本が読めなくなった。

春頃から急に。

今年の3月頃から、急に本が読めなくなった。症状はこんな感じ。読み始めて数ページも進まないうちに集中が途切れ、本を閉じてしまう。目は文章をたどり続けているのに数行過ぎてから意味が入ってこないことに気づく。それとすぐ眠たくなる・・・。10代からずっと続けてきた読書は、僕にとって趣味というより食事や睡眠と同じ、生きる糧である。そしてこれからの老後の数少ない楽しみのひとつでもある。それができなくなった。困る。困るどころではない。本がない人生なんて生きててもしょうがないと思った。

白内障のせい?

まず疑ったのが、今年になって急に悪化した白内障。最初はランニング中に左目が眩しいと感じはじめ、そのうち左側の視野がぼやけるようになってきた。本を読むときも右目だけで読んでいる感じで疲れやすくなっているのは確か。以前から白内障と診断されていたが、それほどひどくないので、予防の目薬のみの治療で済ませてきた。眼科で診てもらうと、左目の白内障が進行していることが判明。早速手術を受けることにした。手術は少し手間取って、こわい思いをしたが、無事終了。左目の視界が戻ってきた。しかし本が読めない状態は変わらない。

これって認知症の初期症状?

認知症?思い当たる節は色々あって、まず、物忘れがひどくなっていること。短期記憶を中心に、直前の記憶が欠落することが多くなった。例えば、洗面所にいて「あれ、今、僕は歯を磨いたんだっけ?」と、ハブラシの濡れ具合を確かめたりする。廊下の物置を開いて「あれ、僕は何を取りに来たんだっけ?」みたいなことがしばしば起きるようになった。まあ、今のところ日常生活に支障を来すほどではないけれど・・・。他にも固有名詞が絶望的に思い出せなくなったこと。クルマの運転が下手になったこと。もうひとつ気になるのが走るのが遅くなったこと。以前と同じようなペースで走っているつもりなのに、タイムを見ると1kmで1分近く遅い。以前テレビの健康番組で「歩くのが遅くなったら、認知症を疑ったほうがいい」と医者が語っていた。走るのが遅くなるのは関係あるんだろうか?それと、昼間でもすぐ眠たくなって、よく寝ること。毎日10時間ぐらい眠るようになった。症状をあげていくとキリがないなあ。このまま認知症が進んで、要介護の老人になってしまうのだろうか。精神科で診てもらうことも考えた。でも、その前に、他に原因がないか探ってみよう。

「毎日が日曜日」と「コロナ禍」の巣ごもり。

この春、自分に起きたことを考えてみた。いちばん思いあたるのが「仕事がなくなったこと」定年後、細々と続けてきた仕事は、先細るいっぽうだったが、今年になってほぼゼロになった。昨年から契約していた求人誌の在宅ライターの仕事も、ペースや仕事の進め方になじめず、2月に契約を打ち切ってしまった。3月以降は完全な「年金生活者」になった。その変化を歓迎する気持ちもあった。「これからは思う存分本が読める。ランニングも毎日好きなだけ練習できる」と期待していた。しかし、フタを開けてみると、全然違っていた。それとコロナによる自粛も。

受注型生活のせい?

半世紀近く続けてきた「働く」という生活が止まったこと。仕事で外に出かけ、人に会い、資料を読んだり、アイデアを出したり、文章を書いたり、誰かと飲んだり食べたり・・・。そんな生活のリズムがいっきに失われたインパクトは思った以上に大きかったのかもしれない。仕事にからんで様々な刺激が加わることで脳が活性化されていたのだろう。それと40年近く続けた広告制作の仕事で染みついた受注型生活。僕たちの仕事は、最初に課題やテーマを与えられ、それに応える形で動いてゆく、典型的な受注型ビジネスなのだ。だから仕事(課題)を与えられないと、脳のスイッチが入らないのだ。仕事がなくなって課題が与えられない状態になると、脳のスイッチが入らないまま、精神活動が止まってしまった・・・。それにコロナ禍による巣ごもり生活が加わって事態が悪化していったのかもしれない。本も読めず、外出もできず、テレビでコロナ報道ばかりを観ていた。すぐ眠たくなって、午睡が毎日の習慣になった。そんな生活が3カ月近く続いた。時々、近所の書店を訪れてみるが、どの本も読める気がしない。本を手に取ることもなく店を出ることが多かった。思い切って本を買って帰っても、読む気が起こらず、積ん読の山が高さを増すいっぽうだった。

模型づくりで無為から逃れる。

本の読めない、無為の日々から救ってくれたのが「模型づくり」。無意識のうちに、手を動かして何かを作ることを求めていたのだと思う。たぶんジグソーパズルとかテレビゲームでもよかったのだと思うが、 何かもう少しカタチがあって手応えのあるものを作りたかった。中学ぐらいまでは熱心な模型少年だったが、もう半世紀以上遠ざかっている。今の自分にもう一度模型など作れるだろうか?何を作ろうかと考えて、迷わず選んだのが「原子力潜水艦シービュー号」。1960年代半ばにテレビ放送された連続SFドラマに登場する潜水艦。かなり熱心に見ていたと思う。なぜ今頃「シービュー号」なのか、それを話すと長くなるので別の機会にしよう。メビウスというアメリカのメーカーが出している1/128スケールのプラモデルをamazonで購入。半世紀ぶりの模型作りがはじまった。本と同じように集中力が続かないのではないかと心配していたが、始めてみると、1日中でも飽きずに作業に没頭できた。60代半ばの年寄りが少年みたいに模型づくりに打ち込んでいる姿を家人は気持ち悪そうに見ていた。シービュー号の他に、プラモデルを2点、やまつみという地形模型、ペーパークラフトの「海底軍艦」を製作した。模型を作っていると、夢中で作っていた10代の頃を思い出す。

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武庫川ランニングに救われる。

模型作りのおかげで、本が読めなくても、無為の苦しみも柔らげられ、コロナごもりの日々が過ぎていった。模型づくりに疲れると、着替えてランニングに出る。武庫川のそばに住んでいるので、三密を気にすることなく走ることができた。外の空気を吸って汗をかくと、落ち込んでいる気持ちがちょっと晴れる。毎日ランニングできる環境と習慣に感謝した。

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村上春樹「猫を棄てる」が読めた。

6月の終わり頃だったと思う。近所の書店で、ふと目に止まったのが村上春樹の「猫を棄てる」小さくて、薄い本。新書サイズで100ページほど。著者が父のことを語ったエッセイらしい。なんとなく読めそうな気がした。思い切って購入することにした。さっそく家に帰って読みはじめた。驚いたことに、1時間ほどでいっきに読めた。著者特有の、サクサクと読みやすい文章のせいかもしれない。それとページ数対効果というのか、読む労力に比べて、得られるものが大きかった。ずっと村上作品を読み続けてきた者にとっては、「そうだったんだ」と腑に落ちる部分がたくさんあった。例えていうと、登山などで、長い道のりを歩いたあと、見晴らしのよい場所から、自分が歩いてきたコースを振り返って「僕が歩いてきたのは、こんなコースだったのか」と発見と納得と感慨が一緒に来るような感じ。小さな本なのに、読後感が驚くほど充実していた。どこが腑に落ちたかを少しだけ具体的に書いてみる。

それは村上作品の中に描かれた「戦争」のエピソードについてである。僕には、村上作品の中に、なぜ「ノモンハン事件」や「日中戦争」の話が出てくるのかが、ずっと謎だった。理屈は色々言われているが、いまひとつ納得できなかった。その謎が、本書を読んでいっきに氷解。書かれているのは著者の父の戦争体験である。父親は3度召集され、一度は日中戦争で戦った。過酷な兵役だった。除隊後も、父が属していた部隊は、ビルマなど、南方に送られ、ほぼ全滅に近い状態だったという。その体験は父親の人生に大きな影響を与えたようだ。著者は、子供の頃から、父が毎朝欠かさず長いお経をあげているのを見ていたという。父親は自らの戦争体験をほとんど語らなかった。しかし、その記憶は、父を通じて著者の心身にも刻み込まれている・・・。この本については、別に感想を書こうと思う。ともあれ、なぜか、この本がきっかけになって、他の本も少しずつ読めるようになっていった。次に読んだのが村上春樹の短編集「一人称単数」。この本の短編を1日1編ずつ読んだ。ちょっと不思議な話ばかりを集めた作品集で以前読んだ「東京奇譚集」の続編のような感じ。著者が少年時代を過ごした夙川や芦屋といった阪神間を舞台にした作品もあって、かすかに「猫を捨てる」と同じ空気が流れていると感じた。

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ツバメ号とアマゾン号」を再読。

「猫を棄てる」「一人称単数」を読んだあと、少しずつ本が読めるようになってきた。まだ多くの本は、生理的に受けつけず、読める本は限られていた。かろうじて読めるのが昔読んだ本。それも10代の前半までに読んだ本。ある日、読めない本ばかりが並んでいる自分の本棚を眺めていて、1冊の本に目が止まった。アーサー・ランサムツバメ号とアマゾン号」イギリスの児童文学で、小学校か中学の図書館で借りて読んだ本。イギリスの湖水地方を舞台にした冒険物語で「ランサム・サーガ」と呼ばれるシリーズになっている。大人になってから、再読してみようと思ってシリーズの第1巻だけ買ってあった。箱入りの大きな本を引っ張り出して読んでみると、どういうわけか、十数ページをいっきに読み続けることができた。少年たちが夏の休暇に湖の中の小さな島で過ごす話。僕らが自転車に乗るのを覚えるように、彼らはヨットの操縦を覚え、湖の冒険に乗り出していく。そこには海賊(少女の姉妹)や敵、土人たち(大人たち)もいる。ヨットの操船に関しては子供向けとは思えないほどしっかりディテールが書かれていて、読み応えがある。毎日数十ページずつ読み進むことができた。「ツバメ号とアマゾン号」のあと、「ランサムサーガ」の作品を何冊か読んだ。7月の終わり頃には、それ以外の本も少しずつ読めるようになっていた。

