久坂部 羊「廃用身」

海堂 尊の「チームバチスタの栄光」で味をしめ、医療ミステリーを探していてこの本に遭遇。グッチ先生と白鳥のおなじみコンビが活躍するノリの良いミステリーを期待していたのが、いきなり冷水を浴びせられたような問題作だった。ミステリーですらなかった。「廃用身」とは、脳梗塞などにより機能が失われ、回復の見込みの無い身体の部分のことを指す医学用語。

舞台は、神戸にあるデイケア・クリニック。高齢者の医療・介護。その困難さと希望の無さが延々と描かれていく。もはや歩行や身体を支える機能を持たない足が、役に立たないだけでなく、逆に生活や介護の妨げになっている様子をこれでもか、これでもか、と執拗に描いていく。そんな日々の中で、主人公であるクリニックの院長漆原は、車椅子のマラソン出場者や「五体不満足」の著者乙武さんの活発な動きを見て、廃用身である下肢を切断する手術を思いつく。
この手術によって、患者は、驚くほど元気になる。寝たきりだった患者が、車椅子も使わずに移動できるようになる。さらに認知症の症状が改善するケースまで現れる。
クリニックでは、この切断手術を「Aケア」と名付け、様々な患者に施していく。役に立たない、重いだけの手足を切断してしまえば、患者の生活は改善されるし、認知症は直るし、介護する側の負担も少なくなる。いいことずくめの治療法だったはずだ。しかし、ある週刊誌が「老人の手足を切断する悪魔の医師の存在」をスクープ、報道した時から、状況は大きく変わっていく。
高齢者の治療・介護に悩み、疲れ、絶望する医師の善意から始まったことが、いつのまにか、ナチスの人体実験や優生学のような「狂気」にすり替わってしまう。「善意に充ちた医師」であったはずの漆原も、彼の過去を知る人の証言によって「異常ぶり」が明らかになっていく。ユートピアのように見えていた日常のすぐそばにぽっかりと奈落への穴があいている。

高齢者の医療と介護というテーマ。この著者の「日本人の死に時」というエッセイを読むと、介護や医療というのは限られた資源であるという。これまで医療は、人の寿命の伸ばすことばかり追求してきた。その結果、高齢者の患者が増え続け、それが日本の医療を崩壊させようとしていると訴える。生かされる高齢者たちも、多くの管をつながれ、辛い思いをしながら生きながらえているケースも少なくない。長寿は絶対の善ではない…。問題の根深さと深刻さの前に、私たちはただ立ちつくすしかない。
カタルシスも、ハッピーエンドもない結末。底冷えのする空間のような作品。