P・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」再読。映画「ブレードランナー2049」を観る前に。

 

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映画「ブレードランナー2049 」を観る前に。

前作から35年ぶりとなる「ブレードランナー2049」は、個人的にいろいろな視点で観ることになった。まず、前作をマイベストSF映画と決めているSF映画ファンとしての視点。もちろん長年のSFファンとしての視点。さらに原作者のP.K.ディックのファンという視点。どの視点で観るかで、かなり評価が違ってくる。「2049」を観る前に、原作である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を40年ぶりに読み、前作の「ブレードランナーファイナルカット版」をもう一度観た。

ブレードランナー」は、マイ・ベスト・SF映画である。

もう一度言わせてもらうが、前作「ブレードランナー」はマイベストSF映画である。35年前に観た時、何よりもまず、あの映像と世界観に度肝を抜かれた。荒廃し、酸性雨が降り続ける未来のロサンジェルス。日本、中国をはじめとするアジア文化がはびこる、猥雑で倒錯した街のイメージ。SF小説では、そんな未来描写は珍しくもなかったが、実際の映像で目の当たりにするのはものすごい衝撃だった。その中に、シド・ミードがデザインしたビークルや建築が違和感なく溶け込んでいる。巨大な神殿のような、未来のピラミッドのようなタイレル本社。それまで、未来をこんな風に描いた映画はなかった。冒頭に登場するフォークト・カンプフ検査の装置も、どういうわけか、ジャバラで空気を送り込む仕掛けを備え、レトロフューチャーな気分を盛り上げる。そして、なんと言ってもよかったのが、レプリカントたち。ルドガー・ハウアー扮する戦闘型アンドロイド、ロイ・バッティの存在感。映画が創りあげた男性のアンドロイドのNo.1は、なんといってもターミネーターのT800だが、2番目が、こちら。ラスト近く、デッカードを追い詰めていく時に、バッティが上げる、狼の遠吠えのような叫び声。自らの死が近いことを悟ったアンドロイドが、最後の力を振り絞って、仲間の復讐を果たそうとする。恐ろしくて、それでいて哀しい声は、今でも耳に残っている。デッカードとアクロバティックな格闘を繰り広げる女性アンドロイド、プリスを演じたダリル・ハンナは、この1作でファンになった。そして極め付けは、ショーン・ヤング演じるレイチェルの完全無欠の人造美女。往年の大女優を思わせる、古典的でありながら、どこか無機質な美しさに、完全にノックアウトされた。あれから35年、多くのSF映画を観たが、「ブレードランナー」を超えるSF映画にいまだ出逢えていない。

しかし前作には、ディック・ファンとして許せない部分があった。

ブレードランナー」は、そのすべてが、その後の様々な作品に少なからぬ影響を与えた金字塔のような映画だった。しかし、いっぽうで、ディック作品の映画化版として観ると、僕にはどうしても許せないところがあった(後述)。そのせいで、映画「ブレードランナー」は、本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の映画版ではなく、ディックの作品のストーリーや設定を借りてつくられた、まったく別の作品だと考えることにしている。

40年ぶりの再読。

すっかり黄ばんでしまった早川SF文庫の奥付を見ると、昭和52年(1977年)なので、僕が23の時に読んでいる。ディック作品としては最も有名だが、当時、評価はそれほど高くなかったような気がする。

