山折哲雄・上野千鶴子「おひとりさまvsひとりの哲学」

面白すぎて、いっきに読了。痛快対談。

意外な組み合わせに興味をひかれて購入。上野は「おひとりさまの老後」「男おひとりさま道」「おひとりさまの最期」など、独居老人のリアルな老後を考察した「おひとりさま」シリーズを著した社会学者。彼女は、西洋的な合理主義で無神論を貫き、「死後の世界など要らない」と過激である。いっぽう山折は「ひとりの哲学」「ひとり達人のススメ」などの著書がある高名な仏教哲学者で、死についての著書も多い。

冒頭から戦闘モードの上野がくりだす言葉のパンチに山折は翻弄されっぱなし。真正のおひとりさまである上野は、妻子もある山折を「ニセおひとりさま」と決めつけ、先制の一撃を放つ。その後も、上野の執拗な攻撃に、山折は防戦のいっぽうである。どちらかというと「ひとり」の思想的な面のみを考察している山折は、老後をどう生きるかという実践を追求する上野のリアルなつっこみに反論することができない。

野垂れ死に願望は思考停止

日本の思想の中に、「単独者」の系譜が連綿とあり、世間から背を向ける世捨て人、流れ者、放浪者など、西行に始まり、鴨長明松尾芭蕉へと続く流れがある。上野は、彼らが、放浪といいながら、日本中いく先々に受け皿があり、弟子たちが待ち構えていて、歓待してくれる。それで何が世捨て人だ、放浪者だ、と疑問をぶつける。近年では、種田山頭火や尾崎放哉がいるが、上野は、彼らの作品をいちおう評価するものの、山頭火は「赤提灯のおじさん好みのセンチメンタリズム」、放哉も、「生き方は、知人に無心の手紙をいっぱい書くなど、甘ったれている」と批判する。また鴨長明の「方丈記」やソローの「森の生活」にあこがれる男性が多く、ひとりで世捨て人のように人里離れたところで世間に背を向けて暮らしたいという。彼らに「最期はどうするのか?」と聞くと「野垂れ死にしたい」という。上野はそれを「野垂れ死にの思想」と呼び、思想だけで実践した人を見たことがないという。男たちの「野垂れ死に願望」を、彼女は「自分の老いと死に対する思考停止」と切り捨てる。沖縄のある島に、高齢の男たちがひとりで移り住み、誰ともつきあわず、現地の医療や介護を受けながら、死んでいくという。ひとりで死ぬのなら、人の手を煩わせずに死ねばいいのに。せめて不動産を購入するなど、現地の経済に貢献しろよ、と上野はいう。彼女がバッサリ切り捨てる男たちの「甘ったれたロマンチズム」や「野垂れ死に願望」は、そのまま読者である僕自身のものだ。放浪の生涯を送った西行山頭火は大好きだし(円空も)、ソローの「森の生活」にも強い憧れがあり、できもしない自然の中の簡素な小屋ぐらしを夢想している。しかし、男たちの身勝手な夢想を容赦なく切り捨てる上野のラディカルさには、反発を覚えるよりも、一種の痛快さを感じてしまう。

なぜ男たちは最期の最期に宗教に救いを求めるのか?

若い頃は、人間は死んだら遺体というゴミになると考えていた山折も、最近は、死んだら土に還るのだ、と思うようになったという。いっぽう上野は、高名な近代合理主義の知性である加藤周一中井久夫、さらに彼女が師と仰ぐ吉田民人が、晩年になってカトリックに入信したり、仏教に傾倒していったことにショックを受けたという。死後の世界など要らないときっぱりと割り切る上野にとって、男たちの、このような「転向」は裏切りのように感じられるのだという。対談は、このように上野のいらだちや攻撃がリードする形で最後まで行ってしまう。結局、ふたりの対話は噛み合うことなく、すれちがいで終わってしまう。それでも本書が面白いのは、ひとりで生き、ひとりで死んでゆく覚悟を決めた上野の潔さと、彼女の言葉に反論もせず、ゆったりと戸惑う山折の人柄が、すれ違いながらも、豊かに響き合っているせいだろうか。