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この文章を書いているのは10月4日。村上春樹、ランサムの次に読んだのはアーサー・クラーク「海底牧場」、ジュール・ベルヌ「海底2万里」、コナン・ドイル「マラコット深海」など。毎日少しずつ読んだ。どれも10代に読んだ本の再読。3月〜8月の半年間で読んだ本は10冊ほど。それまで月に5〜10冊は読んでいたので、驚くほどの少なさ。9月以降は、新しい本も読めて、月数冊ペースに戻りつつある。ようやくトンネルを抜けた感じ。それにしても、この半年間、僕に何が起きていたんだろう。
本が読めなくなるというのは、たぶん、老化によって現れる(失われる?)症状のひとつなんだと思う。少しずつ進んでいくこともあれば、ある日突然現れることもある。本を読む速度は明らかに以前より遅くなっているし、以前のように数冊を並行して読むのが難しくなっている。そこに定年やコロナ禍のような生活の大きな変化が加わると、症状がいっきに進んでしまうのかもしれない。

新井紀子「AIに負けない子どもを育てる」

「A I ブーム本」っぽいが、内容は正反対。

前作の「AI vs 教科書が読めない子どもたち」と同じく「AIブームに乗っかって売らんかなの意図丸出し」のようなタイトルだが、中身は全然違っている。逆にAIブームの不毛さを警告するような内容である。そして何より、本書は、日本の子どもたちの学力低下について警鐘を鳴らす本なのである。著者は数学者で、2011年より人口知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」のプロジェクトデイレクターを務めた。そのプロジェクトでの経験が、本書の主要なテーマであるRST(リーディングスキルテスト)につながっていく。

東ロボ君の挑戦。

「ロボットは東大に入れるか」プロジェクト、通称「東ロボ」プロジェクトは、最先端の人工知能の研究者が集まって、ロボットというよりAIに、東大の入試問題を受験させるというもので、7年にわたって続けられた。東ロボ君は、2013年からセンター模試と東大模試を受験し始め、2016年にはMARCH(明治、青学、立教、中央、法政)と関関同立関西大学関西学院大学同志社立命館)に合格可能性80%以上の判定を受ける。しかし目標であった東大入試に合格する見込みは立っていない。前作の「AI vs 教科書が読めない子どもたち」で著者は、AIの研究者たちががどのように入試問題に取り組んだかを紹介している。

AIは、意味を理解できない。

著者によるとAIには本質的ともいえる弱点があり、その弱点のせいで東大の入試問題を突破できなかったという。AIはコンピュータであり、コンピュータは計算機であり、計算機は計算しかできないという。つまり数式で表せないことはコンピュータにはできないのだ。前作では、東ロボ君が問題を解く仕組みや方法論を解説しながら、AIの可能性と限界について、実にわかりやすく教えてくれた。その中で、著者が繰り返して語っているのは、コンピュータは「意味を理解できない」という事である。その代わり、膨大な計算処理や統計、確率論を駆使して答えを出すことが出来る。人間とはまったく違う仕組みで問題を解くAIには、長文の読解や記述問題には歯が立たず、新たなブレイクスルーがなければ、東大入試突破は不可能と判断されたという。

「意味を理解できないAI」に負ける子どもたちがいる!

著者たちは「東ロボ」プロジェクトを進める中で「意味を理解できないAI」より成績の悪い子どもたちが大勢いることに気づく。著者は「ひょっとしたら彼らは、問題をきちんと理解できていないのではないか」と疑いはじめる。入試問題は、そのほとんどが高校までで学んだ教科書の中から出題される。「子どもたちは、教科書を理解する以前に、教科書そのものをきちんと読めていないのではないか」と著者は考えはじめる。それを検証するために考案されたのが、本書で紹介されるRST(リーディングスキルテスト)である。

リーディングスキルテスト(RST)とは?

リーディングスキル」とは「読解力」「文章の意味を理解して正しく読む力」である。それはすべての学習の基本となる能力であり、その劣化が、子どもたちの学力低下を引き起こしているのかもしれない。前作では、RSTを様々な学校で実施し、RSTの結果と学力の相関を検証していく。その結果、子どもたちの中に「教科書が読めない子どもたち」がかなりの割合を占めている現状が明らかになる。また、RSTと偏差値との相関もわかってきた。RSTの平均点が高い高校は、偏差値においても高いポジションに位置しているのだ。RSTに対して批判の声も少なくないという。「たった35分ほどで終わるRSTが何時間もかかる模試の成績と相関があるなんて信じられない。インチキではないか!」「問題の文章が読みづらい悪文なので、間違ってしまうのだ。」などなど…。そんな批判にも著者はひるまない。RSTの受験者が増えていくにつれて、著者の主張が間違ってないらしいことが明らかになってきたからだ。子どもたちの「読む力」は明らかに低下している。著者は前作で警鐘を鳴らしてはいるが、その原因や対策については触れられていない。「ちゃんと文章を読む力」は、そう簡単には身につかないからだ。本書では、一歩進んで、子どもたちの読解力低下の原因についても触れられている。著者は、小学校におけるプリントやワークシートを多用する授業が、子どもたちの学力低下を招いている可能性があると指摘する。また正しい読解力を身につけるための授業の方向性を示すモデル授業も本書のなかで提示されている。

RST体験版をやってみた。む、むずかしい!

その後、著者は「教育のための科学研究所」を立ち上げ、28万部が売れた前作の印税の収入を投じて、全国でRSTを実施するためのシステムを構築したという。本書では、RSTが生まれた経緯とその意図や仕組みがくわしく語られている。そしてRSTの体験版も収められている。本書を購入後、すぐやってみた。6分野7項目から構成され、各項目は4問が出題される。各問題は、ツィッター程度の短い文章を読んだあと、短い問題が出され、1〜4択で答えるという形式。

係り受け解析・・・文の基本構造(主語・述語・目的語)を把握する力。

②照応解決・・・・指示代名詞が指すものや、省略された主語や目的語を把握する力。

③同義文判定・・・2文の意味が同一であるかどうかを正しく判定する力。

④推論・・・・小学6年生までに学校で習う基本的知識と日常生活から得られる常識を動員して文の意味を理解する力。

⑤イメージ同定・・・文章を図やグラフと比べて、内容が一致するかどうかを認識する能力。

⑥具体例同定・・・言葉の定義を読んでそれと合致する具体例を認識する能力。※具体例同定は、辞書由来の問題群(具体例同定(辞書))と理数系教科書由来の問題群(具体例同定(理数))の2項目に分類される。

結果は70点満点で48点。自分は「前高後低タイプ」こわいほど当たってる。

一見、簡単に思えるが、けっこう難しい。30分ほどで解答を終える。最後の項目の具体例同定(理数)がほぼ全滅!トホホ!各項目は10点満点なので、6.86点平均。予想はしていたが、ちょっとガッカリ。11万人が受験した結果から、得点の分布によって、いくつかの特徴的なタイプに分類されるという。僕のタイプは「前高後低型」。前半の3項目が6点以上で、後半の3項目のうち2つ以上が3点以下。著者によると、大企業のホワイトカラーや教員のうち、この本を手に取る可能性が高いと考えられる層でもっとも多いタイプだという。著者による分析を引用しよう。「活字を読むことは嫌いではないし、知的好奇心はあるのに、理数系やコンピュータに対して苦手意識はありませんか?」「1行1行確実に読むよりも、キーワードを拾って、『いま、こういうことが話題になっているんだな』とザックリ理解しようとしていませんか?」「高校1年までには『数学が苦手だな』と感じ始めたのではないかと思います。それは推論と具体的同定(理数)が苦手、つまり論理と定義を理解する力が不十分なためです」「活字を読むのが好きで暗記が得意だったため、文系科目の成績がよかったことのギャップから、早い段階で数学に対して苦手意識を持ってしまった可能性があります。」おっしゃる通り!グウの音も出ません。

たった30分ほどののテストで、ここまでわかるか!

自分のことを振り返ってみる。小学校から本を読むのは好きで、SFやミステリーを辞書を引きながら読んだ記憶がある。もともと算数の計算ドリルが大嫌いで、中学に入った時から数学が苦手だと感じていた。高校ではもう「お手上げ状態」だった。このタイプは、著者によると「推論が苦手なのを別のことで補おうとすると、経験値か空気(同調圧力)か、ネット等の情報に頼ることになることでしょう。そうすると、2つの極端な行動パターンに走りがちになります。(中略)自己啓発本に感化されて、ベンチャーを立ち上げたり、積極性をアピールするために、やたらと提案することで自滅したり、部下や同僚を疲弊させるというパターンもあります。どちらにも共通する点は『情報量過多で論理力不足』です」

ここまで痛いところを突かれると、かえって気持ちいいぐらいだ。これまでの人生で薄々感じていたことが、白日の下に晒され、深く納得するとともに、なぜもっと早く気づいて修正できなかったのか、という後悔も生まれる。昔からSFが大好きで、サイエンスの本を読むのも好きだったが、読んでいるうちに、ちょっと数式やグラフが出てくると、そこから先に進めなかった。会社の経営に関わるようになっても、決算書がきちんと理解できず、適切な判断ができなかった。人生の挫折や、失敗や、いろんなことが、ここから始まっていたのだと、今になって理解するのは辛すぎる。それも65歳という年齢で気づかされるのは残酷すぎる。

最初に読んだのは「数学は言葉 」

大きな声では言えないが、実は自分の文章力に疑問を持っている。コピーライターとして40年近く言葉を綴ってきて、文章は、いわば商売道具のようなものだが、自分が、どこに出しても恥ずかしくない、きちんとした文章を書けるかというと、なんだか心もとないのである。例えば、僕が、今から大学に入って何かの研究をして、論文を書くことになったとする。その論文は、学術的に正しく書けているだろうか。例えば、どこかのオピニオン誌に、何かのテーマについて評論的な文章を書くことになったとして、ちゃんと論理的な文章を書けるだろうか?そんな風に考え始めると、ますます自信が失われてゆくのである。

自分の文章にはきっと何か大切なものがが欠けている。それは何だろう?と疑問を抱きながら、ずっと生きてきた気がする。その問いに答えてくれたのが、著者の本「数学は言葉」だった。自分に足りないのは「論理」である。そして「論理」とは「数学」である。著者によると、英語よりも世界で共通する言葉が数学であるという。しかも科学とは、世界を数学の言葉で記述することであると言う。そうか、足りないのは数学か?ということで、著者のほかの本を読むようになった。「こんどこそ!わかる数学」「コンピュータが仕事を奪う」「ロボットは東大に入れるか」その次に読んだのが「AI vs 教科書が読めない子どもたち」そして本書という順番だ。

本書も、RSTも、65歳になった僕には無用のものかもしれないと思う。今さら「論理力」なんか身につけてどうする、とも思う。ただ、これから子どもたちの学力や、教育がどうなっていくかは、とても気がかりだ。僕が、数学が苦手になりかけた時、それを正しく導いてくれる人間は、周囲にはいなかった。もちろん、周りのみんなは、自分の力で苦手な数学を克服し、論理力を身につけていったのだし、僕がさぼっていただけなんだけれども…。いまの子どもたちには、正しく導いてくれる教師や大人たちがいてほしいと思う。