映画「ブレードランナー」と同じ部分と違う部分。

大規模な核戦争によって、地球は汚染され、生物が次々と絶滅していく。人々は、放射能の降灰に怯えながら、様々なメディア装置に浸ることと、電気仕掛けの動物を飼うことで、救いのない毎日を過ごしている。原作には、ディック特有の、様々なガジェットやメディア装置が登場する。情調オルガン、共感ボックス、テレビショウ「バスターフレンドリーと仲良し仲間」…。主人公や、その妻は、情調オルガンによって、日々の感情をコントロールしている。愛憎や高揚も、チャンネルひとつで切り替えることができるこの装置は、未来の生活には欠かせない機械だ。共感ボックスは、没入型のメディアで、ウィルバー・マーサーという教祖に完全に同化することができるVR装置である。テレビでは、人気キャラクターのバスターフレンドリーのショウが24時間途切れなく、宇宙への移民を宣伝している。主人公のリック・デッカードは、ロボットの羊を飼っているが、近所の住人に本物でないことを知られるのを怖れ、いつか本物を手に入れたいと願っている。環境が悪化する中、国連は、人類の宇宙への移住計画を推進している。移住を希望する者には、特典として奴隷として使えるアンドロイド一体が与えられる。最新型のネクサス6は、人間と見分けがつかないほど進化し、感情を持っているという。そのアンドロイド8体が、自らの主人を殺害し、逃亡、地球に潜入してきた。彼らのリーダーはロイ・ベイティ(映画ではロイ・バッティ)。腕利きのバウンティハンター、ホールデンは、2体ののアンドロイドを倒すが、3体目で、逆に襲われ、重症を負う。ホールデンに次ぐバウンティハンターであるリック・デッカードに声がかかる。彼はアンドロイドの開発メーカーであるクローゼン社に出かけ、アンドロイドを判別する「フォークト・カンプフ判別機」で、逃亡アンドロイドと同じネクサス6型であるレイチェルを検査する。映画も、このあたりまでは、原作に近い設定を保っているが、ストーリーが進むに従い、原作とは違う展開を見せるようになる。

レイチェルは、ムンクの絵画「思春期」の少女!?

原作と映画でいちばん違っているのは、アンドロイドの描き方である。原作では、リーダーのロイ・ベイティは、モンゴロイド系の、平坦な顔で、火星時代は、薬剤師を自称し、様々な精神融合薬を盗み出しては、自ら実験していた。彼は、アンドロイドの生命の神聖さを説き、集団脱走計画を発案したという。原作のアンドロイドたちは、映画のような超人的な身体能力を与えられていない。また、レイチェルとプリスは同じ型のアンドロイドで、少女のような姿であると描写されている。また、なぜディックは、そのように描いたのか。デッカードが逃亡アンドロイドの一人を逮捕しにいくのが、「ムンク展」の会場なのである。逃げられないと覚悟したアンドロイドは、デッカードに、今見ている絵の複製を買ってほしいと懇願する。その絵が「思春期」だ。黒髪で眼の大きな全裸の少女が、おびえたような表情でベッドの端に腰掛けている、あの有名な絵だ。原作のレイチェルは、やせっぽっちで、胸も小さく、少女みたいで、顔だけが大人であると描写されている。映画を観るまで、僕が描いていたレイチェルのイメージは「思春期」の少女なのである。レイチェルの人物像は原作では重要な意味を持っている。

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デッカードは、残ったアンドロイドを倒すために、レイチェルの協力を求める。レイチェルは協力するふりをして、デッカードを誘惑する。彼は、レイチェルの誘惑に負け、彼女と寝てしまう。レイチェル型のアンドロイドは、人間の男性の愛情を獲得するために造られたらしい。レイチェルを愛するようになったデッカードは、一度はアンドロイド狩りを断念するが、レイチェルによる誘惑が、クローゼン社や逃亡アンドロイド達の策略だったことを知って、アンドロイド狩りを再開する。デッカードはレイチェルを一度は殺そうとするが、結局、殺せずに解放して、逃亡アンドロイドたちを狩りにいく…。

原作ではアンドロイドは「悪」。

映画は、原作の筋書きにおおむね忠実なように思えるが、決定的に違う部分がある。それはアンドロイドについての解釈が、原作と映画では180度違っている点である。映画では、人間と同じように知能や感情を持ちながら、4年の寿命しか認められていないアンドロイドの運命と悲哀が描かれている。観客は間違いなく、デッカードではなく、レプリカントのロイ・バッティのほうに感情移入するはずだ。しかし原作は違っている。アンドロイドの存在自体が「悪」なのである。彼らがどれほど人間に近づいても、それは人間の心の動きを模倣しているに過ぎず、本物の感情ではない。死の灰によって、脳が犯され、落伍者の烙印を押された登場人物のイジドアが見つけてきた蜘蛛を、アンドロイドのプリスがつかまえ、その脚を1本ずつちぎっていく場面には寒気がする。アンドロイドは、人間を含む、あらゆる生物に共感することができないのだ。主人公にしても、その妻にしても、落伍者のイジドアにしても、どこか精神を病んでいるのだが、生き物に「感情移入」する心は失われていない。アンドロイドがどれほど精密に人間の心の動きを再現しようとしても、それは所詮「模倣」に過ぎない。彼らは、本物の心を持つことができない邪悪な存在として描かれている。作者は「感情移入」こそが、人間を人間たらしめている特質であると言いたいかのようである。「人間と人間もどき」。このテーマは、ディックの作品の中に繰り返し出て来るテーマのひとつなのだ。リドリー・スコット監督は、ディックとは正反対の位置にアンドロイドを置いてしまった。僕は、この1点において、映画をディック作品の映画版として認めないことにした。

