千松信也「ぼくは猟師になった」

めずらしい人もいるものだ。大学(京大)を出て、猟師になった人の話。猟師では食べていけないので、運送会社でバイトをしながら猟師を続けている…。
そうなんだ。日本では、猟師は食べていけないのだ。前半は、なぜ猟師になったか?という生い立ちの話。小さいころから生き物が好きだったこと。動物に触れる仕事がしたくて、獣医をめざそうとしたこと。
学生の頃、バイト先で猟師と知り合い、ワナ猟の手ほどきを受ける。卒業後、京都の郊外に住み、猟師生活を始める。猟師では食べていけないので、運送会社で働きながら狩猟を続けている。
後半は、狩猟生活のディテールを解説してくれる。
ワナ猟では、シカとイノシシを捕る。考えてみれば当たり前のことだが、捕った獲物は、(ワナでは死なない)自分で殺して解体・精肉しなければならない。シカで2〜3時間、イノシシなら数時間を要するという。その当たり前のことに衝撃を受ける。自分にはとてもできない。いや訓練すればできるかもしれないが大変だ。捕まえた獲物は、その日のうちに処理しないといけないので、猟期の忙しい時には、徹夜に近い作業になることもある。その他、網を使った鴨やスズメの猟の様子。肉の処理や調理法などの説明が続く。猟期以外も魚を捕ったり、木の実を採集したり、鹿皮をなめしてバッグを作ったりの生活。これは農業が生まれる以前の狩猟採集生活ではないか。いわば縄文人の生活。
それは究極のロハスだと思った。私たちは普段スーパーでパック入りの肉を買う。レストランで肉料理を食べる。その時、その肉が屠殺され、解体され、精肉された家畜の一部であったことを意識することはない。
猟師になるということ。それは現代人が忘れてしまった肉食=殺生の世界に自ら身を置くことに他ならない。しかし、この本を読んでいて、不思議に残酷さやこわさは感じない。むしろ自然と一体となって生きる清々しさすら感じる。著者が猟銃ではなく、ワナを使う猟にこだわっているせいかもしれない。国家は、このような「殺生」を隔離し、差別することで、その権力を維持してきた。

この清々しさは、自然を搾取しない生活。自然が与えてくれる最小限の恵みだけで生きる生活から来るのではないかと思う。
そういう生活を自ら選んで飛び込んでいく著者の姿勢は、とてもラディカルだ。この本を読むと、農業ですら自然を搾取している。と感じる。