本書の印税を使って、全国の学校のホームページを無償で提供。
本書もベストセラーになっていくだろう。あとがきで、著者は、本書の印税で、次にやることを宣言している。それは、日本全国の幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校のホームページを無償で提供することだという。著者は2005年から、教育機関向けのグループウエア NetCommons(ネットコモンズ)をオープンソースで提供してきた。開発コンセプトは、パソコン操作に自信のない教員でも簡単にそして安全に情報発信ができる「学校ホームページソフト」を提供することだった。2011年東日本大震災が起こった時、被災県はどこもネットコモンズのユーザーだったという。その中で、クラウド上でネットコモンズを利用していた学校は、地震直後から避難所閉鎖まで、情報を発信し続けることができた。ホームページを通して、その日のうちに生徒全員の帰宅や家の被災状況が確認できたという。一方、文部科学省には、学校の基本情報を把握する仕組みがなく、毎年学校基本調査を行なっているにも関わらず、複数の異なる課が、紙で管理しているだけでした。震災発生時、文部科学省は、各県の教育委員会にFAXなどで連絡し、県の教育委員会は、市町村の教育委員会に連絡し、そこから各学校に転送するというバケツリレー方式を想定していたというが、当然そんな仕組みは機能しなかった。著者は2012年から、学校のホームページは安全なクラウド上に移し、学校の基本情報や緊急情報などは機械が理解できる形で集約すべきだと、あらゆる機会に説いてきたという。小中学校はどんな小さな市町村にも必ずあり、小中学校の情報を把握すれば、どの地域にどんな危機が発生しているか、リアルタイムでわかるはずである。著者は文部科学省をはじめ、総務省国交省内閣府に頼みにいくが「必要なことだし、たいへん良いことだけれども、うちでは引き受けられない」と断られたという。

その後も、熊本や北海道で地震が発生。豪雨による被害も毎年のように発生するし、南海・東南海地震の可能性も高まっている。「もう待つことはできない」と行動を起こしたという。まずは国公立・私立の区別なく、すべての幼稚園・保育園・小中学校・高等学校に対して、基本的なホームページを無償で提供するプラットフォーム「edumap」を2020年春に向けて準備するという。近い将来には、給食だよりや学校の行事予定や週の持ち物などを機械が処理できる形で発信できるツールも提供する予定。そうすれば多様なルーツを持つ生徒が通ってきても、保護者は自分の母語機械翻訳して読むことができるのだ。本書の印税は、すべてedumapの構築とメンテナンスに充てるという。本書を買うことは、著者の勇気ある決断と活動を応援することになるのだ。これからも、著者の活動を応援したい。

 

水野良樹が気になる。

音楽と言葉についての考察、その3かな。

最近、とても気になっているミュージシャンがいる。水野良樹という人。「いきものがかり」というグループの名前は知っていても、リーダーの名は知らないという人は多いのではないか。僕も知らなかった一人だ。「SAKURA」という曲が気に入って、アルバムを1枚だけ買ったことがある。パワフルな女性ボーカルとメロディが印象的だった。朝ドラの主題歌になった「ありがとう」、NHKのオリンピック放送のテーマソングになった「風が吹いている」などは、メロディはいいのだが歌詞がちょっと行儀良すぎて物足りないと感じたりして、その後はあまり聴いていなかった。リーダーの水野良樹については名前すら知らないままだった。

NHK「いきものがかかり水野良樹阿久悠をめぐる対話」

ところが2017年に放送されたNHKのドキュメンタリー「いきものがかり水野良樹阿久悠をめぐる対話」(確か、再放送で視聴)を観て、強い印象を受けた。番組は、作詞家の阿久悠の足跡を、水野が、様々な人と対話しながら、阿久悠の日記を読みながら、たどってゆくという内容。水野が対話する相手は、糸井重里秋元康いしわたり淳治などだった。最後は、阿久悠が残した未発表の詩「愛せよ」に水野が曲をつけ、山本彩が歌うという企画だった。

こんな知的なアーティストがいたのか!(失礼!)

驚かされたのは、番組の中で水野が語る言葉。糸井重里秋元康のような、ある意味、言葉の達人とも言えるような人との対話でも、水野の言葉は精彩を放っていた。言葉選びの精度が素晴らしく高い。表現しにくい微妙な気持ちや概念をこれほど精密に言語化できる人を他に知らない。語られる論理や概念は明晰そのものだが、それを表現する言葉には独特のぬくもりと柔らかさがある。言葉に決して角が立たず、フワリと耳に入ってくる。声が特別というわけではなく、口調というのでもない。何だか不思議な人だ。何気なく見始めた番組だったが、最後まで食い入るように観てしまった。この時初めて水野良樹という名前を知った。

NHKいきものがかり水野良樹のうたがたり」

そして、今年3月に放送された「いきものがかり水野良樹のうたがたり」でも同じような感銘を受けた。この時は、彼の言葉だけではなく、彼の考え方にも共感を覚えた。残念ながら録画しておらず、正確な内容は覚えていない。そのため、ここからは記憶を元に書くので正確ではないと思うが許して欲しい。

「うた」への思い。

水野は「うた」に対して特別な思いを抱いている。彼は、自分たちを理解し愛してくれるファンのコミュニティの中だけで歌っていてはだめだと思っている。自分たちの音楽が、その外側にいる人々にも伝わらなければいけないと感じている。そして、どうすれば伝わるのかをずっと考え続けているという。それって傲慢ではないかと僕は思った。ふつう、自分たちの音楽のファンを育て維持していくだけでも大変なのに、それ以外の人々にどうすれば伝わるか、なんてことを考えるだろうか?

彼はこれまでに、自分のつくりだした「うた」が、聴く人によってまったく違う共感や感動で受け止められていることに驚かされたという。さらに、その「感動や共感」は、自分が意図したものとは違うものだったという。そして「うた」というものはそういうものであると思うようになったという。「うた」は、一旦、作り手のもとを離れると、もはや作り手のものではなく、独立した存在となって、聴いた人それぞれが、違う共感をおぼえ、「自分だけのうた」になり、さらに「人々のうた」になっていくというのだ。

桜のような「うた」をつくりたい。

水野は東日本大震災の後の「桜」を例にあげて自身の「うた」への思いを語ろうとする。震災の後、水野は、自分たちに何ができるかに悩んだという。どんな歌も、どんなメッセージも、あの災害を前にして色あせてしまう。そんな時、音楽に何ができるのだろうと水野たちは悩んだという。そして春が来て、何事もなかったかのように桜が咲いた。「桜」は人々を慰めようとしたわけではない。励まそうとしたわけでもない。同じように春がきて、同じように、ただ咲いただけだ。それでも、2011年の春に咲いた桜が人々をどれだけ勇気づけたことだろう。自分がつくる「うた」も、あの時の桜のようでありたいというのだ。水野が、桜を例にあげて「うた」への思いを語る場面には、ちょっと感動してしまった。涙が出た。

歌詞は、「個の言葉」で書いてはいけない。

「うた」に対して、このような思いを抱く水野は、歌詞を書くとき、できる限り、誰にでもわかる平易な言葉を選ぶようにしているという。限られた人にしか通じない、個人的な言葉の歌詞では「うた」は、多くの人にとっての「私のうた」にならない。この言葉を聞いて、僕が、いきものがかりの歌を聴いて、歌詞に物足りなさを感じた理由がわかった気がした。彼は意図的に自身の「個」の言葉を排除しようとしているのだ。彼にとって「うた」は、言ってみれば「公」(おおやけ)に属するものなのだ。しかし水野は番組の中で、こんな風にも語っている。「人々に伝わる『うた』を生み出すためには、結局は「自分」を出さないといけないのかもしれない。」「うた」に対して、ここまで考えているなんて、すごいなあ、と思った。

HIROBAという活動。

そんな彼が、最近になってはじめたのが「HIROBA」という活動だ。 音楽だけにとどまらない、自分だけにとどまらない、人とのつながりをつくっていく、開かれた「場」としての「HIROBA」。水野は、そこで様々な人の話を聞いたり、エッセイを書いたり、いきものがかりではないミュージシャンとコラボレートしたり、という活動を始めたのである。HIROBAのWebサイトに、その第一弾というのか、大先輩である小田和正と一緒に「YOU」というシングルCDをつくった話が紹介されている。

“YOU”を聴いてみた。僕には、B面の、水野が一人で歌う“ I ”の方が好ましかった。歌詞の言葉は、相変わらずお行儀が良すぎて物足りない部分もあるが、水野の人柄や考えを知った今では、彼のこれからの生き方をしっかり見据えた「決意表明」だと思った。

しばらくは水野良樹をしっかりモニターしておきたい。

「傘がない」ということ

音楽を言葉で語れるだろうか。

前回、恩田陸の「蜜蜂と遠雷」の感想を書いてみて、音楽を言葉で語ろうとすることの意味や難しさをあれこれ考えた。このブログの下書きには、音楽について書こうとした文章は、けっこうあるのだが、そのほとんどが書きかけのまま終わってしまっている。2ヶ月ほど前にNHKで放送された「SONGS 井上陽水」を観て書きかけた文章があるので、それを引っ張り出して書き続けてみようと思う。

「SONGS 井上陽水・第2夜」の「傘がない」を観て、不覚にも涙が出た。

70歳になった天才は、上機嫌で楽しそうに見えた。インタビューに応える、冗談とも本音ともつかない、人を食ったようなトークは、ますます快調だ。「温泉が好き」「ブラタモリのどれを消すかが問題」「健康が一番」などなど…。そんな陽水が 番組の最後に歌ったのが「傘がない」だった。

不覚にも涙が出た。

久しぶりに、ほんとうに久しぶりに「傘がない」を聴いて、不覚にも涙が出た。この曲は僕にとって、数少ない「タイムマシン・ソング」の一つなのだ。曲を聴いた瞬間、ほぼ半世紀前の、十代後半の自分に戻ってしまう。あの頃の気分や感情が生々しく蘇ってきて、もう冷静でいられない。この曲は僕にとってアブナイ曲なのだ。だからiTuneのプレイリストには陽水の「傘がない」を入れてないし、この曲を聞きたいときは他のアーティストがカバーした「傘がない」を聴くことにしている。それでも、この歌を、70歳になった陽水自身が、番組の最後の曲として選び、自ら解説を加えながら、歌ったことが、なんだか嬉しかった。

