柳広司「風神雷神」

2015年、京都国立博物館で開かれた「琳派展」において、宗達光琳、抱一の「風神雷神図」が一堂に会した。宗達の「風神雷神図」は、他の2点とは「次元が違ってる」と感じた。作品が放射しているオーラが桁違いに強い。日本画の絵師の中で、俵屋宗達伊藤若冲は、最も気になる存在である。その宗達を主人公にした小説が出た。著者はベストセラーになった謀略ミステリー「ジョーカー・ゲーム」を描いた柳 広司。

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高名だが、その生涯は不明な部分が多い。

琳派の開祖と言われ、残された作品も多いが、宗達の生涯には不明な部分が多いという。生没すら不詳。残した言葉もほぼゼロ。要するに人物像がよくわからないのである。小説家にとって、それは、難しいと感じられると同時に、自由に人物像を創作できる面白さもあるだろう。頼りになるのは、残された多数の作品のみ。小説家は、それらの作品の変遷を通じて、俵屋宗達という人物の全体像を造形していかなくてはならない。太っていたのか?痩せていたのか?背は高かったのか?低かったのか?どんな顔つきだったのか?…。著者である柳広司は、「ジョーカー・ゲーム」では、読者の意表をつくトリッキーなストーリー展開で読ませてくれた。あっと驚くような宗達像が期待できそうだ。

わりとオーソドックスな宗達像。

主人公の伊年は、京で繁盛する扇屋に養子でもらわれてきた少年。ふだんからぼーっとしたところがあり、店の者たちは「大丈夫やろか」と心配している。しかし扇絵を描いたり、過去の作品の模写をしていると時は、まわりが声をかけても気づかないほど集中する。「絵のこと以外は目に入らず、いつもぼーっとしていて、周囲から不安がられている変人」という人物像は、無難な線ではある。この人物に、豪商の若旦那・角倉与一、紙屋の宗二、本阿弥光悦、公卿の烏丸光広などの人物がからみ、信長から秀吉、家康へと、激しく移り変わる時代を背景に、物語は語られてゆく。

作品をたどることで、ストーリーが進んでいく。

当然ながら、宗達の足跡である作品をたどることで、ストーリーが展開していく。厳島神社の「平家納経」の修復に始まり、角倉与一、本阿弥光悦らと作り上げた「嵯峨本」「鶴図下絵和歌 巻」「養源院襖絵・杉戸絵」「舞楽図屏風」などが登場する。著者は、これらの作品が生まれた経緯や描く過程を丁寧に描き上げていく。作品が生まれるエピソードは、それなりに楽しめるのだが、「目で見るもの」を「言葉で表現する」もどかしさは否めない。どうしても「概念的」になってしまうのだ。それは絵画や彫刻など、美術を題材にした文学作品が落ち込むジレンマだ。幸い、取り上げられた作品の多くは、僕自身が実際に目にしたことがあるものだったので、「絵」を思い浮かべながら、読み進むことができた。本書を読もうという人は、上にあげた作品を、画集やネットで探しながら、読んだほうがいいと思う。

宗達と女たちと、風神雷神

本書のタイトルは「風神雷神」である。下巻の「雷の章」も後半になり、あまりに有名なこの作品を、著者がどう料理するのか、期待が高まっていく。宗達はなぜ「風神雷神図」を描いたのか?あの大胆な構図は、どうやって生まれたのか?いつ、どこで、どのように描き上げたのか? 期待があまりに大きかったので、結末はちょっと肩透かしである。妻のみつ、上巻から登場する出雲阿国、光悦の娘、冴という3人の女たちが揃って「風神雷神図」を見る場面で、読者は、著者が仕掛けた壮大なエンディングを体験する。風神と雷神とは何者なのか?光悦の娘である冴が宗達を恐れた理由、宗達の妻であるみつが烏丸光広を恐れた理由、出雲阿国が最後に見たかったものがあきらかになる…。これ以上はネタばれになるので書かないでおこう。

京都国立博物館で「風神雷神図」に遭える。

 本書が出た2017年、10月3日から、京都国立博物館・開館120周年記念の「国宝」展が開かれる。「風神雷神図」も出るらしい。本書のカバーには割引券が付いている。本書を解説書代わりに、宗達に会いに行くのもいいかもしれない。

辻邦生「嵯峨野明月記」を読みたくなった。

本書に登場する本阿弥光悦俵屋宗達、角倉素庵の3人が主人公の小説をずいぶん前に(十代後半だったか)読んだことを思い出した。辻邦生「嵯峨野明月記」。3人の独白で語られる「嵯峨本」成立の物語。光悦や素庵の人物イメージはなんとなく残っているのだが、宗達がどのような人物として描かれていたのか、まったく記憶がない。もう一度読んでみようか。