水野良樹が気になる。

音楽と言葉についての考察、その3かな。

最近、とても気になっているミュージシャンがいる。水野良樹という人。「いきものがかり」というグループの名前は知っていても、リーダーの名は知らないという人は多いのではないか。僕も知らなかった一人だ。「SAKURA」という曲が気に入って、アルバムを1枚だけ買ったことがある。パワフルな女性ボーカルとメロディが印象的だった。朝ドラの主題歌になった「ありがとう」、NHKのオリンピック放送のテーマソングになった「風が吹いている」などは、メロディはいいのだが歌詞がちょっと行儀良すぎて物足りないと感じたりして、その後はあまり聴いていなかった。リーダーの水野良樹については名前すら知らないままだった。

NHK「いきものがかかり水野良樹阿久悠をめぐる対話」

ところが2017年に放送されたNHKのドキュメンタリー「いきものがかり水野良樹阿久悠をめぐる対話」(確か、再放送で視聴)を観て、強い印象を受けた。番組は、作詞家の阿久悠の足跡を、水野が、様々な人と対話しながら、阿久悠の日記を読みながら、たどってゆくという内容。水野が対話する相手は、糸井重里秋元康いしわたり淳治などだった。最後は、阿久悠が残した未発表の詩「愛せよ」に水野が曲をつけ、山本彩が歌うという企画だった。

こんな知的なアーティストがいたのか!(失礼!)

驚かされたのは、番組の中で水野が語る言葉。糸井重里秋元康のような、ある意味、言葉の達人とも言えるような人との対話でも、水野の言葉は精彩を放っていた。言葉選びの精度が素晴らしく高い。表現しにくい微妙な気持ちや概念をこれほど精密に言語化できる人を他に知らない。語られる論理や概念は明晰そのものだが、それを表現する言葉には独特のぬくもりと柔らかさがある。言葉に決して角が立たず、フワリと耳に入ってくる。声が特別というわけではなく、口調というのでもない。何だか不思議な人だ。何気なく見始めた番組だったが、最後まで食い入るように観てしまった。この時初めて水野良樹という名前を知った。

NHKいきものがかり水野良樹のうたがたり」

そして、今年3月に放送された「いきものがかり水野良樹のうたがたり」でも同じような感銘を受けた。この時は、彼の言葉だけではなく、彼の考え方にも共感を覚えた。残念ながら録画しておらず、正確な内容は覚えていない。そのため、ここからは記憶を元に書くので正確ではないと思うが許して欲しい。

「うた」への思い。

水野は「うた」に対して特別な思いを抱いている。彼は、自分たちを理解し愛してくれるファンのコミュニティの中だけで歌っていてはだめだと思っている。自分たちの音楽が、その外側にいる人々にも伝わらなければいけないと感じている。そして、どうすれば伝わるのかをずっと考え続けているという。それって傲慢ではないかと僕は思った。ふつう、自分たちの音楽のファンを育て維持していくだけでも大変なのに、それ以外の人々にどうすれば伝わるか、なんてことを考えるだろうか?

彼はこれまでに、自分のつくりだした「うた」が、聴く人によってまったく違う共感や感動で受け止められていることに驚かされたという。さらに、その「感動や共感」は、自分が意図したものとは違うものだったという。そして「うた」というものはそういうものであると思うようになったという。「うた」は、一旦、作り手のもとを離れると、もはや作り手のものではなく、独立した存在となって、聴いた人それぞれが、違う共感をおぼえ、「自分だけのうた」になり、さらに「人々のうた」になっていくというのだ。

桜のような「うた」をつくりたい。

水野は東日本大震災の後の「桜」を例にあげて自身の「うた」への思いを語ろうとする。震災の後、水野は、自分たちに何ができるかに悩んだという。どんな歌も、どんなメッセージも、あの災害を前にして色あせてしまう。そんな時、音楽に何ができるのだろうと水野たちは悩んだという。そして春が来て、何事もなかったかのように桜が咲いた。「桜」は人々を慰めようとしたわけではない。励まそうとしたわけでもない。同じように春がきて、同じように、ただ咲いただけだ。それでも、2011年の春に咲いた桜が人々をどれだけ勇気づけたことだろう。自分がつくる「うた」も、あの時の桜のようでありたいというのだ。水野が、桜を例にあげて「うた」への思いを語る場面には、ちょっと感動してしまった。涙が出た。

歌詞は、「個の言葉」で書いてはいけない。

「うた」に対して、このような思いを抱く水野は、歌詞を書くとき、できる限り、誰にでもわかる平易な言葉を選ぶようにしているという。限られた人にしか通じない、個人的な言葉の歌詞では「うた」は、多くの人にとっての「私のうた」にならない。この言葉を聞いて、僕が、いきものがかりの歌を聴いて、歌詞に物足りなさを感じた理由がわかった気がした。彼は意図的に自身の「個」の言葉を排除しようとしているのだ。彼にとって「うた」は、言ってみれば「公」(おおやけ)に属するものなのだ。しかし水野は番組の中で、こんな風にも語っている。「人々に伝わる『うた』を生み出すためには、結局は「自分」を出さないといけないのかもしれない。」「うた」に対して、ここまで考えているなんて、すごいなあ、と思った。

HIROBAという活動。

そんな彼が、最近になってはじめたのが「HIROBA」という活動だ。 音楽だけにとどまらない、自分だけにとどまらない、人とのつながりをつくっていく、開かれた「場」としての「HIROBA」。水野は、そこで様々な人の話を聞いたり、エッセイを書いたり、いきものがかりではないミュージシャンとコラボレートしたり、という活動を始めたのである。HIROBAのWebサイトに、その第一弾というのか、大先輩である小田和正と一緒に「YOU」というシングルCDをつくった話が紹介されている。

“YOU”を聴いてみた。僕には、B面の、水野が一人で歌う“ I ”の方が好ましかった。歌詞の言葉は、相変わらずお行儀が良すぎて物足りない部分もあるが、水野の人柄や考えを知った今では、彼のこれからの生き方をしっかり見据えた「決意表明」だと思った。

しばらくは水野良樹をしっかりモニターしておきたい。