70歳の「傘がない」

陽水は最近、「傘がない」を、若い頃とは違う気持ちで歌うようになったという。「傘がない」の「傘」は、僕らが普段雨が降ればさす「あの傘」ではなくて、もっと広い、大きな「何か」であるように聴こえてくるようになったという。「傘」が象徴するものは何なのだろう?陽水は「児童の虐待」を例に挙げ、それを解決するためには気の遠くなるような時間や努力が必要だと言う。世の中の様々な問題を解決する方法、それはたいていの場合「ない」のだという。彼は、それを「絶望」と言ってみたり、「とにかくないんだな」と解説しようとするが、うまく言葉にできないようで、もどかしさのあまり、最後は「聴いてもらうしかない」と開き直ってしまう。

そこに行くための道が失われている。

人には、行かなけれならない場所がある。会いに行かなければならない人がいる。しかしこの世には、必ずと言っていいほどそれを阻む障壁がある。それは「渡れない河」だったり、「広すぎる海」だったり、「遠すぎる距離」だったり、「越えられない壁」だったりする。それらを越えていくたの手段が橋であったり、船であったり鉄道であったりするのだ。しかし大抵の場合、僕たちには、その手段が「ない」のだ。人とその人が求める物事の間に存在する大きな隔たり。それを越えるのは容易ではない。虐待のない家庭、永遠に続く愛、飢えや戦争の無い世界…。そこに行くための道筋は失われてしまっている。世界の不可能性?陽水は、それを「絶望」などと言ったのだ。何となくわかるような気がする。しかし僕には、どこかしっくり来ないのだ。この歌が呼び起こす感情は、もっと卑近で切実なものだ。それを自分の中できちんと言語化しておきたくて、この文章を書いている。

僕にとっての「傘がない」

「傘」というものが、ありふれた平凡な日用品であることに意味がある。「傘がない」というシチュエーションは、日常の中においてどんな状況で起こるだろう。傘というものは、どこの家の玄関にも数本は置いてあるものだ。普段出かける時に「傘がない」という状況に陥ることはほとんど無いといってもいい。例えば「傘を持たずに家を出て、途中で雨が降り出して困った」というケースはありうる。また「傘を持って出かけたが、どこかに忘れてきた」というケースもありうる。しかし、この歌が表現する「傘がない」はそのような状況ではない。

ありふれた日用品としての傘。

昔は、「傘がなくても」誰かが「これ、どうぞ」と貸してくれたものである。さらに、たいていの家には数本の傘が常備されているから、自宅を出る時から「傘がない」という状況はあまり無かったのではないか。傘は、どこの家にもあり、そして近所や知り合いの間で気軽に貸し借りするような、ありふれた日用品だったのだ。駅前の喫茶店で雨宿りをしていると、店のマスターが「これ、使って」と貸してくれたものだ。

しかし都会のアパートで一人で暮らす若者なら、事情は違ってくるかもしれない。彼は、傘を持っていてもせいぜい1、2本だろう。たまたま出かけた時にそれを忘れてしまい、今日は1本もない、という状況は起こりうる。しかし彼のそばには、家族もおらず、傘を気軽に借りられるご近所付き合いもない。傘を貸してくれるような数少ない友人も、近くにはいないのだろう。

「傘がない」が発売された頃のことを思い出してみる。当時の僕には、この歌が、家庭やご近所付き合いのような、コミュニティから孤立し、社会からも疎外された一人暮らしの若者の生き方を象徴しているように思えたのだ。この歌が発表された1972年、浅間山荘事件があった。学生運動はすでに下火になっており、一部の過激な活動家が地下に潜って先鋭化した果ての事件だった。僕らは、政治や社会に興味を失い、ひたすら内向・自閉していった。家族や親戚、ご近所といった日常的なつながりにも背を向けるようになっていく。僕の関心は、免許を取ったばかりのバイクと音楽、すっかり習慣になっていた読書に集中していた。そして恋愛。しかしバイクや文学や音楽で生きていくには才能もなく、恋愛も思うようにはいかなかった。何もかもうまくいかず、世の中からも取り残された自分。「傘がない」は、そんな僕自身の閉塞感や虚無感を代弁してくれているのだと思っていた。

自分が拒否しようとした社会や世間、そこから逃れ、のめり込もうとした恋愛。しかしそれすらも「ありふれた傘」が「ない」ことに拒絶されてしまう。自分が拒否し背を向けてきた「ありふれたつまらない日常」が復讐してくるのだ。「とても大切なもの」が「取るに足らないつまらない物」によって遮られ、失われようとしている。その不条理と哀しみが「傘がない」なのだと思う。

だから「傘がない」の「傘」は、陽水自身が語ろうとしたような、もっと大きな何か、広い何かを象徴するのではなく、かつて、どこにでもあった、身近な、小さな、ありふれた世界を表現しているのだと思う。それは、家族や、幼なじみやご近所同士、ご町内のつきあいといった、小さなつながりの世界である。陽水自身も、他の曲で、そんな世界への郷愁を繰り返し歌っている。「小春おばさん」「人生が2度あれば」「夏まつり」など…。

「傘がない」が創り出すイメージは、一方でかなりシュールである。僕には「傘がない」というよりは、歌の主人公と彼女の間を、無数のカラフルな傘が隔てているようなイメージが浮かんでくる。そして、このシュールさが、陽水の歌の大きな魅力の一つになって、多くの名曲が生まれたのだ。

ほぼ半世紀ぶりの衝撃。

自分の中で封印していた陽水の「傘がない」が、テレビからいきなり流れてきたことによって、心臓を鷲づかみにされたような衝撃を受けた。それから数日後、iPhoneに入れた陽水の「傘がない」をランニングの途中に聴いてみた。

恩田 陸「蜜蜂と遠雷」

恩田陸は、わりと読んでいるかな。デビュー作の「六番目の小夜子」から「夜のピクニック」などの学園モノから、「球形の季節」などのミステリー、「光の帝国」のような伝奇ロマンも嫌いじゃない。本格的なミステリーというより、ちょっとオカルトがかった世界観を楽しむ感じで読んできた。そういえば最近読んでないなあ。本書は人にすすめられて読んだ。上下2巻を一気に読んだ。面白かった。感動した。現実にある「浜松国際ピアノコンクール」をモデルにした音楽小説だ。直木賞本屋大賞をW受賞している。映画化も決まっているらしい。

巨匠が仕掛けた爆弾。

著名なピアニストで芳ヶ江国際ピアノコンクールの審査員を務める嵯峨三枝子は、パリのオーディションで衝撃的なピアニストに出会う。ジン・カザマという全く無名の少年の、あまりに異質な演奏は三枝子を圧倒し、恐怖のどん底に突き落とす。正規の音楽教育を受けたことのないジンの経歴には、三枝子を驚嘆させる1行が書かれていた。それは全てのピアニストが憧れる巨匠「ユウジ・フォン・ホフマンに5歳から師事」という一文である。しかもジンの応募には、巨匠の推薦状が添えられていた。ユウジが亡くなる前、親しい友人に「爆弾を仕掛けておいた」と語っている。三枝子は、ジンこそが巨匠の仕掛けた「爆弾」であったことを知る。三枝子はジンの合格を強硬に反対するが、他の審査員に押し切られ、ジン(風間 塵)のコンクール出場が決まる。風間塵は、養蜂家の父を手伝いながらフランス国内を移動する生活を送っていた。自分のピアノを持たず、行く先々でピアノを探し、弾いていたのだという。弟子をとらないことで知られたユウジは、この少年のために自ら出かけて行って指導したという。

天才たちの競演。

物語は、この恐るべき天才、風間塵の他に、かつて天才少女としてデビューしながら母の死によってピアノが全く弾けなくなってしまった栄伝亜夜、完璧な技術と肉体を持つ優勝候補のマサル、楽器店でサラリーマンとして働きながらピアノが諦めきれない28歳の高島明石など、コンクール出場者を軸に、その指導者や家族、審査員たちが絡みながら進んでゆく。

言葉で音楽を演奏する。

文庫で上下各450ページという長編だが、著者は読者をまったく飽きさせることなく、ラストまで引っ張っていく。本書の読みどころは、演奏の描写である。著者は、ありとあらゆる言葉を駆使して演奏を再現しようとする。というより、言葉によって音楽を演奏しようとしているかのようだ。クラシックにほとんど無知な僕にも、コンクール会場の客席で聴いているようなリアリティを感じた。天才たちの神々しい演奏に、思わず鳥肌が立つような場面が何度もあった。本書を読んで、架空の天才たちが演奏した曲の数々を現実の演奏家にで聴きたくなった。

文学で音楽できるか。

本書を読みながら、ふと疑問に思ったことがある。本書に何度も登場する演奏の場面。そこで得た感動は、果たして「音楽の感動」なのか?それとも「文学の感動」なのか?という疑問だ。本書に登場する天才たちは著者が創り出した架空の存在であり、彼らが演奏する音楽も、架空の世界の産物でしかない。演奏される曲は、実在の作曲家たちが産み出した現実の作品であるが、本書の中の天才たちが演奏する音楽は、この世には存在しない。あくまでも著者の内面に創りだされたフィクションであり、本書を読んで読者が脳内に創り出した仮想イメージでしかない。それを「音楽」と言えるだろうか?