AIやシンギュラリティ時代の「2049」。

SF小説SF映画が未来予測の手段のひとつだとすれば、シンギュラリティに関しては、映画のほうが正しいような気もする。シンギュラリティが現実に起こり、アンドロイドたちが、人間になり、さらに人間を超え、文明の継承者となっていく日がくるのかもしれない。そういえばリドリー・スコットの、もうひつの傑作「エイリアン」と、一連のシリーズでも、アンドロイドは重要な役割を担っている。今年公開された「エイリアン・コヴェナント」では、アンドロイドのデビッドが、人類の創造主であるエンジニアの文明を滅ぼすという設定だった。そういう意味で、アンドロイドが人間になろうとした前作から、人間とのハイブリッドによって、人間になり、さらに人間を超え、今度は、人類に対して革命を起こすという「2049」は、ある意味のシンギュラリティを描いた映画であると言えないこともない。リドリー・スコットは、この映画は「ピノキオ」の物語なんだと言ってるらしいが。

VR、AR満載だった「2049」。

興行的には失敗だったと言われている「2049」だが、僕自身は十分楽しんだ。2時間40分におよぶ長尺も気にならなかった。前作のストーリー、世界観を継承しながら、前作とは異なる映像美を創り出している点も評価できる。SF映画の魅力は、出てくるガジェットに負うところが大きいが、その点でも満足した。今回、初めて出てきたAI×AR×ホログラフィーのVRキャラ「ジョイ」も、なかなか魅力的だった。ジョイと本物の女性(後でアンドロイドと判明)が合体した相手とのセックスも面白かった。インタラクティブに反応するエロティックな巨大ホログラフィー広告、スピナー(空飛ぶ自動車)に付属の偵察ドローン、ウォレスが操るミニドローン群など、新しいアイデアも満載だ。

ちょっとキャラが弱かった?

難点をあげるとすれば、登場人物のキャラが、ちょっと弱かったことかな。前作の、ロイ・バッテイ(ルドガー・ハウアー)、レイチェル(ショーン・ヤング)、プリス(ダリル・ハンナ)のような、強烈な存在感のキャラクターがいなかった。前作でハリソン・フォードが演じたデッカードは、実は、あまり存在感がなかったと思うが、「2049」では彼が一番存在感を主張していた。

映像は美しいが、クールすぎて…。

それと、前作とのつながりを重視するあまり、映像がストイックになりすぎて、前作のような、猥雑なカオス的賑やかさが出てなかったこと。前作の、過剰ともいえるディテールは、2度目、3度目に観ても、発見があったが、今回はどうだろう。

P.K.ディック全作品を再読破したい。

今回、40年ぶりぐらいで本書を読んで、もう一度ディックを読みたくなった。自宅の本棚で数えると40冊ほどある。最後に読んだのは、もう何年前だろう。10年以上読んでないのではないだろうか。「ヴァリス3部作」など、途中で挫折した作品も少なくない。定年後の身に時間はたっぷりあるので、全作品読破に挑戦してみようか。

POPなカフカ
ディックは、SF作家として知られているが、僕は、彼が、「SF作家であって、SF作家ではない」と思っている。宇宙人、時間旅行、火星、パラレルワールド、超能力など、当時でも、ありふれて陳腐なSFの題材を用いながら、まったく別の異質な物語を紡ぎ出す作家である。日常の一部が、ある日突然、ほころびはじめ、現実と仮想、過去と未来、自分と他者など、あらゆる境界が、曖昧になり、意味の混沌の中に呑み込まれてゆく。そのすさまじい崩壊感は、ディックでしか味わえない。誰かがディックを「POPなカフカ」と表現しているのを目にしたことがある。30年ほどの作家生活の中で40編を超える長編を書き、数多くの短編を残した。1982年、53歳、映画「ブレードランナー」の完成を見ることなく亡くなっている。