すぐに流れを見失ってしまう。30ページほどの短編を読むのに、2時間近くを費やしたりしてしまう。読み終えるのに、一週間かかった。語られる人物たちの物語が現在の話かと思っていたら、それは、もう40年も前に亡くなった人物が語った話だったりする。一番気に入った作品は「朝の虹」。今から20年も前に、私と新堂という友人の共通の友人である秦原が、その10年前に、四十歳の手前で死んだことを知らされる。泰原は人も滅多に通らない山地を何日もかけて横断し、海岸の断崖から飛んだという。妻子もなく、天涯孤独に近かった。死ぬ半年前に職場を去る時は「光り輝くような顔をしていた」という…。この泰原という人物をめぐって、私や新堂、さらにもうひとりの友人である豊浦が、それぞれの秦原の記憶を語っていく。そこで語られるエピソードは、穏やかに実直に生活しながら、決して日常に埋もれず、汚れず、聖人のように生きた特異な人物像を浮かび上がらせる。私たちの平凡な日常の周辺には、そんなエアポケットのような深淵が潜んでいる…。ふと出会った女性と奇妙な家探しにつきあわされる男の話「掌の針」も、女性の、病んだ神経のふるまいにやさしくつきあっていく男の姿が「杳子」を思い出させてくれて、惹かれる作品だ。全編を読み終えて、「奇譚」という言葉を思い浮かべた。私たちのすぐ隣に「神様」が出没している。このささやかな日常の中に奇跡が隠されている。何だか、いま書いている文章が、古井由吉的な文章のほうに引きずられてしまう。
楽しめたと思う。
緻密で粘着力のある文体は健在だ。ただ、その優れた筆力を、著者はなぜ私小説的な狭い日常に封じ込めたのだろう、と思った。「櫛の火」や「聖」のような、神話や民俗学的な物語世界へ広がっていく方向性はあったと思う。
「杳子」をもう一度読みたくなった。また著者が熱烈なファンだったという競馬について書かれた文章も読んでみたいと思った。