まあ僕がこんなことを考えるのも、本書が僕らの心を根底から揺さぶるからである。本の感想を書くのは久しぶり。ここ数ヶ月、自分を取り巻く環境が変化して、本をきちんと読む精神状態になれずにいたせいだ。ようやく少しずつ回復しつつある。

ランニング用左右独立型ワイヤレスイヤホン購入記。

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ふだん音楽を聴くのは、週2〜3回のランニングの時のみ。仕事場への通勤の電車は読書にあてているし、家でも仕事場でも音楽はあまり聴かない。それでも1回のランでだいたい1時間から2時間は走るので、週に3〜5時間は音楽を聴いていることになる。そのためのオーディオは、iPhoneBluetoothのワイヤレスイヤホンである。ランニングにワイヤレスのイヤホンを使い出してから、もう10年以上になる。音質面では物足りない部分もあるが、一度でもコードのない快適さを体験してしまうと、もう元には戻れない。これまでに買ったBluetoothイヤホンは10個以上。たくさん買った理由は、よく壊れるからである。特に、最初の頃は、防水性・防滴性も不十分で、1〜2回の使用で壊れる製品も多かった。製品自体が防水・防滴を謳っていても、実際に使ってみると、雨の中を走ったり、大量に汗をかくと故障してしまうことも多かった。水道で水洗いできることを謳った製品でも、数回の使用で故障し、修理に出すと、充電用のミニUSB端子のカバーの隙間からわずかずつ水が侵入したための故障だと言われ、保証期間中なので、新品交換になった。3回も新品交換になった製品もあった。以下はそのエントリー 

nightlander.hatenablog.com

以来、防水・防滴を謳った製品でも信用しないことにしている。雨が降ってきたら、外してウエストバッグに収める。走り終わった後は、水洗いをせずに固く絞った布で拭くだけ。3回に1回は、イヤーピースを外して石鹸で洗うことにしている。それだけ注意していても、やっぱり壊れる。ランニング中というのは電子機器にとって過酷な環境かもしれないと諦め、シューズなど同じく消耗品と考えることにした。ただ、ここ1〜2年は、スポーツ用のBluetoothイヤホンもたくさん出てきたせいか、防水性も向上し、故障に見舞われていない。

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ワイヤレスの究極の姿である左右独立型ワイヤレスイヤホンは、登場してから数年で、価格が数千円まで下がってきた。2年ほど前にアップルから左右独立型のAirPodsが登場、早速購入した。当然のことながらiPhoneと組み合わせた使い勝手は抜群で、音質も悪くなかった。しかし、耳への装着がゆるく、防滴でもないため、ランニングには使えなかった。昨年あたりからランニング用を謳った左右独立型イヤホンが登場してきたので、購入を考え始めた。

候補に挙げたのは3機種。SONYBOSE、そしてJaybird。

連続再生時間がSONY3時間、Jaybird 4時間、BOSE5時間。ランニングの練習では、たまに3時間を越えることがあるので、SONYはちょっと不利。機能的にはSONYのみノイズキャンセル機能を備えている。ノイズキャンセルは、電車の中などでは絶大な効果を発揮するが、ランニング用に必要かどうかは疑問。むしろランニング中は、周囲の音が聞こえている方が安全だと思う。音楽に浸っていると、すぐそばをクルマや自転車がかすめていって怖い思いをすることがある。歩道を走っていて、後ろから来た自転車がベルを鳴らしているのに気づかなかったこともある。現在使用している左右連結型のBluetoothイヤホンでも、耳に差し込むイヤーピースを緩めのサイズにして外の音が聴こえるようにしている。そうすると低域が抜けてしまい、スカスカの音になる曲もあるが、iPhone側のイコライザで低域を持ち上げて補っている。SONY製は、ノイズキャンセル機能のONとOFFに加え、外部音が聴こえるモードを備えている。早速梅田のヨドバシで視聴してみる。

左右独立型は他のBluetoothイヤホンと違って勝手に視聴できないので、店のスタッフにお願いして視聴させてもらう。それぞれ自分のiPhoneにペアリングして接続、普段聴いている曲で視聴する。音の良いJazzと、低域のたっぷり入ったロックの曲、聴き慣れた女性ボーカルで比較。3機種ともハイレゾではないが、普段はiTuneのハイレゾではないライブラリーで聴いているので問題ない。筐体はSONYが一番コンパクトで、Jaybird、BOSEの順番に大きくなる。耳に装着したフィット感は、3機種とも悪くない。3機種とも固定用のフィンがあって、しっかり固定される。

コンパクトなSONY、大ブリなBOSE

SONYは一番コンパクトなので、目立たず、格好も良い。BOSEは筐体が大きく、耳から出っ張って目立つ。Jaybirdは、その中間ぐらい。装着した印象は、見た目も含めてSONYが気に入った。音はどうだろう。

ソニーらしい清潔で緻密な音。

店頭でじっくり聴き比べるのは難しい。ざっくりと聴いた印象。SONYは、おなじみの清潔で緻密な感じの音。所有しているソニー製のワイヤードイヤホンと傾向が似ている。割と好きな音だが、曲によっては物足りないところがある。それと、ちょっと低音が弱いと感じた。さらにiPhone側で出力を最大に上げても音量が小さめ。多分、実際に聴く時は問題ないと思うが、騒音の多い店頭では損してるかも。

Jaybirdはクセのない素直な音で聴きやすい。

普段一番よく使っているオーディオテクニカに近い音。低音は十分ではないが、ランニング中なら気にならないだろう。専用のアプリのイコライザーでかなりいじれそう。筐体に大きく表示されたjbのロゴが目立つのがちょっと。

重低音のBOSE

筐体が一番大きいせいか、低音が明らかにしっかり出ている。今まで使ってきた、どのワイヤレスイヤホンと比べても、明らかに低音が力強い。重低音好きとしては、かなり惹かれる。筐体の大きさは、装着してみると気にならない。スペックでは片チャンネルあたり1〜2gほど重いが、それほど気にならない。筐体が大きいせいか、操作ボタンも大ぶりで操作しやすい。

どれを選ぶか。

店頭の試聴では、時間の制約もあり、結局わからないことも多い。低音不足と感じたのは、イヤピースのサイズが小さくて耳に合わず、密閉度が低かったせいかもしれない。音が途切れるのは、店内に充満する電波のせいかもしれない。音が硬く、レンジが狭いのは、箱から出した直後で、エイジング不足のせいかもしれない。同じ曲での比較も、少し時間を置くと、前の試聴の音を忘れてしまう。結局は、ざっくり聴いた印象でえ判断するしかない。重低音の印象と一番長い連続再生時間でBOSEに決定。

 実際に使ってみる。

早速、家に帰って充電。充電は専用の充電ケースで行う。この充電ケースで2回フル充電できるのでトータル15時間の再生が可能だ。気になったのが、この充電ケースの大きさ。サイズは100mm W x 38mm H x 48mm Dで、重さも80g。他の機種の倍近い。ランニング用の小さなウエストバッグの中では、かなりかさばる。これでは充電ケースごとランニングに持ち出す気にならない。ちょっと後悔。まあレースでもなければ5時間以上走ることは滅多にないので、ケースを持って走ることはないだろうと納得する。

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AirPodsとの比較(上から充電ケース、充電ケースオープン、イヤホン本体)


装着感は良好。

まずは室内で試聴。前後に長いユニットを縦にして耳穴に入れ、ねじるように押し込む。これだけでシリコン製のイヤピースと一体になった固定用のフィンにより、かなりしっかりと固定される。外部音はかなり遮断される感じ。iPhoneとのペアリングも簡単だ。iPhoneのプレイリストを呼び出して、いつもの曲を再生してみる。2万円クラスのワイヤードのイヤホンや、オーバーヘッドの大型ヘッドホンと比較してみると、やはり物足りない。空間が広がらないのと、音に緻密さがなくなる感じ。しかし、これまで使っていた左右連結型のワイヤレスイヤホンと比べると、BOSEのほうがレンジが広く、低音もしっかり出ている。サウンド的にはほぼ満足できると思った。

試走。

後日、ランニングで使用してみる。装着して走ってみると、これまでの左右連結型のイヤホンに比べて明らかに重く感じる。しかし装着感は悪くなく、この状態で全力疾走しようと、ジャンプしようと外れるおそれは全くない。重さも走っているうちに気にならなくなった。走っている間に、装着が緩んだりすることもなく、1時間ほどのランで、装着し直す必要はなかった。いつもの音楽を再生しながら、走り始める。操作のほとんどは右のユニットで行う。離れた2つの凸部が音量の「+」と「ー」で、前側が「ー」で、後ろ側が「+」だが、感覚的には逆の感じ。その間の凹部がマルチファンクションで「再生/停止」「次曲へ/前曲へ」のボタンとわかりやすい。左側のユニットのボタンはBluetoothのON/OFFのようだ。ボタン類が大きいとはいえ、走りながら操作するのは面倒で、iPhone本体側で操作するほうが簡単だ。

音切れの発生。

室内では起きなかった音切れが発生。頭を回した時など、左側の音が、たまに途切れることがある。最近の左右連結型のワイヤレスイヤホンではほとんど起きなくなっている音途切れが時々起きるのには、ちょっとがっかりする。音切れは、一瞬で、すぐに回復するので、それほど気にはならないが…。音量は、イヤホン側とiPhone側の両方で調整可能。ボリュームを最大にしてもうるさいほどではない。IPhoneの目盛りで2つ下げたポジションで聴くことが多い。外部音は、かなり入ってくる。後ろから近づいて来る自動車の音などはわりと聞こえる。

防滴について。

半年近く使用しているが、防滴に関するトラブルは今のところゼロ。従来のように本体のカバーを開けてに充電用のUSBミニ端子を差し込む形式ではなく、充電ケースの電極部にセットするだけなので、端子口からの浸水が起きないためだと思われる。とは言っても「防水」ではなく「防滴」なので、使用後は、水洗いはせず、従来通り、固く絞ったタオルで拭くだけ。取り外せるイヤーピースを週に1度は水洗いするという方法を続けている。

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アップテンポ&重低音のロックと相性がよい。

走っているときは、音楽に集中しているわけではないので、音質的には十分と感じた。ランニング用に作った「マイマーチ」と呼んでいるプレイリストを再生してみる。山下達郎の「アトムの子」など、アップテンポで、ビートが効いた、重低音もしっかり入った曲ばかり集めたプレイリストだが、このイヤホンのサウンドととても相性が良く、気持ちよくノれる。

もう左右連結型のワイヤレスイヤホンに戻れない。

この文章を書いているのは、購入から半年あまり経過した時点である。半年経った時点で、次々に新しいモデルも出てきたが、現時点で選んでも、多分同じイヤホンを選ぶと思う。このイヤホンを買って意外だったのは、他のイヤホンを使う機会がほとんどなくなったということ。ランニング以外の、例えば電車の中でも、ワイヤードイヤホンも鞄に入れて持ち歩いているのだが、ほとんど、新しいBOSEを装着してしまう。それほど気軽なのである。次は、音質のよい左右独立型のBluetoothイヤホンを探してみるか、と思い始めたところ。 

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山崎広子「声のサイエンス あの人の声は、なぜ心を揺さぶるのか」

