「1Q84」の読み方

「1Q84」の読み方
この小説で自分がいちばん注目しているのは「悪」の描き方だ。「悪」はどこからどうやって生まれてくるのか、それは、この小説の最も重要なテーマのひとつだと思っている。1995年、地下鉄サリン事件が起きた。村上春樹は、1997年、その被害者に対するインタビュー集である「アンダーグラウンド」を出版。さらに1998年、オウム真理教信者(元・現)へのインタビュー集「約束された場所で--underground 2」を出版する。それから10年以上の時間を経て、「1Q84」が出版された。地下鉄サリン事件、そしてオウム真理教は、村上春樹が初めて出会った現実の「悪」だったのかもしれない。それ以降の村上の作品は微妙に変化していったような気がする。それを、ひとことで言うと「戦うべき敵」が見えてきたのだと思う。かつて村上春樹の描く「敵」は、物語の構成上の一要素に過ぎなかった。それが、オウムの生々しい現実に触れたことで、鮮明な輪郭を持ち始めた。小説「アフターダーク」に描かれた「悪」は、それまでの「図式的な悪」と違い、妙にリアリティのある存在感を放っている。しかし「敵」が見えてきたと言っても、それはわかりやすい「悪」ではない。
村上春樹の「オウム体験」は、10年以上に及ぶ時間を費やして「1Q84」の世界に進化していったのだと思う。だから作品の中で描かれる新興宗教の教団「さきがけ」は、作者が新興宗教から生まれる「悪」をどう考えているかをはっきりと表していると思う。オウム真理教より、さらに純粋で、さらに巧妙な「悪」のかたち。

悪は、どこにでも、誰にでも、生まれ育っていく。
その「悪」はオーウェルの「1984」のように巨大な独裁権力から生まれてくるのではない。それは、きわめて平凡な、しかも小さな日常の中から生まれてくる。ビッグブラザーではなく、リトルピープルが登場するのは、そんな理由からだと思う。
1Q84を読みながら、自分は、カンボジアで、ルワンダで、ボスニアで起きた「ジェノサイド」を思い出した。残虐なやり方で昨日までの隣人を殺したのは、どこにでもいる平凡な人々だったのだ。ふだんは普通の人々の中に眠っている「悪」を突然発動させるものは一体何だろう。
善意の殺人者である青豆も首謀者である老夫人も、クールな傍観者である天吾も、いつの間にか「悪」のポジションに立ってしまう。善意の中に悪の芽がある。

だから教祖を殺したところで「悪」は死なない。教祖の中に潜んでいた「悪」は教祖を葬った殺人者に乗り移るだけのことなのだ。そうやって悪は生きのび、世界に拡がっていく。

リトルピープルが個人を破壊する「システム」の象徴だという人がいるが、そんな単純な話ではない。「悪」は老若男女誰の心の中にも、何の変哲もない日常空間の中に生まれる可能性がある。
4月に出版されるブック3で描いてほしいのは、教団内部で「悪」が生まれ、進化し、拡がっていった過程。