日本人の80%は自分の声が嫌い。

仕事柄、取材やインタビューなどで録音された自分の声を聴くことが時々あるが、そのたびに、ほとんど生理的と言ってもいいほど強い拒絶反応が起きる。「なんで自分の声は、こんなに薄っぺらで、フニャフニャしてて、貧相なんだ」と耳を塞ぎたくなる。著者の調査によると日本人の80%は、自分の声が嫌いであるという。自分の耳で聴いている自分の声と、録音された自分の声が全く 違って聞こえ、しかも嫌悪すら感じるのはなぜだろう?。その一方で、ある人物の声が、大きな会場の空気を、一瞬で変えてしまった現場に居合わせたことがある。数年前、あるシンポジウムで聞いた哲学者の内田樹の声がそうだった。パネラーの一人だった内田が、ちょっと耳がくすぐったいような声で話し始めると、会場の空気がすうっと透明になり、とても穏やかで、精緻で、知的な空間が出現した。他のパネラーが話し始めると、その魔法は一瞬で解けてしまう。そんな体験は初めてだった。内田の声だけをいつまでも聞いていたかった。友人のHさんは、歌手の玉置浩二の声をコンサート会場で聴くと、ホールの天井が消え、眼前に星空が広がっていくような体験をしたという。「声」とは、なんと不思議な現象だろう。人はなぜ自分の声が嫌いなのか?あの人の声は、なぜ心を揺さぶるのか?」身近でありながら、よくわかっていない「声という現象」を知りたくて、本書を購入。聴覚の仕組み、声の仕組みを解説する第一章、第二章は、少し退屈だ。それを我慢して読み続けると、第三章辺りから俄然面白くなってくる。一番の読みどころは、第五章の「政治家の声はどこまで戦略的?」と第六章の「ブルーハーツの歌はなぜ若者の心をつかんだのか」なかなかスリリングな読書体験になった。

声は脳の全体に影響を及ぼす。

著者はまず、声を聴く「聴覚」の仕組みについて語る。聴覚は、空気の振動を神経パルス(電気信号)に変換する耳と、その信号を処理する脳によって成り立っている。信号は、脳の聴覚野を通って、新皮質の言語野に送られ、言葉の内容を受け取る。それと同時に旧皮質にも送られ、「好き、嫌い、心地よい、不快」などの本能的な反応を引き起こすという。人が話すのを聞いていて、内容は間違っていないのに、なぜか反発を感じたり、嘘っぽく感じたりすることや、話の内容は大したことが無いのに、なぜか説得されてしまう、というようなことが起きるのは、この旧皮質と新皮質の問題なのかもしれない。最近の研究では、声は、さらに脳のほぼ全体に影響を与えていることがわかってきたという。

声専用の器官はない。

著者は、次に、声を生み出す仕組みについて語る。声は、気道の入口に位置する薄い膜である声帯と、咽頭、口腔などで生まれるという。しかし、これらの器官は、もともと声を発するために備わっているわけではない。声帯は、もともとは食物を食べたり飲んだりする時に気道に誤って食物が入ること(誤嚥)を防ぐ器官であった。咽頭、口腔も、呼吸や食物摂取のための器官である。声は、肺の不要な空気を吐き出して、声帯を震わせ、喉頭、口腔、鼻腔などを共鳴させることで生まれる。オペラ歌手になると、さらに頭蓋骨や胸郭を含む全身を共鳴させることでオーケストラの大音量に負けない声量を発することができる。声は、声専用ではない身体の器官によって生み出される。だから、声には、その人の心身の特徴が意図せずとも露わに出てしまう。声を聴くだけで、その人の身長、体格、顔の骨格、性格、体調、心理状態などがわかるという。

声は社会によって作られる。

さらに声には、身体的な特徴だけでなく、その人の生育環境や職歴も現れるという。人は自分が聴いてきた全ての音を基にして自らの声を作り上げる。石造りの家が多いヨーロッパでは、音がよく響くため、声は、低く、深くなる。一般に東に行くほど、人々の声は薄く扁平になっていく。それは乾燥した砂漠と土の家に適した発声であるという。アラブの人々は、体格的には西洋人と変わらないにもかかわらず男女とも甲高い声で話すという。これはイスラム教の地域で1日に5回も響き渡る「アザーン」の影響が大きいらしい。声を張り上げ、情熱的にコーランを唱える習慣が彼らの声を高くしているのだ。イスラム過激派アルカイダの司令官であったウサマ・ビン・ラディンは、身長が193cmもあったにも関わらず、声明などで聴くその声は驚くほど高かったという。彼の声は、低く豊かに響く声を好む西洋人に強い違和感を与えたのではないか、と著者は推測する。

雑音の日本。

そして日本を含む東アジアになると、家は紙と木で作られ、音はさらに響かなくなり、周囲の物音は筒抜けになる。そんな音環境の中で、日本人は、高く張り上げる声を和らげるために、雑音を含んだ声を好むようになったという。楽器においても、三味線にはサワリと呼ばれる雑音を出す仕組みがあり、笛類は風のような音を出すように進化した。辻弁士、ガマの油売り、バナナの叩き売りの口上には独特のリズムとともに多くの雑音が含まれているという。

声を戦略的に活用した政治家。

そんな「雑音の国、日本」で、声を戦略的に活かした政治家がいた。田中角栄元首相である。彼の体格や骨格からすると、本来は、もっと金属的な澄んだ声の持ち主であったという。しかし政治家に成り立ての頃に、田んぼや畑にどんどん入り込んで話をした経験から、戦略的に雑音を含んだ浪花節を思わせる声を使うようになっていったらしい。角栄氏が来るとなると、どこの会場も超満員。雑音を含んだダミ声で「いやあ、どうもどうも」と聴衆の気持ちを引きつけ、盛り上げる演説は大したものだったという。

日本人の女性の声は異常に高い。

様々な場所で多くの人の声を分析している著者が、最近気になっていることがあるという。それは日本人の若い女性の声の高さ。一般に身長が低ければ声帯が短くなり、声は高くなるが、かなり身長が高い女性でも、不自然に高い声で喋っているという。周波数でいうと350ヘルツ前後で、先進国の女性では信じられない高さであるらしい。女性の声の高さは「未成熟・身体が小さい・弱い」ことを表している。女性がそのような声を出すのは、男性や社会がそういう女性像を求めていて、女性が無意識に過剰な適応をしようとしているからだ。一般の女性だけでなく、テレビのアナウンサーの声にも、その変化は表れている。戦後から70年代半ばまでの女性アナウンサーの声は、喉を締めつけた、とても高い声で、息は短く、語尾に余韻のない硬い声が主流だった。自由な発声を押さえ込んだその声は、超がつくほど男性優位であった日本社会が求めた女性像だった。その後、バブル期に入ると女性アナウンサーの声も落ち着いた低い声が聞かれるようになってきた。男性に頼らずバリバリ働く女性の台頭、CNNなど、女性アナウンサーが低い声で話す英語ニュースの放送、低い声で話すバイリンガルの女性アナウンサーや、身長が高く地声の低いアナウンサーの起用なども、声が低くなった原因らしい。ところがバブルが崩壊し、混沌とした90年代を経て、21世紀が明けると、再び女性アナウンサーの声が高くなりはじめたという。戦争や不況や金融危機、大災害などで社会が不安定になると、人々の声は高くなる。危機を感じた人々の脳からストレスホルモンが出て全身の筋肉を固くし、喉周りの筋肉もこわばって固く張り詰めた声になるという。そうやって出された声がそこかしこで聞かれるようになると、ストレスホルモンが出てない人も影響を受けてしまう。社会不安の影響を受けるのは政治家も同じである。第二次世界大戦直前の各国首脳の声にもはっきりと現れていたという。著者は、声によって、現在の日本が向かっている方向を心配している。

声の制服、マニュアル声とアニメ声。

現在の日本では、話す人が違っても、まるで同じ人が喋っているような「作り声」の「職業声」が増えているという。特に接客業や営業職に多く見られる職業声は、まるで声をマニュアルか制服のように扱っているかのようだ。著者によると、自分の個性を消してうわべの職業声で話すことは、人間対人間の場面で個人を放棄することだという。それは楽かもしれないが、心身には大きな負担になっているはずだと指摘する。さらに2000年代初頭から、少女のような甲高いアニメ声がテレビのナレーションにも使われるようになったという。アニメ声は10歳前後の小学生の声の高さと発声を大人が模しているもので、テレビ以外でも様々な場所で聴かれるようになってきた。その結果、一般の若い女性もアニメ声を真似るようになっている。それは意図しているわけではなく、テレビでよく見かけるタレントの声に知らず知らずのうちに自分の声を似せてしまう同調作用である。コンビニやファミレスなどの接客でもアニメ声が増え、街でも大人の女性が、普通の顔をしてアニメ声で話している。それはとても異様な光景で、まるで成熟に背を向けているように感じられるという。

声の影響力 宗教編。

ラジオも、印刷技術も無かった時代、人々を動かしたのは声による伝道だった。地中海のマルタ島にある、紀元前2500年頃の古代遺跡の一つに「ハル・サフリエニの地下墳墓」がある。その中に「神託の部屋」と呼ばれる空間があり、そこでは女性の声はすぐに消えてしまうのに、男性の声の低い周波数帯(70〜130ヘルツ)だけが共振を起こし、最大で8秒もの残響があるという。「神託の部屋」で実際にその音を再現した研究者は「自分の中を声の響きが突き抜けて、同時に深いリラックスがもたらされた」と述べており、脳活動のモニターでも変化が確認できたという。アイルランドにも、さらに古い「ニューグレンジ」と呼ばれる遺跡でも音が特別に響く場所が発見されている。最近、ロシアのゲノム研究グループが「声に含まれる周波数が体内の遺伝子を修復する」という論文を発表した。古代の人々は、声に含まれる特別な周波数の成分が心身に及ぼす影響を知っていたのではないか。その後生まれたキリスト教イスラム教、仏教も、伝道者たちの声の力によって、教えを広め、人々を動かし、広がって行ったのではないか、と著者は考察する。

政治家の声の力。

20世紀が始まり、ラジオが生まれると、声の影響力は一気に拡大する。本書の一番の読みどころは、この章だ。最初にラジオを使って国民に語りかけたのは、アメリカの第32代大統領、フランクリン・D・ルーズベルト。彼は1932年に大統領選挙に勝利すると、Fireside chats(炉辺談話)と名付けられた毎週のラジオ放送で国民に語りかけ続けた。大恐慌時代、絶望と孤独に苛まれる人々に、どっしりと落ち着いた暖かい声は救いを与え続けたという。

テレビ討論をチャンスに変えたケネディ

次にメディアを巧みに活用したのが第35代大統領、ジョン・F・ケネディ。彼は大統領選挙で、勝利が確実だと言われていたリチャード・ニクソンを、初めてのテレビ討論を活用して勝利する。スーツやネクタイの色までテレビ映りを狙ったという。しかし、著者の見るところ、当時のモノクロ画面では、その効果は疑わしく、勝敗の鍵を握ったのは、やはり声だったのではないかと推測する。ケネディの声は張りがあって若干高め。対するニクソンは、ソフトで悪声ではないものの、演説を始めると大きく差が出たという。ケネディは話すときにほとんど顔を動かさないため、音声が安定している。そして大切な単語を最も出しやすい音程で効果的に響かせている。さらに声のピッチを下げて不安定にする「まばたき」を単語の切れ目や単語の初めに持ってくることで、話の内容をまっすぐ視聴者の心に届かせたという。一方、ニクソンは、とにかく無駄なまばたきが多く、その度に声が不安定になってしまう。さらに話している最中に顔を前後左右に動かすため、声が揺れてしまう。ケネディの声は、自信と誠意に満ちてストレートに心に届くのに、ニクソンの声から不安を感じ、自信がなさそうで、なんだか嘘っぽい…。そんなイメージが視聴者の中に堆積していき、投票間際に「ニクソンではダメだ」という決定的な印象を作り上げてしまったのではないかと著者は推測する。

戦争の世紀に声が果たした役割。チャーチルヒトラー

 「戦争の世紀」と言われた20世紀。新聞、ラジオなどのマスメディアは国威発揚の道具として力を発揮し、国民を戦争へ駆り立てていった。著者は、第二次世界大戦で、ナチスドイツの攻撃を受けたイギリスにおいて「決して降伏しない」と国民を鼓舞したウィンストン・チャーチルの声を紹介する。その声は、安定感のある低めの声で、あまり明瞭でない発音ながらも、話しながら、ゆっくりと情熱を高めていく。演説の内容は、攻撃的なのに、どっしりとしたテンポで自国の防衛力の堅固さと守られる安心感をイメージとして国民に植え付けた。チャーチルの声は、周到で、少々狡猾な性格がうかがわれる声だという。一方、アドルフ・ヒトラーの地声はさしたる特徴がなく、むしろ穏やかで弱々しい声だった。しかし彼はスピーカーなどの音響装置を巧みに使い、演説を演劇のように演出するパフォーマンス能力に長けていた。長い沈黙で聴衆の注意を引きつけ、演説をはじめると、熱狂する聴衆の力に呼応して自らのテンションを高めてゆく。そして最高潮に差し掛かると、切迫感を持って聴衆を息もつかせず煽りたてる。クライマックスのフォルテの連続、その異様なエネルギーが、逼迫する経済に疲弊した人々の絶望や怒りに共鳴し、増幅しあって、理性を失った殺戮へと国民を巻き込んでいったのだという。そして、数百万人のユダヤ人を強制収容所に送った責任者の一人であるアドルフ・アイヒマンの声は、あまりに平凡。おとなしく几帳面な役人風で、大量殺人者とはとても思えない。しかし、その平凡な声の裏には、他者を拒絶する頑迷さが見え隠れするという。アイヒマンは、裁判で、最後まで「私の罪は従順であったことだけだ」と自分の責任を認めようとはしなかった。著者によると、アイヒマンのような声は、現在の日本でもそこかしこで聞かれるという。そして、気になるのが、国会でも、そのような声が増えていることだという。1930年代に、800万人とも1000万人ともいわれる人を死に追いやったスターリンの声は、凶暴性よりも、非常に強い不安を帯びた声だった。そのほか、第二次世界大戦時のルーズベルト東條英機の、感情を抑えられない高ぶった声は、いま聞いても、当時の情勢がまざまざと感じられ、恐怖をおぼえるという。戦争が近づくと政治家の声が高くなる。それは第二次世界大戦直前の各国首脳の声にはっきりと現れている。著者は、現在の状況を見ると、日本が向かっている方向が気になるという。

冷戦を終結させた二人の声。

長く続いた冷戦の終結に向けて歩み寄った二人の政治家、ロナルド・レーガンミハイル・ゴルバチョフは、どちらも芯のある明朗な声で、笑みを含んでいるような温かみがあったという。このような声を持ち、演説の名手でもあった二人が、同時期に米ソのトップであったことは面白い。

最も魅力的な声の政治家は?

著者によると、歴代の政治家の中で最も魅力的な声を持った政治家はバラク・オバマ大統領だという。長身な上に、口腔の奥行きに広さがあるため、声の資質自体が恵まれており、さらに知性と理想の高さ、健康的な人間味がミックスされていて、話し始めると、すぐに人々を引き込む力があるという。現在のドナルド・トランプ大統領の声は、少々ハスキーではあるが、悪声ではないという。むしろ自分の声の個性をよく知って、上手に活かしているらしい。ただし、首から上だけで共鳴させている浅い声からは、どこか空虚で独りよがりな印象を受けるという。非常に長いフレーズを息もつかずに話すところには、頭の回転の速さと性急な性格が現れている。彼を一言で表すなら「せっかち」だという。面白いことにフランスで台頭してきた極右政党「国民戦線」の党首、マリーヌ・ルペン氏も、ドイツの極右政党「ドイツのための選択肢」党首のフラウケ・ペトリー氏も、女性ながらトランプ氏と同じタイプの声だという。若干の擦れ音と雑音が含まれ、声帯やその周辺が高齢でもないのに硬化していて、伸びやかさがなく、耳障りに聞こえる。口先だけで言葉をこねて、頑迷さを感じるところも共通しているという。

声の力を使えている日本の政治家は?

著者によると、日本は「声の後進国」で、政治家でも、声の力の5%ほどしか活かせてないという。首相をはじめ、何人かの議員は、アメリカに倣ってスピーチトレーニングを受けているようだが「声の意識」が薄く、的外れに終わっているという。著者は、田中角栄氏以降で、声が魅力な政治家を二人あげている。本書では具体的な名前はあげられていないが、人物説明から、一人は、9月の自民党総裁選で敗れた石破茂氏であるとわかる。彼の声は柔らかく明朗で、言葉の選び方や間の取り方や単語の目立たせ方も申し分ないという。もう一人は、小池百合子東京都知事である。彼女の声は、とても若々しく、聞いた瞬間は30〜40代と思えるほど。日本女性に多い喉を締め上げた高い声は欠片ほども出さず、ほどよく低く落ち着いていて伸びやかな声。女性らしくしっとりと滑らかな声でありながら、弱さや媚びが全く出ない隙のない声である。理知的な上に感情表現も巧みで、政治家のみならず、教師や実業家としても間違いなく成功できる見事な声の使い手であるという。ふーん、二人ともちょっと意外。どうせなら安倍首相の声も分析して欲しかった。

歌の声の力。

個人的には本書の一番の読みどころであると感じたのが第6章「ブルーハーツの歌はなぜ若者の心をつかんだのか」著者はまず言葉と音楽の起源について語る。感情表現としての音声が強調されて歌となり、その中で獲得された構音や抑揚が概念言語を作り出していったという説があるという。歌(音楽)は言語に先立って生まれ、その歌から言語が生まれてきたというのは興味深い。著者は、この章でポピュラー音楽の歌手の声について分析を試みる。

ユーミンは不器用な声

まずは40年以上も活躍し続ける松任谷由実。彼女は呼気が強く、音感も良いが、発声に関してはとても不器用だという。一般に、音程をとって歌うということは、聴覚から受け取った情報を、瞬時に声帯の張りを調節する神経に伝え、筋肉に反射させて動かすという大仕事だが、ユーミンは、その反射神経が人より少し遅いのではないかと著者は推測する。そのせいか、彼女はうまく出せない音や響きの部分を短く切ったり、ヒュッとフェイドアウトさせてしまっている。そこが彼女の歌の弱点であるという。曲を作り始めた頃、彼女は自分の声にコンプレックスを持ち、自ら歌うことを考えていなかったという。そのせいか初期の作品では、声を作ろうとしているところがあったが、最近の曲では、彼女そのものの声、地声で表現できる音域で構成されているという。著者は、彼女がどこかのタイミングで、好きではなかった自分の声を受け入れたのではないかと推測する。「不器用な発声」という弱点と、自分の声を受け入れているからこそ出せる「強く張った地声」の力強さ。彼女の歌を聴いて感じるのは、身近な友人のような親近感と「これが私だから」と自らを肯定する芯の強さだという。

B'zの稲葉浩志の声はアスリート。

ユーミンとは逆に、「こういう風に歌いたい」と思い描いた理想をぴたっと形にしてしまえるのが稲葉浩志の歌だという。彼は、本来持っている声道の広さで声を響かせるのではなく、声道をグッと狭め、音を反響させる距離を縮めることで高い周波数の声を出している。このような声道を狭めて出す声は、普通は、歌っている人はもちろん、聴いている人にも、どこか息苦しさを与えるという。ところが稲葉浩志は、その状態を当たり前にし、聴き手に苦しさを感じさせないところまで磨き上げていったのだという。こうしたことができる人は稀で、彼はおそらく美意識が高く、自分の声を磨くことに対する努力を惜しまない人なのだろうと著者はいう。その姿はアスリートを彷彿させるという。そうなんだ。声を出すということは、声帯周辺の筋肉や口腔や鼻腔周りの筋肉を、イメージ通りに瞬間的に動かすという一種の運動なんだと納得。声にも運動神経があるということか。僕が歌が苦手なのは、声の運動神経が鈍いんだな、きっと。

パワフルな高音とか弱い低音。ドリカム吉田美和の声。

吉田美和の声の魅力は、パンッと張った高音にある。一般に、高い周波数の音は、人間の脳を活性化するという。特に聞き取りやすい周波数が440ヘルツ(ラの上)で、吉田美和の声はまさにその領域で本領を発揮する。ドリカムの曲を聴いて「元気が出る」「勇気づけられる」という人が多いのは、この声によるところが大きいという。著者によると、吉田美和が本来持っているパワフルな高域と、低い音域のコントラストが、彼女の声の魅力になっていると分析する。パワフルな高音域に比べると、彼女の低音域は、あまり力強くないらしい。もちろんトレーニングをすれば低音域も強化できるのだが、彼女の場合は、あえてそうしないようにしていると感じるという。彼女の低音域のか弱さを感じさせる声が聴き手にまず共感を与え、そこからパーンと張ったパワフルな高音域の声を聴くと、弱さを含めて肯定されたような気持ちになり、元気になれる。それが魔力的といってもいいくらい人を虜にする彼女の声の魅力なのだという。

 星野源スガシカオの声。

近年大ブレイクした星野源の声は初期の頃に比べ大きく変化しているという。初期の頃の、どこか独白的な歌詞にあてがわれた声は、声帯にかぶさっている縁の部分だけを使って、ずっと半ファルセットで歌っている。それが最近の曲になると、すごく直線的に伸びる歌声に変化しているという。これは自信があったり、前向きな気持ちになって、呼気が強くなったことの表れだという。では星野源吉田美和のように歌声に強さがあれば、人を引き込めるのかというと、必ずしもそうでもないところが声の複雑さと面白さだと著者はいう。NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」のテーマソングである「progress」を歌っているスガシカオの声は、初期の星野源と同じように声帯の薄い縁の部分を中心に使っていて、バーンと力を入れられる声ではないという。しかも使っている音域がとても高く、声の質もかなり中性的である。このような圧のない、言い換えればマッチョさがない歌声に、安心感や居心地の良さを感じる人は多いのではないかと著者は考察する。スガシカオの曲の歌詞には、しばしばむき出しの毒やエグみが含まれているが、「むき出しの言葉+むき出しの声」ではなく、声が言葉を押し付けてこないため、人の袂にすっと入っていくことができる。それは男女共ガツガツせず、自分の領域に入ってこられるのが苦手な人が増えている時代のムードと共振しているのではないかと著者は推測する。

甲本ヒロトの声はなぜ人の心をつかむのか。

最後は元ブルーハーツ甲本ヒロト。著者は、この分析を始めるまで、ブルーハーツというグループも甲本ヒロトも知らなかったという。初期の「リンダリンダ」や「青空」を聴いたときの感想も「音程もよくないし、パンクロックとはこういうものですかね」といった程度だったという。しかし声に集中して聴き進めるうちに衝撃を受けたという。彼が話す時の声は、喉周りが脱力していて、最低限の声門閉鎖で済ませているような、呼気もあまり強くなく、嗄れてる。本気で何かを伝えようとしていないような、話すことが好きではない声のような印象を受けるという。しかし歌声になると、ほどよい張りが出て、絶妙な雑音と透明感の混ざった声になる。しかも、その声がデビューから30年経ってもまったく変わらず劣化していない。むしろ味が加わってパワーアップしているという。ふつう声は年齢とともに変化する。前に取り上げた稲葉浩志のように鍛え上げれば長く同じ声が出せるが、甲本の場合は、意図して鍛えたとは感じられないという。著者は甲本自身の言葉をあげてその理由を説明しようとする。「ロックンロールが僕の目的なんだ。ロックは手段じゃない」甲本は若くして自らの生きる目的を見つけ、純粋に気持ちがいいからずっと続けている。『彼の声は、出している本人にとって最も気持ちよく、身体に無理な負荷をかけない声』だという。彼の声を無理やり何かに例えるなら「幹細胞」ではないかと著者。幹細胞とは、器官を再生する細胞のことで、バラバラに切り刻んでも、それぞれが完全な個体として再生する。プラナリアは全身に幹細胞があるので、どこを切っても元の姿に再生する。『甲本の声はどこを切ってもロックとして再生する。歌うことの喜びが常に完全体である。意図も作為もなく、ロックであるためのすべてを希求し続けている。』著者は、彼の歌声が、『私たちが社会生活を営んでいくうえで避けられないしがらみから解かれて、人ひとりとして立った時にあるべき人間の姿を感じさせる』という。『もともとロックとは、そういうものではなかったか?』と。「だからこそ理屈ではなく、もはやひとつの生体として、多くの人の心を、とりわけ生きづらさを抱えやすい悩める若者たちの心をつかんできたのではないか」と感じるのだという。著者が甲本ヒロトの声を最後に取りあげたのは、それが第3部『自分を「変える」声の力』につながっていくからだ。どうせなら本章で、日本一歌がうまいと言われる玉置浩二や、井上陽水桑田佳祐、忌清志郎中島みゆきの声も分析してほしかったが…。

第3部。自分の声と向き合う。

 ここで著者は、最初の問いかけに立ち戻る。「どうして自分の声が嫌いなのか?」そして、実際に録音した自分の声を聞いた人々の反応を紹介する。「私の声は、こんなにキンキンしていない!」「こんなに鼻にかかった声じゃない!」「もう嫌だ、自分の声なんて聞きたくない。」これほど自分の声を嫌だと感じるのは、普段自分が聴いている骨導音ではないので、違和感がある、というだけではない。もっと本能的な、身体の底から湧き上がるような嫌悪である。それは「本物の声」ではないからだという。

本物の声とは。

では、本物の声とは何か?著者によると「その人の心身の恒常性に適った声」であるという。生体の恒常性とは、「人間の心身を正常で健康な状態に安定させる仕組み」である。例えば、暑くなると、汗をかいて体温を下げようとする。寒くなると、毛穴が収縮して鳥肌が立ち、身震いをして体温を上げようとするのも恒常性である。身体だけでなく、心理面においても恒常性が機能しているという。いやだと思う行動を強いられると、身体はそれを回避するためにストレスホルモンを出す。ストレスホルモンは、イライラするなど心理面だけではなく、頭痛や胃痛、下痢など、身体の様々な異常を引き起こすことがある。著者は、ここで第1部で語った「声が、声専用の器官ではなく、呼吸など生命活動に必要な機能を使って出される」という事実を読者に思い出させる。声にも「恒常性維持の働き」は強く関わっている。姿勢が悪かったり、喉の声帯周りを締めつけたり、声帯を圧迫したり、さらに精神的に緊張やストレスがかかったりすると、身体は本来の状態からはずれ、それは声にも表れるのだという。また周囲や社会に適当しようとして、自分を少しでもよく見せようとして無意識に声を作る。そんな作り声を続けていると心身に不調をきたす。それは「呼吸がちゃんとできてない」「姿勢が苦しい」「喉をそんなに締めつけないで」と、身体が警告を発しているのだという。それは「本物の声」に対する「偽りの声」と言える。「偽りの声」は心身を蝕む。録音された自分の声への強い嫌悪は、この「偽りの声」に対する心身の拒絶反応から来るのだと著者は結論づける。どうすれば「偽りの声」ではなく「本物の声」を出せるのか。

本物の声の見つけ方。

最後は、「本物の声」をいかに見つけるか、具体的な方法について語られている。著者によると、まず現在の自分の声に向き合うことだという。具体的には、普段話している自分の声を、スマホやICレコーダーで録音し、聴いてみることだという。録音した声は、今現在、あなたが人に聴かせている声だ。作っていたり、装っていたり、媚びたり、自分のコンプレックスがあらわに出ている…。それは現実のあなたの姿である。そこから目をそらしてはいけない。聴き続けているうちに、その嫌な声の中に、ときおり「あれ、この声は嫌じゃない」と思う声があるという。それは作り声ではなく、妙にテンションが高くもない声、そして嫌悪を感じる声より幾分低い声であることが多いという。それがあなたの「本物の声」「恒常性に適った声」だという。そこで、その声を出したときのシチュエーションや、自分の感情や身体の状態をできるだけ細かく思い出してみる。どのようなときにその声が出るのか、人それぞれだという。著者は、このとき、理性的な分析を行わずに、声の音を愚直に聴いて「好きか嫌いか」だけで判断すべきだという。また、よくわからないからといって、他の人に聞いてはいけないという。それは自分の「本物の声」は、「自分の脳」にしか判断できないからだ。

何度も繰り返す。

自分の本物の声を見つけたら、その部分を何度も聴いて、記憶させる必要がある。次に、その声を思い出しながら改めて録音する。いいなと思った声と同じ状況のつもりで、同じ言葉を何回か繰り返して録音する。録音した声は、その場ですぐ再生して聴いてみる。最初のうちは作り声になってしまって、がっかりするかもしれないが、何度も繰り返しているうちに、「いいな」と思える声が増えてくるという。そんな声が一つも見つからないという場合は、普通に話すより少し低めの声を意識して出してみるといい。わずかに顎を引き、いつもよりゆっくり呼吸をして、ゆっくり話ししてみる。それだけを注意しながら、いろんな場面を想定して録音して聴いてみること。今度は「いいな』と思える声が見つかるはずだという。「いいな」の声が見つかったら、今度は、それを定着させるように、いつも少しづつ意識する。話すときは自分の「本物の声」を頭で反芻しながら出す。

聴覚フィードバックによる声の自動補正。

私たちが話そうとする時、脳の中に、うっすらと声のテンプレートが浮かび、それを声に出している。出てきた声は自分の耳と聴覚を通して脳に伝わり、脳内のテンプレートと比較され、ズレがあれば修正していく。これ「聴覚フィードバック」の仕組み。本物の声を見つけ、定着させていくのは、この「聴覚フィードバック」の仕組みを活用するのだ。それは、なりたての若いタレントが、テレビに頻繁に出るようになると、どんどん垢抜けてキレイになっていくのと似ている。キレイになっていく最大の理由は「映された自分の姿を観る」ことだという。録音した自分の声を何度も聴くだけで、聴覚フィードバックによって声の自動補正機能が働き、自然に「いい声」になってくる。

自分を変える声の力。

こうして身につけた「本物の声」は、その人の心身を変えていくという。前の方でロシアのゲノム研究グループが、ある種の音声がDNAの損傷を修復するという論文を発表しているという話があった。著者は、いくつかのエピソードを紹介する。学級崩壊に苦しんでいた小学校の先生。英語で話し始めると、別人のような豊かな声になる日本人女性。鬱病がひどくてほとんど喋れない女性など、声によって、心身はもちろん、仕事や人生にまでプラスの効果を及ぼしたたケースが語られる。

ここから僕の感想。

声というよりは、話すことが苦手だった。小学校の頃の高学年で、授業中に左利きを矯正されたことがきっかけになって、吃音が始まったらしい。特に数人以上の前で喋ると、吃音がひどくなった記憶がある。高校では、それを克服しようと演劇部に入ったぐらいだ。人前で話すことにはかなり慣れてきたと思うが、いまでも苦手意識が強い。その理由は、自分の声だった。取材などで、録音された自分の声を聴くと、自己嫌悪に陥るぐらい嫌なのだ。それは自分の声と喋り方が良くないせいだと、ずっと思っていた。音程が悪く、声量もなく、滑舌も悪い。本書は、僕の長年の思い込みを正してくれた。本書が教える「本物の声を見つける」トレーニングをやってみてもいいかなと思っている。「録音した自分の声を繰り返し聴く」という苦行に耐えられるか、どうか自信はないが。